私じゃない⑯
治子は机上のメモ書きの答えのみを求めて、ノートを後ろから繰っていった。一番最新の文字が書かれたページで指を止めて、内容を確認した。
≪詳細は過去の日記の中にあります≫
昨日の日記の末尾から少し下の方、行を開けて、そう書かれていた。
意地悪か!
と治子は思った。
いままで読みたくなくて避けてきたのに、人を脅してまで読ませるとか、なんて性格が悪いんだろう!
だが、もし家族に治子とハルの関係を明かされていたのでは、これからの家族に対する接し方を考え直さなければならないし、家族の方で治子を気遣って、ハルの件について聞いていない振りをする可能性もあったから、彼女としてはどうしても真相を日記から探す必要があった。
彼女は仕方なく、最近のものから遡る形で日記を読んだ。
そこには彼女の知らない日々の出来事がたくさん書かれていた。それはハルの優しさなのかもしれなかったが、それでも治子にとっては読むだけ惨めになるばかりだった。1文、1文を読んでゆくのが苦痛だった。ハルがつい最近体験した出来事を、もう自分は体験することができないかもしれないと思うと、なんとも言えず寂しい気持ちにさせられた。
所々に治子に対する謝罪と回答の催促の言葉が散りばめられていた。
まだ謝ってるのか……と治子は思った。一体、どこまで本気で謝ろうとしているのかが判然としないし、回答に関しては書くのも馬鹿々々しいと思っていた。彼女がいなくなってしまったあとでは、ハルがなにをどうしようと治子にそれを知る手段はないのだから。
赦しか罰か与えてちょうだい。治子に結審してほしい。でないと、私も耐えられない! とハルは書いていた。なんだか自分勝手にいろいろと考え過ぎて、勝手に苦しんでんな、というのが治子の感想だった。いかにハルが切実にそう訴えようとも、実害を受けている治子にその気持ちは届かなかったのだ。
結局、日記にはなにかを家族にバラしたとか、そういった類の内容は一切見られなかった。
人のことを虚仮にしやがって!
治子は怒り、その気持ちを日記にぶつけた。その中には以前に尋ねられた質問への回答も書かれていた。書き殴る……という表現ぴったりの書き方で、手が真ッ黒になるまで書いた。書き終えたところで、ドタドタと階段を上がってくる足音がけたたましく響いた。不躾にドアが開くと、
「治子! あんたまだいたの!? 早く出ないと、もう遅刻じゃないの!?」
と母の怒鳴り声が耳朶を打った。
ハッとして時計を見ると、もう8時を回っていた。
心の中で遅刻をハルのせいにしながら、大急ぎで制服に着替えて、
「行ってきまーす。」
と母の顔も見ずに告げると、ガラガラと玄関の引き戸を開けて外へ駆け出した。
ふと、玄関先に置かれた自転車が目に留まった。
自転車で行けば間に合うかも!!
S町からT町の中学校までは徒歩で約15分掛かるが、自転車ならちょっと短めに見積もって5分で行けた。
S町の生徒が自転車で登校するのは校則違反だった。徒歩での通学が困難な町に住む学生は、学校の許可を得たうえで、白ヘルメットを被って自転車通学していたが、彼女はヘルメットも持っていない。だが、遅刻するよりはマシだと決意し、彼女は自転車の錠を外し、ガチャッとスタンドを上げた。
家から県道までの直線の坂道を風を切って下り、左へ折れて峠越えをめざした。立ち漕ぎでうんしょ、うんしょと緩やかな坂道を上っていると、峠のてっぺんに、遅刻をしないように小走りで駆けている竜也の後姿が見えた。
「バ~カ!」
治子は竜也にそう、後ろから声を掛けた。
「おう、ハル、って、チャリ!?」
振り返った竜也の目に飛び込んだのは自転車に乗った治子の姿だった。
「乗ってく?」
彼女が尋ねると、
「チャリはダメだろ?」
と言いながら、彼は彼女の肩に手を掛け、後ろのステップに足を乗せた。
「よし! 行っくよ~?」
峠の上で乗せたから、あとは下り坂。
坂道の途中にある美容室、坂道の尽きたところにある個人商店然としたコンビニ、その店の裏手に続く桟橋、青い海、水平線に薄らと浮かぶ遠方の島、青空、白い雲を見ながら、彼女は最速で坂を駆け下りた。
坂道で乗ったスピードをそのままに、坂道の尽き当りを左に折れて、あとは学校まで一直線。
校門が近づいてきたところで、竜也が
「ここでいいわ!」
と言って、自転車から飛び降りた。
フッと肩が軽くなった。
「じゃあ、私、この先のバス停の所にチャリ置いてくるから!」
彼女が彼を振り返ってそう告げると、
「おう! ありがと! またあとでね!」
と彼の元気の良い返事が響いた。
「うん! またあとで!」
そう返して彼女は車道を横切り、県道の1つ裏手の路地を全速力でバスロータリーに向かって駆け抜けた。
T町の東端に設けられたバスロータリー。ロータリーというより、バスの転回場と言った方が近く、バス停も1つしかないし、薄汚れたベンチに電話ボックスがあるだけの場所だった。
あと4分。
彼女は大急ぎで自転車から降り、乱暴にスタンドを下げて鍵を掛けると、学校へ向かって走り出そうとした。そのとき、また視界がホワイトアウトし始めた。
もうッ、遅刻してろよ!
そう思ったのを最期に、彼女の意識は途絶えた。
ロータリーの中央に聳える銀杏の大木が木枯らしに吹かれ、枝葉を揺らしていた。
治子と入れ替わったハルは、日常では寄り付かない場所にいることに対し、状況が飲み込めず、しばらくその場に呆然と立ち尽くした。なんだか胸にぽっかりと穴が空いたような気がして、そっと胸に手を当てた。もう治子が現われることはないのではないか、という予感に囚われた。
結局、校門の前に辿り着いた頃にはすでに朝礼が行なわれていたので、朝礼が終わり、生徒たちがぞろぞろと靴箱に集まってきたところで、みんなの中に紛れ込んだ。
彼女は自転車で来たことなど知らなかったので、当然のように徒歩で帰宅し、そのとき初めて自転車がないことに気が付いたが、その日の彼女にとって自転車の行方など些細な問題だった。
彼女にとっての大事はただ1つ。
帰宅した彼女は脇目も振らずに子供部屋へ向かった。