私じゃない⑮
≪回答保留≫
夜中、ベッドの中で目を覚ました治子は、思い出したように引き出しから日記を取り出すと、日記に一言だけそう書き残して、またすぐにベッドに戻り、眠った。
それから数日間、彼女は日記を書かなかったし、読まなかった。
記憶障害の原因が小島ハルであることが明らかになったし、今後の経過についての見通しも悪化する方面に進むことが分かったので、日記を付け始めた当初の目的はすでに果たされていた。
そのため、元々日記を付ける習慣もその気もなかった彼女には最早、日記に書くことがなくなったのだ。書くことへの興味を失ったから、同時に読むのもやめた。
ひょっとするとハルがなにか書いているかもしれなかったが、それは未来の小島治子のことを慮って書かれたものだったから、いまの治子には関係のない内容だった。それは、これから未来を拓いてゆくであろうハルの戯言であり、未来の治子からいまの治子への別れの言葉でしかないのだ。
日記を開かなくなったからといって、治子がハルの存在を忘れることはなかった。毎日、治子として覚醒するたびに、またすぐにハルの時間が来るんだ……と思い、苦悩した。
ときにはこの不条理に対する怒りが度を越し、破壊衝動に駆られることもあったが、そんなときは部活でファウルかその手前くらいの身体を張ったプレイをすることにより、その衝動を発散した。顧問から注意を受けたが、その注意に対しては
「海外の選手はもっとアグレッシブなプレイをしています。」
と説明して、自分のプレイが間違っていないことを主張した。彼女はテレビでNBAの試合が放送されていると、時々それを録画しては何度も繰り返して観ていた。それは彼女だけでなく、ときには友達と集まって一緒に観ながら、バスケの動きの勉強をしていた。だから誰も彼女の積極的なプレイに文句は言わなかったし、逆に、治子が本気になった、と戦々恐々とした程だ。
部活のほかに、バスケットボールを壁に向かって思い切り投げるという行為も繰り返した。まるでボールと壁に八つ当たりするように。力の入れ過ぎで肩が壊れてしまうんじゃないかと感じたこともあったが、壁にせよボールにせよ、自身の身体の一部にせよ、どこかが壊れてこそ本望と彼女は思っていたから、多少の痛みなどお構いなしにボールを投げ続けた。それでスッキリするなんてことはなかったが、疲労困憊でクタクタになると、とりあえずそれ以上に無茶したいと思わなくなるのが彼女にとってはよかった。
なにもしないでいると、とにかくなにかをどうにかしてやりたくなるからだ。なのに、心の奥底ではこれまでの治子の生活を壊してはならないと思っていて、両者の葛藤に悩まされていた。
ハルに勝つには自分で自分を殺してしまうのが一番有効な手だと治子は考えていた。だが、それをしてしまうと家族はどうなってしまうのか?
それは家族にハルの存在を明かした場合も同じ。これからの治子の中身は大正時代に死んだ小島ハルさんになります……と伝えて、誰が喜ぶというのか。
徒に家族を悲しませてしまうくらいなら、いっそのこと私が大人しく身を引いて、ハルに治子として生きてもらった方がいいのではないか? うん、それがみんなにとって一番なんだ。
そのような思いに達すると、今度はさらにそこから想像が飛躍した。
私が消えたあと、ハルが化けた治子に対し、父が、母が、姉が治子、治子と呼び掛け、そのときの治子にはいまのような記憶障害もなく、すべてが丸く収まり、まるで何事もなかったかのように平穏な日々が続いてゆく……家族はハルにいいように騙され続け、そして、自分一人だけが忘れ去られる!!
そんなの、許せない!
そんな想像をすると、また考えは堂々巡り。
結局、答えはどこにも見当たらなかった。
≪ねえ、私はどうすればいい?≫
≪治子はどうしたい?≫
≪死ねと言われれば、死んでもいいわ≫
≪正体を周知しろと言われれば、みんなに言うわ≫
ハルの書いた文句の一つひとつが、すべて治子の先回りをしていたように思えて、面白くなかった。
どうしようもないまま日々は過ぎ、治子の時間は着実に少なくなっていった。
12月に入る頃には、治子が表に出ていられる時間は2時間弱になっており、少なくとも治子の方の精神は大分衰弱していた。
ある日、治子が覚醒すると、子供部屋の自分の机の上に千切られた大学ノートのページが御丁寧にセロハンテープで留められていた。
もう伝えました
詳細は青色の大学ノートをご覧ください
ハル
ページ中央にそう書かれていた。
伝えた……伝えた?
伝えたって、なにを!?
青色の大学ノートというのは日記のことだ。
治子は日記を取り出すと、胡乱な瞳でページを繰った。