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私じゃない⑪ 直し

 その日、いつもどおりに部活に出た治子だったが、今朝方読んだ日記のせいで、気分はいつもどおりではなかった。


 誰のために練習してんだろ?


 もうすぐ冬の大会が始まる。どの学校も3年生が抜けて1、2年生ばかりのチームになって催される初めての公式戦だ。次の世代はどの学校が強いのか……それが決まる大会でもあるので、3年生という目の上のタンコブ……否、これまで自分たちを牽引してくれていた頼りになる先輩がいなくなった2年生としては、頑張るしかないといったところ。


 事実、3年生が引退してからの彼女はこれまで以上に部活に熱を入れていたし、次の大会のスタメンにも選ばれていた。


 いまが勝負どころという時期なのだ。


 なのに、意味不明な事態に陥り、いまや彼女の人生の半分は他人に乗っ取られている。これからさらに乗っ取りが進めば、彼女は彼女として大会に出場することはできなくなってしまうだろう。特にこの1ヶ月間での乗っ取りの進行具合ときたら、驚くべき早さで、このままでは試合中どころか、1ヶ月後の彼女の存在さえ危ぶまれるほど。


 部活の間も、集中が途切れる合間、合間に不安が彼女を襲った。プレイ中もどこか気が抜けてしまっていて、この日は幾度となく顧問から怒鳴られる始末。怒鳴られている最中でさえ、どこか呆けてしまっていて、返事もいい加減、彼女はただ前を漠然と見ながら、肩で息を切るだけ。顧問の声など耳に入っていなかった。




 12時前に練習が終わると、紺色のジャージ姿のまま帰路に着く部員たち。


 治子はいつものように朋子と恵美と一緒に帰っていた。県道から一つ裏に入った狭い道路のアスファルトの上、お揃いのジャージ姿の小さな女の子3人が肩を並べて牛のようにノロノロと歩いていた。

「治子、今日これからなにかするの?」

 歩きながら、朋子が治子に尋ねた。

「ん、別になにも。」

 治子がそう答えると、

「じゃあ、お昼食べたらそのあとKに行かない?」

 と朋子。

「いいけど、なにするの?」

「買いたい物があってね。ちょっと付き合ってよ。」

「うん、いいよ。」


 治子がそう言ったときだった。彼女の目の前が真っ白になった。あ……と思う間もなく、彼女はそのまま意識を失った。


「じゃあ、1時半にSの煙草屋の前で待ち合わせね。」

 治子が意識を失ったことに気付かない朋子はそのまま会話を続けた。

「え? ん? ああ、1時半、煙草屋の前……。」

 治子が気を失って登場したのは治子の中に同居する別人だ。別人は朋子がなにを確認したのか分からず、オウムのように彼女の言葉を繰り返した。


「じゃあ、またあとでね。」


 そう言いながら手を振って朋子は治子と恵美の2人と別れた。


 朋子と別れたあとで、治子が恵美に先程の朋子の言葉の意味を確認してみたところ、またか……と恵美が肩を竦めた。


 入れ替わった直後は、その直前の出来事が分からないため、別人になった治子はこうした確認作業を度々行なわざるを得なかった。それは治子自身の場合も同じだった。どんな話をしていたのか……これを無視して平然と暮らすことはできない。特に中学校という閉鎖された空間、毎日毎日、望まなくても同じ顔と顔を突き合わせるのだ。会話の内容を理由なくすぐ忘れると、すぐに人間関係に支障を来す。それは長い付き合いの友達であっても例外ではなかった。多少おかしいと思われても、忘れっぽくなったとか適当に理由をつけて、素直に聞き返す方がダメージは少ない。


 一方、家族に対する場合は少し異なり、治子の中の別人は家族になにかを聞き返すようなことはしなかった。入れ替わる……という現象を察せられてはまずいからだ。治子の指示があるまでは、あくまで家族には健忘症だと思わせておかなければならない。

 

 そのように考えていたから、今日の夕方、朋子と恵美とKに遊びに行って帰ったあと、姉から言われた一言にドキッとした。正確には姉は治子に言ったのではなく、独り言のように言っただけなのかもしれなかったのだが。


「ん、ん、むむ……いまは記憶のない方の治子なのかな?」


 しっかりと治子の顔を覗き込むようにしてそう告げた姉に、別人は焦った。


 今朝、治子と姉の間で一体どんな会話があったんだ!?

 

 記憶のない方の……と確かに姉は言った。そんなに明確に最近の治子と私の様子に差異があるのだろうか? と別人は怪しんだ。洗面台の鏡の前に立って、自分の顔をよく観察してみたが、特にいつもと変わりはないようだった。次に、別人はドタドタと2階へ上がると、治子の机から日記を取り出した。


 別人の目に飛び込んできたのはたった3行の返事。


 名前。


 私の名前。


 本当は名前を昨晩の日記で書こうとしていたのだ。


 だが、悩みに悩んだ挙句書けなくて、どこかで書こう書こうと思いながらも、どこまで真相を書いたものか、その日の日記の着地点さえ分からない。結局1時間以上、大学ノートと格闘したのだが、次第に書き疲れてきてしまって、質問を最後についに名前のことを書き忘れてしまったわけ。


 名前、名前……ああ、たったこれだけだと、治子がいまなにを考えているのか分からないよ。


 日記を前に、別人は椅子の背もたれを軋ませながら、低い天井を仰いだ。

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