私じゃない⑨
11月19日(土)
質問に答える前に、少しお話をさせてください。
つい最近まで、確かに私は小島治子でした。それが2ヶ月ほど前からでしょうか、段々と意識が朦朧としてきて、ついには意識が消えてしまったのです。
ところがある日、気が付きました。朝になり、目を覚ますのと同じような感じで。起きて、時間が凄まじく経過していることに、まずは驚かされました。
そして、そのときの私はすでに以前の私ではなくなっていることに気が付き、再び驚かされることになりました。これまで治子だと思って生きてきたにもかかわらず、そのときの私は、治子とは別の自我を持った何者かになっていたんですね。
少なくとも、心だけは。
だけど、これまで治子として生活してきましたから、これまでと同じように話すことや振舞うことに関して、特に不便は感じませんでした。いえ、むしろ、新しい自我を披露することを恐れていました。父と母、姉をはじめ、友達がどのように反応するか分からなかったからです。いえ、違いますね。分からなかったというよりは、態度が一変することが分かり切っていたので、あえて私は治子のままで通しました。その点については、抜かりなく治子を演じ切れていたと自負しています。誰も私が治子ではないのじゃないか、とは疑っていないようですから。
んん、どうも順序立てて書くのが苦手で、要領を得ず、申し訳ありません。
私は心こそ別人になりましたが、私自身はいまも、児島治子として生きているのだと思っています。
この日記に気付いたのは2日前のことです。
新しい朝を迎えた日、つまり、私が治子とは別の心を持った日から、私は恐怖を感じていました。目覚めたはいいものの、自分が覚醒していられる時間がほんの数分しかなかったので、自分の存在というものにどうしても懐疑的にならざるを得なかったのです。
本来の私というものは実在せず、治子の精神的欠陥が生み出した架空の人格が私なのではないか? であれば、治子の精神が回復すれば、自ずといまの不自然な私は消え去り、また元の治子になるのだろうか? と、意識がある間は、延々とそんなことを考えていたものです。
とはいえ、私には治子だった当時の記憶もありましたので、いまの私がいつか消失するであろう運命については、ある程度納得していたのです。むしろ、健全な治子のためにも、私はできるだけ早く消えた方がいいのだ、とさえ思っていました。
ところが、事態は私が予期していたのとは逆に進んでゆき、次第に私が覚醒している時間が延びてきました。
これは一体どうしたことか、と思いました。
治子の方はいま自分が見ている光景を見ているのだろうか、とも思いました。
覚醒していないときの私には、治子の様子がまったく分かりませんでしたので、ただ、覚醒しているときに家族、友達と話をする中で、治子のことを伺い知るばかり。
治子が心療内科に通院しているというのを聞いたときは、治子の精神的病状が好ましくない方へ進んでいるのだと思い、悲しくなりました。ですが、一方で、こうして覚醒していられる時間が延びてきたことを嬉しく思っていましたので、その原因が病気の悪化であることを知ったときは、後ろめたいものを感じました。
このような感じに、治子の日記を読む以前の私は、私自身のことを治子の精神的欠陥が生み出した架空の人格だと考えていたのですね。
ところが、治子の日記を読んで、なぜだかはっきりとは分かりませんが、私はすべてを思い出したのです。