私じゃない⑦
11月19日(土)
質問に答える前に、少しお話をさせてください。
治子が日記に書いた問いに対する返事は、翌日の朝には書かれていて、それは上記のように始められていた。
夜、私が眠っている間に書いたんだ……と彼女は震えた。
ページが固く皺になっているのは、昨日、泣き過ぎたせいだろうか?
「おはよ。」
次の瞬間、自分の勉強机の前に座って愕然としていた彼女に、二段ベッドの上から姉が声を掛けた。その姉の声音は驚くほど優しくて、治子をさらに驚愕させた。彼女の認識での姉は、いつも優しさを傍若無人さと理不尽さの下に隠しているような人だったから。
お姉ちゃん、今朝は一体どうしたっていうの!?
同時に彼女は開いていたノートをさっと閉じて、引き出しの中に戻した。
姉は梯子から下りてくると、椅子に座った彼女を後ろから抱き締め、頭を撫でた。いままでにない姉の行動に、彼女は姉の腕と自分の首、というより鎖骨の辺りとの間に咄嗟に自分の腕を滑り込ませた。ここからいつものおふざけのチョークスリーパーがくるのならまだしも、なんとなくいまの姉からは、本気のチョークスリーパーをかましてくれそうな気配が感じられたからだ。
「治子、昨日、なにかあった?」
「別に、なにもないよ!」
グッと姉の腕に力が入り、チョークスリーパー一歩手前といった感じになった。
「嘘……、嘘吐くなよ。」
腕に入った力とは対照的に、弱々しい感じの姉の声。彼女には姉の言っていることが分からず、困惑させられた。
「嘘って、なんのこと?」
彼女のその言葉に今度は姉が戸惑った。
そうだった。治子はいまいろんなことを忘れてしまってるんだった。治子が自分のしたことを覚えていなければ、のちの言葉で過去の事実を否定していても、治子にとってそれは嘘にはならない……。
姉は次に言おうとした言葉を飲み込み、反省した。嘘を吐くなっていうのは、いまの治子を苦しめてしまう言葉だったかもしれない、と。
「ごめんね。嘘を吐くなっていうのは、なかったことにして。」
「え?」
「その代わり、自分の知っていることで、私たちに隠し事するのはやめてね?」
「え?」
いまだに姉の言葉の真意が分からず困惑する彼女だったが、もしかすると姉は日記のことを知っているのかもしれないということに思い至ると、恥ずかしいより先に自分の得体の知れない中身を見られた気がして、もうなにもかもが終わったと思った。
「治子、昨日の夜中、泣いてたんだよ?」
「え? 泣いてた? 夜中? な、何時頃?」
確かに昨夜、彼女は泣いたが、それを姉に気取られているとは思っていなかったし、夜中というには彼女が泣いた時刻はまだ早いように思われた。
「2時頃だよ。自分の机のとこで、泣いてたんだ。覚えてない?」
「知らない。っていうか、泣いてたんだ?」
「うん。」
別人格だ!
と彼女は直感した。
そいつが人の机に座って泣いてたんだ!
しかも、日記を書きながら!!
どうりで日記がボロボロになってたわけだ。私は日記の上に涙を零したりなんてしていない!
なんで!?
なんで私が泣いたその日に、そいつまで泣いてんだよ!?
そんなところまで私に為り澄まそうとしてるっていうの?
彼女はもう自分の中にいるであろうもう1つの人格がただの多重人格のうちの1人というより、空恐ろしい企みを抱いた化物であるような気がして、呆然とした。
「そっか、泣いてたんだね。いやぁ、そりゃ、泣くわ。」
彼女は自嘲気味にそう言った。
「やっぱり、昨日なにかあった?」
改めて問い質す姉。
「いや、ね、昨日は、私も泣いたんだ。」
は?
と姉は思った。いや、だから治子が泣いたっていうのはいま話したじゃんっていう……。