死んで花実が咲くものか 37
今宵の喫茶店には、往年の洋楽の名曲をギターとピアノのみでアレンジした音楽が流れていた。有線放送の垂れ流しなのだが、日替わりでジャンルが変わるのは店主の好み。治子は冷静さを失わないように、会話の最中も意識的に音楽に耳を傾けるようにしていた。まるでパブロフの犬のベルと餌の関係のように、彼女は静かな音楽と冷静であることを関連付けていたのだ。
美佳の変貌振りの原因を考えながら、いまも治子は店内に流れる音楽に耳を傾けていた。
「タマはどう思う? 美佳のこと、変だと思わない?」
治子はひとまず自分よりも美佳のことを知っているであろうtamaに話を振った。
彼は美佳の顔を窺いながら、
「あと5日後には死ぬかもしれないから、不安になって、多少おかしくなったって仕方ないとは思うんですが……。それにしたって確かに変だと思います。そもそもまだ諦めるのは早くないか? オレには最後まで死ぬなって言ってたのに。」
と、彼女に尋ねたが、
「ふふ、私、自分には甘いけど、人には厳しい性質なの。諦める……諦める、か。確かに私、そんなこと言ったっけ。ん? 私が言ったんだったかな? まあいいわ。厳密に言うと、私、諦めたわけじゃないの。諦めたというよりは、死ぬことを受け入れたって感じ。」
と、彼女が相変わらずの調子で答えたので、彼には彼女が自分とはまったく異なる心を持った別の生物のように見えて、空恐ろしくなった。それでも彼の脳裏に浮かぶ昨日までの彼女の様子が、目の前の彼女の姿が本当ではないのだと語りかける。
「なにを言ってんだ? それはミヤちゃんの意志じゃないだろ? エロスさんみたいに、幽霊がそう思わせてるだけじゃないのかよ?」
「どうなんだろう? その点についてはよく分からないわ。少なくともいまの私は、私自身でそう考えたんだと思ってる。とても自然に、それでしっくりきてるから、この気持ちが私のものじゃないと言われても、そっちの方が理解できないな。」
「じゃあ、せめて来週の火曜日に死ぬのには抵抗させてよ。そこまではオレに手伝わせてほしい。もし、火曜日を無事に乗り切って、それでもまだ死にたいと思えるなら、そのときはもう止めないからさ。」
美佳の心境の変化が幽霊の仕業であるとするなら、自殺予定日を乗り越えれば心変わりするのではないかと彼は考えたのだ。だが、彼女はその提案を拒絶した。
「いや、気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくよ。来週の火曜日、手段は問わず、場所も問わず……、いままでの人たちと予告が違うのは、きっと幽霊が私の意志を尊重してくれたからなんだよね。死に方も死に場所も、私に選べということなんだと思う。だから私はそれまでに死に方と死に場所を考えるんだ。日にちだけは指定されているけれどね、それはそれでいいと思う。幽霊騒ぎはきっかけなんだ。きっかけは大切にしたいから、日にちも変える気はないよ。もう決めちゃったんだ。」
「なんでそんなこと言うんだよ? どうしたんだよ? ダメかもしれないけど、最後まで諦めんなよ!」
頑なに言うことを改めない彼女に対し、彼は声を荒げた。大声が店内に響き、一瞬、辺りがシンとしたので、彼は周りから向けられる視線に対し、小さく頭を下げた。
「ほら、あまり大声出さないで。」
治子が彼に注意すると、彼は治子にも
「すいません。」
と謝罪した。
「ふう、さっきも言ったけど、私は別に諦めたわけじゃないから。」
美佳は溜め息を一つ吐いて、彼に念押しすると、
「と、いうわけで、治子さん、私のことはいいですから。……次の自殺予告者の方には、CR内で結構ですから連絡してあげてください。」
と、まるでこれ以上話す必要はないというように、落ち着いた調子で治子に告げた。美佳としては2人が納得するように話をしようと考えていたのだが、tamaとの会話を通じて、やはり2人を納得させるのは無理だと判断したのだ。
結局、理解し合えない。
誰かが超まずいラーメン屋のラーメンを美味いと言えば、みんなが「信じられない」と言ってその誰かのことを嘲笑い、貶す……それと同じようなものか、と美佳は思った。
「そのことだけど、美佳。私は次の自殺予告者に接触するつもりはないよ。」
決して大それたお願いってわけじゃないのに、私の唯一の健気なお願いさえ、この女は拒絶するのか!!
ずっと落ち着き払っていた美佳も、治子のこの言葉には表情を変え、
「どうして?」
と治子をなじった。
「だって、美佳はタマのお願いを断ったじゃない? だから私も美佳のお願いを断るの。」
その言葉を聞いて、あ、もういいや、と美佳は思った。