8
真っ白となった天を、上空から凝視する存在があった。その背中に向かって、眩い黄金の髪を靡かせながら、ユリアーナはその名を呼んだ。
「ヴェルンヘル……」
「今、わかった。王の、思惑が」
「……」
背を向けたまま、ヴェルンヘルの視線は天に注がれたまま。ヒユウとの戦いによって、傷つき、いまだ回復途中である彼の状態は、無残なものだった。平坦に紡がれる彼の声色に、ユリアーナは押し黙るしかなかった。
「我らも、神による創造の歯車の一つでしかない。ただ、それだけのことだった」
「ヴェルンヘル」
「心配するな、ユリアーナ。悲観しているわけではない」
ようやく振り向いた男の表情は、その言葉通り、平然としたものだった。そのことに、ユリアーナは安堵の息を吐く。
「全ては、神の赴くがままに。我らはその為だけに、在る」
+ + +
突如、フィリアの地面が消え去り、真っ黒に塗りつぶされた世界が広がった。己の身体を支える地面がなくなり、落下の衝撃に少女は悲鳴をあげた。
「きゃあ……っ!?」
ばしゃり、と水音が鼓膜を打つ。尻餅をついてしまったが、水の中に落ちたおかげで、それほど衝撃は無かった。腰まで浸かってしまい、どろりと肌に感じる冷たい感触にフィリアはそれがただの水ではないことを知る。腕を上げて、己の掌を見詰めた。
「泥……?」
掌を伝って落ちたのは、泥水だった。
ゆっくりと、立ち上がる。膝下あたりまで泥水に浸かった、薄い暗闇の世界。そこにフィリアはいた。この陰鬱で虚ろな空気は、始祖が泣きながら墓を作っているあの世界を思い起こさせる。
神の真名を歌った途端、辿り着いたこの世界に少女は呆然とするしかなかった。泥水以外には何も無い。薄い闇が、少女の心を不安に陥れる。それでも気丈に、少女は辺りを探ろうとした。膝下まで浸かった泥水を蹴るようにして、なんとか歩を進める。どろりと重たい泥が、少女の足に絡み付いて、なかなか進むことが出来なかった。
一体、ここはどこなのだろうか。
もしかして、自分は失敗してしまったのだろうか。
そんな不安に取り付かれた頃、少女の前方に、ぽう、と淡い光が浮かび上がった。少女が急いで駆け寄ってみると、それは一つの花だった。
純白の花が、汚い泥の上で咲き誇っている。
大きな花弁を広げ、柔らかな月の光のように、泥に汚されることなく、そこに在る。
「この花は……蓮?」
確か、水辺に咲く花の一種だ。泥の中でも大輪の花を咲かせるという。滅多に見られる花ではなく、本でしか見たことのない、花だった。
「その蓮の花は、君達だ。泥の中にあるからこそ、より一層、美しく輝く」
「!」
突然に降り注いだ声に、フィリアは驚いて、振り返った。
「闇はその中で生まれる光を、泥はその中で咲く蓮の花を、輝かせるためのものである」
「……テイルさん!?」
そこにいたのは、白髪の少年、テイルだった。
だが、彼ではない。泥の中に浸かっている少女とは違い、泥の上に浮いていたのだ。
あのとき、龍族との戦いの最中、フィリアをレムングスの元へと、そして不思議な白い世界へと連れて行ってくれたあのときと同じ、空虚な瞳が、少女を映し出した。
あのときは、何が何だか、わからなかった。けれど、今ならば、彼が一体何者であるのか、少女には察することが出来た。
「龍王……この世界の、創造主様ですね……」
神の真名を歌ったフィリアの前に現れたのは、彼以外に考えられなかった。
やっと会えた存在を前に、フィリアは切なる思いを吐き出した。いつもの彼女ならば、畏怖が邪魔をして、真っ直ぐに彼を見ることなど出来なかっただろう。けれど、今の彼女は、いっぱいいっぱいで。形振りを構っていられる場合ではなかった。
「お願い、ヒユウ様を助けてください……っ! 私はどうなってもいい……ヒユウ様を……お願いします……」
ぎゅっと両手を握り締めて、願いを繰り返す少女を見下ろしながら、白髪の少年は淡々と答えた。
「出来るよ。君がそう望めば。君の祖と同じように」
フィリアははっとした。
大叔父の話と、いつも見るあの夢を思い出す。女性が泣きながら死体を埋めていたことを。悲しい女が犯した、原罪の話を。
「……っ……」
長い時を経て、フィリアはまた繰り返そうとしている。彼女と同じ、神に手をかけて、自分の願いを叶えようとしているのだ。
改めてそのことに気付いて、フィリアはぐっと下唇を噛み締めた。
どうして。
ただ、傍にいて欲しいだけなのに。たとえ傍にいられなくても、どこかで、生きていて欲しい。それだけなのだ。始祖も同じ。ささやかな願いの筈だった。
この世界を傷つける為にだなんて、始祖も、フィリアも願ってなんていないのに。
「……龍族が、己の存在意義に、使命に疑問を感じることは禁忌だ。それは自己の存在の否定になるから、存在抹消を促すから。使命を、与えられた役割を、疑ってはいけない。ただ、使命のために力を奮い、戦い、死んでいかねばならぬ。そうしなければならないのは与えられた力が大きすぎるから。恐怖も同様だ。力を振るうのに、恐怖は邪魔なだけだからね」
「そんなの……」
「可哀相、かな? 確かに不自由ではあるかもしれない。君達人間にとっては。だが、迷いを持つ君達をこそ、哀れだと思うのが龍族なのだがね」
「……」
フィリアの思いはあくまでフィリアだけのものであって、彼らとは違う。龍族として生まれた彼らにとってはそれが当然で、自然なのだ。人間の尺度で図ってはいけない。そう言いたいのだろう。
確かにその通りだ。フィリアの感覚は所詮、人間として生まれ育ったものでしかない。こちらの価値観だけで、彼らを不幸と決め付けるのは、それこそ傲慢というものではないか。
けれど、ヒユウは違う。少なくとも彼にとって、その定めは自然ではなかったのだ。最期になって漸く吐いてくれたヒユウの本心、弱音を、フィリアは見過ごすことができなかった。
「ヒユウを助けたい?」
「!」
少女の心を見透かすように、少年の姿をした創造主は、あっけらかんとした口調で言い放った。
「君が真名を使って、僕を支配するというのなら、可能かもしれないね。それどころか、僕の代わりにこの世界の主となることも出来る。誰もが欲して、だが手に入れられなかったものだ。それが今、君の手の中にある」
「……っ!」
支配 ―― 神を?
神を殺して、自分がこの地上の主となる。神は消え、龍も滅ぶだろう。ヒユウを助けるために、罪を犯すのだ。
ヒユウも、竜の長もそう告げた。
それしか、少女と人間達の命を救う方法は無いと。
―― 本当に、そうなのだろうか。
フィリアは俯いて、押し黙った。
長い沈黙が泥の世界を覆った。風のない世界で、ゆらゆらと泥の上で咲く蓮の花が揺れていた。その横で佇む龍王も押し黙って、少女を見下ろしていた。
「真名を、お返しします……」
「返す?」
長い沈黙のあと、搾り出すように響いた少女の声。フィリアの導きだした答えに、龍王は意外そうに、目を見開いた。そうすると、少し、幼い顔立ちになった。
「いいの? 返す、ということがどういう意味なのか。力を失うどころか、君は確実に死ぬ。ヒユウを助けることも、出来ない」
一度奪った真名を返すということは、死を意味していた。
小首を傾げて問う少年はとても無邪気に見えたが、その唇から零れる言葉は恐ろしいものばかりだった。
「それに、龍族は怒りに震えている。君が僕に真名を返したとて、その怒りは拭えないかもしれない。人間は滅ぼされるかもしれない」
「それを……そうならないように、貴方にお願いしたいのです。真名をお返ししますから、どうか、地上を、人間達を滅ぼすことはおやめください。お願いします……」
「……それで?」
「え?」
「君はそれで良いの。それでは、君自身は死んでしまう。僕の真名を完全に支配下に置けば、君の命も、地上の人間の命も全て、そしてヒユウも蘇らせることが出来るかもしれない。君の願いが全て叶うよ」
「それは……それでも……、私は……貴方を殺すことなんて、出来ません……」
龍王の言葉は、甘い夢に誘うものだった。誘惑に、少女の心は何度も、くじけそうになる。けれど、それでも、彼女はぐっと込みあがる衝動をなんとか呑みこんだ。地上の主となることを選択すれば、始祖は永遠にあの闇の世界で罪に苛まれたままなのである。フィリアは、彼女をも救いたかったのだ。そして。
何より深く、少女の心の奥底に秘められた願い。それを、龍王は鋭く、見抜いた。そして、彼は低く呟いた。
「……もし、君が死んでヒユウの傍にいけると思っているのならば、それは間違いだ。君は死んでも、ヒユウと同じ場所にはいけない。龍に死はない。勿論、人間の言う死後の世界も、ない。君は永遠にヒユウに会うことはない」
「……っ!」
今まで必死で堪えていた少女の表情がさっと変わった。少女の華奢な肩が、目に見えて細かく震え出す。
龍王は、少女にささやかな夢すら与えてはくれなかった。
目の前の神を殺す以外には、人間を救う方法が無い。でもそれでは、始祖は救われない。神を殺して自らが神となることなど、少女には選択できない。だから、真名を返すしかない。そして、龍族に許して貰うしかない。自分が死んでしまうことは、もう怖くない。一度は覚悟したことだから。
それに死んでしまったとしても、そこにはきっと、ヒユウがいるから。だから、少女は怖くなかった。
自分を生かす為に消滅を選んだ彼には怒られるかもしれないが、それでも構わない。フィリアが彼の傍にいれる方法は、もうそれしか思いつかなかった。だから、選択したというのに。
そんな願いすら、龍王は叶えてくれることは無かった。
もう二度と、 ヒユウには会えない。
死後の世界でさえ。やはり、龍には死は無いのか。黄昏人であるフィリアが死んでも、彼と同じ世界にはいけないのか。
再び、少女の心が暗く、深い絶望に沈む。
このまま、フィリアは喉まで込みあがる衝動に、身を任せようと思った。けれど、心の端にある、もう一つの自分がそれをぐっと抑える。震えながら、暗く蝕む闇を押さえ込んだ。それを龍王はずっと見ていた。
「ヒユウと永遠に会えないけど、それでいいのかい?」
なおも続く、甘い誘惑の言葉。彼の声は不思議なほど、少女の心に染み渡って、甘美な響きを与えてくれた。抗えない、優しい声色。このまま、彼の言葉に従って、甘い夢に浸かりたいと思った。
「そんなの、嫌……」
とうとう、少女の心の奥底からの言葉が喉をついて、空気を震わした。
「ヒユウ様に会いたい、ヒユウ様のいない世界なんて、耐えられない……、ヒユウ様の傍にいられるなら、どんな苦痛だって、きっと耐えられます……」
一度吐いてしまえば、驚くほどに、言葉は続いた。少女の本当の望み。願い。堪えきれないほどの悲しみと苦しみが、心の底で渦巻いている。この澱みは、きっと一生、消すことはできないだろう。
少女にとって、一番大切な存在だった。彼を無くしてしまえば、世界は色を失う。本当の幸せの意味を教えてくれる、唯一の存在だったのだから。このまま、彼のいない世界で生き続ける苦しみ。それにフィリアは耐えられそうもなかった。けれど。
「……でも……」
「……でも?」
「……それじゃ、永遠に戦いは終わらない。……もし、私に生まれた理由があるのならば、意味があったのならば、争いを無くす為でありたいのです」
もう全てを終わりにしたい。
こんな悲しいことを繰り返させたくないのだ。
始祖と同じように、神の力を奪って、今度は神となる。それがどれほど恐ろしいことなのか。フィリアにもわかった。一人の人間が神の力を得るということは、それだけで多くの争いと憎しみを大地に根付かせてしまう。
たとえ、フィリア自身がそれを望んでいなくても、避けられぬだろう。始祖と同じように自分も、あの闇に侵された野辺で、新たに生まれ続ける争いを嘆き悲しまなければいけない。
二度と、こんな悲しみは繰り返したくない。争いを無くしたい。
龍族との戦いの最中、歌ったときに自覚した。
やはり、フィリアはこの大地を守りたい。自分の幸せを得る為に、他の人たちを不幸にしたくない。それは、何より、始祖の望み。最後の子である自分に託された、彼らの願いなのだ。元は一つであった黄昏人と人間が、二つに分かたれてしまった悲劇。その原罪を、贖いたい。
いつのまにか始祖と自分を重ねてしまっていたフィリアは、続けた。
ヒユウを助けたい。何者をも犠牲にしても構わない。その思いと同等にある、正反対の思い。それを言葉に紡いだ。
「これは貴方のものですから……ごめんなさい、奪ってしまって。私のことは構いません。ヒユウ様を助けたいけれど……でも代わりに貴方の自由を奪ってしまうことは出来ません。この世界を創り上げた貴方を殺すことも。誰かの不幸の上に成り立つ幸福を、私も、始祖も……誰も、本当は望んではいないと思うのです」
龍王の真名を奪ってしまった。それが全ての始まりだったのだ。
全ての元凶を作り出した始祖も、こんな気持ちだったのだろうか。何を犠牲にしても助けたい存在があったから。
フィリアには今の気持ちが痛いほどわかった。
ヒユウが最期に自分に託した願い。彼は、フィリアに生きて欲しいと願ってくれた。そのために、彼は滅びの道を選んだ。全てはフィリアが生きて幸せになる為にだ。
自分の幸せの為だけに、他の何も犠牲にしても構わない。他には何もいらない。それだけを思うことが出来れば、こんなにも迷わなかったかもしれない。
けれど今まで、懸命に生きて、生を許された居場所を探す、その為に泥に塗れても足掻き続ける人達を見てきた少女は、それを選ぶことは出来なかった。そうするには、少女は知りすぎた。大切なものが多すぎたのだ。
「原罪を犯した始祖の夢をよく、見ます……いつも彼女は謝っている……貴方に、世界に、そして私にも……愛する人との時間を得られた幸福よりも、全ての人を争いの世界へと巻き込んだ不幸に苛まれていました……」
あるいは、あれは警告。
同じ道を取るかもしれない、フィリアに対しての。
深い悔恨と苦しみに塗れ、死体を埋め続ける己の姿を見せ付けることによって、フィリアの取るであろう選択、その先にある未来を教えてくれていたのだろう。
「諦めるというの? 君の一番の願いよりも、他人の願いを優先するのかい」
「……きっと、私は彼らの後悔を昇華する為に生まれたのでしょう……」
それが、フィリアの生まれた理由。
最後の子であるフィリアに託された、存在意義なのだろう。
この地上を滅びに追いやる為に生まれただなんて、思いたくない。自分の存在理由は、自分で決めたい。この選択は、その為に与えられたと思いたかったのだ。
「……そうか……それが、君の出した答えだね」
「はい……」
戸惑い、迷い、苦しみ続けた果てに選んだ少女の答え。それを聞いて、龍王は静かに目を伏せて、息を一つ、吐いた。
「わかった。では、僕の真名を返して貰おう」
ゆっくりと、一歩ずつ、彼は少女に近付いてきた。泥の上を足音もなく。とても、ゆっくりに感じられて、少女の鼓動はどくどくと煩いほどに脈打った。
少年の小さな掌が、少女の額に翳される。緊張と恐ろしさのあまり、少女はぎゅっと目を瞑ったそのとき、
「……っ……!」
何かが身体を貫いた。
肢体が粉々に砕け散ってしまう。散り散りになって消えてしまう。何かが、身体の奥底から奪われる。剥がれ落ちる。無理やりに臓腑を引きずり出される、そんな恐ろしい感覚。感じたこともない、激痛と、悲しみにフィリアの心は耐え切れずに、意識を途中で飛ばしてしまった。
「創世より一千年あまり……長いようで、短かった」
その直前に落された呟きを、少女は捉えることが出来なかった。
真っ暗な闇の底へと身体が引き摺り落とされていく感覚に、フィリアはおぼろげながら、ああ、このまま自分も、始祖のいたあの墓地へと辿り着くのだろうと思った。そこが、フィリアの死後の世界なのだろうか。
死後の世界で、夢を見ることが出来れば。
そう、少女はぼんやりと思った。
夢の中ならば、会えるかもしれない。死後でさえも永遠に会えない存在とも、夢でなら、きっと。
せめて、もう一度だけでも、甘く優しい夢を見ることが出来ますように。ささやかな願いを、少女は薄れゆく意識の中で紡いだ。
次にフィリアが目を開けたとき、そこには闇に閉ざされた世界があった。見覚えのある、色を失った野辺が広がっている。この下には無数の死体が埋まっているのだ。
やはり、ここが自分の死後の世界なのだ。
少女はぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと立ち上がって、緩やかな丘の頂きへと向かった。
「始祖、様……」
頂きの上には、夢で何度も見た、始祖の姿があった。いつにない、穏やかな瞳がフィリアに向けられていた。
―― ……ありがとう、最後の子よ。願いを聞き届けてくれて。
「……私の願いでも、ありましたから……」
フィリアは初めて見る、始祖の穏やかな色にほっと安堵の息を吐いた。
少しでも、始祖の悲しみを拭えることは出来たのだろうか。それならば、少しは救われる。つられて口元を和らげたフィリアに向かって、始祖は両手を大きく広げた。
―― ようやく、長年の咎を贖うことが出来た。これで、地上の断罪の刻は終わる。我らも、眠りにつくことができる。お前が、善き未来を選択できたおかげだ。
「……」
善き未来。その言葉は、フィリアにとって喜ばしいことなのに、何故か笑うことが出来なかった。ただ、虚しさだけが、降り積もる。地上の人間達にとっては、善き未来であっても、それがフィリアにとっても善いとは言えなかったからだ。
少女のそんな心中を知らない始祖の指先がすっと、上げられた。
―― ……そして、お前も。ここにいるべきではない。
指先の指し示す先、少女の背後に、始祖の視線が注がれる。不思議に思って、振り向いた少女は目を大きく見開かせた。
「あなた、は……?」
少女の背後にはいつのまにか、光の塊があった。淡い光に包まれていて、よく見えない。かろうじて、その光の中にいるのは小柄な女性だということは、わかった。
「……その手を取るがいい、その先にお前の未来があるだろう」
差し出された淡い光の手。それに躊躇している少女の背を押すように、始祖は言った。今まで聞いた彼女のどの言葉より、晴れやかな響きだった。死した後も、苛まれ続けた彼女の罪が、今、解放されたのだろう。この闇に閉ざされた、悲しい野辺も、消えると彼女は言った。
フィリアはそっと、淡い光を放つ手をとった。
途端に少女の胸に流れ込む、優しくて、暖かな温もり。
ざわめく胸に驚き、顔を上げて何かを言おうとするフィリアだったが、その女性はふわりと浮かび上がり、つられて少女の身体も浮かび上がった。そのまま、ぐんぐんと上昇していく。遥か頭上を見上げると、ゆらゆらと水面に浮かぶ光があった。そこへ向かっているのか、上昇する速さは見る見る内に、あがっていった。眼窩にいる始祖を気に留める余裕は、なかった。
“ごめんね……”
「え……?」
突然、話しかけられたフィリアは、その声がどこから聞こえてくるのか、わからなかった。だがすぐに、この闇しかない空間で、自分以外には淡い光に包まれた女性しかいないことに思い至る。
淡い光に包まれた女性の顔をじっと見詰め返して、少女は聞き返す。するともう一度、彼女の唇が、謝罪の言葉を象った。
“ごめんね、フィリア……”
「あなたは……」
おぼろげに映る、優しげな表情。少女のような。見たことのあるような、誰かに似ているような。そう思った瞬間、フィリアは動揺した。
―― もしかして。
震える唇が続く言葉を零すよりも先に、フィリアは眩い光に包まれて、そこで再び、意識が真っ白になってしまう。ずっと感じていた手の温もりが、消えていく。
「ま、待って……! あ、あなたは……っ」
追いすがるように、フィリアは叫んだ。だが眩くて、目を開けていられない。だから、声だけで、彼女を追った。彼女の言葉が返ってきたのは、意識が途切れてしまう直前だった。
“……ごめんね、フィリア。
あなたを生んだのは、違う。
こんな悲しいことをさせる為に、あなたを生んだんじゃないわ。
あのひとを、愛してしまったから。どうしても、あなたが欲しかったの。ごめんね……あなたには、幸せになって欲しかった。
だからあの日、呼んだのよ。決して呼んではならぬ、神の真名を呼んだ。生まれてから、祈ったこともない神に、祈ったの。わたしの
代わりに、誰よりもあなたを守ってくれる存在を、願ったの。
そこに現れたのは、見たことのないほど綺麗な男だった……。
閉ざされた部屋の、小さな窓から、いつも見ていた月の光。それと同じ髪の色をした男の人。彼ならば、きっとこの子を守ってくれると思ったの……だから、私は安心して目を閉じることができたんだわ……――”
「お母様……?」
ふわり、と。暖かな光に包まれたような気がして、フィリアは目を覚ました。重たい瞼を上げると、視界にはアレシア達の心配そうな顔があった。
「フィリア……っ、お前、また無茶をしただろう! 馬鹿!」
少女の覚醒を認めると、アレシアは馬鹿と連呼して泣きながら、抱きついてきた。強く抱き締められ、苦しくなった呼吸に、フィリアは呆然とした声色で呟いた。
「生きてる……」
一度支配下に置いた真名を返すということは、死を意味していた。龍王もそう言っていた。返せば、少女は死ぬと。覚悟していたが、結局死ぬことはなかった。一度は死後の世界に降り立ったが、すぐに帰ってくることが出来た。
死後の暗闇の世界から連れ出してくれた、あの手のぬくもり。優しく響いたあの声を、フィリアは思い出した。
女の人の声だった。とても懐かしい。きゅっと、胸の奥が震える。
あの声を、自分は知っていた。
「お母様……」
目の奥が、つん、と痛くなった。
自分は母親に望まれて、生まれたのだろうか。重い運命を背負わせる為ではなくて、愛されて。もしかしたら、自分の願望が見せた、幻かもしれない。都合の良い夢かもしれない。それでも、構わないと思った。フィリアがその夢を信じれば、真実となるのだから。
窓の外に広がる空を見ると、美しい青空が広がっていた。
龍は、侵攻をやめた。彼らは天へと戻っていったのだ。
窓の外から、人々の歓声が聞こえる。
誰もが、天に広がる空の青さに、戦いの終焉を悟って歓喜していた。黄昏人や人間、貴族や平民とか関係なく、手を取り合って、抱き締めあって、無事を喜んでいた。互いの温もりを感じて、命の尊さを実感していた。アレシアやヘテイグ、クラーヴァ達の表情も明るい。当然のように訪れる明日を、再び得ることが出来たのだから。
「終わったのですね……何も、かも……」
フィリアから、神の真名の力は消えた。彼女の歌は、単なる歌になった。
そして、身の奥に感じていた、ヒユウの如意宝珠の力も消え去っていた。
それを悟ったとき、少女は愕然とした。
唯一の、彼の存在を感じ取れるもの。それが、無くなってしまった。どれだけ探っても、見つからない。消えたのだ。フィリアが、今生きているのは、きっと彼の如意宝珠の力のおかげなのだろう。
フィリアを守る為に、彼の全てが、消えてしまったのだ。
彼の言う通りの選択が出来なかったのに。それでも彼は少女を守る為に、その力を全て捧げてくれた。
「ぅ……っ……」
自分は黄昏人直系の唯一の生き残りとして、祖の為に、世界の為に、正しい選択をしたのだろう。皆が喜ぶ、希望のある未来を進んでいけるのだろう ―― けれど。
許されるのならば、ヒユウを選びたかった。
本当は誰に咎められても、恨まれても構わない。どんなに深い後悔をしたとしても。ただ、ヒユウの傍にいきたかった。フィリアにとって、世界よりヒユウの方がずっと大切だったのに。ヒユウが、世界そのものだったのに。
「ヒユ、さ……っ、ヒユウさま……っ……」
この世界のどこにも、彼はいない。永遠に、失われてしまったのだ。
それなのに、自分だけは生きている。彼が、母が、自分を生かしてくれたのだろう。フィリアの未来を、願っているのだろう。
彼らの為にも、これから生きていかねばならない。それは、命ある者すべての、義務だ。だから、嘆いてはいけない。己の生を投げ出すことは許されないのだ。
「で、も……今だけは……」
せめて今だけは。
そのことに涙を流すことを許して欲しかった。
かくして、創世から続く黄昏人と人間の確執、龍族すら巻き込んだ、大きな戦いは終焉を告げた。
この戦いによって、人々は多くのものを失ってしまったが、全てを失うことは避けられた。
栄華を極め、熟しすぎた果実のように腐敗し、一時は滅亡の危機に瀕したロウティエ帝国は、これから長い復興の道を歩むこととなる。
大地が受けた傷は大きく、壊すのは容易いが、元に戻すにはとても多大な時間が必要である。それを人々は思い知った。だからこそ、彼らは復興に労を惜しまなかった。もう二度と愚かな戦いは繰り返さない。そう心に秘め、弛まぬ努力により、ロウティエは驚異的な速さで、元の栄華を取り戻すこととなるだろう。
そして、後世にて、このときの戦いは数多くのサーガとなり、語り継がれることとなる。
その中でも、龍族でありながら、ただ一人の少女の為に命を賭けた男と、数多の試練を乗り越え、創世から続く呪いを断ち切った少女の話は、人々の中で最もよく知られたものとなったようだ。




