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黄昏人  作者: はるハル
そして天射る歌は野辺を渡る
89/93

6












 ヒユウが、ただの人間?

 それまで、頭上の龍達に対する恐怖に支配されていたアレシアが、彼らの会話を耳にして、眉間に皺を寄せた。一体、何がどうなっているのか、何のことを言っているのかわからなかった。

 ただ、ヴェルンヘルから発せられた「如意宝珠」という言葉が、脳裏にあのとき ―― ケルジャナ砂漠の地下でのことを蘇らせる。

 元教皇であるダフネが魅入られ、とりつかれてしまった、淡い光を放つ宝珠。その力を使い、祝福と称して多くの信者を手駒としたあげく、それまで信じて慕ってきたアレシアを手酷く裏切った。真実に気付いて詰め寄るアレシアを地面に叩き伏せ、絶望を与えたあの宝珠が、龍の力の源である如意宝珠であると教えられたのは、反帝国組織による反乱が鎮められ、アレシアが皇城の地下牢に投獄されたあとのことだ。

 信じていた人の裏切り。もう心の整理はついていると思っていたが、そう思い込んでいただけのようだ。ほんの少しだけ思い返しただけなのに、こんなにも心が疼く。傷が塞がっていたのは表面だけで、ちょっとした衝撃で、再び開き、真っ赤な血が滲み出してしまった。アレシアにとっては思い出したくもない、忌まわしい力。

 その如意宝珠が、今フィリアの中にあるという。

「ど、どういうことだ?」

 戸惑うアレシアの視線は無意識に、傍にいたクラーヴァに問いかけるように向けられた。だがその疑問に答える余裕は、クラーヴァにはない。彼も同じように、驚きの色に目を染めて、彼らのやりとりを見守っているだけだ。

 わけがわからない。

 ただ、今までフィリアを始めとする人間達に向けられていた龍族の怒り、憎悪、その全てがヒユウ一人に向けられている。それだけは確かだった。




「消滅を待つまでもない。俺の手によって、お前の血を流そう」


 滅びの宣告、それをヴェルンヘルが低く、押し殺した声で告げた瞬間、風の嘶きが物悲しく響いた。

 少女の唇がああ、と震える。

 如意宝珠をフィリアに与え、龍族であることを放棄してしまったヒユウに対する、失望と嘆きと怒りと苦しみ。それが彼女にも、伝わった。

 いまだ少女自身も混乱と悲しみに揺れているというのに、それに浸る時間すら、運命は許してくれない。少女の運命は濁流のように、自身だけでなく取り囲む全てを巻き込んで、それを止める術を見つけられないまま、奈落の底へと落ちてしまうだけ。

 ヴェルンヘルの殺意が、フィリアからヒユウへと移ってしまったことに、少女はこれ以上ないくらいの衝撃を受けた。

 今、ヒユウの力の全ては、フィリアの中にあるのだ。人間程度の力しか無いヒユウが、彼らに対抗する術はない。だというのに、ヴェルンヘルから殺意を向けられても、ヒユウに動じた様子は欠片も見当たらない。全て、覚悟の上なのだろう。

 嫌だ。やめて。心の叫びは、掠れて音にならない。周囲の絶望がやがてフィリアの足元まで染め上げようとしていたときだった。

「フィリア、歌え」

「え?」

 フィリアを庇うようにして立ちはだかるヒユウが落した言葉。混乱と不安に陥っていた少女はそれを聞き落としそうになって、慌てて訊き返す。

 ヒユウは前方のヴェルンヘルを睨み上げたまま、すらりと腰に下げた剣を抜いた。

「今は真名の歌でなくていい。俺の、人間達の勝利を願う歌を歌え! 龍の如意宝珠の力を得たお前ならば、その歌は比類なき力を俺達に与えるだろう!」

「歌……」

 そうだ。ヒユウの力の全て、龍の如意宝珠を得た今、フィリアには比べ物にならぬほどの力を持っていることになる。普通に歌う歌ですら。強大な武器、となるのだ。

 ケルジャナ砂漠の地下で、シェルンが言っていた通りになってしまった。そのとき、黄昏人としての真実に驚愕し、フィリアはその力をただひたすら怖れた。黄昏人の持つ言霊が忌まわしくて、根付いた嫌悪と恐れによって、無意識の内に自ら歌うことを禁じたのだ。

 皇宮の宴にて皇帝陛下に歌を強制されたときも、彼女は歌おうとしたが、歌声が響くことはなかった。歌わなければならなかったというのに、自分ではどうすることも出来ずに途方に暮れていた。歌を歌うことが恐ろしくて堪らなかったのだ。

 けれどそんな少女に、歌を歌うということの本来の意味を、その楽しみを、再び教えてくれたのはヒユウだった。いつだって、彼の言葉は少女の心に深く沁み、勇気を与えてくれた。

 そもそも、フィリアが歌うことを好きになったのは、ヒユウがきっかけだった。拾われてすぐの頃、孤児であるということの寂しさを紛らわす為に口ずさんだ少女の歌を聞いて、褒めてくれたから。柔らかく微笑んで、少女の歌声を好きだ、と言ってくれたから。何も持たない、孤独であった少女に初めて与えられた、好き、という言葉。それがどれだけ、胸を震わす甘美な響きであったのだろう。

 フィリアにとって、歌というのはいつだって、柔らかな、優しい思い出とともにあって。それが黄昏人としての真実に汚されるのが怖くて、一度は禁じた。けれど再び、男の言葉によって光を取り戻して ―― だがまた、逃れられぬ運命の下で、歌を力として扱われなければいけない。そのことに、僅かな躊躇と戸惑いを感じた少女を鋭く見抜いた男は、確かな口調で言った。

「恐れるな、フィリア。力自体に善悪は無い、と言ったことを覚えているな」

「!」

 フィリアははっとして、ヒユウを見詰めた。

 夜空の下、黄昏人としての運命に打ちのめされていた少女は、彼の言葉によって、光明を見出したのだ。誰もが、黄昏人の力を邪悪で忌まわしいものと唱え、フィリア自身もそう思い込んでいたけれど、そうではなく。持つ者の心の色によって、力は染まるのだと。

 世界を滅ぼす為のそれか、それとも人々を守る為のそれとするのか ―― それを決められるのは、少女自身でしかないのだ。

「お前は、守りたいのだろう? この大地と、人間を」

 フィリアは、こくりと頷いた。

 その眦から涙は消え、強い光が、双眸に宿っていた。


―― もう、迷わない。

 立ち上がったフィリアは胸に両手を重ねて、その唇が美しい旋律を紡いだ。

 エルカイル教会の礼拝にて、神に捧げる、生命を賛美し、慈愛を尊ぶ聖歌。

 神に叛き、その真名を奪った始祖を持つフィリアがそれを歌うことは皮肉となるかもしれない。それでも、フィリアはその歌を歌った。ハデス司祭に初めて教えて貰った歌、ヒユウに一番良く聞いて貰った歌だからだ。自分を拾ってくれたヒユウとハデスに捧げる感謝は尽きることがなくて、言葉ではとても足りない、もどかしい想いを少女は歌に込めることによって、昇華していた。

 そのときと同じように、今、自分を育んでくれた大地の為に、自分を守ってくれた人達の為に、今度は自分が彼らを守れるように、言葉にならない思いを込めて歌おう。奥底に秘められた神の真名とヒユウの如意宝珠が、その想いを、確かな形としてくれるだろう。

 優しい、けれど耳に強く残る響き。いつしか、それに重なるようにしてフィリアのものではない声が混じった。低くしわがれた、だがとても耳に馴染む柔らかな歌声。少女は驚いて、瞑っていた目を開けて、周りを見渡した。声の主は少女のすぐ近くからだ。

―― 大叔父様……!

 灰色の長衣を纏った老人が、祈りを捧げるようにして両手を広げていた。

 フィリアは心の中で、彼を呼ぶ。大叔父は静かな視線を少女に向けて、それに答えた。もうそこに、故郷の地で浮かべていた諦念は見当たらない。重なり合う旋律から、彼の気持ちが伝わってくる。

 老人は、少女の両親を死に追いやってしまったことをずっと心の底で悔いていた。自らの滅びを願いながらも、それでも奥底では、生への渇望があった。己の生を許されることを望んでいた。降り立った龍族に殺されそうになったあのとき、フィリアに庇われ、生きていて欲しい、と請われたときに、彼は押し隠されていたそれらの本心に気付くことができた。

 済まないことをした。そして、感謝を。その思いを込めて、老人は歌った。

 そして、老人だけではなく。少女の頭上から、可憐な旋律が零れ落ちてきた。見上げた先は黒鳥の大群。いつのまにか追いかけて来ていたのだろう、桃色のツインテールを揺らしながら、エレーナが、その美しい容姿に相応しい歌声を大空へと放つ。

 斉唱。共鳴。

 彼ら黄昏人の歌には力があるといっても、龍族にとっては微々たるものだ。それでも、フィリアにとっては、大きな力となった。心の奥底から、勇気が奮い起こされる。滑らかな旋律は重なり合い、共振し、新たな響きとなって、空気を震わせる。

 それはまるで、大地自体が叫び声をあげているかのようだった。

「身体が、動く……力が、漲ってくる……!」

 ヘテイグは先程まで身を縛っていた龍気が消失したことにいちはやく、気付いた。そしてそれだけではない。この、身体の奥底から沸き立つような熱は、何だろう。喚起し、召喚獣をこの世界に具現化した瞬間の興奮状態に似ている。否、それよりも強い。だが、一方で心は凪いで、不思議なほどの冷静さも備えている。つまり、最高の状態ということだ。

 周囲を見渡すと、同じように自由に動くようになったことに驚くツヴェルフ達がいた。誰もが、少女らが紡いでいる歌のおかげだということを疑うことはない。

 これならば、戦える。もう決して、諦めたりなどしない。

 萎えていた龍族に対する戦意がこみ上げてくる。少女の歌が、彼らに勇気と希望を与え、守護神である龍に対する恐怖を掻き消したのだ。そこでヘテイグは、龍族の動きが途絶えていた不審さに気付き、慌てて天を見上げると、龍の大軍は動揺したように、揺れていた。





 ヴェルンヘルは信じられず、瞠目を繰り返していた。

 地響きの音が、遠く、深いところから伝わるのを、誰よりも早く察知した。ちょうど、黄昏人の娘が歌を紡いだ瞬間に、彼の鼓膜を襲った。この音の正体が何であるのかも、彼の脳は瞬時に理解していた。だが、感情がそれを許さなかった。

 彼の予想を遥かに超えた状況に、ヒユウや少女に対する殺意すら、ヴェルンヘルは頭の端に追いやるしかなかった。それほどのことだった。

 レテ河上空に浮いていた彼は、ロウティエ大陸の端が見える位置まで、更に高度を上げた。帝都の高台に聳え立つ大神殿も一気に飛越え、ちょうど北の方角に鋭い眼差しを投げつける。龍の超視覚によって、大陸の北方に広がる海を捉えた。つい先程まで、静かな波音を繰り返していた平穏な光景は失われ、船の墓場と呼ばれる、エウノミア近海よりも激しく猛った波がある。嵐に見舞われたかのように荒れ狂い、その上空を黒雲が雷鳴を轟かせて覆い始めた。

 やがて、遠くから響いていた地鳴りがこちらまで届き、地面を揺らす。エウノミアが沈んだ瞬間よりも強いその揺れに、レテ河のほとりにいたクラーヴァ達は何事かと辺りを見渡した。しかし、空を飛べない彼らでは、この地鳴りの原因 ―― ロウティエ大陸の遥か向こうの海で、どんな光景が繰り広げられているか知ることは出来ないだろう。それは、不運なのか、それとも幸運なのか。

 天に漂う龍の大軍すら、その振動に揺らされるかのような、そんな強大な地響きの音だった。ロウティエ大陸を包む広大な海が、真っ二つに割れたのだ。

 目を見開くヴェルンヘルの視線の先、その海の谷間から現れたのは ―― 最初に見えたのは、巨大な飛膜を持った、蝙蝠に似た翼だった。固く骨ばった翼は鱗に覆われ、その鱗は灰色であったが、水飛沫によって銀色に輝いて見えた。あまりにも巨大なその翼が羽ばたき一つするだけで、竜巻が起こり、真っ二つに割れた海の波を更に荒れ狂わせる。その次に見えたのは、爬虫類のような鋭く輝く黄金の双眸、続いて、その貌全てを海面より現した。鱗は翼だけではなく、全身、貌にまで及び、鋭い牙を覗かせている。四足には鋭い爪を持ち、長い尾も鱗に覆われていた。滝壺に叩き落すような音を轟かせて、その背に溜まっていた大量の水が零れ落ちる。

 それは、一匹だけではなかった。数え切れない程の大群が、海を割って、地上へと姿を現したのだ。

「まさか……あれ、は……」

 遠くに広がる海の上空を飛ぶそれらを凝視しながら、ヴェルンヘルはうめく。背後に控える龍の大軍も、皆驚いたように、それらを見ていた。

「封印が解けただと? そんな、馬鹿な!」

 あれは、五百年前に神を裏切ったヒユウの父龍とともに、人間側についた存在。龍族にとっては、忌まわしき、地上の眷属であり、今尚、海の底深くにある氷の中で閉ざされている筈の、古の生き物 ―― 竜だった。

 創造主である神が自ら封じた者達だ。神以外の者が、解ける筈のない封印。それが、少女の歌によって、解かれたというのか。

 そんなことは、不可能だった。起こる筈がなかった。


 ヒユウの肩に乗っていた竜の幼生が、あぎゃぁ、と鳴き声を残して、その翼を広げて飛び立つ。同胞の帰還。歓喜を全身で表す幼子のように、空高く飛んだ彼は何度も旋回し続けた。

 その姿を追うクラーヴァは、ようやく見つけた遠い空に広がる光景を見て、度肝を抜かれた。

「な、なんだ、あれは……!?」

 アレシアも、ヘテイグも、そこにいた者全て、驚愕に目を見開かせた。

 遠く向こうに広がる空、そこにぽつぽつと浮き上がる黒い点。その正体が彼らにも認識できるほどに近付く。灰色の鱗に覆われた巨体、その背から広げられた一対の翼、鋭い爪、射るように輝く黄金の双眸。その強大さ、威厳は、龍を思わせた。だが、その姿形は似て非なるものだ。しかも一匹ではなく、数え切れないほどのそれだ。見たこともない生き物が大群を成して、こちらへと向かってやって来るのを見て、クラーヴァ達は唖然とする他なかった。

 龍族の味方かとも思ったが、ヴェルンヘルや天を覆う龍達の警戒する様子を見るに、どうやら違うようである。だが、こちらの味方、と言えるほどの、材料はなくて。ますます読めなくなる展開に困惑するしかない。

 大きな羽ばたきの音を繰り返しながら、海を割って姿を現した竜達は、ロウティエの大陸の上を飛ぶ。雨のように、彼らの翼から伝う水雫が大地を潤した。眼窩にいるちっぽけな人間達のことなど忘れてしまったかのように、ヴェルンヘルは彼らを待ち構えていた。

 やがて、同じ黄金の視線が交わり、

「五百年前と同じように、再び神を裏切り、大地を荒らす人間どもを救うというのか」

 ヴェルンヘルの低く押し殺した声が空気を震わす。深い侮蔑を含んだその言葉に、先頭にいた竜の双眸が僅かに細められた。


『……傲岸不遜な、この地上の空の支配者よ』


 直接、頭に響く音。

 それは、先頭にいた竜から発せられた言葉だった。人間のような声を与えられていない竜は、言葉を音として紡ぐことが出来ない。正確には、人間の聴覚では感知できない波長でしか発することができないのだが。その代わり、こうやって直接、人間やその他の生物の精神に語りかけることが出来るというのだ。

 直接、頭に話しかけられるという感覚。それはとても奇妙なものだった。臓腑を暴かれるような、思考を覗かれるような気味悪さ。初めてのその感覚に驚きで肩を震わしたアレシアは、小さな悲鳴をあげかけたほどだ。

 竜の大群、その中でも一際大きい竜が、ヴェルンヘルと対峙する。おそらく、竜達を纏める立場 ―― 竜の長なのだろう。そのことは、地上から見上げていたアレシア達にもわかった。

『主が、ひとり子である人間に与え給うた自由、その意味を、お前達は正しく理解していない』

「自由に、意味だと?」

 ヴェルンヘルの目が胡乱げに細められる。

『罪とは、自由が生み出せしもの。その正反対に位置し、罪を犯す自由も、主を疑う自由すら許されぬお前達を、哀れに思う』

 竜の長が天の大軍に向かって、咆哮をあげた。鼓膜を突き破らんばかりの轟音に、アレシア達は両手で耳を覆う。だが、それでも防げるものではなかった。


『その自由ゆえに神に叛き、罪に塗れた人間をも、主は、愛しておられるのだ』


 連動するかのように次々と上がる、竜の叫び。激しく、空気が振動する。

 あまりの衝撃にクラーヴァは片膝をついた。なんとか再び頭を上げると、竜の長が、二、三度大きな羽ばたきを繰り返したあと、鱗の灰色よりも薄い色の飛膜を限界まで広げた。そして、鋭い牙が覗く口内に、光の粒子が集まるのが見えて、ぎょっとする。それは彼ら竜が、攻撃態勢に入ったことを意味したからだ。

「戯言を! 神が自らの滅びを望んでおられるとでもいうのか!? ならば何故お前達は、五百年前に海の底深く、氷の中に封じられたというのだ! 神の手によって!」

 ヴェルンヘル達は、竜の咆哮にはびくともしていなかった。それよりも、竜の長が放った言葉が聞き捨てならないようで、怒りに顔を歪める。ヒユウと同じで、彼も怒りが膨らむと、周囲の空気がそれに呼応するように真空の刃を作り出すのだった。びり、と電撃に似た音を響かせて、鎌鼬が姿を現し始めた。

『主は、この日を予期しておられた』

「……何だと?」

『龍族に対抗できる地上の生物は、眷属である我ら竜のみ。それゆえに主は我らを封じた』

 きいん、と空気を割る音。小さな光の粒が集い、それが竜の口の中で凝縮され、強大な光の奔流となって、溢れ出す。鋭い牙の隙間から漏れ出でる光の雫に、地上にいるアレシア達は戦いた。竜の長に集うその光の奔流が、どれだけの力を秘めているか、全身粟立つ肌が教えてくれた。

 そして竜の長だけではなく、その後ろに控える竜達も同じように光の粒子を纏い始める。天を支配する龍の大軍に狙いを定めて、五百年の眠りから覚めた竜は、その力を解放しようというのだ。予想もつかない展開に、地上から彼らを見上げることしかできない。


『去ね、龍よ。主の望みは、滅びから最も遠きところに在る』


 竜の長がその一言を脳に響かせたときも、クラーヴァ達は単なる傍観者でいることしか出来なかった。


―― 予期していただと?

 そんな馬鹿な。

 神が、龍族が人間を滅ぼそうとするのを知りながら、来るべきその日の為に、人間を守る為に、古の竜を封じていたというのか。

 そんな馬鹿なことがある筈がない。

 しかしヴェルンヘルの思考はそこで途切れた。彼の、龍族としての理性が、それ以上の思考を中断させたのだ。

 神の一部である自分達が、神の望みを一番に理解している。それが彼らの根底にあって、揺らぐことはなかった。

 凪いだ心のまま、ヴェルンヘルが手を掲げる。最早、黄昏人の娘から真名を取り戻す為に、力を温存しておく余裕はなかった。背後に控える龍の大軍に対する、迎撃の指示。それと同時であった、竜の長の口に集められた光の奔流が、巨大な矢となって大気を貫いたのは。

 それを合図に、他の竜達も咆哮とともに、強大な光破を龍に向かってぶつけた。天を覆う龍の大軍も、竜達に劣らぬ咆哮を上げ、迎撃する。

 空を支配する者達の、凄まじい力の衝突。空高く、ぶつかり合うそれらによって生じる衝撃波、それが地上にも容赦なく降り注いだ。

「く……っ、なんという力だ」

 気を緩めると途端に、吹き飛ばされてしまいそうなほどの、強風だ。アレシアは愛刀を地面に突き立てて、それに耐えた。風の嘶きに混じって可憐な歌声はまだ響いていて、ちらりと後方を見遣る。 このような状況の中でも、フィリア達は歌うことを止めなかった。目を瞑り、両足を広げ、吹き飛ばされぬように踏ん張っていたのだ。








 ヒユウはたとえようもなく、力が漲っているのを感じた。フィリアの歌が空気を震わしてヒユウの鼓膜に伝わる。ただそれだけで、全身の細胞が水を得たように活性し、高揚感が奥底から湧き上がってくる。ざわざわと、皮膚の下で、溢れ出す力を抑えられない。

 当初は、如意宝珠の力を得たフィリアの歌によって、龍族と同等まではいかないものの、強大な力を得て、そして人間全ての力で彼らに対抗しようとしていたのだが。竜の封印が解かれることも、予想していなかった。想像以上だった。

―― 今なら、出来るかもしれない。

 無理な筈だった。如意宝珠を失った今では、絶対に不可能な筈だった。だが、心は確信していた。龍王の為に存在し、力を振るい続けてきたあの頃よりも、如意宝珠を失い、滅びかけている今このときの方が、強大な力が奥底から湧き上がってくるのを感じた。神の真名と龍の如意宝珠を併せ持った少女の歌が、力を与えてくれているからだ。だが、単にそれだけではない。それを、彼はもう知っていた。

 少女が歌う歌、それゆえに。

 彼女の歌は、彼のよく知るものだった。幼い頃から、歌を歌う少女は、孤独から解放されていたように思えていたから、それを見るたびに安堵したし、好きだった。自身でも気付かぬ内に自然と、笑顔が零れていた。男の笑顔に頬を紅潮させながらも、とても嬉しそうに笑う少女を見て、ようやく自分も笑っていたことに気付いたのだ。あの宴の夜も、わざわざ抜け出してまで少女の歌を請うたのも、純粋に聞きたかったから、ただそれだけだった。彼女の歌声は、幸福、その象徴となったのは、一体いつからだったのだろう。

 天を仰げば、竜の攻撃に応戦している龍の大軍がある。その中心には、指揮を取るヴェルンヘルの姿があった。

 剣を投げ捨てると、ヒユウは地面を蹴った。

「ヒユウ……!?」

 クラーヴァが、振り返って叫ぶ。だが振り返ったとき、そこにいた筈の男の姿は無かった。驚いて辺りを見渡すと、呆然と空を見上げるヘテイグの姿があった。驚き、畏怖の混じった彼の視線を追うと、巨大な、銀色の龍の姿が天に在った。

 天を覆う龍達より、一際大きな、銀色の龍。

 フィリアは砂漠の地下で見た、あの巨大な龍の骸を思い出した。既に命の光が尽きていたあれとは違い、その鱗は月の光を纏い、黄金の双眸は爛々と獲物を前にした輝きを放っている。天へと昇っていくその龍の正体を悟ったとき、今まで竜の大群に向けられていたヴェルンヘルの視線が、地上に降り注いだ。

「ジークフェルド……!? 貴様、何故、その姿を……!」

 不可能な筈だろう!?

 龍の力の源である如意宝珠を失ったヒユウが、本性である龍の姿を保てる筈がなかった。だが今、目の前にいる龍は、ヒユウ以外の何者でもない。それは、ヴェルンヘルが一番理解していた。

 まっすぐにこちらに向かってくる龍が、その身に淡い光を帯び、力を解放しようとしている。ヴェルンヘルが知っている昔の彼よりも強大な力を感じて、一瞬、目を見開く。だが、身に刺さる鋭い殺気が、逆に彼を冷静さを取り戻させた。

「は、さっきから、何故何故何故ばかりだ! ……もう、いい、上等だ。お前がそのつもりならば、俺も最大の力をもって、お前を滅ぼしてやろう!」

 唾棄するように叫ぶヴェルンヘルの輪郭が、ぼやける。淡い光を纏った次の瞬間には、もう一体の巨大な龍が天に現れた。

 帝都上空で、二体の龍がぶつかる。一瞬、クラーヴァ達の視界は全て白となった。衝撃で、大地が大きく揺れる。みしみし、と木々が軋み、死者の森は悲鳴を上げるように、ざわめいた。先程よりも、強い衝撃が地上にも襲ってきて、とても立っていられない。アレシア達は地面に剣を刺してそれを支えにしていたが、辛そうに顔を歪ませている。今まで踏ん張っていたフィリアも耐え切れずに、よろめいて膝をついた。それでも、彼女は歌を止めなかった。

―― ヒユウ様、ヒユウ様を助けて……!

 ヒユウの名前を叫びたいのを我慢して、少女を歌を歌い続けていた。

「フィリア!」

 龍が迎撃の際に紡いだ真空の刃が、偶然にも歌う少女の方へと落ちてきた。レムングスが動くより先に、歌に夢中で気付かないフィリアの代わりに、それを阻んだのは、ヘテイグの召喚獣だった。

 寸でのところで助かったことを知ったフィリアは、ヘテイグに視線を向けると、彼は心配するな、とでも言いたげに、頷くだけだった。

 天でぶつかり合う二体の龍が、睨み合い、互いに咆哮を上げる。先程の竜のそれを凌ぐような、凄まじい轟きに、ますます森の悲鳴は甲高く響いた。怯えたように震える大地の上で、クラーヴァ達も改めて、龍族の力に驚愕するしかなかった。






 何だ、この力は。

 気のせいではない。ヴェルンヘルのよく知る昔の彼よりも、今目の前にいる彼の方が、その身が放つ力は強く。疑問ばかりが、喉の奥から込みあがる。

「何故だ、龍の如意宝珠を失ったお前が、何故、これほどまでの力を持っている!?」

 神の真名とヒユウの如意宝珠を持つ少女の歌のおかげなのか。だが、それだけでは、この強さは説明できない。力の源である如意宝珠を失った龍が、如意宝珠を持っていたときよりも、強いなど、信じられる筈がなかった。

「お前には、理解できないだろう」

 ヒユウ自身も、いまだ半信半疑なのだ。だが、身の奥底から沸き起こる力だけが、推測を確かなものにさせてくれる。

 竜の長と同じようなことを言われたヴェルンヘルが、顔を怒りに歪めた。

「正気か。父親と同じように、滅んでも構わないってか?! 裏切り者の汚名を被ったまま! 龍にとっては、最低の終わりだ!」

 彼には、ヒユウが狂ってしまったとしか思えなかった。それほど、愚かで、気が触れた選択だった。彼の選んだ道の先には、何も残らない。恥辱に塗れた滅びのみ。それを知っているくせに、誰よりもその選択が愚かだと、父を見て理解していたというのに。

 もう、止められない。彼の崩壊を防ぐ手立ては無い。そうわかっていたが、それでもヴェルンヘルは詰問せずにはいられなかった。

 ヒユウの父、ジルフィーストのときも、何度も投げた問い。それに明確な答えを、彼が与えてくれたことは一度も無かった。五百年の時を経て、再び投げつけた問いかけ。だがしかし、

「ここでお前を退かせることが出来るならば、充分だ」

 ヒユウの口からも得られることはなかった。

「ジークフェルド、貴様ぁ……!」

 失望をこめた叫びを、ヴェルンヘルは無理やり喉の奥へと抑えこみ。彼らの会話は、ここで途切れた。もう、言葉は必要無い。お互い、それを理解したからだ。

 上空で対峙する二体の龍が、咆哮を上げた。それが、戦いの合図。

 雷鳴を轟かせる黒雲を呼び、嵐を起こす。風を操り、真空の刃となって、切り裂く。大地を揺らし、地上のあらゆるものを薙ぎ倒す。炎が全てを焼き尽くす。それらを起こす為に、召喚士が喚起の際に用いる、呪文の詠唱といったものは龍族には一切必要ない。彼らにとって、人間の称する魔法というものは、呼吸するのと同じように起きる、自然現象でしかないのだ。

 太陽の光を阻む黒雲が空を覆い、雷鳴は絶えず鳴り響き、それを背に月の光を纏った龍の大軍と竜の大軍が咆哮をぶつけ合い、言語を絶する力の衝突を繰り広げている。その余波は地上にまで届き、大地は悲鳴を上げていた。内乱によって傷ついた帝都の亀裂は広がり、鬱蒼と暗い闇に閉ざされていた死者の森の木々を薙ぎ倒し、穏やかに流れていたレテ河が荒れ始め、溢れ出した。

 落雷、竜巻、土砂崩れ、津波、河の氾濫、地震。

 あらゆる天災が、地上を襲った。溢れ出したレテ河の水に呑まれそうになったが、寸でのところで、フィリアはレムングスによって空へと逃げ出すことが出来た。他の者達を探すと、竜の長が、その巨大な背に乗せて、すくい上げてくれていた。彼の黄金の双眸とかち合う。どうやら、本当に竜達は人間を守る為に姿を現したらしい。

 彼の視線が少女から、上空高くで攻防を繰り広げる二体の龍に注がれる。フィリアもそれに倣って、更なる上を仰いだ。

 氾濫し、薙ぎ倒された木々を飲み込んだレテ河を眼窩に、レムングスは少女を乗せて、帝都へと降り立った。クラーヴァ達を乗せた竜の長も、彼らを大神殿の前にある広場へと降ろしてやる。

 胸の前で手を組んで、あらん限りの祈りを込めて、少女は歌を歌った。

 胸の奥が熱い。ヒユウの源である、如意宝珠が少女に力を与えてくれているのだ。離れているのに、ヒユウの存在を身近に感じられた。

―― ヒユウ様。どうか、ヒユウ様に力を……!

 彼の勝利と無事を、ひたすら願いながら、歌い続けた。




 天上でのとき、ヒユウとヴェルンヘルは龍族の最高位である、第一位の騎士であり、龍を纏め率いる権限を与えられていた。同等の地位ではあったが、ヒユウの力はヴェルンヘルには及ばなかった。だというのに、今は拮抗するほどに、ヒユウの力は増し、今までにない気迫が、時にヴェルンヘルを圧倒した。

 少女の歌だけではない。彼自身の、消滅を構わない覚悟からくる強さなのだろう。ヒユウの巻き起こす真空の刃は、ヴェルンヘルの結界をいとも簡単に切り裂き、最大出力でもって繰り出される光破の連続に、ヴェルンヘルの回復は追いつきそうもなかった。その疲弊を鋭く悟ったヒユウが咆哮とともに膨大な熱量を孕んだ光を吐き出し、それは大気を貫き、ヴェルンヘルをも貫くだろう。

 とても受けきれない。

 だが、ヴェルンヘルに退く気はなかった。龍族を率いる第一位の騎士としては、失格だ。それはわかっていたが、頭に血が上っていたヴェルンヘルは意地でも迎撃してやるという気持ちで一杯だった。真正面から放たれたヒユウの渾身の一撃を、びりびりと肌に刺さる殺気を受けながらも、残った力でもって、突き破らんと咆哮を上げた。

 龍族の中でもトップクラスであるヒユウとヴェルンヘルの最大出力の攻撃が衝突する。上空で繰り広げられたそれは、地上にも甚大な被害を齎すほどの衝撃だった。下手をすれば、森という森は薙ぎ払われ、津波が起こり、川は氾濫し、街は沈み、大地は割れ、地上の建物など砂上の城のように倒壊するだろう。彼らの衝突の真下である帝都などは、衝撃の余波によって破壊されてしまう、だがそれが起こらなかったのは、竜の長が張り巡らした結界のおかげだった。しかし、それでも全てを防ぐことは不可能で、余波が起こす地震や嵐に耐えながら、クラーヴァ達はその尋常ではない力のぶつかり合いに、息を呑んで見守るしかなかった。

 一体、今はいつなのだろう。昼か夜か、朝なのか、それすらもわからない。銀の龍の大軍がずっと天を覆っていたせいだ。そして今はヒユウとヴェルンヘルの衝突によって、天は昼間のように真っ白な光一色に染められていた。今までは時間の経過について気に留める余裕もなかったが、その真っ白な空を見て、漸く疑問に感じたクラーヴァだった。

 実際、その力のぶつかり合いは、そう長い時間のことではなかった。だが、地上から傍観者のごとく見守ることしか出来ないクラーヴァ達にとっては、何日も続いているかのような感覚に陥った。そして、二体の龍の攻防の終わりを悟ったのは、天を塗り潰していた白い光が消えたときだった。

 上空の二体の龍は、遠目から見ても、無残な状態だった。常に帯びていた結界は消失し、銀色の鱗は剥がれ、巨大な身のあちこちが抉られ、突き破られている。だがその黄金の双眸だけは強い光を失わない。力を使い尽くし、疲弊しきったぼろぼろの状態にも関わらず、両者から放たれる殺気に衰えはなかった。なおも続けようとするヴェルンヘルを止めたのは、ユリアーナだった。

「ヴェルンヘル、これ以上の無理は駄目よ、一時撤退するわ!」

「止めるな、ユリアーナ、俺は」

「私達の果たすべき使命、役目を忘れたの?」

 静かな、だが有無を言わさぬユリアーナの気迫に、ヴェルンヘルはぐ、と言葉に詰まった。諫めるような視線に根負けしたのか、ヴェルンヘルは無言のまま、ヒユウに背を向けた。龍だった彼の姿が、人間の姿へと変わる。

 それを、ヒユウは黙って見ていた。彼も限界であり、これ以上の戦いは無理だったのだ。同じように、龍の姿から、人間であるヒユウの姿へと変えた。

 ヴェルンヘルは龍の大軍に向かって、手を掲げ、退却の命を出す。竜と戦いを繰り広げていた龍達はそれに従い、天から姿を消した。ヒユウに背を向けたまま、一度も視線を交わすこともなく、ヴェルンヘルも彼らの後を追って、姿を消した。ユリアーナは退却する間際、ヒユウに目を向けた。その視線に気付いたヒユウが、彼女を見る。彼女の視線は悲しみに満ちていた。視線の交わりは一瞬だけで、すぐに彼らは姿を消した。

 途端に静まり返った、空。

 一時的ではあるが、元の青を取り戻した空を眺めながら、ヒユウはゆっくりと下降していった。





 その頃、地上では、大騒ぎになっていた。

 それもそうだろう、それまで天を覆い尽くし、この地上の滅びを宣告した銀の龍の大軍が消えてしまったのだ。一体、上空での戦いはどうなってしまったのか。気になることはたくさんあるが、とりあえず今は、久しぶりに見る空の青さに、アレシアは感動することにした。

 アレシアだけではない、クラーヴァやヘテイグ、ツヴェルフ、シェルンまでもが、じっと見入るように青空を見上げていた。

 大神殿の前にある大広場、そこで歌う少女に導かれるようにして、帝国の騎士達が集まってきた。大通りにて龍族に戦いを挑んだ彼らは、戦いの途中で、ヒユウがフィリアとともに姿を消し、そして彼らを追って龍族やクラーヴァ達が消えてしまってからは、帝都に留まる以外なかった。追いかけようとしたが、クラーヴァに残るように言われたようだ。何が起こったのかわからない彼らは、まず広場にいるクラーヴァ達の姿を見て、その無事に喜んで駆け寄ってきた。

「クラーヴァ様、ヘテイグ様、どうぞご無事で!!」

「クラーヴァ様、一体何が起きているのですか?」

「龍族はどこへ?!」

「おい、いっぺんに騒ぐな、お前ら!」

 次々に投げつけられる問いに、苛苛が募ったクラーヴァは一喝して、有耶無耶にした。説明したくとも、彼にもまだ何が起きているのか全て理解できていないのだ。とりあえずは生存を喜ぼう、とクラーヴァは思うことにして、騎士達に労いの言葉をかけてやった。クラーヴァを中心にして大きな人垣が出来ている。それを感心した様子で見ていたアレシアが、すぐ隣から響いていた歌が止んだことに気付いた。

「ヒユウ様……っ」

「フィリア!?」

 フィリアは歌を止めて、走り出した。アレシアの制止の声も聞かずに、空を見上げながら、駆ける。本性である龍の姿から、人間の姿へと戻っていたヒユウが、エーテルの雫を纏いながら、ゆっくりと降り立ってきたのだ。

 ずっと、彼の名前を呼びたいのを堪えていた分、少女は叫んだ。地面に足を降ろしたヒユウが、駆け寄る少女に向かって、両手を広げる。

「ヒユウ様!!」

 衝動のままに、男の胸に飛び込んだ少女は何度も男の名前を呼んだ。彼の無事に、心底安堵したのだ。けれど、その安堵も束の間のことだった。すぐに違和感を感じて、少女は顔を上げる。そして、その違和感の正体を悟った。

「ヒ、ヒユウさま……っ……?」

 少女の唇がわななく。ヒユウは静かな表情で、微笑むだけ。その微笑みが儚く、その向こうにうっすらと背後の空の色が透けて見えたのだ。よく見ると、顔だけでなく、男の全身が透けている。震えながら見上げる少女に、ヒユウは困ったように微笑むことしかできない。

 男が放った、消滅、という言葉が、少女の脳裏を巡った。

「やはり父のようにはいかぬか。どうやら、そろそろ限界のようだ……」

 ケルジャナ砂漠の地下で見た、父であるジルフィーストの骸。龍に、骸は無い筈だった。父は裏切りと同時に、消滅したというのに、骸は遺されていて。そのことに心の端で一縷の希望を抱いていたヒユウだったが、透けゆく身を見下ろして、迫り来る己の消滅を否が応でも悟らざるを得ない。もう、滅びから逃れることは出来ない。静かに受け入れたヒユウの腕の中で、少女は悲鳴をあげた。

「いや……っ、やだぁ、ヒユウさま……っ!」

 泣きじゃくりながら叫ぶ少女を、ヒユウは消えゆく身体で抱き締めた。息が詰まるほどに強い力で。華奢な少女の背に両腕をまわして、ヒユウは亜麻色の髪に顔を埋めた。最初は驚いていた少女も、おずおずと男の背に手を回す。

 柔らかな亜麻色の髪を手で絡めながら、ヒユウは少女の耳元で囁いた。

「愛していた、フィリア……何の枷もなく、お前を守る者になりたかった」

 愛していた ―― 初めて、ヒユウは己の気持ちをはっきりと言葉にした。けれど、それは過去形で。自らを過去として、少女に未来を生きて欲しいという願いの表れだった。それを理解してしまったフィリアは、悲痛に顔を歪めて、涙を溢れさせた。

「ヒユウ様……わた、わたしも……っ。ヒユウ様が、好き、愛して、ます……ヒユ、さま……っ死な、死なないで、いやっ、ヒユウ様が死んじゃうなんて、いやぁ……っ」

 涙で震える少女を抱き締めたまま、ヒユウは、顔を上げて、その先に立っていたヘテイグを見遣る。突然に視線を向けられ、ヘテイグは戸惑っていたが、

「……フィリアを頼む」

 真摯な表情にぐっと唇を噛み締め、ヘテイグはその場で敬礼した。様々な感情が入り混じって、返事の言葉を紡ぐことが出来なかった。


「ヒユウさ……ヒユウさま……っ」

 縋る少女の涙を拭いながら、ヒユウは悲痛に染まった彼女の表情を見下ろした。

 この選択に悔いは無い。もう一度やり直せたとしても、同じ道を歩むのだろう。だから、後悔は無い。消滅に対する恐怖も無い。けれど、この寂しさはどうやっても拭うことは出来ないのだろう。

 このまま、少女を残して置いていってしまう。もう少女を見守ることは出来ない、寂しさ。このあとの少女が気懸かりで、心配で、守ってやれないこと、それだけが辛かった。そして、それ以上に辛いことは ――

「お前の中にある俺の如意宝珠が、お前を守るだろう。……その間だけでいい、俺のことを忘れないでくれ」

 龍の身から離れた如意宝珠の力は、無尽蔵ではない。ダフネが持っていた父の如意宝珠と同様に、いずれは尽きてしまうだろう。いつになるかわからないまま、言うのは卑怯なのかもしれない。けれど、言わずにはいられなかった。

「ヒユウ様……っ!!」

 フィリアはがばりと顔を上げて、ヒユウを見詰めた。幾ばくかの非難も混じえて見上げたとき、フィリアはぎくりと肩を震わした。ふっと微笑みを浮かべた男は、今にも消えそうなほど儚かったからだ。

「ゃ……あっ……!」

 真っ青になった少女の悲鳴は、あまりの恐怖に音にならなかった。男の背にまわして衣服を掴む手に力を込めた、そのときだった。

「!!」

 男の微笑はかき消え、無数の光の粒子が飛散する。少女の視界を埋め尽くすほどに、眩い光を放って、宙を舞った。

「ヒユウ、様が……っ、消え、……っ!」

 飛び散った光の粒子を掌で掬おうとするが、すり抜けていってしまう。捕まえられない。ふっと儚く淡い光を放ち、フィリアをすり抜けて、消えてしまった。

 がくり、と崩れ落ちて両膝をついた少女は呆然と、漂う光の粒子を眺めていた。雪のように舞い落ちる、銀の光。雪と違うのは、頬を撫でる温かな感覚。まるで、ヒユウに抱き締められているようにも思えた。

 やがて、少女を包むようにあった光が全て消えてしまったそのとき、逃れようもない喪失感が全身を襲って、フィリアは泣き叫んだ。

「ヒユウさ……っ、ゃ……っ、いやぁああああああ……っ!!」

 慟哭。

 ヘテイグが少女のそれを見るのは二度目だ。一度目は、父代わりであるハデスを失い、続けて、親友であり姉でもあったメイリンを失ったあの夜。けれど、あのときよりも、少女の叫びは悲愴と絶望と拒絶に満ちていて。とてもではないが、抱き締めてやるどころか、近付くこともできなかった。ヘテイグだけではない、レムングスでさえも、彼女の拒絶に躊躇していた。

 少女の慟哭だけが響く大広場。その悲痛な叫びを前に誰もが、何も言えないでいた。



 地面に伏して、泣き続ける少女を、一体誰が慰められただろう。どんな言葉をかけることができたのだろう。誰も、何の言葉もかけてやることが出来なかった。何より、彼らもヒユウの消滅に大きな衝撃を受けていた。信じられなかった。だからこそ、今の少女に、誰の、どのような言葉も無意味であると、そこにいる者達はわかっていた。

 だが、そうでない者がその場にいた。

 くぁ、と小さな鳴き声とともに、空を旋回していた竜の幼生が、泣き続ける少女の肩へとゆっくりと降り立ったのだ。泣き続けていた少女は最初こそ、それに気を留める余裕も無かったが、何度も頬を舐められて、ようやく顔を僅かにあげた。

「……っ……」

 ヒユウの肩の上に乗っていた、竜の幼生。フィリアは泣き腫らした目で、己の肩に乗るグラニを見つめる。無垢な黄金の瞳が、少女を射る。その間も、涙は止まらずに、少女の頬を伝って、顎先から、幾粒も零れ落ちる。レムングスもいつのまに傍まで近寄って、少女の様子をじっと見守っていた。

 グラニとともに、それまで空を待っていた竜達が次々と降り立ってきた。先頭にいた竜の長が、大神殿の広場で佇む人間達を見渡した。威圧感に、無意識にクラーヴァ達は息を飲む。


『戦いはまだ終わっておらぬ。龍族は一時的に退却しただけだ。再び、お前達人間とこの大地を滅ぼしにやってくるだろう』


大きな羽ばたきを響かせながら、竜の長は言葉を落した。その言葉に、改めて厳しい現実を突きつけられたクラーヴァ達は言葉に詰まった。そして、次に続く長の言葉が、彼らから完全に言葉を奪った。



『お前達とこの大地が助かる方法は、ただ一つだけ、ある。それは、最後の子であるその娘が、主の真名を完全な支配下に置いて、この地上の新たな主となることだ』










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