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黄昏人  作者: はるハル
そして天射る歌は野辺を渡る
86/93

3




 これで、二度目だ。少女を抱えて瞬間移動をするのは。

 一度目は、投獄された少女を帝都から逃す為に。あのときも、ヒユウの元から少女を引き離して、抱えて飛んだ。少女を助ける為に自ら囮となったヒユウを置いて、逃げたのだ。

 今と、あのときの状況は同じ。けれど実情はまったくの正反対で。あのときは少女を守る為に力を振るったヒユウが今度は少女を傷つける為に力を振るう。それから逃れる為に、ツヴェルフは無我夢中で少女を抱えて、ヒユウから逃げたのだった。

 辿り着いた先は、大神殿の前だった。

 千里眼で全てを見ていたのだろう、テイルと、その横ではクシシュトフが待っていた。

 ヘテイグと少女を一度に抱えて飛んだ為、凄まじい疲労感を全身に感じていたが、そんなことより少女の様子が心配で、不思議と気にはならなかった。ツヴェルフはおそるおそると見下ろしてみるが、俯いている少女の表情は窺えない。掴んでいた少女の腕を離してやると、途端に全身力が抜けたようにへたりと座り込んだ。

「フィリア……ごめんな」

 やはり、あのとき止めていればよかった。

 龍の大軍を頭上に、龍族であるヒユウを目の前にして、ツヴェルフは一歩も動けなかった。心の中では何度も、フィリアに逃げろと叫んだ。今すぐにこの場から彼女を逃さないと、と思った。けれど、龍気に当てられ、金縛りになった身体はツヴェルフの心の叫びを無視した。本能で感じる、恐怖。それを初めて知った。少女が、よりにもよってヒユウに殺気を向けられるところをただ見てるだけで。不甲斐ない自分を、詫びた。けれどそれは当然、少女には伝わらない。

「どうして……ツヴェルフ様が謝るのですか……?」

 本当にツヴェルフの謝る理由が見つからない、といった様子で少女は顔を上げた。その顔色は血を失っていて、真っ青だ。

「フィリアおねーちゃん!」

「ねーちゃん、大丈夫かっ!?」

 大神殿の入り口にある階段を降りて、手前にある広場にへたり込んでしまった少女に二人の子供達は駆け寄った。

「テイルさん、クシシュトフさん……ありがとうございます……」

「フィリアおねーちゃん、顔色真っ青だよ!」

 そう叫ぶテイルの顔色も悪かった。彼は内乱が起きたときから今まで、己の力を振り絞って行使し続けてきたのだ。フィリア達に助けを求める為にエウノミアまで幻を飛ばして。そして、ハデスやクシシュトフを守るために幻影を作り続けて、そして今度はフィリア達を逃す為に。休む間など無かっただろう。いくらエルカイルを祖とし、不思議な力を受け継ぐ現教皇といえど、身体、精神的にはまだ未熟な子供なのだ。

「とにかく、大神殿の中へ入ろうよ」

 クシシュトフが心配そうに少女を促した。ヘテイグが手を貸してくれて、少女はよろよろと何とか立ち上がる。ヘテイグも疲労困憊といったかんじで、いつものきびきびとした動きからは程遠かった。

「他の皆さんは……」

 フィリアはヘテイグとツヴェルフによって逃げることが出来た。しかし、今ここにいるのはその二人だけで。他の人達はどうなったのだろう。まさか、逃げ遅れてしまったのではないか、と不安げに振り返る。大神殿が聳え立つここは高台になっている為に、帝都の町並みを見渡せる。天には龍の大軍が銀色の雪を降らし、瓦礫の山と化した街中ではそれらに畏れを抱き、ひれ伏して祈りを捧げる民衆の姿があった。

 誰もが、龍がこの地を滅ぼしにやってきたとは思いもしていないのだろう。複雑な心境でそれらを眺めていると、突然、広場の中央に凝縮した光の塊が現れた。

「!」

 少女を守るようにして警戒態勢を取るヘテイグの眼前で、光の中から、彼ら ―― クラーヴァ、アレシア、ケイトが現れた。

「クラーヴァ殿の召喚獣か」

 ほっと、ヘテイグは安堵の息を吐いて、肩に入れていた力を解いた。フィリアも警戒を解いて、ここがどこなのかと辺りを見渡しているアレシア達に声をかける。

「よかった、アレシアさん達、無事だったんですね……」

「ああ……フィリアこそ」

 途中で、アレシアは口篭る。何を言ってやればいいのか、わからなかった。平気か、なんて問える筈もない。明らかに疲弊した様子の少女を目の前にして。

 気まずく思っているアレシアに被さるようにして、大きな影が落ちた。

「大叔父様……!」

 大きな羽ばたきとともに、大型飛獣に乗った老人達がフィリアのすぐ傍に降り立つ。老人以外にも、ギルベルト、ノエル、エレーナが乗っていて、彼らの無事な姿にフィリアはほっと胸を撫で下ろした。

「クラーヴァ、どこへ行くの?」

 地に降り立つなり、ずかずかとどこかへ向かうクラーヴァを慌ててケイトが追った。

「決まっている。すぐに帝国軍全て召集をかける。相手は龍だ。対抗手段なんぞあるかどうかわからんが、それでも戦わないわけにはいかねぇだろ。あいつらは、人間も一掃するつもりだ、一刻の猶予もねぇ。行くぞ、ギルベルト」

「はっ!」

 そう言い残し、クラーヴァは副官のギルベルトをつれて、帝国軍部施設へと入っていった。そのあとを、ノエルもすぐに追う。

 ケイトは迷った。フィリアの様子も気になる。しかし結局、帝国軍部の騎士として、帝国を守る道を取った。少女を支え立つヘテイグに、任せたわよ、と一瞥を送ってから、彼女も帝国軍部施設へと走った。


「……今は休め、フィリア」

「そうだよ、大神殿は結界も張っているし、休むところもいっぱいあるよ」

 ヘテイグに続いて、テイルも少女を気遣う言葉をかける。ツヴェルフもアレシアもクシシュトフも同じ意見のようで、皆一様に心配そうな視線を投げてくる。何故か、フィリアは胸がちくりと痛んだ。

「そんな余裕などない」

「大叔父様……っ!」

 ただそんな中、厳しい声色で紡いだのは、大型飛獣から降り立った老人だ。

「ついに……神の使いである龍自ら、我らを裁きにきたか……」

 ふう、と重たい溜息を天に向かって吐く。そして視線を少女へ戻してから、老人は続けた。

「あの龍の大軍が再構成を終えるまでは、総攻撃はしてこないだろう。それまでに、お主に話さねばならぬことがある」

「わかりました……教えてください、全てを」

 ヘテイグ達が制止しようとするその前にフィリアは頷いて、血の気を失って疲弊した表情とは違う、しっかりとした口調でそう返した。




 テイルの案内で、大神殿の奥にある一室に入った。普通の屋敷の中にあるような、ソファやテーブルなどの調度品が揃えられた部屋。教皇となったテイルに与えられた部屋の一つらしい。豪奢で緻密な、一級品と呼べる調度品に囲まれているものの、人の出入りが極端に少ないそこはどこか物悲しい空気が漂っていた。

 老人と向かい合わせにフィリア、ヘテイグ、ツヴェルフが座る。アレシア、エレーナ、テイルやクシシュトフも近くのソファに腰掛けた。ここにいる全員、疲れが限界まで積もっていたのだろう。肩を落として、無意識に大きな息を吐く。誰も、一言も紡がない。重たい沈黙を暫し味わったあと、老人は固い声色で話し出した。

「まず、始めに言っておこう。本来ならば、今のお主の運命は、お主の母が背負うものであった。お主は生まれる筈のない娘だったのだよ」

「え……?」

 どこの部族でも、国でさえも、占者という存在を抱えている。

 誰もが背負う運命というものを占い、佳き未来へと導く者。権力者ほど、そういった目に見えぬものを恐れ、忌避しようと尽力するのだろう。

 黄昏人にも、古くから占者がいた。神の真名を奪った特殊な一族である為、その占者も、普通と比べてとても力が強く、一族に重用されていた。その占者が、フィリアの母 ―― リューディアが生まれたときに一つの託宣を告げたことが大きな波紋となった。

 リューディアはとても強い運命の元に生まれた娘であり、彼女の持つ言霊は強く、それが後に黄昏人だけでなく、世界という大きな湖面に投げ入る小石となるだろう。凪いだ湖面に投げ入れられたその小石は大きな波紋を広げ、全てを巻き込むだろう。

 それを聞いた老人を含め、黄昏人は皆、戦いた。今までゆっくりと滅びを待つだけしかなかった黄昏人に対して、ついに、最後の裁きが下されるのだろうと。一体、どのような裁きであるのか、それを皆恐れた。

 リューディアが黄昏人最後の直系として、一族全て滅びるのだろう。託宣より、彼らはそう判断したのだった。それゆえに、リューディアは、最後の子と呼ばれるようになった。

「ゆえに、我らはお前の母親に多くの過酷を強いた。エウノミアより出てはならぬ、それどころか、部屋からも一切出てはならぬ。誰とも会えぬ。閉ざされた牢獄のような中で、彼女は育った。決して、子を残してはならぬ、お前は何も生み出してはいけない。最後の子になるのだ、とそう強いた」

「……」

「けれど……それが彼女の、外に対する切望を、より大きなものにしてしまったのだろう。彼女に同情したある黄昏人の男とともに、逃げ出した。お前を生み、そして島から出ようとした。当然、我らは彼らを連れ戻そうと追った」

 男は追っ手から妻と娘を庇い、叫びの谷に投げ入れられて、息絶えた。母と娘は島から逃げ出した。だが結局、逃げ切れられないと踏んだのだろう。リューディアは神の真名を使って、龍を呼んだのだ。

「……よりにもよって、神の真名を使うとは思わなんだ。今まで、神から真名を奪った始祖しか、その力を使ったことはないというのに」

 そして、それに龍が応えるだなんて、どうして思えよう。

 今まで押し黙って聞いていたフィリアは、以前より抱いていた疑問を口にした。

「……どうして、私達の始祖は真名を奪ったのでしょう。元は私達は、同じ人間だったのですよね……黄昏人なんていなくて、皆が言霊を持っているのが普通で……神様も一緒に暮らしていたって……」

 大通りで、龍族として降り立ったヒユウはそう言った。

 これだけ憎しみ合い、争い合ってきた人間と黄昏人が元は同じだった? 

 ケルジャナ砂漠の地下にて、ダフネより聞いたことがあった。人間も昔は言霊を持っていた、と。しかし、いつからか彼らは言霊を失い、ゆえに黄昏人を恐れるようになったのだと。それは知っていたが、けれど、自分達が同じ存在で、仲良く暮らしていただなんてフィリアには想像できなかった。それどころか、創造神もこの地上にいただなんて。

「そうだ。古の時代、我らは等しき、一つの存在であった。だがそれは、一人の女によって崩された。その女こそが、我ら黄昏人の始祖。神の真名を奪いし、原罪を犯した者」

 エウノミアで、人間と神は暮らしていたという。憎しみも、恐怖もない、楽園の時代。それを終わらせたのが、神を騙して真名を奪い去った一人の女だった。

 奪ったのは、病気で死んだ恋人を蘇らせる、ただそれだけの為だった。

 恋人を失った女は、どうか彼を生き返らせて欲しい、と神に懇願した。けれど、天命だといって神は救わなかった。何度乞うても、神は決してその願いだけは叶えなかった。女は泣いた。悲しみに暮れて泣き明かした。あくる日もあくる日も、涙が枯れることはなかった。男を失った悲しみと、もう二度と会えない寂しさに苛まれ続けた。やり場のないその悲しみはいつしか、神への怒りへととって代わった。

 何故、彼は助けてくれないのか?

 助ける力があるというのに、何故。自分はこんなにも辛いのに、どうして見て見ぬふりをするのだろう。どうして、私だけがこんなに辛い目に遭わなければならないのか。笑いさざめく楽園の庭で一人、女は孤独を初めて感じた。幸せそうに笑う人々を、見ることが出来なくなってしまった。辛い。苦しい。どうして私だけが。許さない。女の心に生まれた憎悪の灯火は燃え盛る業火となって、彼女を狂気に駆り立てた。

 その頃、彼女達人間には神と同じ、言霊があった。それによって真名を支配下に置いて凶悪な獣すら従わせていた。それと同じように、女は神の真名を奪うことは出来ないかということに思い至った。万能の神の力を手に入れる為には、それしかなかった。一度だけ。たった一度だけでいいから、神の力を貸して欲しい。神がそれを使わないというならば、もうこれしか方法がないのだ。恋人さえ蘇らせればそれで良かった。すぐに真名は返すつもりだった。

 そしてある日、泣き暮らす女を心配した神に、女は剣を向けた。男の形見の剣だ。泣きながら真名を奪おうとする女に、何故か神は抵抗をしなかった。女は自分でも驚くほど、あっさりと神の真名を奪うことが出来た。そして、神の力によって恋人を蘇らせたのだ。女は喜んだ。生き返った恋人も、その奇跡に喜んだ。

 だが、そのあとすぐに気付く ―― 生き返った恋人から、言霊が失われていたことに。神から与えられた、神の祝福である、力が無くなっていたのだ。

 呪いだ。真名の反作用。それによって、それまで等しい存在であった人間は二つに割れた。言霊を持ったままの女を始祖とする黄昏人と、言霊を失ってしまった恋人を始祖とする人間達。恋人同士であった彼らは、言霊があるかないか、それだけの違いで、永遠に相容れることはなくなってしまった。

 はじめは、神の真名の強大な力を女は称え、滅多に使うことはなかったが、次第にその力に酔い始めた。そして、それは恋人に恐怖を抱かせることになった。

 蘇った恋人(人間)は、やがて、女(黄昏人)を怖れるようになり、女はそんな恋人に傷ついていった。悲劇が起きたのはまもなくのこと。恐怖に苛まれた男が、同じく言霊を失った人間達に唆されて、女を殺そうとしたのだ。

 恋人に剣を向けられた女は絶望し、その力によって男を殺した。そのあと、女も死んだ。

「……我々がはっきりと分かたれたのはそのときだろう。黄昏人は人間に絶望し、憎んだ。人間は黄昏人を恐れ、忌み嫌った」

 真名を奪われた神は地上から去って、眠りに沈んだ。

 世界は荒れた。黄昏人達はエウノミアで、崩れ行く大地とともに己の罪に苛まれながら大地から出ようものなら、人間によって追われ、殺された。

 黄昏人は、罪を背負ってまで助けた人間に裏切られたと思い、憎んだ。とくに始祖の女が最期に残した憎悪の言葉は、今尚、我らの心の底に巣食っている。老人はそこまで話して疲れたのか、ふう、と息を吐いて、視線を巡らす。この場にいる全員が、驚愕に目を見張り、言葉を失っていた。

「……そうして、エウノミアは、滅びを待つ大地となった。ゆっくりと真綿で首を絞めるように、ただ待つだけ。強固な結界を張られて、我らは外界との接触を阻まれた。誰もが悟った。神の去ったこの地上で、沈みゆく大地の上で、我らは憎悪と孤独に蝕まれ、狂気とともに死ぬのだろう。神がそう望んでおられるのだろう、それが罪を犯した報いだと!」

「……っ」

 びくり、と向かいに座る少女の肩が震える。その震えは隣にいるヘテイグやツヴェルフにも当然伝わった。けれど、彼らにもかけるべき言葉がなく、ただ痛ましそうに少女を見下ろすしか出来なくて。

「自ら手を下すことなく、呪いによって沈む大地とともに死ね、というのが彼ら、神罰の代理執行者である龍の答えなのだろう。だから、我らにできることはただそれに従うのみ。これ以上、神の怒りを買わないように。ただ忌み嫌われ、孤独のうちに死ぬのを待つだけだった。しかし、どうやら、彼らは我らを殺すことに決めたようだ」

 あの龍の軍勢がその証だと、老人は窓の外を見詰める。いまだ、銀のエーテルが降り続けている。だが、それはじきに止み、彼らはこの大地を滅ぼすのだろう。

「……」

 フィリアは何も言葉が浮かばなかった。

 始祖が奪った神の真名は、代々親から子へと受け継がれていくのだという。最後の子である筈のリューディアが子を産んだ為、今ではフィリアが最後の子となった。最後の子と、あの龍族の男もそう自分のことを呼んだ。母が背負う筈だった運命が、今は少女の肩の上にあるのだ。

「……ここからは、フィリア以外は席を外してもらおう」

「何故だ?」

 即座にヘテイグは異論を唱えた。隣で震える少女をこのまま一人置いていけるわけがない。だがそれは、フィリア当人によって、拒まれてしまう。

「お願いします、ヘテイグ様……」

「……わかった」

 渋々と出て行くヘテイグ達を、フィリアは見詰めていた。扉の閉まる音がしても、少女は不安げに視線を扉の向こうへと散らす。それを知りながらも、老人は自分のすべきことに集中した。


「神の真名は、代々歌によって受け継がれている。それをお前に教えよう」


 そして、これをどうするかはお前次第なのだと、老人は言った。





 + + +





 暗闇が天を覆う、世界。

 足の裏に、柔らかい土の感触を感じた。そこでフィリアは、いつもの夢の中なのだと悟った。エウノミアに辿り着いてからは、頻繁に見るようになった、夢だ。

 華奢な肩にかかる栗色の髪。あの女の人だ。泥だらけの手で、彼女はいつも土を掘っていた。蹲りながら、掘っていた。死体を埋めるための、墓を。

 ただ、今回はいつもと違っていた。彼女は泣いていなかった。死体を埋めていなかった。今までフィリアの存在に気付かなかったのに、こちらに向き直り、真正面から見据えている。初めて見る彼女の顔は、整った綺麗な顔をしていた。ただ、酷くやつれていて、血の気を失った顔色で、瞳も虚ろに濁っていた。

 フィリアはようやく、彼女の正体に気付くことができた。

「貴女が、私達黄昏人の始祖なのですね……」

 神の真名を奪い、楽園を壊した者。黄昏人の始祖となった、女。

 まさか、ずっと、ここで……?

 彼女はここで死体を埋め続けていたのだろうか。死体は、おそらく彼女の犯した罪によって、死んでいった者達なのだろう。死んだ後も、彼女はその罪から逃れることは出来ていなかった。恋人を救う為に犯した罪。けれど、その願いによって、世界全てを滅びへと向かわせてしまった。

 そう思うと、とてもではないが、女を非難する言葉など思い浮かばなかった。

「お前には二つ道がある」

「道……」

 許しを乞う声しか聞いたことがなかったフィリアは驚いた。詫びを繰り返すしかなかった彼女の土気色の唇から、初めてフィリアに向けて言葉が紡がれる。

「真名を返すか、返さないか。その二つの選択をお前は与えられている」

「……」

「返せば、神は復活し奇跡は戻る。だがお前は死ぬだろう。そして龍は人間をも滅ぼすだろう。返さなければ、奇跡は失われ、龍は怒り、永遠にお前達を赦すことはないだろう。大地は滅ぶだろう」

「そ、そんな……!」

 どちらを選んでも、人間は争い、滅びからは逃れられないのか。それでは、選択の意味がないのではないか ―― つまり、どちらを選んでも、滅びは避けられないということ。それを、女は言いたいのだろうか。

 どうして。

 どうして、私が、こんな選択をしなければいけないの?

「お前の母は逃げた。この決断を下す勇気がなかったのだ。世界の未来を背負う定めに恐れをなして、お前に背負わせた」

「嘘……」

「嘘ではない。お前はこの選択の為だけに、この世に生まれ落ちたのだ」

「違う……!」

 違う。必死に、その言葉を頭の中で繰り返す。両手で耳を塞いで、女の声を追い出そうとする。けれど、何故か女の言葉だけが、ぐるぐると少女の頭の中を巡って離れない。

 堪らず、少女は天を仰いで叫んだ。

「お母様! 私はこの為に生まれたの……!?」

 世界を滅びに追いやる、その為だけに。

 母が背負う筈だった、最後の子である運命。それに耐え切れずに、フィリアを生んだのか。そして、全てを背負わせたのか。その為だけに、フィリアを生んで、故郷より逃げ出したのか。

「……っ……!」

 泣き濡れた顔で、フィリアは目が覚めた。

 いつのまにか気を失ってしまったのだろう。部屋も、大叔父と話をしていたところではない。寝室のようで、寝台の上にフィリアは寝かされていた。

―― 最後の子……我らの過ちを繰り返さないでくれ……。

 目が覚める一瞬前に、始祖が残した言葉。それが、少女の頭にこびりついたように、響いていた。

 ゆっくりと、フィリアは上体を起こす。眦から、涙が一筋頬を伝って、顎先に辿り着いた。それを掌で拭いながら、フィリアは覚醒しきれない頭を振った。

「……あら、目が覚めたのね。お姫さま」

「どうして、あなたがここに……」

 誰もいないと思っていたが、部屋の中にはエレーナがいた。寝台の近くにある椅子に腰掛けている。フィリアの涙に気付いているのだろうに、気付かないフリで、彼女はあっけらかんとした調子で答えてくれた。

「だって、今はもう私達が争っている場合ではなくて?」

「……そう、そうですね……」

 夢ではなかった。ヒユウが龍族で、フィリア達を殺すために降り立ったのだ。ずっと、彼はそのつもりで、傍にいたのだ。フィリアを監視していたのだ。

 私は。私は何の為に……。

 窓の外は、銀の雪が降っている。一体どれだけ眠ってしまっていたのか。それを知ろうにも、太陽が隠されているために、時刻がわからなかった。

「貴女が倒れて、そんなに経ってないわ」

 窓の外をじっと見つめる少女の疑問に、エレーナは答えた。彼女にとってその椅子は高いのだろう、足をぷらぷらとさせながら、エレーナも少女の視線を追った。

「……エレーナさんも、黄昏人なんですよね」

「そうよ。お母様が黄昏人だったの。エウノミアから逃げ出して、そして辿り着いたハウメイで、お父様に拾われたのよ。お父様がお母様に一目ぼれしてね。すぐに側室にあげようって話になったみたい。ま、当時は周囲から大反対されたみたいだけれどね」

 それでも父の頑固さに負けて、周囲は認めるしかなかったのだという。正室の子であり、当時第一王子であったルドヴィークが、エレーナに対して偏見の目で見ることなく、あくまで普通に妹として可愛がってくれた。そのおかげで父が亡くなった今でも、彼女は立派な王族の一員としての地位を確保できているのだ。

「お母様は今も?」

「いいえ、私を生んですぐに……。元々丈夫じゃなかったからね」

 寂しげだが、彼女の表情はとても柔らかで優しい。遠く懐かしい想い出に浸っているのか、とても穏やかだ。それがフィリアにはとても眩しい。

「……ずっと、私は居場所が欲しかった。ただ穏やかに暮らしていける場所……私がいても許される場所を探していたんです……でも……そんなもの、何処にもなかった……」

 エウノミアにならあると思った。けれど結局見つからなくて。それどころか、自分がこの世界に生まれてきた理由 ―― 母ができなかったことをする為だけに生れ落ちた、という真実を知ってしまった。

「お姫様?」

 表情に陰が落ちた少女を訝しげにエレーナは見る。しかし、フィリアはそれに答えることなく、そういえば、と以前からあった疑問をぶつけた。

「どうして、貴女は私のことを、お姫様と呼ぶのですか?」

「……お母様がそう呼んでいたの、貴女のお母様のことを。あのね、エウノミアはね、昔はロウティエにも劣らない国家だったのよ。そして貴女はその国を代々治めてきた黄昏人の直系の血を受け継ぐ者。私のお母様は、貴女達に仕えていたらしいの。エウノミアを出たのも、貴女のお母様を見つける為だったみたい」

 だから、エレーナはフィリアに会ってみたかった。自分よりも強くて、濃い血を受け継ぐ彼女に。けれど初めて会った彼女は、とてもあの黄昏人の純血とは思えないほどに、か弱くて頼りなくて。しかも甘っちょろい綺麗事を吐いてしまう。もう一度会ったときには、文句でも言ってやろうと思ったが、今の少女の様子では、そんな気もすっかり削がれてしまったエレーナだった。

「そうなのですか……」

「どうしたの、変よ、お姫様」

「……いいえ、何でもありません。それより、皆さんはどこにいるのですか? もう時間もないのでしょう、行かなければ」

 俯いていた少女が顔をあげたとき、エレーナは違和感を感じたが、すぐにそれは消えてしまい、気のせいと思うしかなかった。





 大神殿の奥の、広い廊下に足音が響く。

 林立する白い柱、高い天井、高みに穿たれた大きな窓から、銀色の光が廊下に降り注がれていた。外から届くのはそれくらいで、他には何の音も、光も届いてはこない。外から隔絶された世界、こんなところで、テイルは一人暮らしていたのかと思うと、心が痛む。

 薄闇に染まった大理石の床に、仄かな光が落ちている。うっすらと開かれた扉、そこから漏れているらしい。その部屋の中へとフィリアは向かった。そっと中の様子を窺うと、クラーヴァ、ヘテイグ、ケイトやギルベルトを始めとする現時点での帝国を支えている主要な人物が揃っていた。帝国軍部だけではなく、ツヴェルフ、アレシアや大叔父もいて。さらに敵であったハウメイ国国王であるルドヴィークもいた。

 最早、国同士で争いをしている場合ではない。龍族を相手に、戦争をしなければいけないのだ。対策を講じようにも、誰もが勝ち目のない戦だと感じていた。帝国軍の士気は最低だった。民衆もその殆どが、龍が敵だという事実から目を逸らし続けるだろう。そしてそのまま、滅ぼされてしまうのだろう。

 どうにか。どうにかしなければ。

 焦りだけが、募った。そして、実際に龍族と戦うにも、問題が山積みだ。

「問題は、あの龍気だ。いくら戦いを挑んだとて、並の兵士では、龍族を前にすれば金縛りになり、身動き一つできやしねぇ」

「龍気か……」

 それが第一の関門であった。

 たとえ、こちらが大軍で挑んだとしても、龍族と真正面から立ち向かえば、たちまちに彼らの龍気に当てられ、本能の恐怖に縛られて動けなくなってしまう。どれだけの大軍、強力な武器をもってしても、その問題を片付けなければ、抵抗すら出来ない。なんと、非力なのだろう。人間は。

 クラーヴァは悔しさに、奥歯を噛み締めた。大通りで、ヒユウと対峙したとき、クラーヴァは一歩も動けなかった。恐怖以上に、屈辱だった。何の抵抗も出来ずに、このまま滅ぼされてしまうのだけは、許せない。しかし、打開する方法が見つからない。

 全員が行き詰まりを感じた頃、フィリアは部屋の中へと一歩踏み出した。


「私が、真名の歌を歌いましょう。そうすれば、龍気による金縛りを無効化できます」


「フィリア?!」

 ヘテイグやツヴェルフ達がぎょっとして入り口に振り返る。

「大叔父様より教えていただきました。代々、神の真名は歌として受け継がれているのだと。その歌が、龍に立ち向かう為の、切り札です」

「フィリア、お前は戦わなくていい!」

 淡々と述べる少女に唖然とする中、声を荒げて反論したのはアレシアだった。入り口に佇む少女の前まで駆け寄って、その華奢な肩を掴む。

「これから戦う相手が誰だか、ちゃんとわかってるのか? お前は戦えない!」

 これから戦いを挑むのは、龍族であるヒユウなのだ。少女の心の支えであり、幼い頃からずっと想ってきた相手で。突然の裏切りにショックを受ける少女が、立ち向かえる相手ではない。それはここにいる全員がわかっていて、だからこそ、彼らはフィリアに戦わせようだなんてことは言わなかった。クラーヴァでさえも、その空気を感じ取っていて、言い出すことはなかったというのに。

「……アレシアさん、ごめんなさい」

 少女の顔を覗きこんで窺うが、返ってきたのは謝罪の言葉だけで。

「何故、謝る?」

 それが何に対しての謝罪かわからずに、アレシアは尋ねた。

「私、理解していませんでした。突然、大切な人を奪われる気持ちと、人を憎む気持ち……ハデス様を殺されて、初めて人を憎いと、殺したいと願ったのです」

「……」

「レムングスさんの気持ちを知っていて、彼との約束を破ってでも、それでも許せなかった。砂漠の下で、誰にも言葉が届かなかった理由がわかりました。アレシアさんの言う通り、何も失っていないからこそ言えた綺麗事だったんです」

 所詮、第三者でしかいなかった。今思えば、あのときの言葉はとても軽いものに響く。

「……だからもう、誰も失いたくない」

「フィリア……私は……」

 アレシアは確かに、砂漠の地下で少女に向かって言った。お前に何がわかるのか、と。何も失っていないフィリアを、責めるかのように。けれどそれは決して、彼女に同じように失って欲しかったわけではない。それどころか、少女の口から「憎い」という言葉が出てきたことに、アレシアは自分でも驚くほどに、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。

 出来れば、彼女にはずっと綺麗事を言っていて欲しかった。甘い理想を、夢見ていて欲しかった。自分では言えなくなってしまったからこそ、そう言ってくれる存在が欲しかったのだと今わかった。

 綺麗事だけでは人は生きられない。それは真実だ。でも、同じように、人は汚い泥の中だけでも生きられないのだ。それをちゃんと伝えたいのに。

「……あの砂漠の下で、お前の言葉が誰にも届かなかったなんてことはない、フィリア。ちゃんと、届いていたよ……お前の気持ちも」

 力無く項垂れるアレシアに、フィリアは困ったように微笑むしかなかった。

「私が創造神の真名をもっているのです。私が行かないと駄目なのです」

 龍はその怒りを静めないだろう。このままでは、この大地が滅んでしまう。それだけは嫌だった。それに、たとえ地の果てまで逃げても、龍はフィリアを追ってくる。この地上に、逃げる場所など何処にも無いのだ。それならば、立ち向かうしかない。

 しかし、アレシアには納得がいかないのだろう。ぎゅっと拳を固く握り締めて、込みあがる憤りと戦っているのが見て取れた。

「でも、そんなの……こんなの、フィリアが犯した罪なんかじゃない! 大昔に罪を犯した者が罰を受けないで、どうして今になってフィリアだけが!」

「私も……そう思ったことがあります。どうして、私なのって……でも、皆そうだと思うんです。アレシアさんだって、テイルさんだって……」

 アレシアには何の罪もない。ただ、一生懸命に毎日を生きていただけだ。なのにそれが突然、奪われてしまって。故郷の草原も焼き払われて、帰る場所をなくした彼女は剣をとって、戦いの道を選んだ。

 テイルだって、同じ。生まれながらにして、エルカイルの子孫として、強大な力と重い運命を背負っていた。けれど彼はそんなものを欲してなどいなかった。ただ親の愛に飢えていた、普通の少年なのだ。望まぬ力の為に、狙われ、自由を奪われる運命。大神殿という牢獄の中で閉じ込められていても、彼はその明るさを決して失わない。

 それに、原罪を犯した始祖も罰を受けている。死んだ後もずっと、彼女はその罪から逃れられていないのだ。

「アレシアさんも、テイルさんも……とても大好きな人に裏切られて、辛かった筈なのに……それでも前を向いて、戦うことを諦めなかったでしょう。その強さが、とても羨ましかった。私も、そうでありたいのです。ハデス様と……ヒユウ様がそう私を育ててくださったと、誇りたいのです」

「フィリア……お前……」

 アレシアは二の句を継ぐことが出来なかった。少女からもう漏れることのないだろうと思っていた名前を耳にして、少女の想いの深さを知った。

「私がずっと探していた、居場所……この世界に生まれた理由をやっと知りました」

 それは決して、少女の望んでいたようなものではなかったけれど……。

「もう逃げたくない。皆が滅ぼされてしまうのを、じっと待っているだけはいやなのです。何より、彼らは私が……私の持つ真名が狙いなのです。私が行かなければ、この戦いは永遠に終わることはありません。私は、私を育んでくれたこの大地が好き。一生懸命に生きている人達を、見殺しになんて出来ない」

 ずっとハデスとヒユウに守られて平穏に暮らしていた頃ではわからなかった。この地上では、どれだけの人が苦痛と悲しみと憎悪に苛まれているのか。アレシアやカルラのように居場所を追われ、それでも諦めずに戦う人達。生きる為に、自分の居場所を見つける為に、彼らは必死に足掻いている。

 己が黄昏人と知って、争いの火種として生きることはとても辛かった。けれど、そのおかげで、その現実を知ることが出来たのだ。それはきっと、フィリアにとって必要なことだった。知らないままただ平穏に過ごすよりも、知って良かったと、今ではそう思えることが出来る。

「フィリア……」

 もうアレシアには何の言葉も見つからなかった。少女の固い意思に、これ以上何を言っても無駄だろう、と理解したからだ。

「待て、フィリア。神の真名を使えば、お前はどうなる?」

 彼女達の会話を今まで黙って聞いていたヘテイグだったが、不意に不安な気持ちになって、口を開く。少女の表情が、何か大きな覚悟を決めたような色に満ちていて。ヘテイグは確かめずにはいられなかった。

「……私は大丈夫です。それに、真名が無ければ、皆無抵抗のまま龍に滅ぼされてしまうだけです」

 真名を返しても、龍は人間を滅ぼすのをやめない。それを、フィリアは許すことはできなかった。だからもう戦うしかないのだ。


「私も一緒に戦うわ! このまま国に帰れないもの! ねぇ、お兄様もそうでしょう!?」

 はい、はい、と挙手をしながら、エレーナは壁際に立つ兄に声をかける。元気の良い妹の姿に、ルドヴィークは苦笑するしかなかった。

「そうだな。侵略しようとした我々が言うことではないが、我々にも協力させて頂きたい」

 一国の国王に相応しい威厳と優雅な所作で一礼した。帝都を荒らした一員とはいえ、多くの兵士が戦意を失っている現状ではその申し出は有難いもので、クラーヴァも不承不承頷くしかない。そして戦いに加わるのはハウメイ国だけではなく、他の国の者もいるという。フィリアも感謝を伝えた。


「あーあ、まさか覇王の剣に実体がなく、お嬢ちゃんの中にあって、他の奴には扱えねーもんだとはね。がっかりだぜ」

「シェルンさん……!」

「貴様、いつのまにここへ!」

 突然、割って入った声。いつのまに室内に侵入していたのか。部屋の端っこで壁に凭れて立つシェルンが大袈裟に肩を落として見せた。

「おいおい、俺が聖なる手であることを忘れたか。大神殿にいて何がおかしい」

 ヒユウと対峙して、瀕死の重傷を負った筈のシェルンが、今ではぴんぴんとしている。大怪我の痕などどこにも見当たらない。いつもの不敵な笑みと挑発するような口調は健在で。改めて、龍の血肉による不老不死の凄まじさを見せつけられた。クラーヴァなどは気味悪そうにシェルンを見ていたが、フィリアは彼の無事を素直に喜んだ。

「無事だったのですね、良かった……」

「は、嬢ちゃん、無理すんなや。憎悪で一杯なんだろう。あの男が憎くて、殺したくて堪らない筈だ」

 この後に及んで、自分の心配まで口にする少女を嘲るように、シェルンは笑った。凭れていた壁から離れ、ゆっくりと少女に近付いていく。

「シェルンさん……シェルンさんの力も貸して貰えませんか」

「俺が? 人間の為に? 人間共が龍に滅ぼされようが、自業自得ってやつだ。しかも、ロウティエ帝国は俺の国を滅ぼした奴らの子孫。俺に助ける義理はないね。滅んでくれれば万歳ってかんじだ」

 シェルンの言葉は、この場にいる帝国の人間の怒りに油を注ぐには充分なもので。けれど、彼らが一歩踏み出す前に、少女がシェルンの真正面に立って、言った。

「……シェルンさん、龍の血肉を得て不老不死となった貴方が、それほど覇王の剣を手に入れたがっていたのは何故ですか」

「……」

 突然の質問に、シェルンは眉間に皺を寄せた。

「祖国を、蘇らせる為ではないのですか?」

「俺の国は、とっくに砂の下だ。五百年前に滅んでしまっている。生き残りはいない。蘇らせる方法などない」

「でも、覇王の剣があれば蘇ります、そう心のどこかで信じていたのでしょう? ……滅んでしまう辛さは、貴方が一番知っているはずです。お願い、力を貸してください」

「……」

 龍に対抗するには、シェルンの力が必要だった。龍気にも負けない精神力と、不死の身体を併せ持つ彼の協力が欲しい、と少女は訴える。帝国で暮らす人たちの為に、それ以上にシェルン自身の為に、そうするのが一番良いと思った。

「ロウティエが滅びれば、貴方だって……本当はシェルンさんだって、ロウティエの滅びを願っていない筈です」

「ははは!」

 シェルンは腹を抱えて笑った。目の前の少女は、自分にどれだけ酷いことをされたのかわかっているくせに、それでもこんな能天気なことを平然とのたまう。自分への怒りや嫌悪はあるはずだ。それなのに、一抹の光を抱えて捨てようとしない。心の底から悪い存在などいないと思っているのだろう。そんな甘い彼女だからこそ、あの男に安々と心の奥底まで許して、真実に酷く傷つくことになったのだ。

 愚かだと思う。それでも、シェルンはこの笑いが嘲りからくるものではないと理解していた。

「……いいだろう。俺だって、この大地を勝手に龍に荒されるのは我慢ならねーからな。ただし」

 笑いを収めたシェルンが少女を見下ろして、その口角を歪める。

「……ただし?」

「お前が、俺のものになるのなら、俺の力、全てをお前に捧げてやる」

「なっ!? 貴様、ふざけるな!」

 声を荒げたのは少女でなく、ヘテイグだった。シェルンの胸倉を掴んで激昂するが、

「……いいですよ」

「はぁっ?」

 あっさりと了承する少女に驚いたのは、言い出したシェルンだった。ヘテイグはというと、彼の胸倉を掴んだまま、固まっている。周囲にいるアレシアやケイト達も皆、口をぽかんと開けていた。

「……本気でか?」

「はい」

 まじまじと見詰めるが、少女の様子は至って普通で、その真紅の瞳の奥に動揺のかけらも見つからなかった。いつもならば、少女は面白いほどに真っ赤になって、豊かな感情を露にしていたのに。

「おい、フィリア……」

「……っ、あんた、こんなときに、性質の悪い冗談かましてんじゃないわよっ!」

「いてっ!」

 何か言葉をかけようとしたシェルンの後頭部を思い切り殴ったのは、ケイトだった。シェルンが「このクソアマ……」と抗議の声を上げようとするが、それを無視したケイトは「あんたも、受け流しなさい!」とフィリアの腕を掴んで、ずるずると引っ張って行ってしまった。




「……あーあ、ありゃぁ、大分とやばいぞ」

「どういう意味だ」

 シェルンは掴まれて皺になった胸元を直しながら、ケイトに引っ張られて行くフィリアを見て溜息を吐いた。それを睨み上げながら、ヘテイグは怒りを押し殺した低い声を出す。

「あん? 見てわからんか? あの不自然な程までの、お嬢ちゃんの前向きっぷりを。いつ糸が切れて、壊れちまっても仕方ない状態だ。それに俺のからかいに対するさっきの反応……おかしすぎるだろ」

「……」

 ヘテイグはぐ、と拳を強く握り締める。それは言われずとも、ヘテイグにもわかっていたことだ。そして、その原因も痛い程にわかっている。わかっているからこそ、ヘテイグにはかける言葉すら、出てこない。

「……ヒユウ様はフィリアを愛していた筈だ」

 なのに何故。ヘテイグはいまだに信じられなかった。この状況を。とっくに少女は理解して、そして向き合っているというのに。否、そう見せているだけかもしれないが。

「愛、ねぇ……」

 シェルンは、く、と笑いを噛み締める。

「なぁ、愛とは何だと思う?」

「冗談を言ってる場合か」

 茶化されたと思ったヘテイグに思い切り睨みつけられたが、シェルンは頭を横に振った。

「違う、真面目な話だ」

「真面目?」

 意味がのみこめないヘテイグから視線を外して、シェルンは遠くを見詰めるように目を細めた。

「差別だ。誰よりも、何よりも大切で、世界全てとたった一人の娘の命が天秤に釣り合う。不公平な区別だ。愛は、全てを不公平にしてしまう。ゆえに神より優先すべき存在を持つことを、龍は許されていない」

「!」

「禁忌なんだ。神の一部である龍が、神のひとり子である人間を愛することは」

「それは……ヒユウ様は……」

「……仮にそうだとしても、あいつは認めないだろう。認めたときが、奴の最期になる。神より大切な存在を持った龍はその存在意義を奪われて、消滅する。それが決められた定めだからな」

 フィリアはアレシアやケイトと話している。おそらく、今は休めとか色々と気遣いの言葉をかけられているのだろう。その気遣いに困ったように笑う少女を視界の端に納めながら、シェルンはヘテイグの様子を窺う。ヘテイグは茫然と、シェルンの言葉に耳を傾けていた。

「俺は知ってるんだ。だから今まで、何度も忠告もした。あの男は諦めろと」

 フィリアだけでなく、サラにも忠告してやった。それは紛れも無く、シェルンの親切心からだったのだ。

「もうお前しか、フィリアを支えられるのはいないんだ。いい加減、あの男が戻ってくるだとか幻想は抱くな」

「……」

 つまるところ、ヘテイグは自信がなかったのだ。自分では彼女を幸せに出来ない、と。だから、ヒユウに彼女の幸せを託していた。頼っていた。けれど、もう二度と、ヒユウが戻ってくることはない。それを突きつけられて、ヘテイグも覚悟を決めるしかなかった。





 + + +






「ヘテイグ様、どこに行かれるのですか?」

 部屋から退出した少女を連れて、ヘテイグは奥へと歩き出した。首を傾げてそう問う少女は、真剣なヘテイグの様子に戸惑いながらも、拒むことが出来ず、言われるがまま彼のあとをついて行くしかなかった。

「フィリア、お前は戦わなくていい」

 かつかつと響く音が止み、前を歩いていたヘテイグが振り返るなり、そう言った。瞬きを繰り返したフィリアだったが、彼が自分一人だけをわざわざ連れ出したのは、戦おうとする自分を説得する為なのだと理解して、首を横に振る。

「……ヘテイグ様、その話ならば先程言ったとおりです」

「お前には無理だ。わかっているのか、相手はヒユウ様だぞ? ヒユウ様と戦うことなど、お前に出来るわけがない!」

 もう、それしか方法が無い。覚悟は決まっているのだと少女は強い口調で返すが、ヘテイグも負けじと真剣に言葉をぶつけてきた。歳はそう変わらない筈だが、さすがは黒印魔法騎士団副官として生きてきたヘテイグの気迫は強くて。フィリアはたじたじになってしまう心を叱咤した。

「だ、大丈夫なんです、それに私の真名がないと、皆が殺されてしまうだけ……それだけは嫌です!」

「たとえ他に方法がなくとも、俺はお前には戦って欲しくないんだ」

「どうして……」

 帝国を守る騎士として誇り高いヘテイグがこれほどまに頑ななのはらしくない、そう思ってフィリアは彼を見上げる。視線が絡み合って、一瞬、ヘテイグの表情が緊張したかのように、強張った。

「……お前のことが好きだからだ」

「!?」

 フィリアは目を丸くする。一瞬、聞き間違えかと思ったが、ヘテイグは真剣な表情でもう一度、同じ言葉を繰り返した。

 ヘテイグ様が、私のことを好き?

 呆然とヘテイグを見上げる。目を逸らすことも許されない、痛い程に注がれる強い視線に、少女は頬にかっと熱が集まるのを自覚した。

「……わ、私……っ……」

「言わなくていい。お前の気持ちはとっくに知っているからな」

「……え……?」

 どうして、と少女の目が訴えてくる。これでも、少女は己の気持ちを隠しているつもりだったのだろう。ヘテイグは少しおかしそうに笑った。傍から見ると、切ない笑みではあったが。

「いつからかは、よくわからない……最初は、敵としてしか見えてなかった。だが、今は違う。ヒユウ様の命令だけで、お前を守っていたわけじゃない。俺自身が、何よりお前を守りたいと思ったからだ」

「ヘテイグ様……」

 信じられなかった。今まで、フィリアはヘテイグには嫌われていると思っていた。初めて出会ったときの剣を向けてきた彼の印象が強く残っていたせいもある。何より、彼の敬愛するヒユウの地位と名誉を汚したのは自分のせいだったから。だからずっと恨まれていると思っていて、当初よりは少しは和らいだかと思うけれど、ヒユウの命令で仕方なく守ってくれているのだと思っていた。だから、すぐには彼の言葉が信じられなかった。でも、ヘテイグの真剣な表情が、嘘を言っているのではないとフィリアに伝えてくる。

「これからもお前を守る。守らせてくれ。自分を追い詰めるお前を見ていられない……お前が戦う必要なんてないんだ」

「っ……」

 ふわり、と抱き寄せられる。フィリアが瞬きを繰り返したあと、視界は彼の漆黒の騎士服で一杯になっていた。

 温かい。

 彼の温もりも、彼の言葉も、優しさと少女を慈しむ温かさに満ちていて。このままこの温もりに身を任せることが出来ればどれだけ楽だろうか。じわり、と少女の眦が滲んだけれど。

「……っ、は、なして……!」

 思わず、フィリアはヘテイグの腕の中からもがいて、離れた。そのまま、廊下を走る。彼は、追ってこなかった。

―― 優しさが、辛い。

 どうして。違う。私はそんな風に想って貰えるような人間じゃない。臆病で、弱くて、脆くて、それなのに皆を巻き込んでしまっていて。誰も助けられない。皆の命が、盾になろうとしている。もう嫌なのだ。これ以上は、耐えられない。もうたくさん。

 お願い。誰か、私を…… ――


「きゃあ……っ」


 べしゃり、と大理石の床に躓いて、転んでしまう。強かに額を打った少女はその痛みよりも、胸の痛みの方が強くて、それが辛くて、床に顔を埋めて泣いてしまった。

 どうして、皆こんなにも優しいのだろう。

 今の自分は、その優しさを受け止めきれない。そんな資格などない、と心の奥底から声がする。罪悪に塗れた心が望んでいるのは一つだけだ。

「フィリアおねーちゃん、大丈夫?」

「……っ、テイルさん?」

 フィリアはがばり、と起き上がった。いつのまにか、テイルが心配そうに少女を見下ろしていて。転んだあげく、そのまま泣いていたのを見られてしまって、羞恥で穴があったら入りたいと少女は思った。

「だ、大丈夫です……」

 真っ赤な顔で、差し伸べられたテイルの手をとって、立ち上がる。「ありがとうございます」と礼を言って少年の手を離そうとしたが、少年の手の力が強まって、それを許さなかった。

「テイルさん?」

「おねーちゃん、こっち来て!」

「えっ、わ……っ!」

 突然、くんと腕を引っ張られ、そのまま少年は駆け出した。少年の突然の行動にフィリアは為さるがままだった。思った以上の速さに、足が縺れそうになってしまう。

「テイルさん、どこに行くの……!?」

「見えたの!」

「み、見えたって……」

 何が、と問い終える前に、少女は自分を取り囲む光景に目を丸くするしかなかった。大神殿の中にいた筈なのに、銀色の光が高みの窓から降り注ぐ広い廊下を走っていた筈なのに、気がついたら、真っ白な空間の中だったのである。

「え……?」

 一体、何が起きたのか。少年の華奢な背中に尋ねようとしたとき、ようやく速度が落ちて、小走りになる。少女の手首を掴む少年の力は、意外と強く、何故だか振り払う気も抗う気も起きなかった。ぽかんと真っ白な空を見渡しながら、素直に彼についていくと、とあるところで少年の足が止まる。

「! レムングスさん!」

 獅子に似た獣。フィリアが支配している獣が白い世界の中、黒い影を落して、ちょことんと座っている。黄金の隻眼が、こちらを見ている。今まで何度か彼の名を呼んでも、来てはくれなかった。きっと、彼は自分を嫌いになっただろう。嫌われて当然のことをしてしまったのだから、仕方ないのだけれど。

「ごめんなさい……どれだけ謝っても足りませんけれど……。私は、貴方を裏切ってしまった。あんなにも優しい貴方を汚してしまった……ごめんなさい……」

 どれだけ詰ってくれて構わない。むしろ、そう望んでいた。彼には一番その権利がある。フィリアの弱さを詰って、責めて欲しい。

 今まで、どれだけの人を巻き込んでしまっているのか。メイリンもハデスも、自分と関わらなければ、あんな酷い最期を迎えることはなかった。なのに誰も自分を責めることはなくて。戦えない非力な自分を疎ましがるどころか、その命を賭けて守ろうとしてくれる人達。その優しさが、今のフィリアにはかえって辛かった。

 レムングスはこちらを見つめるだけで、動かない。フィリアも一歩も動けなかった。一歩でも動けば、今にも背を向けてどこかへ消えてしまいそうで。

「……彼が今まで姿を見せなかったのは、君が彼を拒んでいたからだよ」

「え?」

 ぐるぐると考え込んでいた少女はテイルの言葉に瞼を上げる。

「そんな……違います。私は拒んでなんか……」

 確かにハデスを殺されたとき、フィリアは願ってしまった。見たくない、と。でもすぐに後悔して、それからずっとレムングスを呼び続けていたのだ。そう少女は訴えたが、少年は、その小さな肩を竦めてみせるだけで。ちらり、と黄金の獣を見遣った。

「ずっと彼は君の近くにいたよ。傍にあろうと決めているんだって」

「傍に……?」

 茫然と鸚鵡返しに呟く少女に、そう、と少年は頷いて言った。

「……君の心は、俺の心でもある」

「え?」

「そう言っているみたいだね」

「ど、どうしてわかるのですか?」

 まるでレムングスの声が聞こえてるかのように、視線のやりとりを交わす彼らに、少女は驚愕した。物言わぬ獣となってしまったレムングスの言葉が、何故テイルにはわかるのだろう。しかし、テイルはその疑問に答えてはくれなかった。

「彼は確かに君の鏡だ。向き合うべき、己の姿だ。けれど、自分と向き合うということは、己の罪を見つけて裁くことではない。罰を与えることでもない。……君は、罰されたいのだろうけれど」

 誰かが、罰してくれるのを待っている。

 龍達の襲来も過酷な運命も、君は自分の弱さゆえに与えられた罰、報いなのだと思っているのだろう。

 テイルは少女を見詰めながら、静かに言った。凪いだ静かな瞳の色。心の奥まで見透かされるようなそれに、少女は息を呑んだ。

 向き合わねば、レムングスは戻らない。そう、ハデスは言っていた。けれど、向き合う、ということが少女にはよくわからなかった。ただ、周囲にいる者を死の淵へと巻き込む自分の存在が呪わしかった。皆を不幸にして、まるで皆の生命を吸い取っているかのように、自分だけ生き残っている。それはフィリアが弱いから。弱いから、戦えないから、フィリアの代わりに皆が戦って、フィリアの代わりに死んでしまう。誰よりも、自分を恐ろしくて忌まわしい存在と厭っていたのは、フィリア自身だ。心のどこかでずっと、罰して欲しい、いつか報いが来るのだろうと思っていた。龍の襲来も、フィリアに与えられた罰なのだろう、と。

「私は、どうすればいいの……? どうすれば、レムングスさんは戻ってくるの……?」

 罪には罰を。報いを。

 それを受け入れれば、己が背負う筈だった罪を被せ、そんな自分を見るのが怖くて遠ざけてしまったレムングスが、戻ってくると思っていたのに。

 フィリアの迷いに揺れる真紅の瞳を、少年は見詰めながら、

「……たとえ君が君を赦せなくても、俺の心が永遠に君を赦すだろう」

 獣の心の言葉を、言葉を失った獣の代わりに少女に届けた。

「レムングスさん……」

 腰を下ろして座る黄金の獣へと、そっとフィリアは手を伸ばした。おそるおそると、じっと少女を見詰める隻眼から、逃げ出してしまわないと確信できた少女は、飛びつくように両手を鬣に回して抱き締めた。柔らかな黄金の毛に顔を埋めて、久しぶりのぬくもりに、少女の目の奥がつんと痛んだ。

「弱さを罪だとして、罰して欲しいと願っている君に罰を与えても意味は無い。君に必要なのは、弱さからも目を逸らさずに受け入れる覚悟だよ。そうじゃないと、レムングスは君のところへ戻れない。彼は、君に真名を捧げた瞬間に、君の弱さも罪も受け入れていたのだから。今度は、君の番だ」

「受け入れる……」

 弱い自分を?

 周囲を巻き込んで、何も出来ない自分を受け入れることが、フィリアにとって一番難しい。なお躊躇する少女を、少年は目を細めて見る。

「君は、他人の弱さを受け入れることは簡単なのにね……」

「テイルさん……」

「弱さを持たない人なんて、いないよ。フィリア」

 そして、罰として、罪の報いとして、苦しみを与えたことは無い。それをわかって欲しいんだ。

 その呟きは小さく、獣に顔を埋めて泣く少女に届くことはなかった。




「さあ、行こうか」

「ど、どこへ?」

 少年がそう言うや否や、戸惑う少女を置いてどこかへと進み出した。それまで大人しく少女の傍にいたレムングスも、彼のあとを追って歩き出す。フィリアは慌てて立ち上がって、二人のあとについて行くしかなかった。前を向いて少年の先を目を凝らして見るが、あるのは霧が漂う薄暗い闇だ。

「テイルさん……?」

 彼の幻なのだろうか。なんとなくそう思いながら、しかし何故こんなものを見せるかわからず、首をひねる。大人しくついていくレムングスは、ここが何処か、わかっているのだろうか。何度かここは何処なのか尋ねてみても、少年からの答えはなくて。ふわりと、妙に大人びた笑みの彼が振り向いて、再び少女の手を取るだけだった。

 それから、どれくらい歩いたのだろう。急に、少年はその足を止めた。前を向いたまま、立ち止まってしまった少年の様子を少女は窺う。じっと宙を見詰めていた少年は少女の手首を掴んでいた手を離すと、両の手で前方を探り始めた。何も無い空間。しかし、そこを探る少年の手が何かに阻まれる。

「壁……?」

 透明な壁、が少年の目の前にあるようだった。どれだけ目を凝らしても、何も見えない。だが、手を前に突き出すと、ぺた、と壁のようなものにぶつかってしまう。まさに透明な壁、と表現するしかなかった。

 この先は行き止まりのようだ。どうするのだろう、と疑問符を浮かべる少女を、テイルは呼んだ。

「おねーちゃん」

「はい?」

「この先に、行ってみて」

「え? で、でも……」

 先程の少年の様子を見るに、透明な壁のようなものが阻んで、通れないのではないか。否、そもそも、どうしてこの先を行けと言うのか。さっぱりわからないフィリアに対して一言の説明もせずに、少年は何度もお願いする。何故そんなに必死にお願いするのかわからずに、けれど素直な性質の少女はそれにすんなりと従った。本当に壁があるのか、自分の手で感触を確かめたかった、というのもある。手探りで前へ進もうとするが、

「だ、駄目です……」

 やはり、少年と同じように目の前に壁があって、少女は一歩も前へ進むことは出来なかった。何度も探るが、やはり通れるような場所はなくて。途方の暮れたような目で、隣に佇む少年を視線を落とす。

「……ね、おねーちゃんは、あの黒騎士のおにーちゃんのことが好き?」

「っ?! い、いきなり、何を……!」

 何の脈絡もない質問に少女の心臓は飛び上がった。うろたえた心を必死に抑えながら、フィリアは少年に抗議する。からかわれたのだと思ったのだ。今のフィリアに対してその質問は限りなく意地悪ではないか。そんな抗議も含めた視線をぶつけてみるが、少年の表情からは、あくまで真剣な色しか見えなかった。決して少女をからかうようなものは含まれていない。ただ純粋に、少女の気持ちを知りたいという切望の色が、浮かんでいた。

「……あ、あの……テイルさん……?」

「お願い、教えて欲しいんだ」

「……」

 フィリアは困惑するしかなかった。しかし、少年の真剣な表情が、いつもとは違う有無を言わさない声色が、少女の心の奥底にある言葉を引き出そうとする。

「……好き、です……」

 たとえ、ヒユウが龍族で、自分を憎んでいた、監視していたのだとわかってしまった今でも。自分でも驚くほどに想いは消えなかった。きっと、彼と過ごした日々が、自分の根幹と呼べる部分を築いてきたからだ。今のフィリアという存在は、ヒユウがいなくては、ヒユウと過ごしたあの幼い日々が無ければ、ありえなかった。彼を否定すると、今までの自分全てを否定した気になってしまうから。だからなのだろう。そしてそれ以上に、幼い頃からずっと温めてきたこの想いを、そう簡単に消せるならば苦労はしない。もう自分でも、どうすることもできなくなってしまっていた。

 本人を目の前にしたわけではないのに、どうして、こんなに緊張するのだろう。頬を紅潮させる少女を見て少年はふわりと微笑んだ。そして、すっと人差し指を前方へ突き出す。

「え……」

 入れた。

 いつのまにか、フィリアは壁の向こうへと入っていた。驚いて、少年に向き直る。透明な壁が少年の姿を少しぼやけさせた。

「入れました、テイルさん。テイルさんも……」

「ううん、僕はいいの。僕が入るのは、とても大変だから」

「どうして……レムングスさんも入れたのに」

 隣を見ると、いつもの定位置にちょこんと獣がいて、フィリアを見上げている。彼もいつのまにか透明な壁をすり抜けていたのだ。

「……彼の心は、君の心でもあるから。だから、その壁を通れる」

「どういう意味ですか?」

 何故それが、この壁を通り抜けられる理由になるのか。フィリアはテイルに問うが、やはり少年から答えは得られなかった。

「おねーちゃん、その先に進んでいくと、光が詰まった、硝子玉があるの。それを割って」

「硝子玉?」

「いいから、行って」

 少年の言葉には有無を言わせないものがあった。少年の言われるまま進むと、確かに先には淡い光が詰まった、硝子玉があった。その光に吸い寄せられるように、フィリアはその玉を両手で持ち上げる。ずっしりとした重さ。ちょうど、両の掌に納まるほどの、大きさだった。

「地面に落して、叩き割って!」

「えっ、で、でも」

 後方から届いた少年の声に、フィリアは躊躇する。掌に視線を落して、そこに納まった硝子玉の光に見入った。こんな綺麗な硝子玉を割ってしまうのは、気が引けた。ずっと、このまま見ていたいくらい、とても美しい光なのに。

「早く! 早くしないと、見つかってしまう!!」

 少年の焦る声に、即座に反応したのはレムングスだった。それまで大人しく少女の足元でじっとしていたのだが、突然、少女の裾を口に咥えて引っ張ったのだ。それによって体勢の崩れたフィリアの手から、硝子玉が滑り落ちる。あ、と声を上げる間もなく、硝子玉は真っ直ぐ下に落ちていった。

「きゃ……!?」

 硝子の破片が、砕け散る。飛び散る。中に詰まっていた光が、飛び出した。小さな硝子玉に入っていたとは思えない程の膨大な、光。それは少女の視界を一瞬で埋め尽くした。





 ざあざあ、と雨が降っている。

 湿った雨の臭い。それに混じった鉄の臭い。

 ああ、これは夢だ。あのときの記憶なのだと、フィリアは気付いていた。気付きながら、フィリアはこのまま目が覚めなければ良いと願っていた。

 その雨の夜。フィリアは何故か、深夜に目が覚めた。

 どくどくと高鳴る心臓、そして背中を伝う汗。悪夢を見ていたのだろうが、起きたら覚えていなかった。寝台から起き上がって、すぐ傍にある窓のカーテンを開く。雨音が、一層強く少女の鼓膜を打った。鼓動は収まるどころか、強くなって、少女はハデス司祭のところへ行こうと思った。また子供のようだと笑われてしまうが、それでもこの不安が鎮まるならそれでいい、と思ったのだ。

 ぺたぺた、と裸足の音が教会の廊下に響く。ふと、廊下の窓から外を窺ったのは、なんとなくだった。そこからは、教会の庭で育てている薔薇園、そして入り口を見渡せた。その入り口付近に、降りしきる雨の中、黒い人影が立っていた。少女は驚いて、反射的に駆け出していた。はっきりと見えたわけではない。雨と霧がその影をぼやけさせて、とてもではないが、誰なのか判別できるものではなかった。けれど、少女にはわかった。それが、少女がいつも会いたいと思っている相手なのだと ――





「フィリア、テイル! 大丈夫か!?」

「……アレシアさん?」

 少女が瞼を上げると、アレシアが焦った様子で少女の身体を揺すっているところだった。

「ん~?」

 横で仰向けに倒れていたテイルも、眉間に皺を寄せて唸る。覚醒が近い証拠で、アレシアはほっとした様子で肩の力を抜いた。

「一体、どうしたんだ。こんなところで二人とも気を失ってるなんて。レムングスも戻っているし……」

「廊下……?」

 気がつけば、フィリアとテイルは大神殿の廊下に倒れていた。少女の傍ではレムングスがちょこんと座っていたのだという。心配そうにアレシアが声をかけてくるが、少女の頭は混乱してそれどころではない。

「あれぇ? 何で、僕こんなとこいるんだろ。部屋で寝てた筈なのに」

 立て続けに力を行使したテイルは大神殿の一室で身体を休めていたのだ。それがいつのまにか、こんな廊下の真ん中で寝ているなんて、と本人も疑問符で頭が一杯だった。そして、少年の発言に、更なる疑問符を与えられたのは、フィリアだ。

「テイルさん? 覚えていないのですか?」

「え? 何が? どうしたの、フィリアねーちゃん。あっ、レムングスさんだ! 戻って来たんだね、良かった!」

「テイルさん……私を呼んで、いきなり走り出したんですけど……そしたら」

 いつのまにか、変なところにいて。そこにレムングスさんがいて。テイルが彼を見つけてくれたのではないのだろうか。でも、彼を見ると、レムングスが戻ってきたことに全く関与していない様子で。

 無邪気にレムングスの毛並みを撫でているテイルに対して、フィリアはどう言っていいのかわからなかった。

「え? そんなことしてないよ、僕。だって、ずっと部屋にいたもん!」


 目が覚めたテイルは、何も覚えてはいなかった。








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