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「さて」
男が立ち上がると、古い木椅子が倒れて転がった。一歩足を踏み出す毎にみし、と音が鳴る、年季の入った家から外へと出る。目の前は赤茶けた、潤いの失った土地と、相変わらずの灰色の空が広がっていた。
エウノミア。かつては、楽園とまで称された祝福されし大地だったが、今や見る影もなく。
古い時代に大罪を犯して、神の呪いを受けた者の成れの果て。瓦礫の続く谷の奥から、悲しげな狂人の叫びが届く。今日も、明日も、これから先もずっと続くのだろうそれを、この地の番人として聞いてきたヴェルンヘルは、頬に走る古傷を指先でそっとなぞった。五百年前の戦いで、負った傷。それをなぞるのが、いつのまにか彼の癖になっていた。
「感謝しろよ、狂う前に殺してやるんだからな」
目を凝らしてみれば、遠い空の向こうでは、雷鳴を孕んだ黒雲が渦巻いていた。黒雲を背に、ぽつ、ぽつ、と銀色の光が灯り出す。エーテルの雫が、結界を解かれ外部の世界との壁を失くしたこの土地まで、風に運ばれてやってくる。
やっと、彼の待ち望んでいた時が訪れたのだ。
それまで、この地で忌まわしき者達の滅びを眺めゆく様を見る役目を請け負っていた。自ら、志願した。彼らの滅びをこの目で見届けるのだとヴェルンヘルは言った。時折は、龍議りの為に天上に帰ってはいたが。
この地上で、今までどれだけの龍が犠牲になったのだろう。大切な友人も、人間の為にその身を投げ出した。地位も名誉も汚され、力も利用され、血肉さえも奪われた。何故、止められなかったのか。それが今でもヴェルンヘルの心に刺さって、抜けない棘となっている。
「ジルフィースト……お前の息子を、お前と同じ目には遭わせない」
今度こそ、同じ過ちを繰り返しはしない。その為ならば、何でもしよう。
「貴様らに、あいつまで捧げるわけにはいかねぇんだ」
赤茶けた大地を睨みつけたヴェルンヘルの目は金色に変じていた。激しい怒りを孕んだその色が、彼の本来の力を解放させる。
「もう滅びを待つ必要は無い。今、このとき、貴様達はこの呪われた地とともに沈むのだ!」
+ + +
「龍王の真名……?!」
「そう、龍王とはお前達が崇める創造神、この大地を創りし主だ。その真名を、お前の始祖が奪った。今では、お前達の間で、覇王の剣と呼ばれているようだがな。それこそ、お前達黄昏人が神の怒りに触れた原罪だ」
覇王の剣 ―― それが、龍王、この大地の創造神の真名のことだった。それを黄昏人の始祖が奪って、今では、フィリアの身に宿っているという。
それが、原罪。フィリア達黄昏人が、祝福を失った理由。
「あの時より、王は浅い眠りを繰り返し、大地は緩やかなる死へと向かっている。同じ世界に暮らしていた人間と神は分かたれ、永遠に同じ地に立つことはない。元は同じ人間であったお前達が二つの種族となり、互いに呪い、憎しみ合うようになった」
古き時代。黄昏人という一族はいなかった。言霊も彼らの身の内にあり、全て等しい人間しかいなかった。そして、エウノミアで、人間と神は暮らしていたのだという。憎しみ、苦しみの無い、楽園の時代。楽園の崩壊は、ある人間が神の真名を奪ったが為に始まった。
そしてそのときに、言霊を持ったままの黄昏人と、言霊を失った人間が生まれたのだ。神は地上から去った。
ヒユウが、ゆっくりと近付いて来る。一歩近付く毎に、フィリア達を支配する金縛りは強くなった。誰もが、目を見開いたまま、瞬きすらままらない。
フィリアのすぐ前、あと五歩程度の距離で、男は足を止めた。青空を映した双眸が消えて、別人のようになってしまった男がフィリアを見る。金色の、冷然とした視線がフィリアを縛る。
「我らが王よ、全てを創り給うた主よ……永き眠りから解き放たれよ」
「ヒユウさ、ま……」
震える声で、名を呼ぶ。
まだ、信じられない。見慣れた姿、聞き慣れた声。会いたくて、無事を確かめたくて仕方なかったというのに。これは、夢なのだろうか。そうだったら、どんなに良いか。けれど、少女の逃避を男は容赦なく、切り裂いた。
「それは俺の本当の名前ではない。地上に降り立ったときに便宜上与えられた、人間の名前だ」
「!! あなた、は……ヒユウ様ではないの……? いつから……」
「最初からだ。お前の母に呼ばれ、地上に降り立ったときに、俺はヒユウ・イル・リューシアという、人間としての存在を与えられた。暫くはお前を守れ、という王の気紛れな命令によってな。お前の知っている男は、偽りの存在だ。最初から、存在しない」
「……!」
最初から、フィリアの知っているヒユウという存在はいない。偽りなのだ。そう、本人からはっきりと告げられて、少女は言葉を失った。
では。今までの日々は何だったのだろう。フィリアが信じていたものは。想っていたものは、偽りだったのだろうか。
「……っ!?」
そのとき、大きな地響きが帝都を揺らした。帝都だけではない、この大陸全てが揺れている。それほどに大きな、轟音だった。
内乱によって築かれた瓦礫に亀裂が幾筋も走る。崩壊しかけの家屋が、崩れ行く。今まで味わったことのない、地面の揺れ。とても立っていられなくて、フィリアはよろよろと尻餅をついてしまった。アレシアやヘテイグ達も、剣を杖にして何とか立っている状態だ。
「な、何だ、地震か?!」
金縛り状態だった為、上手く動けず、しかし精一杯の力を振り絞って剣を杖にして立っていたクラーヴァは空を見上げた。相変わらず、空は銀色の龍によって支配されている。頬に舞い落ちるエーテルの雫を、うっとおしそうに払った。
ロウティエ大陸では、地震はとても珍しい。南の方では、時折起こるようだが。安定した地盤に支えられたここロウティエでは滅多なことでは起こらないのだ。だからこそ、クラーヴァは焦った。何か、とんでもない不吉なことが今、この地上で起きたのだと。
「今、エウノミアが沈んだようだな」
「!?」
何でもないことのように平然とのたまうヒユウに、フィリア達は耳を疑った。
大分と鎮まったが、それでも揺れはまだ少女達の足元を揺らしている。この揺れが、エウノミアを沈んだ音だというのか。
狂人の叫びと、滅びをただ待つしかない諦念に満ちた、枯れた大地。少女の、生まれた故郷。
それが、地上から失われてしまった。もう二度と、あの大地に足をつけることはない。フィリアは茫然と尻餅をついたまま。
「黄昏人は全て滅ぼさねばならん。二度と、過ちを繰り返さぬように。さあ、次はお前の番だ。かつての楽園を統べる長よ」
ヒユウの金色の視線が、フィリアから近くにいた老人へと移る。
殺意。それを感じ取ったフィリアは、悲鳴を上げる。金縛りと、地震への恐怖に身が竦んで、動けない。尻餅をついたまま、横に棒立ちとなっている老人に向かって、逃げるよう叫んだ。
「や、やめて……! 大叔父様!」
「……神は、今でも我らを憎んでいるのか」
老人は怯えながらも、口調は落ち着いていた。静かな眼で、天にいる龍の軍勢を見詰める。ヒユウからの答えは、沈黙のみだった。それを老人は肯定と受け取った。
「ならば、我らはそれを受け入れよう。我らの滅びしか、怒りを静める方法がないのであれば、喜んでこの命を差し出そう」
いつ断罪の日が来るか、狂う日が来るのが先か、怯えながら無為に過ごすより、いっそこの胸に刃をつきたてて息の根を止めて欲しい。彼らにとって、死より、生の方が苦痛だったのである。
「駄目、大叔父様を殺さないで……!」
老人とヒユウの間に割って入ったフィリアが、両手を広げてヒユウの目の前に立つ。いつのまにか、少女を支配していた金縛りは解かれていた。老人がヒユウに殺されてしまうかもしれない。そう思った少女が無我夢中で、龍に対する恐怖から成る金縛りを振り払ったのだ。
「フィリア、庇うな。我はこれでいいのだ」
「嫌です、せっかく会えたのに……!」
実の両親は既に死んでいない。フィリアと同じ血が流れる、肉親と呼べる存在は、この老人以外にはいないのである。諦めていた、血の繋がり。最果ての地で、それをやっと見つけたというのに。たとえ、実の両親を死に追いやったのが彼だったとしても、それでもフィリアは嬉しかった。もうこれ以上、失いたくない。それもよりによって、ヒユウの手でなんて。
目の前に立つ男を見上げて、無駄だとわかっていても、懇願するしかなかった。
「お願い、大叔父様を殺さないで……」
「……言っておくが、次はお前だ。その男の命乞いをしている場合ではないのではないか?」
「ヒユウさ……」
ひやり、と心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が少女を襲う。これほど冷たいヒユウの声を、少女はぶつけられたことがなかった。彼の言葉は本当だ。そこに含まれた殺意は、そういったものに疎い少女の肌すら鋭く突き刺さる。痛みに、少女の顔が歪んだ。そしてその殺気が、ヘテイグを金縛りから解き放つ。
「ヒユウ様!」
今まで呆然と、ヒユウの金色の瞳に射竦められていたヘテイグは、少女を殺気から守るようにして剣柄に右手をかけた。その手は微かに震えている。いまだ、敬愛する上司の裏切りが信じられず、剣先を向けることに葛藤していた。
「ヒユウ様は以前、俺に仰られた。何の為に剣を振るうか、お前が決めろ、と。既にヒユウ様の敵は決まっている、と……! ヒユウ様にとっての敵は、フィリアだったのか?!」
ケルジャナ砂漠での戦い。そのときにヒユウに告げられ、ヘテイグの決心は固まったのだ。ヒユウの守りたいものを、自分も守りたいと。いつからかそれは、自分自身の守りたい存在となっていったが。それでもあのときの彼の言葉が無ければ、今のヘテイグはなかった。
「そうだ」
「違う、俺は信じてはいない! ヒユウ様、目を覚ましてくれ!」
ヒユウは鼻で笑った。そして、剣柄に手をかけたまま身動きできないヘテイグのその右手首を掴む。
「!」
ぎょっとするヘテイグを見下ろしながら、ヒユウは掴んだ手首を手前に引き上げた。抵抗を許さない強さに、ヘテイグの右手とともに鞘から抜かれた剣が、ヒユウとヘテイグの眼前に剥き出しになって光る。刃の両面に映る金色の瞳と黒色の瞳が交差した。
「覚めたからこそ、俺はここにいる。……言っただろう、俺の道も、敵も目的も、最初から決まっていると!」
「ヒユウ様……!」
苛立ちの込められたヒユウの言葉。躊躇するヘテイグを嘲笑うかのように、無理やりに引き抜かれた、剣。
嫌だ、信じたくない。そう叫びたかったが、すぐにヒユウの視界からヘテイグが消えた。ヒユウが、ヘテイグを突き飛ばしたのである。背後にある壁に強かに頭を打ったヘテイグは、何が起きたのかすぐに理解することは出来なかった。
激しい剣戟の音が鼓膜を突き破るようにして響く。はっとして、ヒユウのいた場所を見ると、彼が誰かと剣を絡ませているのを見つけた。
ヒユウと剣を絡ませていたのは、シェルンだった。
「やぁっと、本性を現しやがったな! 龍の騎士よ!」
「龍気を当てられても動けるとは……そうか、お前には龍の血が流れていたな」
言霊を有する黄昏人ならばともかく、通常の人間では、龍を目の前にすると、蛇に睨まれた蛙のごとく、金縛り状態となってしまう。それは、龍の発する気 ―― 精神的圧力が肉体にも影響を及ぼすほどに強力だからだ。龍気に当てられた人間が、金縛りを解くには強い意思が必要だった。しかし、シェルンは最初から物ともしていない。軽々と瓦礫の山から跳んで、ヒユウの背後を狙ってきた。
「……尽きぬ欲望に身を落し、龍の血肉を食らい、不死を得た罪人め。貴様の存在を、俺は許すことはできない」
目の前に立ちはだかる男こそ、父の血肉を食らい、不死を得た卑しき存在だ。
無念でなかった筈がない。
父は人間を守る為にその身を犠牲にしたというのに、戦いに傷つき、弱った身体は、人間の卑しい欲望でもって、食い尽くされた。龍の血肉は、人間に不老不死を与える。それを知った人間達は容赦なく、恩人である父に恥辱を浴びせた。最期まで人間を守った父はその守るべき対象に血を啜られ、 肉を食われたのだ。
そんな最期を望んでいたなど到底思える筈もない。
彼の無念を継いで、彼の果たせなかった使命を果たす為に自分はここにいる。
この男だけはこの手で滅ぼす。再生する間もなく、滅ぼし尽くす。ヒユウはそう決めていた。
「っ……!」
ヒユウを取り囲む鎌鼬が刃となって、シェルンの衣服、皮膚を切り裂く。それは不老不死ゆえにすぐに再生するが、再生するより多く、風の刃が傷を増やしていった。不死の身体とはいえ、痛みが無くなったわけではない。鋭利に切り裂かれる痛みに顔を歪めたシェルンは、絡ませていた剣を薙ぎ払い、後ろに跳んで、それらの攻撃から避難した。
頬に走った傷から、鮮やかな赤い血が伝う。それを舌先で舐めて、シェルンは皮肉めいた笑みをのせた。
―― 王子。もう、この国は終わりです……ですが。
冷え切った頭に、低く祈るような声が、蘇る。
「……周りの誰を犠牲にしても、大切な者でさえも踏み台にして、どんなことをしても生きねばならない。死ぬことを許されない、それがどういうことかお前にはわかるまい」
無表情のまま立つヒユウに向かって、唾棄するようにシェルンは吐いた。
―― シェルン王子。あなたがいれば、この国は滅びません。さあ、この血をお飲みください。
差し出された杯には、真紅の液体が入っていた。龍の血肉だ。不死か、死。そのどちらかを齎す、猛毒の液体。それを、シェルンは受け取った。受け取るしか無かった。
―― あなたは生きねばならない。生きて、我が王国を再興するのです。
滅び行く中、己を取り囲む民達の祈りは呪詛のように、シェルンの身体を包む。それが、龍の血肉が齎す激痛に打ち勝つ為の、源となったのだ。
「その為ならば、俺は泥水を啜り、神である龍の血肉を食らってでも、生きてやろう!」
もうシェルンの国は、無い。シェルンただ一人を残して、滅びてしまったのだ。五百年前の大戦、エルカイル率いる連合軍によって。そして、不老不死を与える猛毒の血肉を持つ、龍によって。
再び目が覚めたとき、己を取り囲むようにして祈ったまま命尽きた、民の死体だけがあった。
ああ、勝手だ。
勝手に希望を託して、毒を飲ませて、孤独の闇に突き落として、それでも生きろという。民全てを失くして、再興することなど不可能だ。どれだけの孤独と憎悪に心を苛まれても、欲望尽きぬ人間の姿に絶望しても、死ぬことは出来ない。永遠に滅びてしまった祖国に対して、彼がたった一つしてやれることが、自身が生きることだったのだから。
「俺には失うもんなんて、何一つ残っていねぇ。俺の祖国を奪った帝国が滅ぼされようが、どうでもいい。だが今更、人間を見捨てたお前達龍に、この大地を勝手に踏み荒されるのは我慢できねーってやつだ!」
「シェルンさん……ヒユウ様……」
幾筋も亀裂の走った大通りの上に、フィリアは虚脱してへたりこんだまま。大量の龍気によって、アレシアやクラーヴァでさえも身動きが出来ない。そんな状況の中、シェルンは愉悦の混じった様子で、ヒユウとの剣戟を繰り返していた。
龍の血肉によって不老不死となった彼は強い。ケルジャナ砂漠でのヒユウとの戦いは互角であった。しかし、それはヒユウの本来の力ではなかったのだ。あのときが嘘のように、シェルンの全身は真空の刃に切り裂かれ、鮮血が地面に飛ぶ。戦いに疎い少女でも、二人の力量の差は明らかに見て取れた。次第に、常にある不敵な笑みが消えていくシェルンとは違い、ヒユウは口角に笑みさえのせている。
「……一度では殺さない」
利き手に深手を負い、大量に血を失ったことによる貧血で片膝をついたシェルンを見下ろして、ヒユウは冷たく言い放った。
「お前達が傷ついて動けない父上の血肉を奪い、屈辱とともに、生皮を剥ぐようにゆっくりと殺し尽くしたように。俺もゆっくり時間をかけてお前を殺してやろう」
「ぐわ……っ!?」
残酷な言葉。それとともに見えない真空の刃が、シェルンの肩から背にかけてばっさりと袈裟懸けに切り裂く。今までとは違い、深く抉るそれに、シェルンは堪らずに声を上げた。
「シェルンさん……っ!」
最早、抵抗する力も残されていないのか、ぼろぼろに切り裂かれていく。がくがくと両膝をついて、シェルンは吐血した。真っ赤な血が大量に地面に流れ出す。いくら不老不死といえど、大量に血を失えばどうなるのか。それよりあまりに酷い惨状に、その原因がヒユウであることに、フィリアの心が悲痛の叫びを上げた。
「ヒユウ様……やめ、もう、やめて……!」
酷い。こんな酷いことをするなんて、ヒユウ様じゃない。フィリアの知っている彼ではない。やはり、ヒユウはもうどこにもいないのだろうか。最初から、彼は偽りだったのか。
見たくない。こんなヒユウ様は見ていたくない。少女の悲鳴は、男に届かない。血に濡れた視界が滲んだ。
目を瞑って、耳を塞いで今この現実から逃げ出したかった。
「なんてこと……あいつらの掌の上にまんまと踊らされていたわけね! 最初っから、侵略して私達の国に援助してもらえるようにするって話も、嘘だったわけね!」
「あなたは……」
いきなり頭上から落ちてきた声に、フィリアははっとして顔を上げる。フィリアの横には、息を切らして走って来たのだろう、桃色のツインテールの、美しい少女が激しい怒りにわなわなと肩を震わせていた。ロウティエの豊かな大地を得る為に侵攻してきた、ハウメイ国王女、エレーナだ。
「許さないわ!」
少女の怒りに呼応するかのように、彼女の背後から黒い鳥の大群が一斉に飛び立つ。弾丸となって、ヒユウに襲い掛かる。だがそれも、途中で魂を抜かれたかのように、鳥達は地面へと叩き落された。
「な……っ、どうしたの、お前達!」
地面に落ちた鳥達は全て絶命していた。呼んでも何の反応もない。エレーナは何が起こったかわからなくて、喚いた。
「ここは戦場。貴女のような子供の出る幕ではなくてよ?」
子供の癇癪を宥めるような、柔らかな声が響く。それは、フィリアのよく知っている声で、驚愕に満ちた目でその声の主を見詰めた。
「ユリアーナ、姫……?」
ヒユウの背を庇うようにして、純白のドレスに身を包んだ、美しいユリアーナが降り立った。フィリアの姿を認めると、彼女は女神と謡われた微笑を浮かべる。およそ、この戦場に相応しくない穏やかなものだった。
「どういうことだ、まさか、ユリアーナ姫まで……?」
龍族なのだろうか。
クラーヴァ、ケイト達は皆、動揺した。確かに彼女も、ヒユウと同じく、他国の間者と内通していた。内偵隊の報告より、確たる証拠もある。それを確認しに行った、彼女の夫であるアーヴィス卿も、放心した状態で見つかった。
しかし、軍人のヒユウならまだしも。彼女は深窓の姫君だったのだ。まさか、この世界の守護神である龍族だとは、誰が想像できるだろう。けれど、彼女の双眸も以前の透き通った青ではなく、輝く金色で。
「うあ……っ!?」
全員がユリアーナに気取られていたせいで、少女に忍び寄る影に気付くことが出来なかった。少女自身でさえも、突然右腕に走った痛みに、苦痛の声を上げることしか出来ず。
「……初めまして、ってやつか。“最後の子”よ」
少女の右腕を掴み上げているのは、頑強な図体の男だった。短く刈った黒髪、頬に走る古傷、鋭い眼差しはやはりヒユウと同じ、金色。屈強な男の腕が、軽々と少女を持ち上げる。右腕を掴む力が強くて、少女はその痛みに奥歯を噛み締めることで耐えた。
「フィリア!!」
「あの男は、エウノミアで……」
クラーヴァが、記憶を探る。確か、目の前の男は、エウノミアに辿り着いたときに、会った。集落から外れ、ひっそりと海辺で一人暮らしていたのだ。てっきり、黄昏人だと思ったのだが、彼も龍族だったというのか。
「そうだ、お前達とは会ったことがあったな。俺は黄昏人どもを監視する為に番人としてあそこにいた。……おい、いつまで遊んでやがる。さっさとこの娘を連れて、仕上げに向かうぞ」
「ああ」
「……ヒユウさま……」
剣を鞘に仕舞い、既に意識を失って倒れているシェルンに一瞥をくれてから、ヒユウは踵を返した。ゆっくりと、フィリアの元へと向かう。それを、フィリアは怯えとともに待つしかなかった。
―― このまま、ヒユウの手によって、殺されてしまうのだろうか?
『そんなことは、させない……!』
「!?」
突如として、爆発的な光が大通り一面を襲った。目晦まし ―― そう理解できたが、それでも膨大な光に包まれ、ヒユウ達も、一瞬目を瞑ざるを得なかった。不測の事態に、少女を掴んでいたヴェルンヘルの腕が緩む。
『おねーちゃん達っ、今の内だよっ! 逃げて!』
「この声、テイルさん……っ!」
「フィリア!」
テイルの声がフィリア達の頭の中に響いた。ということは、この光は彼の作った幻なのか。驚いて声を上げるフィリアに向かって、ヘテイグが駆け出す。拘束が緩んだフィリアを、無理やりヴェルンヘルから奪い返した。
「ヘテイグ様……っ」
「ツヴェルフ殿!」
ヘテイグが呼びかけるより先に、既にツヴェルフの喚起は終えていた。テイルの幻によって、龍族は油断し、彼らを拘束していた金縛りも解かれたのだ。
少女を抱え上げたヘテイグごと、ツヴェルフはその召喚獣の力をもって、この場から脱出した。クラーヴァもこの隙を見逃さず、召喚獣を呼ぶ。アレシア、ケイトを乗せて飛び立った。他の者も、老人の呼んだ飛獣により、退却した。
「シェルン、今の内です」
「ち……っ」
どこからか見ていたのだろう、重傷のシェルンの傍に降り立った聖なる手も、そのまま彼を担ぎ上げ、この光に紛れて脱出したのだった。
「……逃したか」
怯えて何も出来ない小蟲かと思っていたが、とヴェルンヘルは、フィリア達の抵抗を意外に思っていた。彼らが去った方向を睨みつける彼をヒユウは諭す。
「止せ、今は追わなくて良い。下手に殺すと、永遠に真名は失われてしまう。こちらの準備が完全に整うまで、深追いはするな」
上空を見上げたヒユウを追うように、ヴェルンヘルも仰ぐ。
天を覆う龍の軍勢から、雪のように、エーテルの雫が舞い落ちてくる。エーテルの雫は、再構成の際に生じる現象だ。つまり、まだ龍達の再構成が完全に終わっていない、ということを意味していた。
真名を取り戻す為には、彼らの再構成の完了が必要だった。
「王の真名を取り戻す為には、あの娘の精神世界の奥底に介入し、無理やり剥ぎ取るしか無い……だが不用意に真名に触れれば、俺達でもただでは済まない」
難儀なことだが、と付け足して、ヒユウは深い溜息を零す。
「真名の反作用ってやつか。五百年前の大戦は、多くの龍がやられた」
黄昏人の始祖が神の真名を奪ったことによって、いまだ消えぬ呪いをかけられたように。今や彼らの中に根付いてしまった神の真名を無理やり剥がそうとすると、強大なしっぺ返しを食らうのだった。たとえ、それが神に仕える龍族であったとしても関係ない。真名に手を出す者全てに、その者の破滅以上の迎撃をしかけてくるのだ。それを真名の反作用と、龍達は呼んでいる。自動迎撃機能、と呼ぶ方がわかりやすいかもしれない。
軍勢を呼んだのは、人間を殺すためではない。真名を剥がすときに生じる、莫大な反作用を抑える為である。
五百年前も、動乱を糧に、真名を取り戻そうとした龍がいた。しかし、強力な反作用と、ヒユウの父の裏切りにより失敗したのだった。
「そう、だからこそ、今度こそは万全に対策をしなければならん。俺があの娘の精神世界に介入し、真名を剥ぎ取る間、空間を捻じ曲げて真名の迎撃を全て外部へと移す。それらの処理はお前達に任せる」
「……」
「どうした、ヴェルンヘル」
「あの娘の精神に介入し、無理やり剥がす役目は俺がする」
「何だと?」
わけがわからない、というようにヒユウが柳眉を吊り上げる。横にいたユリアーナが、はっとしたように顔を上げた。
「何故だ? あの娘の精神に介入するのは俺の方が容易い。お前では、表層に辿り着くにも時間がかかる。無駄な手間を取るだけだ」
フィリアはヒユウに心を完全に開いている。裏切り直後で揺れ動き、隙だらけの少女の心の中に、ヒユウほど容易く介入できる存在はいないのだ。何の関係もないヴェルンヘルでは、少女の反発を受けるだけだろう。単なる時間の無駄、というやつである。基本的に合理的な性質を持つ龍族であるヴェルンヘルの発言とは思えなくて、ヒユウは問う。そしてその疑念は、ユリアーナも同じだった。
「そうよ、ヴェルンヘル。相手の精神世界に入るには、相手の信頼が必須なのよ。強引に介入することも出来るけれど、それこそ余計な手間でしょう」
「……そうだな」
不承不承に頷くヴェルンヘルは、しかしまだ納得のいかない様子だった。それを訝しげに思いながらも、ヒユウは深く考えることはなかった。ただ、ユリアーナだけが、神妙な表情でヴェルンヘルの様子を窺っていた。
+ + +
それから、どれほどの時間が経っただろう。実際には半日もかかっていないのだが、ただ待つだけの時間というのは、長く感じるものだ。
元々、それほど気が長くないヴェルンヘルは、苛立ちを抑えながら、空を見上げた。
「やっとか……待ちわびたぜ」
やれやれ、と肩を回して、瓦礫の山に腰掛けていたヴェルンヘルが立ち上がった。
雪のように舞い落ちるエーテルの雫は、だがしかし、地上に積もることはなく、消える。儚い、幻想的な光景。それが今、終わった。天から舞い落ちる銀色の雫が止んだのだ。そして、その終焉を告げたのは、一人の青年だった。
腕を組んで佇むヒユウの背後に、白と青の騎士服に包まれたその青年が、右手をこめかみの位置まで掲げて、敬礼する。
「ジークフェルド将軍、ヴェルンヘル将軍。全ての準備が整いました。あとは貴方の指示を待つのみです」
「ご苦労」
ヒユウ ―― 否、龍王を守護する第一位の騎士であるジークフェルドは、天を覆い尽くす龍達に向かって、高く剣を掲げた。
同じようにヴェルンヘルも剣を高く掲げる。そして、叫んだ。
「これより、黄昏人掃討を開始する! この大地とともに滅ぼせ!」




