1
暗闇の世界の中で、小さな悲鳴が響いた。
か細い、今にも途切れそうな蝋燭の灯火のような叫びだ。
「……これは」
思わず、男は己の耳を疑った。単なる幻聴であると誤魔化すには、あまりに強く耳朶を打つ響きで、今まで聞いたどの声よりもそれは悲壮めいていた。すぐにそれがどこから、どのようにして届いたのか理解する。理解できたが、同時に動揺もした。何故、その声が自分に届いたのか、どうしてもわからなかったからだ。
『そうか、……君には、あの声が聞こえたのか』
はっとして、視線を横に移す。
いつのまにか、男の隣に一つの気配があった。声がするまでそこには何も存在していなかった。だが、そのことに男は驚かなかった。彼は、この世界ではどこにでも存在しているからだ。男が驚いたのは、彼にもあの声が聞こえていたという事実にであって。
『……いつだって、子を守らんとする母の思いは強くて、眩い。子の為ならば、己の生命などどうなっても構わないらしいよ、母親という生き物は』
「……」
男は、彼の言わんとすることがよくわからなかった。どう反応すればいいのかも、迷った。ただ同意すればいいのか、だがしかし、とてもそう出来るものではなかった。あの声は、全ての元凶であり、男にとっては侮蔑すべき存在だったからだ。そして、それは彼にとっても同じ筈。だというのに、儚い、けれど美しい、と彼は続ける。そのあと、彼は男に向き直って、一つの命を下した。彼にとって、それは命ではなかったのだが、諾以外の言葉を許されていない男にとって、命と同じことだった。
「……あれが、何かわかっていてそれでも尚、貴方はそう仰るのか」
男はますます動揺するばかりで、目の前の彼の真意を推し量ることなど不可能だった。そもそも、その行為は、男には許されていない。今までも、これからもずっと、男は彼の手であり、足であり、髪であったがゆえに。
+ + +
三年前と同じ、否それ以上に凄惨な光景が目の前に広がっている。
見る影もなく、黒く焦げた残骸と化した白亜の皇宮、他国の侵略によって踏み荒らされた大通り、方々から立ち昇る炎に包まれた家々。
いつのまにか、厚く、雷を孕んだ黒雲がその上空を覆っていた。銀色の鱗に覆われた長い尾が水の中にあるように揺らめいている。明確な意思を持った琥珀の瞳が、眼窩に広がる帝都を見下ろしていた。
想像上の存在でしかなかった、幻の種族である龍。五百年もの昔、争いが絶え間ないこの大陸に降り立って平和に導いたとされる、守護神。建国以来、創造神と並んで帝国民の畏怖と崇敬の念を受け続けてきた。
長い年月を経て、伝説と化した龍が再び、現実に存在するものだと認識せざるを得なくなったのは、たった三年前 ―― 史上初の龍の召喚に成功した、一人の騎士によってだ。光柱の中に現れ、帝国を脅かす魔物達を一瞬の内に薙ぎ払い、絶対的な力を見せつけた。英雄の誕生に、人々は歓喜し、畏怖した。
そのときと同じように、人々は祈った。つい先程まで剣を手にして戦っていた者達は、その手をとめて、ただ呆然と天上の支配者を見上げた。銀色の光に目を凝らし、剣を取り落とし、その場に跪いた。龍を神と崇め続けてきた彼らは、許しを乞うように両手を組んで、掲げるしかなかった。
ある者は彼らの齎すであろう平和と祝福を喜び、またある者は帝国を踏み荒らす敵の殲滅を願い、ある者はただその至上の存在を前に、主人を前にした犬のように耳を垂らして怯えた。その根底にあるものは皆、絶対的な力に対する恐怖である。
帝国の悪しき遺産であった「聖なる手」を引き連れて、前皇帝レヴァイン・メイリー・ロウティエはこの世を去った。それは同時にディーン元皇太子一派によるクーデターの終了を意味していた。レヴァイン亡き今、皇統を受け継ぐ者はディーンしかいない。何よりレヴァインの悪政に疲弊していた帝国内の貴族達は諸手を挙げて歓迎し、同様にレヴァインを危険視していた帝国軍部もディーンが新皇帝の地位に就くことをすんなりと承認した。
各地の反乱も徐々に治まり、援軍が帝都に集うのも時間の問題だ。あとは帝都内に潜む他国の侵略者達を一掃するだけである。といっても、帝国側が受けた被害は甚大だった。帝都に敵の侵入を許し、民間人を巻き込んだ戦場としてしまった。テロによって壊滅状態に陥った領地もあるという。帝国軍を纏め続けたゼノン・サティス・グローリーの死も、多くの軍人に衝撃を与えた。内部の裏切り者によって、機密情報が外部に流出されたことも、国辱ものだ。そして何より、その裏切り者の中に、帝国軍最高幹部の一人、ヒユウ・イル・リューシアがいるということだ。このことはまだ、極一部の人間しか知らない。内偵隊の報告によると、ハウメイ王国軍 ―― ロウティエ大陸と海を隔てた南方にある小国 ―― と通じていたらしい。干ばつが引き起こす飢饉に苦しみ喘いでおり、前々から、ロウティエの豊かな資源を欲している国だった。褐色の肌に黒髪を持った人間が多い。現国王であるルドヴィーク・バルト・ハウメイもその特徴を有し、野心家であった前国王の跡を引き継いで、ロウティエの隙を狙い続けてきた。いつどこでどのようにして、帝国攻略に最大の障害となるヒユウと知り合い、手を結ぶことになったのか、それは不明である。
その事実を知って大きな衝撃を受けたフィリア達だが、それでもヒユウを信じていた。最悪の場合、ヒユウと対峙することも覚悟して、なんとか彼から真意を問い詰めようかと思っていた矢先だった。
夜明けの空から月が消え、雷鳴轟く黒雲の天が現れたのは。
異変に気付いて窓際に駆け寄ったフィリア達は、そこから広がる光景に絶句した。
黒雲を引き連れて天に浮かぶ、巨大な龍。轟く雷鳴。金色に燃える瞳。銀色に光る粒子が、雪のように荒れ果てた帝都に降り注いでいる。帝都内で小競り合いを繰り返していた他国の人間も、突然の事態に戦っていたことも忘れて、ただ空を見上げていた。
「ヒユウ様……」
剣戟も響かない、夜明けのしじま。誰もが目を奪われて身動きできない中、少女だけは震える声で呟いたあと、踵を返して部屋を飛び出した。
「フィリア!」
そのあとをヘテイグ、ツヴェルフ、ケイトが追った。クラーヴァもすぐに部屋から出ようとしたが、窓の外の光景に釘付けとなったままの彼らに気付き、足を止める。
「そんな、まさか……何故……龍が……」
―― 僕が、封じた筈なのに。
ノエルが龍を見るのは、これで三度目だ。
一度目は、三年前の魔の戦いで、天を貫く光柱の中に呼び出された龍を遠目に見た。二度目は、そのすぐ直後の、軍内研究施設で。召喚の反動によって瀕死状態だったヒユウが再び龍を呼び出して、被験体である少女を奪い返しに来たのだ。ノエルが異変に気付いたときは既に遅く、責任者であった双子の兄は瓦礫の中で息絶えていた。
龍の雷は、神の裁きの光。いつ己の身を脅かすか知れぬ裁きに、平伏して怯え、懺悔するしかない人間は弱い。犬畜生のように、従順で弱い。あの銀の光を見るたびに、それを痛いほどに知らされる。人間が地上の支配者でないことを、思い知らされるのだ。
やはり、龍は、誰のものにもなってはいけない。神は、天高く、誰も届かない至上の存在でなければいけない。そうでなければ、人々の、自分の心に安寧は訪れないのだ。
ぎりぎり、とノエルは無意識に奥歯を噛み締めていた。
「ノエル、呆けてないで行くぞ!」
「……わかりました」
「おい、アレシア、お前も行かないのか?!」
「! ……い、行く!」
クラーヴァの呼び声にびくりと反応したアレシアは、急いで外套を手にして彼らの後を追った。巨大な龍、その琥珀の双眸に射竦められ、身動きを取ることが出来なかった。クラーヴァは平然としていたのに、とアレシアは一人でこっそりと落ち込んでいた。
―― あの龍の下に、ヒユウ様がいる。
そう確信していたフィリアは、疲弊など忘れてしまったかのように走った。外套も持たずに飛び出してきたから、外気が少しばかり肌に突き刺さるが、そんなことはどうでもよかった。早く、行かなければ。下り坂となっている大通り、見上げれば上空には、帝都を覆わんばかりの巨大な龍がこちらを静かに見下ろしている。その琥珀の双眸は、ヒユウの凪いだ湖面のそれと酷似していて。どくり、と一際大きく鼓動が強くなる。三年前以上に、胸騒ぎが酷くて、フィリアはそれを追い払うかのように足を速めた。すぐ少女に追いついたケイトが、ぽつりと呟きを漏らす。
「三年前を思い出すわね……」
「ところで、あれはヒユウの野郎が出した龍だよな?」
その後ろから追いついてきたクラーヴァが、横でぜいぜいと激しい呼吸を繰り返すノエルに向かって確認するように問うた。ちなみにノエルは首根っこを掴まれ、まるで猫のように引っ張られて、無理やり走らされている。心の底から不本意な体勢であったが、抵抗したところでクラーヴァの馬鹿力には敵うまい、と最初から諦めていた。
「そんな馬鹿な……彼の龍は、寄生獣で封じている筈です!」
息を乱しながらも、ノエルは異を唱える。寄生獣を研究し、目の前でヒユウの龍を封じ込めた彼のプライドが、クラーヴァの言葉を肯定することを許さなかった。
彼には自信があった。それにあのとき、確かに手応えを感じた。ゼノンと対峙させ、油断したヒユウの内に寄生獣を送り込んで、喚起に必要なエーテルを削ることで、龍の召喚を封じたのだ。だから、ヒユウが龍を呼び出せるわけがない。
「じゃあ、他に誰がいるってんだ?」
「それは……」
クラーヴァの反論に、口篭る。
あのとき確かに成功した。それは絶対だ。しかし、今、彼は龍を取り戻している。ということは、何らかの方法で己の体内に巣食う寄生獣を取り除いた、ということになる。けれど、その何らかの方法というのが、ノエルには見当がつかなかった。そもそも、一度寄生した獣を排除する方法自体、いまだ実験段階なのだ。同等の寄生獣を、再び寄生させ、体内で相殺させる。しかしこれも二つの寄生獣の力の差が少しでもあれば、上手くいかない。寄生獣同士の相性もある。多くの召喚士が、寄生獣達に精神を食われて狂っていくのを見た。ゆえに再び、ヒユウが龍を呼び出せるわけがないのだ。けれど、ヒユウでなければ、他の誰が龍を呼び出せるというのか。彼以外に龍を召喚できる存在がいると考えるのも、恐ろしかった。
ふと、ケルジャナ砂漠での龍を思い出したアレシアはテイルのことを思い出した。テイルは今、大神殿で保護されているようだ。
もしかして、彼が作った龍の幻ではないのか。
そう口にしてみるが、隣で走っていたクラーヴァはあっさりと否定した。
「いや、幻なんかじゃねぇ。あれは……この全身に鳥肌が立つ感覚は、本物を見たときにしか感じられなかった」
ケルジャナ砂漠で、テイルの作り出した龍は確かにクラーヴァ達を動揺させた。しかし、それは予期せぬ事態への驚きでしかなく、今このときと比べると、精神、身体に及ぶ圧力が全然違うのだ。圧倒的な存在と力の差に本能が齎す恐怖、それが刃の雨となって全身に降り注ぐ。普通の人間ならば、ただ平伏して、赦しを乞うことしかできないだろう。それほどに、生き物としての差を見せつけられるのだ。だから違う、あれは本物だ。そうクラーヴァは頭上を睨みつけながら、言った。
彼らの会話を背に走りながら、ツヴェルフは思う。
鍛え抜かれた軍人でさえ、天から降り注ぐこの圧力に立ち向かうのは難しい。その証に、帝都を駆けている今このとき、通りの端々では多くの人間達が頭上の存在に怯え、ただ呆然と見上げているのを見つけた。足元には剣や槍が落ちている。誰もが皆、つい先ほどまで敵と剣戟を繰り広げ、争い合っていたのだ。それが、龍の琥珀の双眸に貫かれただけで、見事に戦意を奪われてしまっていた。
クラーヴァ達は日々鍛錬し、恐怖と対峙しても、それを戦う力に変える術を持っているからこそ、こうやって帝都上空を支配する龍に向かって走っていけるのだ。けれど、フィリアは軍人ではない。戦いのいろはも知らぬ、平凡な少女。なのにどうして、真っ直ぐに走っていけるのだろう。恐怖を感じていない筈はないのに。
―― それほどに、ヒユウを信じているのか。
あの天を支配する巨大な龍の下には、ヒユウがいる。そう信じて、会える歓びが、少女の恐怖を打ち消しているのだろう。
ツヴェルフの背筋に焦燥が駆け上がるのを感じた。
果たしてこのまま、少女を行かせていいのだろうか?
このまま行かせてしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれない。理由はわからない。何故だかそう強く思った。思い出したら、止まらなくなってしまった。ずっと、警鐘が鳴り止まないのだ。この先に彼女を連れて行くことだけは、止めたい。止めなければいけない、と。しかし、どう思い巡らしても、前を駆ける少女を引き止める言葉を、自分は持っていなかった。
「……ヒユウの龍は、もう封じられていない」
「本当か、ツヴェルフ殿!」
ツヴェルフの言葉に素早く反応したのはヘテイグだ。彼も、少女の様子を気にしているのがわかる。そして、ツヴェルフと同様に、悪い予感に苛んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。それを振り払うかのように、強い口調で彼は先を促した。
「ああ、帝都上空で飛獣が黒鳥の大群に襲われたあと、ヒユウは龍の力を行使していた。本人にも確認済みだ」
二人の会話を耳にしたフィリアが、漸く視線を上空から剥がして、振り向いた。
「ヒユウ様が……」
フィリアの目の前で、ヒユウは龍を封じられた。投獄された少女を助け出して逃げる途中に、ゼノンやノエルによって、彼は地面に叩き伏せられたのだ。今でも、あのときの光景はありありと思い出せる。自分のせいで、彼は龍を失ってしまった。それだけでなく、名誉も地位も。どうすれば戻るのか、どう償えばいいのか、少女はいつも悩んでいた。だから、彼の龍が復活して、とても嬉しかった。けれど、すぐに胸騒ぎが喜色を塗り潰してしまう。ツヴェルフの暗い表情が余計に、フィリアの不安を煽る。
詳しく聞こうとしたとき、不意に、フィリア達の上から大きな影が落ちてきた。
「な、何だ……!」
アレシアがぎょっとして上を見る。突然、大きくて真っ黒な物体が視界一面に覆い被さってきて、パニックの声を上げた。
「フィリア、危ない!」
ヘテイグが少女の腕を引っ張って、通りの端へと避難させる。ぶわりと、少女達の周りを巻き込むようにして大きな風が舞い上がった。突風に立ち止まざるを得なかった彼女達の前に、大きな羽ばたきとともに大型飛獣がゆっくりと降下してきた。エウノミアから帝都までフィリア達を乗せてくれたのと同じ飛獣だ。
地面に四肢を降ろし、白い翼を折り畳む飛獣の背に、見覚えのある姿があった。
「……大叔父様っ!?」
飛獣の手綱を操っていたのは、エウノミアにて生き残りの黄昏人達を纏め、フィリアの大叔父に当たる老人だった。まさかの人物に驚き、再会の喜びを僅かに滲ませて、少女は駆け寄った。そして、飛獣に乗っていたのは老人だけではなく ――
「げぇっ、それにラインハルトじゃねーか!」
「サラ姫もいるわね、気を失っているけれど……」
珍しい組み合わせだこと、とケイトは心中で付け足した。クラーヴァだけでなく、ヘテイグ、ツヴェルフ、ギルベルトまでもが咄嗟に浮かんだ嫌悪の色を隠すことができなかった。
すっかり元の純白を失い、灰色になってしまった騎士服姿のラインハルトは、サラを抱えながら、優雅な所作で飛獣の背から地面へと降り立つ。上空の旅で気を失ってしまったサラを、まるで硝子細工に触れるかのように優しく抱え上げながら、一方で立ち並ぶ面々を前にいつもの嫌味を忘れることはなかった。
「これはまた下品な歓迎をありがとうございます」
にこり、と笑みだけならば完璧な美貌を浮かべる。挑発に乗りかかったクラーヴァをケイトが宥め、ラインハルトに対しては、早くサラを休めさせるよう提案した。サラ最優先な彼はすんなりと従い、兵士の案内のまま、軍部施設内の救護室へと向かったのだった。
「フィリア、約束だ。保護した者達を、送り届けに来た」
「あ、ありがとうございます。でも、まさか、大叔父様自ら来て下さるなんて……」
フィリアがエウノミアを出立する直前に、老人にお願いしたこと。それをこうやって律儀に、まさか老人自らが叶えにやってくれるとは思わず、フィリアは精一杯の感謝を伝えた。
素直に喜ぶ少女を前にした、白眉毛に隠された瞳が揺らぐ。静かに首を横に振って、老人は呟いた。
「……胸騒ぎがしてな。お主に伝えねばならぬこともあった……出来れば、伝えずにいられれば、と思っていた。しかし、やはりそれは時が許さぬのであろう」
「大叔父様……」
全てを話してくれる気になったのだろうか。わざわざ、彼自ら赴いてまで、少女に伝えなければならぬこと。嫌でも感じる言葉の重みに、フィリアは神妙な顔つきになった。
「だが、今はそれよりも、確かめねばならぬことがある」
言葉を待つ少女から、老人は視線を帝都上空へと移した。その表情は、これまで見たことのないほど、緊張に強張っていた。
「大叔父様?」
「フィリア、それよりもあれは一体……あれは一体、何だというのだ。あの天に坐すのはもしや……」
震える声を抑えられずに、頭上の存在を凝視しながら、老人は問う。大きく見開かれた目は、真っ直ぐに天に注がれていた。頭で理解はしていたが、感情がそれを拒絶しているのだろう。そうフィリアには見えた。
「おそらく、ヒユウ様が召喚された、龍です……」
老人が驚くのも無理はない。エウノミアにて、外界から閉ざされた中でずっと生きてきた彼が、ヒユウの龍を見て驚くのも当然だろう。龍自体、きっと初めてに違いない。目にするだけでたちまち畏怖の念を抱かせる神の力を持つ存在。創造神とともに伝説の中に在る彼らが、こうして目の前に姿を現しているのだ。ただ他の帝国民と同じように老人は怯えているのかと思った。けれど、老人が戦いていたのは、龍の力にではなく、この場に存在する理由にだった。
「召喚だと?! 一体、誰が、龍を召喚など……そんなことがある筈がなかろう!」
老人の剣幕に驚いて声を失ったフィリアの代わりに、ケイトが答えた。
「本当よ、これからあの龍を呼び出したヒユウって男に会いに行くのよ。あの龍以外にも、色々と聞かなきゃいけないことがあるしね」
絶対に一発くらい殴ってやらないと気が済まないわ、とケイトは鼻を鳴らした。突然現れた天の龍、それに対する恐怖や不安は勿論ケイトにもある。けれど今はそれよりも、ヒユウに対する憤りで一杯だったのだ。
「……ヒユウとは一体……何者だ? 果たしてその男は、人間なのか?」
戸惑いながら、老人は記憶を反芻した。エウノミアにて、フィリアとともに行動していた男。叫びの谷に落ちて無事だったのは彼が初めてだった。只者ではないと思ってはいたが、まさか龍を召喚できるなど、思いも寄らない。
「そうよ? 貴方はエウノミアにずっと篭りっぱなしで知らないのだろうけど、三年前に龍の召喚に成功した騎士がいてね、そいつが今回もあれを呼び出したの」
「大叔父様……どうしたのですか?」
老人の様子がおかしい。顔色は真っ青だ。明らかに怯え始めた彼に、フィリアはおろおろとするしかなかった。どこかで休ませた方が良い、と判断した少女の手が老人の肩に触れようとする。しかし、それは寸前で強く振り払われた。
「龍の召喚など……不可能だ! 人間に、龍を召喚できるはずがない! 言霊すらもたぬ彼らの呼びかけが、龍に届く筈がないのだ!」
老人は、天上を睨みつけながら、唾棄するように叫んだ。
「……そうだな」
大通りの向こうから、いつもの漆黒の軍服を纏った男が、老人の叫びに同調するように静かに呟いた。
いつのまにか、男はそこにいた。気配すら感じさせずに、クラーヴァ達が気付いたときには悠然と佇んでいた。
「ヒユウ様!!」
フィリアはまず、ヒユウの無事な姿を見て心の底から安堵した。次々と大事な人を亡くして、まさかヒユウまで亡くしてしまうのではないかと、ずっと不安だったのだ。だから、フィリアは素直に胸を撫で下ろした。無意識に駆け寄ろうとする少女の腕を掴んで引き止めたのは、ツヴェルフだった。
「ツヴェルフ様……?」
「……」
不思議そうに見上げるが、ツヴェルフは少女の二の腕を掴んだまま、放さない。じっと、大通りの先に佇む黒衣の男を見据えていた。
「ヒユウ、ここんなときにてめぇは一体、何を考えてやがる!?」
ケイト達の胸に沈んでいた疑念を一番先に吐き出したのは、クラーヴァだった。天上の龍のせいか、その下に佇むヒユウの様子がいつもと違う、まるで見知らぬ他人のように感じた。湧き上がる焦燥にかぶりを振って、彼は大声で悪態をついた。
「ヒユウ様!」
ヘテイグもつられるようにして叫ぶ。彼は、全く信じていなかった。ヒユウが裏切る理由が一切思いつかなかったからだ。彼が帝国を、自分達を、何より少女を裏切るわけがない。今こうして真正面から対峙する今このときまでは、そう頑なに信じられていた。けれど。
―― 何だ、この違和感は。
目の前にいるのはどう見てもヒユウの筈なのに。ヘテイグが憧れ、目標として掲げた騎士である筈なのに。
何故、別人のように感じてしまうのだろう。
「お主は何者だ……人間では、ないのだろう?」
「え……?」
皆と同じように違和感を拭い去れずにいたフィリアはぎくりとして、大叔父の言葉につられるように、ヒユウへの視線を強くする。
「人間に龍を召喚することなど、不可能なのだ……絶対に!」
「……そうだ。人間に龍の召喚は不可能。言霊すらもたぬ人間の呼びかけが、龍に届くことはないからな。だが、黄昏人の言霊ならば、龍はその呼びかけに気付くことができるだろう」
「!」
龍の召喚は人間には不可能?
言霊を持たない人間の呼びかけは、龍には絶対に届かない、そうヒユウは言い切った。この世界で唯一、龍を召喚できる本人にあっさりと肯定されてしまい、フィリア達は皆驚いた。
では、ヒユウが召喚できるのはどういうことなのだろう。
まさか、ヒユウは……ヒユウまでもが、フィリアと同じ黄昏人なのだろうか。
「どういうことなの? じゃあ、何であんたは召喚できるのよ!」
混乱したケイトが、苛立ったように叫ぶ。
「じゃ、じゃあ……ヒユウ様は……ヒユウ様も」
黄昏人……?
そんな馬鹿な。けれど、期待が滲むのを止めることはできなくて。逸るフィリアの言葉を遮るように、ヒユウはかぶりを振った。
「だがたとえ、黄昏人であっても、龍がその呼びかけに応じることなどありえん。直系の、純血であっても。その筈だった」
再び、フィリアは混乱した。
黄昏人であっても、龍は呼びかけに応えない?
でも現に彼はこうして龍を召喚している。天の龍が、何よりの証ではないか。なのに彼は、龍の召喚は不可能だと言う。では何故、彼は龍を呼び出せるのか。人間も、黄昏人も無理ならば、一体どういうことなのか。
彼は、ヒユウは何者なのだろう。
フィリアの中で初めて、その疑問が生まれた。
「今まで一度だけ、龍の召喚……召喚と言うと語弊があるな。そもそも、一人の人間が持つエーテル量では、龍を現世に再構成するには到底足りないのだ。ゆえに、何者にも龍の召喚は不可能。ただ、呼びかけだけならば、成功させた黄昏人がいる。……過去に成功したのは、お前の母親ただ一人だけだ」
「……っ!?」
声にならない悲鳴を上げた少女を見詰めながら、ヒユウは無表情のまま語り続けた。今まで少女に欺き続けたことを。己の正体を、ようやく、彼は口にした。
「十四年前に、お前の母親は龍を呼んだ。強い呼びかけに、ある龍が応えた。それが、俺だ」
今にも途切れそうな蝋燭の灯火のような叫び。それは泣き声混じりの歌だった。それに応えてヒユウが降り立ったとき、幼子を抱えた女が今にも息絶えようとしていた。女は襤褸を纏って、全身泥と傷だらけだった。地面に這い蹲りながら、女は呆然とした様子で、ヒユウを見上げている。無表情に見下ろす怜悧な美貌の男は、淡々と言葉を紡いだ。
―― お前の生命より大切なのは、その幼子か。
女は顔を綻ばせると、ヒユウに幼子を託した。幼子の名前を愛おしそうに紡ぐと安堵したように微笑んで、そして死んだ。
ヒユウが、その幼子 ―― フィリアを手元に置いて育てることになったのはそのときからだ。あの日から、十四年もの月日が経った。長き時を生きる龍である彼にとって、それは瞬きほどの短い時間ではあったが。
「俺は龍王をお守りする、第一位の騎士。全ての軍勢を指揮する権限と、罪の根を断ち切る権限を与えられた、王の剣」
冷然と見下ろす男の双眸は、少女の見慣れた、大好きな青空の色ではない。獲物を前に爛々と輝く、金色の瞳だった。
知らない。こんな風に冷たく見下ろす彼を、少女は知らない。
「ヒユウ様が……龍、族……?」
フィリアは、まだ事態が飲み込められずに、茫洋とした呟きを舌の上で転がすだけだった。
母親の呼びかけに応えた龍。
その龍が、ヒユウ?
母親が、龍を、ヒユウを呼んだ?
―― 一体、何を言っているのだろう。
ぐちゃぐちゃに混乱したフィリアは迷子のように、ヒユウを見詰めた。
その刹那。ヒユウの表情に痛みのようなものが浮かんだ気がしたが、それはほんの一瞬で、少女はすぐに見間違いと思い直すしかなかった。
ふ、とヒユウの金色の瞳が伏せられる。彼を包む風が、ひゅう、と高く啼いた。
「……神は俺達を同じ場所に創らなかった」
第五元素以上で創られた龍と、それ以下で創られた人間は互いに別の次元に存在している。どちらかの次元に再構成せねばならない。そうしなければ、同じ世界に立つことができない。その為に必要なのはエーテル。龍が肉を得るために、人間たちの持つ多大なエーテルが必要なのだ。そして効率的に実現するのに、戦争は有用である。戦争 ―― それは決して、交じりえない二つの存在が交わる唯一のとき。
「龍が人間と交わるのは、戦うときのみ。五百年前と同じように、龍は役目を果たす為に、お前達の戦場に降り立つのだ」
何故そのときしか、交わらないのか。
疑問を抱き、叛いた父は、もうこの世界にはいない。永遠に、失われてしまった。彼の汚名を晴らし、果たされなかった役目は今自分の肩の上にある。今度こそ、それを果たそう。そして、やっと全てが終わるのである。もう、何の迷いも持つことはない。以前の自分に戻れるのである。
そこで思考を止めたヒユウは、顔を上げた。
「さあ、黄昏人の娘よ。お前達の行く末を決める龍議りは終わった。龍達の怒りは最早鎮まらぬ。お前の祖が犯した原罪を、贖うときが来たようだ」
目の前の少女達はいまだ、信じられないのか、信じたくないのか、呆然と事態を飲み込めていないようであった。ヒユウは視線を巡らし、再び戻す。金色の視線と、真紅の視線が交じり合ったそのとき。
「……っ……!?」
「な……!」
―― 身体が、動かない。
フィリアもヘテイグも、ツヴェルフ、ケイト、ギルベルト、アレシア、クラーヴァでさえも、金縛りにあったように身動き一つ取ることが出来なくなってしまった。影が地面に縫い付けられてしまったかのように、感覚が自分のものではなくなっている。かろうじて、動かせるのは視線だけ。視覚だけを必死に駆使して、そして漸く、この金縛りの原因を悟った。
天上に漂う、巨大な龍 ―― 先ほどまで一体のみだったそれが、広大な天全てを覆い尽くす軍勢となっていたからだ。
夜明けの薄闇だった空を、厚い黒雲が覆い、それを背に銀色の光を放つ巨大な龍の大軍が埋め尽くしている。幾数もの金色の瞳が、裁きの炎を宿して地上に降り注いでいた。
頭上から、まるで雪のように、エーテルの雫が舞い落ちてくる。その銀の光と同じ髪を持つ男は、硬直した少女に向かって一歩踏み出す。男から放たれた龍気がフィリア達を襲い、今度は視線すら完全に縛り、支配してそして、冷然と言い放った。
「古の時代、我が龍王より奪った真名を返して貰おう」
このとき、この世界の地上のどこからでも、天を覆う銀色の龍達の姿を見ることができた。




