7
“ごめんなさい……”
遠く霧がかった景色の中で、フィリアは「またか」と思った。エウノミアで見た夢を、また見ている。涙に濡れた侘びの言葉は、一度聞くと脳裏にこびりついて離れなかった。
“ああ、許しておくれ……”
―― どうして、そんなに許しが欲しいの?
泣きながら、ひたすらに許しを乞いながら、女性は死体を土に埋めている。埋め尽くせないほどの死体を、泥と血塗れとなった痛々しい手で、埋め続けている。延々とそれだけを繰り返している夢。
何故、こんなものを見るのだろう。
―― 私に見せているの?
何か自分に言いたいことがあるのだろうか。何か意味があって、この夢を見てしまうのだろうか。
―― 私に、どうして欲しいのですか?
闇に閉ざされた世界で、ただ二人きり。どれだけ訴えても、女性にフィリアの声が届くことはない。ただ、謝罪と許しを乞う声、土を掘る音だけ。聞いてるこちらがおかしくなってしまいそうなほど、長い時間に感じられて、フィリアは叫ぶようにして問いかけた。
“……”
―― ? 何と、言ったのですか?
“……どうか、繰り返さないで……”
「――、フィリア!!」
「っ!」
自分の名を呼ぶ声に急激に覚醒を促され、重たい瞼をこじ開けると、心配げにこちらを見下ろす、ヘテイグの視線とぶつかった。
「ヘテイグ、さ……?」
「大丈夫か、フィリア」
喉がからからに渇いて、掠れた声になってしまった。それでも、ヘテイグは心の底から安堵したように、顔を綻ばせる。こんな柔らかい彼の表情を近くで見るのは初めてだ。すごく心配してくれていたのだろう。それを感じて、フィリアもほう、と強張った身体から力を抜いた。だが、すぐにここが何処か、何故自分はヘテイグに抱かれて意識を失っていたのか、胸騒ぎが収まらず。混乱する頭を、必死に鎮めようとした。
「わたし……どうして……? ……っ! メイリンさん、メイリンさんは……っ!?」
がばり、とフィリアは起き上がる。急に身体を起こした為に、吐き気を催す眩暈に襲われたが、そんなことに気を取られている場合ではなかった。
広がった視界、自分を支えるヘテイグの背後に、黒く焼け焦げた建物の跡があった。どくり、と嫌な音が胸を軋ませる。
真っ赤な炎に包まれていた筈の白亜の皇宮が、真っ黒に焼き焦げて、無残な瓦礫の山を築いていた。辺りはもう真っ暗で、月だけが輝いている。
「ヘテイグ様、メイリンさんを助けて、城に……炎の中にメイリンさんがいるの、助けなきゃ……!」
「フィリア、落ち着け!」
「ヘテ……」
がくがくと震えだす少女の肩を、ヘテイグがしっかりと掴む。一瞬、彼は続く言葉を躊躇ったが、それでもぎゅっと眉間に皺を寄せて、はっきりと口にした。
「もう手遅れだ」
「……!?」
―― どうして。
結局、助けられなかった……ハデス司祭だけでなく、レムングスもいなくなって。その上自分は、メイリンまでも失ってしまったのか。
「いや……」
「フィリア」
焦点の合わない少女の真紅の瞳を捉えるように、ヘテイグは名前を呼んだ。
「いやぁああああああ……っ!」
泣き叫ぶ少女を、ヘテイグは強く掻き抱いた。腕の中で少女は暴れて、泣きじゃくった。
人の慟哭に、これほど心が揺れ動いたことはない。自分の心まで砕いてしまいそうな泣き声を上げる少女の亜麻色の髪に顔を埋めながら、ヘテイグはそれを堪えた。慟哭は次第にすすり泣きに変わり、そして残った体力を全て使いきった少女は気を失った。くたり、と腕の中で力を失う少女を、ゆっくりと見下ろす。痛々しい涙の跡を拭おうと思ったが、炎の中救助作業をしたおかげで手袋も手もボロボロで。仕方が無いので騎士服の袖、比較的汚れの少ない部分で拭ってやった。それでもこんなものでは、少女の心の傷は、癒すことができないけれど。
ヘテイグは少女を抱き上げて、歩き出す。
いつのまにか、もう夜も遅く。見上げると、丸い月が雲の隙間から顔を覗かせていた。
―― ヒユウ様。今どこに……。
腕の中ですすり泣く少女の口から漏れるのは、ヒユウの名前だけだった。彼女にとって一番必要で、支えとなる存在を、ヘテイグはこのとき心の底から羨ましく思った。
かちゃり、と扉を開けて入ってきた人物に向かって、ソファに腰掛けていたケイトが声をかける。
「……眠った?」
「ああ」
「そう……フィリアも、辛い目に遭ったわね……」
ここは帝国軍本部施設の一室。
皇宮の謎の結界も、片が着いて、ひとまずケイト達は休憩することになった。時刻は深夜。連日の戦いにより心身ともに疲労し、まともに眠っていない。にも関わらず、その場にいる中で眠ろうとする者は誰一人としていなかった。
「ヘテイグ、あんたもご苦労だったわね。少し、眠ったらどう?」
泣き疲れて気を失った少女を、別室のベッドに休ませて戻ってきたヘテイグ。彼の目の下には隅が出来ており、疲弊しているのは明らかだ。けれど、ヘテイグは首を横に振って、ケイトの気遣いに礼を述べるだけで終わった。
再び、部屋に沈黙が降りたが、それを破ったのは、壁際に背を齎せて俯いていたクラーヴァだった。
「おい……もう一度、言え」
絞り出すような、低い声。深い苛立ちを隠さずに、部屋の中央にあるソファに腰掛けていたノエルに向かって吐き出す。
「ゼノンが死んだだと……? てめぇ、こんなときに笑えねぇ冗談を言うな! おい、冗談と言え、この野郎!!」
「……僕が、冗談を言う人間に見えるのですか、貴方は!」
胸倉を掴んで叫ぶクラーヴァに、いつもならば小馬鹿にしたように見下すノエルも、このときばかりは沸き立つ感情の波を抑えられず、叫び返した。
「落ち着いてください、お二人とも」
睨み合う二人に割って入って、ギルベルトは努めて平静な声で宥めた。けれど、彼にもまだ信じ難い事実のようで、珍しく動揺の色を浮かべている。
「ゼノン様が……」
呆然と、ソファに身を沈めるケイトの声が、嫌に響く。その隣に腰掛けたヘテイグは、感情を押し殺した低い声で吐き出した。
「……ノエル殿の言葉は本当だ。俺が、遺体を確認した」
「……!!」
がたりと壁に拳を当てて、クラーヴァは衝動と戦っていた。
怒りのまま滅茶苦茶に暴れることが出来たら、どんなに良いだろう。それは今の彼にとって、甘美な誘惑。理性が崩壊するまであと一歩のところだった。しかし、次の一言によって、それは寸でのところで押し留められる。
「……ゼノン殿より、彼のいない間の総指揮は、クラーヴァ殿にお任せするとのことです」
掴まれて皺ができた詰襟を正しながら、ノエルは遺言となってしまったゼノンの言葉を、伝えた。壁際で拳を握り締めて立つクラーヴァを、見上げる。感情の波が激しい彼が、今どれだけの激情と戦っているのか、手に取るようにわかった。起伏の薄いノエルにとって、彼の激しさはいつも不思議で、そして馬鹿にもしていた。けれど今は何故か、彼の怒りの深さを目にして、どこか胸のすく思いがした。
「おそらく、ゼノン様は聖なる手と戦い、相討ちとなったのだろう……近くで焼け焦げたもう一つの死体があった。顔は確認出来ないほどに焼け焦げていたが、その傍に仮面が灰にならずに残っていた」
淡々と語るヘテイグは俯いたまま。彼も必死に平静さを保とうと、己と戦っている最中なのだろう。
黒印魔法騎士団が炎の結界を解呪し、燃え盛る皇宮内に足を踏み入れたとき既に遅く、全てに決着がついてしまっていた。解呪とともに結界は本物の炎となって、白亜の皇宮を飲み込んだ。必死に消火作業をしながら、ヘテイグを始め騎士達が中へと突入する。出口付近でフィリアが倒れていたのを発見したヘテイグは慌てて彼女の無事を確認し、単に気を失っているだけとわかったときは心底、安堵した。そして彼女を外に運び出してから、他の取り残された者達を探した。
奥では、皇帝と皇妃の重なるようにして伏した死体、そのすぐ近くの瓦礫の間に、ゼノンを見つけた。他にも数人の黒焦げとなった死体を発見し、それを運び出して、出来る限りの弔いをした。そして再び、少女の様子を見た。
「結局、あの結界の原因は、皇帝だったんだな……」
黙って聞いていたクラーヴァが確認するように、口を開いた。
「保護したディーン元皇太子より、聞き出した。全ては、皇帝が聖なる手を使って企てたことなのだと。おそらく、彼の言う通りかと。彼ら以外にめぼしい死体は見つからなかった」
レヴァインが死んだ今、正統なる皇統を受け継ぐのはディーンのみだ。此度の帝都の騒乱がレヴァインによるものだとわかった時点で、ディーンが新たな皇帝となることを反対する者はいない。
ヘテイグの報告を聞き終えると、クラーヴァはゆっくりと目を閉じた。そしてゆっくりと息を吐き出すように、告げる。
「……わかった。ゼノンの遺志を継ぎ、俺が帝国の剣となり、盾となろう」
「クラーヴァ……」
クラーヴァの声は驚くほど静かなものだった。悲しみの淵に沈んでいたケイトは、その力強さに引き寄せられるかのように、顔を上げる。
今までのような、激しい感情を発散するだけの彼ではない。彼の持つ召喚獣だけではない、彼自身もいつのまにか成長していたのだ。
私の知らないところで、きっとあんたは変わっていくのね……。
昼間の広場での光景が脳裏に浮かんでは、消える。どこか複雑な思いで、ケイトは男を見詰めていた。
―― ヒユウ様がいない。
隙間から部屋の中を窺うと、いたのはヘテイグ、クラーヴァ、ケイト、ギルベルト、ノエルだけで。
少女の探している人物はいなかった。項垂れて、扉の前から離れると、少女は重たい身体を引き摺って歩き出す。よろよろと、疲弊に弱った身体で、フィリアは辺りを見渡す。どこかの屋敷の、廊下のようだ。
思いっきり泣いて、また気を失って。気がついたら、見慣れぬ部屋のベッドの上に寝かされていた。ごろごろと瞼の裏が痛い。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、少女は当ても無く彷徨った。
「フィリア?!」
「ツヴェルフ様……」
廊下の向こうから、ツヴェルフが慌てて駆け寄ると、少女の顔を覗きこんで、注意深く様子を窺った。顔色は悪く、瞳に力も無い。
「おい、動いて大丈夫なのか。もう少し休んだ方が……」
「……ヒユウ様は、何処にいらっしゃるのですか?」
「……!」
「もしかして、まだ……戻っていないのですか……?」
帝都上空で投げ出され、バラバラになってしまってから、フィリアはヒユウの姿を一度も見かけていなかった。他の人とは合流出来たのに、彼だけはまだ会えていない。
冷たくされてもいい。会えなくなるよりは、ずっとましだ。早く会って、彼の無事を確かめたい。否、それよりもただ、自分が会いたくて堪らないだけだ。少女の疲弊した心は、ずっとヒユウを追い求めていた。
そんな少女の切実な想いを知っているツヴェルフは言い辛そうに「まだ戻っていない……」と答える。もしかして、何かあったのでは……と真っ青になる少女に向かって、ツヴェルフは「こっちにおいで」と近くにあった部屋の中に招き入れた。
燭台に灯火をつけて、明るくなった室内のソファに少女を座らせた。どれだけ彷徨っていたか知らないが、少女はとても憔悴しきっていた。それも無理もない。続けて、大切な存在を失ってしまったのだ。
身体の傷は癒える。けれど、心の傷を癒すことは、とても難しい。
ツヴェルフは室内を見渡して、ティーセットを発見した。適当に茶葉を入れ、沸かした湯を注ぐ。あまり紅茶を入れるのは得意ではないが、何もないよりはマシだろう。私がします、と立ち上がろうとする少女を制して、テーブルの上に湯気が立ち昇るカップを二つ、置いた。
「あ、ありがとうございます……」
恐縮したように、おずおずとカップの縁に口をつける。乾いた唇を潤すように、ゆっくりとカップを傾けていった。
「美味しいです……」
「そら、よかった」
綻んだ少女に、ツヴェルフは内心で安堵の溜息を零した。そして暫くお互いに紅茶を啜る音が室内に降りて。少しばかり、向かいに座る少女から緊張が伝わってくる。おそらく、ツヴェルフの口から零れる話題の内容を察していて、怖れているのだろう。
「ヒユウのことなんだが……」
「……はい……」
やはり、少女はぴくりと肩を震わせて、俯いてしまった。予想していたが、それでもこうして間近に見てしまうと、ツヴェルフは居た堪れなくなってしまう。
「……俺がさ、初めてお前と会ったときのこと、覚えているか?」
きょとん、と少女はツヴェルフの出した話題に顔を上げた。予想外の話題だったのだろう。まごついてたが、すぐに過去の記憶を引っ張り出して、答えた。
「はい、覚えていますけれど……士官学校でヒユウ様のお友達で、それで一緒に教会に遊びに来てくださったんですよね」
休暇を取って教会に遊びに来てくれたヒユウと一緒に、ツヴェルフも来てくれた。それがツヴェルフとの出会いだ。人懐こい彼に、フィリアもすぐに慣れて、それから交流が始まった。懐かしい思い出にフィリアが浸っていると、向かいに座るツヴェルフからは、くっと噛み殺した笑いが零れた。
「違う違う、実はあれ、無理やりなんだよ」
「え、無理やりですか?」
ぱちくりと瞬きする少女は、初めて知る事実に、素直に驚いていたようだ。
「あの頃さ、ヒユウの奴、休暇の度に律儀に自領に帰ってたんだよな。それで、怪しんだ女共が尾行しようとか言い出して」
「び、尾行……?」
不穏な言葉に、フィリアはどもってしまった。
「んでも結局、ヒユウに見つかって、奴の逆鱗に触れてしまったわけなんだけども。まあその点俺様は抜かりなく、奴の尾行に成功したわけだ。んで、自分の城に戻るかと思えば、即また出かけてさ。何々ーってついて行った先が、お前のいる教会だったわけだよ」
ヒユウに見つかると脅されて即効で帰らされそうだと鋭く推測したツヴェルフは、彼より先にフィリアに接触しようと試みた。ちょうど、教会の薔薇園に出てきた少女に、ヒユウの友人だと嘘八百吐いたのだった。ちなみにそれまで、ヒユウとツヴェルフは従兄弟同士であるにも関わらず、話したことが一度も無かった。
人を疑うことを知らないフィリアはすぐに信じ、そしてヒユウの友人であるツヴェルフを快く教会の中へと迎え入れた。
「……そういえば、あのときヒユウ様は妙に機嫌がよろしくなかったですよね」
あのときは士官学校が忙しくて疲れているのだろうと思っていたけれど。
それに今考えてみると、一緒に笑いながら教会の中へ戻った自分達を見たヒユウは、とても驚愕していたような気がする。
「はは、あれはフィリアが初対面なのに俺にすぐ懐いてしまったもんだから、友人じゃないとも言い出せずに、不機嫌になっていたんだよ。嫉妬ってやつだな」
「まさか、嫉妬だなんて……」
あるわけがない、とフィリアは困ったように笑う。
「……俺はそれから、休暇のたびにヒユウについて行って、お前らんとこに入り浸るようになった。今考えるとすげーお邪魔虫だったな、しまったとは思うが……それは置いておいて、俺はずっと見てきたんだ。お前達を」
「……」
「ヒユウは……お前といると安らいでいたよ。お前のいないところではあんなに酷薄で打算的で嘘吐きで愛想笑いばっかりなのが嘘ってくらいに。お前の傍ではちゃんと笑っていたし、お前には驚くほど優しくて甘かった」
それは知っているだろ? とツヴェルフは優しく問いかける。
ヒユウがどれだけ優しかったのか、勿論フィリアは知っている。彼はいつだって少女に優しかったし、柔らかい笑顔を見せてくれた。頭も何度も撫でて貰った。暇を見つけては会いに来てくれた。冷たくされたことなんて一度もない。あの頃はとても幸せだった。ヒユウがいて、ハデス司祭がいて、ただそれだけで満たされていたのに。
ぎゅっと、膝の上のスカートを握り締める。
「でも……でも、今のヒユウ様は違います……私を、嫌悪しているように見えます」
ずっと、少女の心にわだかまっていた疑問。戸惑い。誰にも吐き出すことが出来なかった。けれど、同じくヒユウの過去を知るツヴェルフの前ではついに、弱音が零れてしまう。
「違う、それは違うんだ」
「……ツヴェルフ様?」
「何かあるんだ。俺があいつをとっちめて、聞きだして謝らせるから。何かの、ほら、えーと、勘違いとかすれ違いとか、そういうやつだからさ。だから、諦めないでくれ」
「ツヴェルフ様……」
ざわりと屋敷の中が賑やかになるのを、部屋にいたフィリア達にも届いた。会話を止めて、二人とも扉を凝視した。ざわめきが、近付いてくる。
「誰か、来たみたいだな」
「まさか……」
「あ、おい、フィリア……っ」
―― ヒユウ様が帰って来た?
逸る胸を抑えられず、フィリアは部屋を飛び出した。
突然の来訪者を出迎えたヘテイグの顔は、懐疑の色で満ちていた。
「……それは、確かなのか。マートレック殿」
失礼だとは思ったが、ヘテイグは再度聞き返す。自然と廊下を渡る足音が速まった。
「わしも、何度も確かめた……だが残念なことに」
語尾が弱くなるのは、マートレック自身も信じたくない思いで一杯だったからだ。廊下を曲がり、先ほどまでヘテイグ達が休憩していた一室へと通す。そこにいたクラーヴァ、ケイト、ギルベルト、ノエルが、立ち上がって敬礼した。
帝都より西南に位置する、ウッドシティル。そこにある帝国軍支部の最高責任者である老年の騎士マートレックは彼らとの久方ぶりの再会を祝う余裕もなく、本題を切り出した。
それを聞くなり、ヘテイグは拳をテーブルに叩きつけて、異論を唱える。
「そんな、まさか……ヒユウ様が帝国を裏切るなどありえん!」
「それは、どういうことですか?」
「フィリア……!?」
しまった、と顔色を変えたヘテイグとは対照的に、少女の表情は冷静さを残していた。少なくとも、ケイトにはそう見えた。少女の後ろからツヴェルフ、そして騒ぎを聞きつけたアレシアもいる。
「盗み聞きしてごめんなさい」と一言謝ると、そのままフィリアは部屋に入り、ヘテイグに近寄って、問いを繰り返した。
「ヘテイグ様、お願い、教えてください……」
押し黙るヘテイグの代わりに、ソファに腰掛けていたノエルがあっさりと答える。
「帝都より各領へ援軍要請を出していたのですが、ヒユウ殿の治めるフェニキア領はそれを無視し、あまつさえ、他領が出した援軍を邪魔したようですよ」
領境を封鎖され、フェニキア領を通ることが出来なくなった他領の援軍が困って、マートレックに助けを求めたのだ。マートレックが慌てて事実を確認したところ、それはヒユウの命令によるものだと判明した。
「それだけでも、重大な裏切りです。しかし、それだけでなく、他国の間者を帝都に引き入れたのも、彼の援助によるものだそうですよ」
「そんなもの、出鱈目だ!」
呆然とするフィリアの代わりに、ヘテイグは怒鳴った。ヒユウに憧れて騎士を目指した彼にとって、信じられることではない。士官学校から一緒に過ごしてきたケイト、クラーヴァも同じ気持ちだった。
言葉を失った一同を、ノエルは鼻白む。ヒユウを敵視する彼にとって、それらの反応は面白くないようで、追い討ちをかけるような言葉がつい口から出てしまった。。
「しかし、捕虜となったハウメイ国の兵士がそう漏らしていたんですけれどねぇ……彼らを指揮しているのも、ヒユウ殿らしいではないですか。そして、現実に彼はここには戻ってきていない。ユリアーナ殿も、僕達を欺いて敵国の間者を引き入れていた裏切り者だった」
白金の崇拝者共の狂った顔は見物だった、とノエルは低く笑った。
「俺が、あのとき問い詰めていたら……」
ツヴェルフは愕然と呟いた。
ヒユウの違和感、異変を感じ取っていたのに、それを確かめるのが怖くて、後回しにしてしまった。少女に決定的な打撃を与えることを怖れていたなどと言い訳にして、結局は逃げていただけだ。真正面から、ヒユウと向かい合うことを。
ツヴェルフはとても後悔していた。
帝都に辿り着いたあのとき、ヒユウを問い詰めていたら、何かが変わっていたかもしれないのに。後悔などするだけ無駄だ、と思っていたが、そんな理屈では抑えきれないほど、彼はあのときの自分を殴りたい衝動に駆られていた。
「確かめに行く。きっと、ヒユウ様には何か理由があるに違いない。それをお聞きするまでは、俺は信じんからな!」
断言するヘテイグの言葉を非難する者も否定する者もいなかった。誰もが皆、ヘテイグの言葉を信じていた。そう信じたい、と強く願っていたのだ。大仰に肩を竦めて、呆れたように息を吐くノエルでさえも。
「やれやれ……で、貴女はどうするおつもりですか?」
ノエルだけでなく、その場にいる視線が少女に集まる。ノエルとクラーヴァは何かを見定めるような鋭い眼差しで。ケイトは複雑そうに。アレシアはこちらを気遣う視線で。ツヴェルフは悔恨と自虐に苛まれた視線で。最後にヘテイグと視線がぶつかった。彼は強い眼差しで、頷く。少女も頷いた。
「私も行きます。行かせてください」
+ + +
「レヴィが死んだわ……」
薄明かりの空が広がっている。炎に苛まれた夜は終わった。
帝都の中央には、黒く焦げ無残な姿を晒す皇宮が、ユリアーナの佇む窓際からも見えた。痛々しいその様を見詰めながら、ユリアーナはぽつりと呟きを漏らした。
「ヴェルンヘルもまもなく、到着するでしょう」
窓から視線を外すと、ベッドの端に腰掛けたヒユウが片手でこめかみを抑えるように覆っていた。怪訝に思ったユリアーナは彼の傍へと駆け寄る。
「……ヒユウ?」
「いや、何でもない」
かぶりを振るヒユウを、ユリアーナは痛ましそうな目で見下ろしている。その視線に気付いた男が、覆っていた手を外して秀麗な貌を歪ませる。
「ユリアーナ?」
「ヒユウ、覚えている? わたくしが前に言ったことを」
―― ヴェルンヘルはわたくしのように甘く、見守ることができないと……。
それを言葉にすることは、出来なかった。その勇気が、彼女にはなかった。余計なことを言って、二目の前の存在を失いたくなかった。
「……何だ?」
「いいえ……お疲れなのですわ。ゆっくりとお休みになられては? これからが大変なのですから」
「そうだな……」
二人が会話を打ち切ったとき、その静寂を砕くように盛大な音を立てて扉が開かれた。同時に、甲高い声がヒユウとユリアーナを襲った。
「皇帝は死んだわ!」
ノックもせずにヒユウの部屋に入るなり、開口一番にそう叫んだ少女 ―― エレーナはツインテールを振り乱しながら、地団駄を踏んだ。
「どうすんのよ~! 帝国軍部はディーン一派を擁護して、彼を新皇帝に就けることを承諾したわ。これでクーデター派の目的は遂げられた。帝都の外で多発してるテロが制圧され、援軍が帝都に集結するのも時間の問題! これじゃあ、私達が皇城を制圧するのは無理じゃない!」
きぃぃっと癇癪を起こした幼子のように(実際に幼い少女なのだが)、エレーナが捲し立てる。遅れて入ってきたのが、従者のトーシャだった。情けない声で「エレーナ様ぁ、おお落ち着いてください~」と宥めているが、それが余計にエレーナの苛立ちを深めていることに気付いていない。
その騒ぎを聞きつけたのか、他の者も部屋の前に集まってきたようだ。けれど、誰も入ろうとしない。触らぬエレーナに災いなし。彼らは、癇癪の起こしたエレーナに近寄るとろくな目に遭わないと身に沁みてわかっているのだろう。哀れなのは、それでも宥めなければいけず、結局八つ当たりの的にされるトーシャだった。
唯一、エレーナに対抗できる人物 ―― 開けっ放しの入り口から、褐色の肌を持つルドヴィークが「失礼する」と一礼して入室してきた。大騒ぎする妹を諭しつつも、彼の本音も同じなのだろう。ベッドに腰掛けたまま、凪いだ湖面の双眸を射抜く。
「妙案でもあるのか、黒騎士」
「教皇を拉致するの失敗しちゃったし、あっちはクラーヴァの召喚獣が手強いし、前に進めないわ! どーすんのよっ!」
何より何より、このままじゃお姫様ともう会えないーー! とわめく。最後の嘆きが、彼女の本音なのだろう。天性の女王様である彼女は、自分の望みに大変素直な性質だった。びしり、と人差し指をヒユウの前に突きつける。
「責任取って、あんたも龍出して、あいつらやっつけなさいよーー!」
「……落ち着かんか、エレーナ」
無茶を言うな、とさすがのルドヴィークも、エレーナに対する語調を強めたとき、信じられない言葉が彼らの耳に飛び込んできた。
「そうだな、そろそろ頃合かもしれん」
視線を窓の外の天に移しながら、ヒユウは確かにそう言った。その言葉に、ルドヴィークは瞠目する。聞き間違いかと思って妹を見下ろすが、言い出した彼女もぽかんと大口を開けて、男を見ていた。彼女にとっては、無理難題をふっかけて困る相手の顔が見たかっただけなのだ。なのに、こうもあっさりと肯定されるなんて。と、言い出した自分が困惑の色を浮かべていた。
「……お前の龍は寄生獣によって封じられていた、と聞いたが」
帝国に放った間者によって、ルドヴィークはそれを知った。彼と同じく、帝国を欲する他国の者はどれほどの希望を見出したことだろう。帝国を手に入れる為に一番の障害と思われていた彼の龍が、封じられたのだ。今しか奴を葬る好機はない、奴を殺せば帝国を手に入れられる可能性は高くなる、とそう信じて王自ら帝国へと入った。まさか、殺す対象である彼と手を結ぶことになろうとは、そのときは思わなかったが。
それはともかく、どういうことなのだとルドヴィークは問い詰める。エレーナの表情も真剣なものとなっていた。
「封じられていない」
「はっ?」
淡々と返す男が、おもむろに何事かを呟く。高速言語 ―― 召喚士が喚起に用いる呪文だと理解したのは、男を取り巻く空気が蒼白い光の粒子に変化したからだ。エーテルの雫、それが溢れ出して男の肩の上に集い始める。徐々に輪郭を描き、ルドヴィーク達の視覚がそれを捉えた。
「なっ、それは……その生き物は……!」
金色の瞳。腕には硬い鱗、鋭い爪先をもった四足、翼が持った龍に似た生き物。ルドヴィークもエレーナも見たことのない存在だった。初めて見る不可思議な存在に、エレーナの好奇に満ちた目が輝き出した。
「竜……龍族の地上の眷属であり、五百年前に人間に加担した罪により、海の底深くに封印されている種族だ」
「な、んだと……? 何故、そんなものが……っ」
ざわ、とルドヴィークの背後にいた他の人間達も、驚かずにはいられなかった。
「お前達が崇め、怖れていた龍は、実際にはこの竜の力を借りたもの。空に浮かぶ龍の姿も、幻」
実際にはこのグラニを媒介として、ヒユウの本来の力の一部を現世に解放していただけだ。「まさか」と目を見開かせるルドヴィークを一瞥し、ヒユウはベッドから立ち上がった。肩に乗った小さな竜が、その一対の翼を広げて、鋭い牙を見せる。
人間には決して聞こえない嘶きが、天を貫く。
もうじき朝が訪れる筈だった天は、時を戻すかのように、再び夜の闇が閉ざしていった。ヒユウの肩の上にいた竜は姿を光の粒子と変え、窓の外へと飛び出していく。エレーナが思わずそれを追いかけて、ヒユウの横をすり抜けて、窓から身を乗り出した。天を仰ぎ、大きくその瞳を見開かせる。
「な……っ、龍が……兄様、龍の姿が空に……!!」
「何だと?!」
弾かれるようにルドヴィークも窓から身を乗り出した。
銀色の巨大な、鱗。巨大な爪を持つ手足。硬い鱗は全身におよび、長く太い首の輪郭は緩い弧を描いて、その身を天に漂わせていた。
琥珀色の双眸は鋭く、獲物を前にしたように暗闇の中、輝いている。
雷を孕んだ厚い黒雲を従えた、巨大な龍の姿が彼らの頭上から、全てを見下ろしていた。強大な存在感。威圧感。今まで見たどんな存在よりも、それは絶対的な圧倒的だった。
どういうことなのかとエレーナが振り返ると、そこにはもうヒユウも、ユリアーナの姿も見当たらなかった。部屋の出入り口にはハウメイの者達が塞いでいた筈だ。彼らを問い質すが、彼らも知らない内に、気がついたら二人の姿は無くなっていたのだという。
「エレーナ、どこへ行くっ!?」
駆け出そうとしたエレーナを、やっと驚愕の渦から抜け出したルドヴィークが引き止める。
「決まってますわっ! あの男を見つけて、どういうことなのか全てを聞き出してやるのですわ!!」
「ま、待て……!」
ルドヴィークの制止も聞かずに、妹は威勢良く飛び出してしまった。他の者は皆、帝都の上空を支配する巨大な龍の姿に、本能が齎す怯えを感じ取って、動けないでいるというのに ―― まるで、蛇に射竦められた蛙のように。
情けないことにそれに自分も含まれていた。
絶対的な力を前にして、膝が笑うという感覚をルドヴィークは初めて知ったのだった。




