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―― 嘘だろう?
あまりの事態に、アレシアの心の叫びは声にならなかった。
地面は遥か下。しかも、内乱真っ只中の戦場である。そんな上空に投げ出されて、彼女の思考は一瞬停止した。しかしそれもすぐに引き戻される。悪寒が走るような浮遊感に包まれたかと思えば、突然何か強い力に引き寄せられた。頬が、厚い何かに当たる。感触からして衣服だということはわかったアレシアは、視線を上げて驚愕した。
「な……っ!?」
力強く腕の中に引き寄せたのは、クラーヴァだった。至近距離に男の顔があって、一気にパニック状態となったアレシアはここが上空で落下中だということも忘れて、精一杯抗った。両手を胸について男から離れようともがく。条件反射というやつだ。よりにもよって、この男に、という気持ちが大きかった。しかし、そんなアレシアの抵抗など物ともせず、それどころかクラーヴァはアレシアが抵抗していることすら気付いていないようだった。
「おい、こら、そこにいるんだろう! いい加減、出て来やがれ!」
何かに向かって叫び出したクラーヴァに、アレシアは眉間に皺を寄せる。
「お前……っ、ここが何処だかわかって……っ?」
とうとう頭がおかしくなったか?
もうすぐ地面に叩きつけられて死んでしまうという状況を目の前にしてついに、クラーヴァは錯乱でもしてしまったのかと思い込み、アレシアは抗いに力を込める。このままでは二人とも死んでしまう。何とかしなければ。そう思いながらもがいてると、暖かい光が二人を包んでいるのに気付いた。否、正確には、この光はクラーヴァを包んでいる。
「これは……」
アレシアもかつて幾度と無く目にした。これは召喚士が“召喚”を行使する際に放つ“エーテルの雫”だ。急落下していた二人の身体がその光に包まれた途端、勢いは和らぎ、ゆっくりと下降していく。
「お前は……自覚なき召喚者の筈では……」
呆然とした面持ちで、アレシアは自分を抱えるクラーヴァを見詰めた。
黄金の光に包まれた、一対の翼と三つ目を有した獣 ―― クラーヴァの体内に潜む召喚獣は、主の危機と叫びに応えて出現し、二人の目の前にその身を浮遊させている。
「は、やっぱり、お前はしぶといやつだ。あの程度じゃぁ、くたばってねーと思ったぜ」
クラーヴァの口調は、抑えきれない興奮を滲ませたものだった。アレシアには何か嬉しそうに見えた。
今まで目の前の獣に対して、男は苛立ちしかぶつけたことがなかった。自分自身の力だけで戦いたい彼にとって、勝手に危機を察知して出現しては庇う、という行為を繰り返す目の前の獣は、余計なお世話どころか屈辱を与えてくれる存在でしかなかった。恩返しなどどうでもいいからとっとと出てけ、といくら叫ぼうが、獣は主を護り続けた。
龍のエーテルによって結界を張り巡らされたケルジャナ砂漠でさえ、この獣はクラーヴァの危機に反応して出てきてしまったのだ。強力な結界に侵され、自身が消えてしまうかもしれない、というのに。あのとき、虫の息だった獣を抱えた掌の感触を、不思議と今も覚えている。
ここまでされては、いくら強情なクラーヴァも認めざるを得なかった。
「お前が頑固なのはよーくわかったぜ。その頑固さに免じて、これからはお前の存在は認めてやる。だが、一つだけ約束がある。必要なときはお前を呼んでやる、だから呼ぶ前に勝手に出てくるっつーことはやめろ!」
わかったな? と念押しの一言を加えて、クラーヴァの鋭い視線と獣の三つ目のそれが交わった。獣の周りを包んでいた黄金の光がさらに輝きを増し、アレシアはその眩さに目を閉じる。
次に目を開けたとき、無事に地面に足をつけていた。クラーヴァの召喚獣のおかげだろう。地面に叩きつけられることなく、アレシアはほっと胸を撫で下ろしたかったが、そうする余裕を与えられることはなかった。二人が降り立ったのは帝都のど真ん中、反帝国組織の兵士達と帝国軍の兵士達の激しい交戦区域だったからだ。
「な……っ」
上空から投げ出されて落下の次は、戦場のど真ん中。
急展開に慌てて腰に下げていた愛刀を手にするアレシア。しかし彼女と同じ、否それ以上に驚いたのは、周りで戦いを繰り広げていた兵士達だ。突如として黄金の光が出現し、その中から登場したクラーヴァとアレシアに驚くな、という方が無理な話で。敵も味方も、一瞬攻撃の手を止めて二人を凝視した。
唯一その中で状況を把握していたクラーヴァのみが、生き生きとした声でもって、叫ぶ。
「よっしゃあ! ここでなら、一緒に暴れることを許可してやるぜ!」
完全に、この場を支配した瞬間だった。
クラーヴァの叫びに呼応して、三つ目の召喚獣が甲高い咆哮を上げ、その力を解放させる。眩い黄金の光が、戦場となっていた大通りを影なく照らした。高位の召喚獣という割には小さな身体なのは、まだ成長未知数の幼生だから。そう理解したのは、目の前で幼生から成体に変化する様を見たからだ。何故急激に成長したのかは、おそらく宿主であるクラーヴァが獣の存在を認めたことが大きいのだろう。
「これは……なんという力だ……」
召喚魔法や召喚獣にそれほど詳しくないアレシアでも、獣から放つ力の凄さが感じられた。戦士としての本能が、告げている。目の前の獣は、ケルジャナ砂漠の地下で見てきたどの魔物よりも強いだろう、と。
大通りでの戦いは、あっさりと片がついてしまった。勿論、クラーヴァと召喚獣のおかげで帝国軍の勝利だ。敵部隊の殆どを捕虜とし、残りは撤退している。その場にいた帝国軍の兵士達は皆、クラーヴァの帰還に歓喜し、そしてより強さを増した彼の力を讃えた。
とりあえずここは片付けたし、帝国軍本部に戻るとするか。そう踵を返すクラーヴァを呼び止める声がして、振り返る。やはり、彼の想像通りの人物が駆けて来た。
「おう、ケイトか」
「クラーヴァ、あんた、無事だったの!」
緋色の騎士服を纏ったケイトが息を切らして、クラーヴァと横に浮遊にする召喚獣を交互に見遣る。戦いの一部始終を見ていたのだろう。男の心境の変化を信じられない思いで、見詰めていた。
「当たり前だろ。それよりも、この惨状を詳しく説明してくれ」
「え、ええ。とにかく、こちらへ来て」
何故あれほど召喚獣を毛嫌いしていたクラーヴァが受け入れる気になったのか。詳しく聞きたかったが、状況がそれを許さない。久しぶりの再会を喜んでいる暇もなく、ケイトは促されるままに、作戦室として使用している屋敷の一室へと案内した。途中、クラーヴァの背後にいるアレシアの存在に気付き、
「貴女は、避難場所へと案内するわね。ちょっと待ってて」
と、手の空いてる兵士を呼ぶ為に廊下に出る。それを止めようとしたアレシアが口を開くよりも早く、クラーヴァが「こいつはいいんだ」と遮った。
「……彼女も戦いに参加させるというの?」
反帝国組織で戦いに加わっていた剣士とはいえ、一般市民には違いない。こういった内戦時には一般市民を護るのが軍人の役目だ。ケイトは口を尖らせたのだが、アレシアからも「私も知りたい、教えてくれ」と真剣な顔で請われては、拒絶もできず。結局、そのまま彼女も連れてくることとなった。
部屋に入るなり、ケイトはクラーヴァ達がいない間に帝都に起こった出来事を話し始めた。
最初に、皇城から火の手が上がった。突然の、炎。燃え盛るそれは見る見る内に皇宮を包み、皆パニックに陥った。すぐさま帝国軍部の騎士や皇宮騎士団が駆けつけたが、皇宮を包む炎は水で消すことが出来ず、特殊な結界の類だとわかった。中には逃げ遅れた者多数、皇帝、皇妃もいるという。必死に炎の結界を壊そうとしているが、そのタイミングを見計らったかのように、ディーン元皇太子一派によるクーデター、そして内部の裏切り者の手引きによって、他国の間者達がうじゃうじゃと帝都内に現れ、攻撃を仕掛けてきた。帝都の外では反帝国組織によるテロが活発化したらしく、まさに泣きっ面に蜂という展開らしい。
現時点では、帝都内に敵を入れてしまっているが、第三防壁で食い止めている状態だという。ケイト達が守るここもその第三防壁地帯に入る。
問題は、いつのまにか帝都中央まで潜入を許してしまった皇城の、謎の結界だ。中の様子が一切不明で、中にいる敵からの要求も無し。不気味な沈黙を保っているようだ。
大神殿は今のところ無事のようで、元老院議員の殆ども保護したとのこと。
「内部の裏切り者については内偵隊が動いているわ。いくら何でも、こんなに上手く他国の間者達が帝都内で一斉に蜂起なんて不可能だもの。強力な助っ人がいないと無理ね」
既に裏切り者の目星はついているらしい。誰だか知らないが、帝都をこれほど壊した報いは受けて貰わねば、とケイトは沸々とした怒りを抑えるのに必死だった。
「あの皇帝が人質ねぇ……『聖なる手』はどうしたよ?」
「『聖なる手』も姿が見えないの。とにかく、皇城の中に行こうにも、強力な結界があって、普通の兵士じゃ入れないし」
「“黒印魔法騎士団”の奴らをぶつければいいじゃねーか」
対魔法戦において“黒印魔法騎士団”を勝る者は他にいない。炎の結界とやらも、彼らの召喚獣でぶち破ればいいじゃねーか。と、クラーヴァにしては珍しくもっともな正論を吐かれ、ケイトは溜息をついた。
「勿論ぶつけているわよ。でも、つい一週間前だったかしら。黒印魔法騎士団第二副官のコッラード殿が兵を率いてケルジャナ砂漠方面に魔物討伐に行ってしまって留守なのよ。まあ半数以上は帝都に温存していたのだけれど……それ以上に強力みたいで、解呪にもう少し時間がかかるみたいよ」
「……思いっきり、こちらの動きを読んだようなタイミングだな」
「たぶん、そうなんでしょうね……」
「ちっ」
帝国の内情を尽く見透かされた敵の動きに、聞いてるだけでクラーヴァも胸糞が悪くなった。これだけの内情を敵が掴んでいる、そして同時にこれだけの多くの敵の支援が出来るということは、帝国内でも大物、ということだ。
一体誰なんだこの糞野郎。絶対潰す。後悔させてやる。とぶつぶつ独りごちていると、扉をノックする音が響いた。ケイトがソファから立ち上がって扉を開けると、兵士が敬礼する。
「ケイト様、敵兵に囚われかけていた元老院議員チェリスティ殿を保護致しました」
「あらそう、ご苦労様。避難所にお送りしてくれる?」
ケイト達帝国軍人にとって、元老院は政敵である。普段は散々こちらに対して罵詈雑言の嵐のくせに、こういう非常時だけ助けを求めてくる彼らに内心思うこともあるが、それでも彼らは守るべき存在なのだ。国の盾であり、剣となれ ―― ゼノンの境地までいくにはまだまだ精神的に未熟なケイトであったが、それでも任務であれば正確にこなせる理性はある。
兵士に労わりの言葉をかけるケイトの横からすり抜けて、廊下に出てきたクラーヴァが、
「その元老院議員は何処だ?」
と威圧的な物言いで迫った。その迫力にたじろいだ兵士はつい「あ、あちらです……」と指差して教えてしまう。
「ちょっと、クラーヴァ?」
怪訝そうな声をあげるケイトを無視して、クラーヴァは大股で歩を進める。そのやりとりを見ていたアレシアもわけがわからず、彼の後を追った。
とある一室の椅子に腰掛けた老人は、蹴破るように開けられた扉にびくりと肩を震わせた。そしてずかずかと無遠慮な足取りで中に入ってきた人物に思わず舌打ちをする。
「よお、久しぶりだなぁ、元老院議員チェリスティ卿。一つ、聞きたいことがあるんだが教えてくれるか?」
「貴殿はハンソン家の……う、うわっ!」
皮肉の一つでも投げてやろうとしたのだが、いきなり胸倉を掴まれ、そのまま軽々と持ち上げられてしまった。突然の暴挙に、チェリスティ卿と呼ばれた老人は情けない悲鳴を上げながら、浮いた両足をばたつかせた。
「き、貴様ぁっ、私にこんなことをしてただで済むと……っ!」
「んなことはどうでもいい、それより教えろ。長く元老院に就いていたお前なら知ってる筈だ。約六年前、カシュガ族っつー一族を掃討する命令を下したのは覚えてるな?」
「カシュガ族だ、と……っ、それが何だ! というか、降ろせ! おい、誰かこの無礼者を何とかしろ!」
棒立ち状態となっている周囲の兵士達に向かって、老人はわめき散らした。しかし、兵士達も上司の突飛な行動にどうしていいかわからず(止めようにも、クラーヴァに敵う者はここには存在しない)、右往左往するのみだ。
「その様子だと知ってるな。では言え、正直に言わないと、ぶっ殺す! あの命令は、エルカイル教会の教化政策によるものか! カシュガ族が略奪を繰り返していたのは嘘だな? 俺達に嘘を吐いて、邪魔なあいつらを殺させたわけか!」
「!」
クラーヴァの迫力に、老人は顔色を変える。しかし、すぐに言葉の内容に笑い声を上げた。侮蔑の笑い。老人にとっては、今更の話だったのだろう。
「はは、そうだ、今更何を……っ! ゼノンも承知していたはずだ!」
「てっめ……!」
「ぎゃっ!?」
言い訳すらせず、それどころかクラーヴァ達軍人の愚鈍さをせせら笑った老人を、怒りのまま殴り倒した。生まれてこの方、剣すら持ったことの無い文官人生を歩んできた老人は、たった一発で意識を失ってしまった。力の抜けた身体がどさり、と床の上に落とされる。顔にはくっきりと大きな青痣が出来ていた。クラーヴァの剣幕にただひたすら怯えていた周囲の兵士の中、ケイトだけが我に返って、わなわなと肩を震わせる。
「なっ、何をしているの。こんなことをして、あんたどうなると思ってるのよ!?」
帝国軍幹部が、現元老院議員を思い切り殴って気を失わせてしまった。しかも相手は元老院の長に次ぐ権力の持ち主で、プライドも軍部に対する圧力も強い男なのだ。とんでもないことをしでかしてくれた。つくづく厄介事を作ってくれる男だと、げんなりしたケイトは、いっそこの男をげんこつで殴ってしまいたかった。否、これは一発殴っておかないと。修正というやつだ、と一歩踏み出す。しかし、それ以上に男は深い憤りに苛んだ色を浮かべていて、思わず振り上げた拳を宙で止めた。
「そんなことはどうでもいい! 俺は……俺のしでかしたことはそんなことでは拭いきれない!」
「え……?」
ケイトが聞いたこともないような声、そして表情だった。後悔、というものに一生縁のない男だろうと思っていたのに、今まさに目の前の男の表情は、その色に満ちているではないか。
呆然とするケイトの背後で、がたりと音がする。振り向くより先にクラーヴァが気付いて、呼び止めた。
「あ、アレシア……待て!」
先程の音はアレシアのようだ。続いて、走り去る音がしたから、彼女は今の話を聞いていて、そしてここから逃げ出したのだろう。それを、クラーヴァはすぐさま追いかけた。
「な、何なのよ……?」
ケイトもその後を、追った。
ヘテイグとフィリアを乗せて、レムングスが灰色の煙漂う帝都の街中を低空で飛行している。一心に教会を目指す少女とは別に、ヘテイグは考え込んでいた。
(この獣……飛行能力は無かった筈だ……)
少女の支配下にあるレムングスが非常に高い脚力をもっており、移動、跳躍力に長けているのは知っていた。しかし、飛獣のように飛行を維持する能力は無かった筈だ。
(成長しているのか?)
稀にだが、召喚獣も成長する事例があることを彼は知っている。
もしそうならば、主であるフィリアの能力も成長しているのかもしれない。
「本当にいいのですか? 軍部に行かなくても……」
考え込んでいると前に座る少女から、声がかかった。先ほども繰り返された話題。余程、少女は気になっているのだろう。
ヘテイグを帝国軍本部に送り届けてから、少女は教会に向かおうと思っていたのだが、結局、ヘテイグもフィリアと共に教会へ向かうことになった。ヘテイグが少女と一緒に行動すると言ったのだ。いくら少女が、大丈夫です、と返しても、青年は頑なに意見を変えなかった。
「ああ、俺はヒユウ様からお前の護衛を引き受けたからな。お前を守ることが最優先だ」
「あ、ありがとうございます……」
真っ直ぐにそう言われて、フィリアは僅かに赤面してしまう。命令だとわかっているのだが、どうもこういう台詞を真正面から受け止めるのは慣れない。
そうこうしている内に目的の教会が近付き、レムングスが周囲を旋回するように飛ぶ。大通りから少し奥にあるその教会は規模的には小じんまりとした造りで、少女が住んでいた辺境の赤レンガの街の教会と同じくらいだった。少なくとも、敵兵にとって抑えるべき重要な拠点ではない。だというのに、その教会を包囲する兵士の姿は少なくなく。やはり建物自体ではなく、その中にいる存在が、彼らの目的なのだろう。
「兵士……あれは帝国軍ではないな。あまり近くに降り立つのは危険だ。少し離れたところへ行こう」
レムングスはヘテイグの言葉に従って、教会より少し離れた通りに降り立った。ここら辺も敵軍の攻撃を受けた区域らしく、熱を孕んだ灰が舞っている。無残に焼かれた家々を痛ましい思いで見つめながら、ヘテイグを先頭にしてフィリアは教会へと向かった。
教会の周りには、兵士が数人いた。砂色の軍服、腰に剣を下げた恰好。見張りだ。既にここは敵軍に占領されてしまっているのか。
フィリアに緊張が走ったが、それにしてはどうも様子がおかしかった。少女を留めて、ヘテイグ一人で気配を隠して近付く。教会の扉付近で何か話しているようだ。それらの会話を盗み聞いたところ、どうやら教会を包囲したものの、そこから中へ進むことが出来ないようだった。
なんでも一歩でも入れば、とんでもない恐ろしい目に遭ってしまう。人によっては化け物の巣窟だったり、底なしの沼だったり、様々らしい。そう兵士達は口にしていたらしい。
ヘテイグからそのことを聞いたフィリアは一つの可能性に思い至った。
「きっと、テイルさんです……テイルさんの幻。中に彼が……ハデス様達も?」
大神殿の奥で孤独なテイルの為に、ハデス司祭に時折様子を見に行って欲しいと頼んでいたのだ。何故大神殿ではなくてこんな外れた教会なのかは疑問だったが、きっとここの方が、テイルも気兼ねなく振舞えるからだろうか。
とにかく行かなきゃ。そう力む少女を、ヘテイグは止めた。
今行けば、自分達もテイルの幻影に取り憑かれてしまうだろう。まずは、あの敵の兵士をどうにかしないといけない、と彼は言った。確かにその通りだと思い、フィリアはヘテイグとこの後の行動を相談していると、教会を包囲していた兵士達の元に、新たな兵士がやってきた。
制服の色が違う。深緑色の軍服を袖まくりし、逞しい体つきの男だった。
「見るからに隊長格の奴だな……まずいな」
人数が増えて、しかもそれが隊長格だとますます攻略は難しくなる。しかし、ヘテイグは仮にも帝国最強を誇る黒印魔法騎士団副官であり。一人でも、この場を何とか出来るという自負があった。ただ、問題は少女だ。ヘテイグの本心としては、少女にはどこかに隠れていて欲しかったのだが、今の彼女の精神状態では言ったところで聞かないだろう。さて、どう説得するか。そのことに苦心していたのだった。
一方、新たな人物を迎えて、それまで立ち往生していた兵士達は喜色を浮かべた。
「隊長!」
「中に帝国軍がいるわけでもねーってのに、まだ攻略出来ないって、お前ら揃って愚図だな」
深緑の軍服を着崩した中年の男が、教会を包囲していた兵士達を小突く。荒っぽい罵りを受けつつも、兵士達は頼りになる隊長の登場にほっとしていた。
「しかし、隊長~、この中やばいっすよ。化け物がうじゃうじゃいたんですって! 実際にも襲われたっす、俺慌てて逃げ出したんすよ~」
「違うって、底なしの沼があったんですよ。嵌ったら何故か怪我してて……嘘じゃないですって、隊長!」
口々に言い訳がましく、攻略対象の詳細を聞かされながら、隊長と呼ばれた男は鋭い目を更に細めて、素早く状況を判断した。目の前に佇む教会、外からは何の変哲もないそれだ。馬鹿でかい大神殿ならともかく、こんな街中にぽつんとある教会に魔物がうじゃうじゃ詰まってるわけがない。沼なぞあるわけがない。
「……それは単なる幻だ。怖れてんじゃねぇ、腑抜け共が」
「幻!? まさか、あれが幻だなんて思えねーっすよ!」
「……教皇の幻影能力は凄まじいと聞いた。先の反乱では、龍の幻影すら作り出して帝国軍を撹乱したぐらいだ。お前ら腑抜け共のおかげで、こん中に教皇殿がいるのがはっきりしたな。そこだけは褒めてやろう」
「教皇様が?! こんな、教会に……」
信じられない、というように兵士の一人が目の前の教会を仰ぎ見る。エルカイル教会の教皇、といえば、帝都中央に聳え立つ大神殿の奥で誰にも姿を見せずに坐しているのではないか。そんな疑問もずかずかと扉に続く階段を上る男に届くことなく。
「しゃーねぇ、俺が行く。お前らどけ!」
「気をつけて下さいっすよ~」とどこか緊張感の抜けた声に見送られながら、男は教会の扉を押し開けて一歩足を踏み入れた。
その瞬間、映像が脳裏に焼きつくように映し出される。ほぼ強制的に送り込まれた映像に、男は思わず目を瞑った。次に瞼を開けたとき、辺りは夜の闇に閉ざされていた。教会に入る前は、昼間だった筈だ。そして長椅子が立ち並びステンドグラスが輝く教会内部ではな、見たこともない鬱蒼と茂る森の中を、いつのまにか男は歩いていた。
―― 成程。これが幻影ってやつか。
思っていたよりも精度が高い。
男は素直に感心した。注意深く辺りを見回しながら森の中を徘徊する。不気味に響く生き物の鳴き声、さわさわと夜風に揺れる葉擦れの音。はっきり言って、現実としか思えない。兵士の報告によると、一昼夜、この幻影によって敵兵を拒み続けたというのだ。これほどの精度を長時間維持し続けたのは賞賛に値するぜ、と男は内心で零した。
一般の兵士では、この幻に太刀打ちする術は無いだろう。しかし、所詮は幻。上級召喚士レベルの精神力を持つ者ならば、打破することは可能。男は冷静に判断した。
がさり、と背後で音がする。男が振り返ると、一匹の野獣が獰猛な息遣いで襲い掛かろうとしていた。全身に帯びる殺気。直前まで気配を感じることが出来なかった違和感を、男は察知していた。踵を蹴って、鋭い牙が男の喉笛を狙う。右手の剣を構えた男は、野獣に留めていた視線を素早く、横に走らせた。
「甘いっ!」
「ぎゃんっ!?」
襲い掛かってきた野獣とは正反対の方向から、新たな悲鳴が上がる。同時にかちゃりと短剣が石床に落ちる音がして、森の中だった光景も、元の教会内部へと戻った。
幻が、消えたのだ。
「! クシシュトフ!!」
少年の焦った声がステンドグラスの眩い天井に響く。
中年の男を襲った野獣の姿もとうに掻き消え、その代わりにいたのは、少年と少年の手から落ちた短剣だった。
「ふん。幻と一緒に、本物 ―― そこのクソガキも混ぜて襲わせていたってわけか。なかなか、ガキのくせに小知恵が回るようだ」
気に入ったぜ、と男は愉悦の笑みを交えながら、剣を仕舞った。思いっきり剣柄で殴られたクシシュトフはすぐには起き上がれず、苦痛の呻きを堪えながら、男を睨み上げる。その後方では、テイルが肩で大きく息をしていた。彼の横にはハデス司祭や他の人間達もいたのだが、男の眼中には無い。
「……さすがに、疲労困憊のようだな。教皇様よ?」
「……っ」
男の予想以上に教皇は幼かった。白髪が珍しかったが、それ以外はどこにでもいるような平凡な少年だ。だが、その瞳に宿る光は力強く、己の幻を打ち破った男に対して、少しも怯んだ様子を見せない。その双眸の強さを気に入った男は、真っ直ぐにテイルの方へ足を進めた。
「大人しくしろ、別に殺そうってわけじゃねぇ」
宥めるような口調、絶対的な勝利を確信した目つきで見下ろしながら、男は近付いてきた。あと三歩、という距離になったとき、テイルは倒れ伏したクシシュトフと、横にいるハデス司祭に向かって、謝った。
「ごめん……クシ、ハデス様……もう、力がもたない……」
「!?」
ふっと、煙のようにテイルの姿が掻き消える。ぎょっと男は目を見開かせて、周囲を二、三度見渡した。そしてすぐに、つい先程までいたテイル自身も幻であったことを理解する。
「ちっ、教皇自身も幻ってやつか……せっかく教皇を捕えることが出来ると思ったんだが」
大仰に舌打ちした男は、やれやれと肩を回した。とんだ無駄骨だったわけか、と進めた歩を止めず、今度は残った存在達に鋭い視線を投げつけた。
「残ったのは、クソガキとじじい共ってか。……運が悪かったな、今の俺はとてもむかっぱらがたってるんだ」
せっかく手柄をたてようとやって来たというのに。これでは前線で帝国軍と戦っている方が良かったぜ、と唾棄した。そして一旦腰に戻した剣をまた引き抜くと、獲物を前にしたかのように上唇を舐めた。
こちらを嬲り殺そうとする気配に満ちた、残酷な色をその双眸に宿す。恐怖を感じたが、それ以上に負けん気が強いクシシュトフは、己を奮い立たせるように「ちくしょう!」と吼えて、短剣を手に立ち上がった。男がそれに反応して、ハデスへと向けた足を止めて、クシシュトフのいる方を振り返った。
「クシシュトフ、君は逃げなさい」
「ハデス様……っ!?」
クシシュトフは慌てた。目の前の男は手強い。外にいる兵士達全員を合わせても、彼一人の方が強いだろう。そんな相手に、ハデス司祭一人を置いて逃げるわけにはいかない。けれど、ハデス司祭の口調は頑なだった。それを挑発と受け取った男は、背筋を伸ばして立つハデスをねめつける。
「俺は不信心者でね。司祭だろうが、関係ねーぞ?」
「ハ、ハデス様、駄目だ、そいつは危ない……っ」
戦いを好み、弱者を嬲ることに快感を覚える。目の前の男は、バルトロと同じ臭いがした。直感でそれを感じ取ったクシシュトは必死に止めたが、ハデスは穏やかな表情を崩さず、裏口から逃げるように指示をした。
「フィリア達が来る。それまで、逃げ続けなさい」
そう言って、少年の不安を宥めるような穏やかな表情のまま、男の前に立ち塞がる。クシシュトフが駆け寄って、ハデスの司祭服の裾を引っ張って、一緒に逃げようとした。しかし、それは遅かった。
「ハデス様!!!」
鮮血が、頬に飛び散る。クシシュトフが悲鳴を上げる。そして、悲鳴はその一つだけではなかった。
「ハデス様……っ、いやぁあああ!!」
包囲していた兵士達を昏倒させて、急いで教会の中へ足を踏み入れたとき、信じられない光景を目の当たりにしてしまった少女は絶叫した。
獰猛な目つきをした男の足元に、ハデス司祭が倒れていた。それも、血溜まりの中に。どう見ても、致命傷であった。
「落ち着け、フィリア!」
ヘテイグは少女を落ち着かせようとしたが、遅かった。
少女の叫びに呼応するかのように、レムングスが恐ろしい咆哮をあげて、ハデスを殺した中年の男に向かう。一瞬だ。人の命を屠った直後で興奮状態だった男が理解する前に、レムングスはその鋭い刃と牙でもって、その身を引き裂いた。あまちの速さに対応することも出来ず、男の胴体と頭は離れ離れになる。
教会にいた他の住民達が悲鳴を上げる。それによって、フィリアは我に返った。壁に飛び散った血潮、赤黒い肉塊となった男、その中央で返り血を浴びたレムングスが、黄金の隻眼をこちらに向けていた。
「私は……今、何を……っ」
わなわなと震える両手で、口を覆う。酷い血臭に、眩暈が襲ってくる。ぐらぐらと揺れる意識の中、フィリアは理解した。
―― レムングスに人を殺させてしまった。ハデス司祭を殺した男を憎んだフィリアの代わりに、殺した。
琥珀の隻眼が、どこか哀しい色を湛えて、こちらをずっと見ている。
「いや……」
返り血に染まった黄金の獣を見ていることが出来なくて、フィリアは地面に顔を伏せて叫んだ。
「い、いや……どうして……っ……!?」
「フィリア、落ち着け!」
ヘテイグが慌てて駆け寄って、少女を抱き起こそうとする。しかし、いやいやと顔を振るばかりで、少女は今起きた全てのことを拒み続けた。
どうして。ごめんなさい、ごめんなさい。お願い、今の私を見ないで……!
そう願ったフィリアの前から、獣は姿を消した。テイルの幻のように、ふっと掻き消えてしまっていたのだ。
「え……? レ、レムングスさん……? どこ……、どこにいるの!?」
フィリアは真っ青になって、獣の名前を呼んだ。けれど、どれだけ呼んでも、彼が戻ってくることは無かった。混乱しながらも、少女は戻ってこない理由を頭の端では理解していた。
「レムングスさんが……っ、ごめ、ごめんなさい、私……っ」
彼が消えたのは、フィリアが願ったからだ。見たくない、と。彼に向かってそう願ったから。
汚いこと、醜いこと全て彼に押し付けて、自分の手は汚さずに。獣の身に貶めてまで守ろうとした彼の誓いを、自分は滅茶苦茶にしてしまったのだ。
酷い。なんて、自分は酷いことをしてしまったのだろう。後悔と己を責める言葉ばかりが、頭を巡った。
「フィリア……」
ハデスのかすかな声に、フィリアははっとして顔をあげた。血溜まりの中に倒れていたハデスの元へ、半ば這うようにして寄る。
最早、虫の息というのが似つかわしい。誰が見ても、致命傷だった。それでも、フィリアは首を横に振って、懇願した。
「ハデス、さま……いや、行かないで……」
胸の上に置かれた彼の手を両手で握って、そのぬくもりを確かめる。まだ、彼は暖かい。死んでいない。
フィリアにとって、実の父以上の存在。彼がいたから、今までずっと自分の心は保てていたのだ。血の繋がらない、忌まわしい一族の生き残りである少女を、実の娘のように彼は慈しんでくれたから。彼を失うことは、考えられなかった。信じたくない。夢であって欲しい。今起きたこと、すべて。
「フィリア……大丈夫、あの子はかえってくるよ……」
「で、でも……私、レムングスさんとの約束を破ってしまった! 人を殺したくないから……だから、私に真名を託したのに!」
フィリアはハデスに縋って泣いた。
自分を信頼してくれた彼を、裏切ってしまった。その上、自分の汚い感情を見られたくなくて、そう願ってしまった。もう、彼は戻ってきてはくれない。こんな酷い自分の元になど。そう思うと悲しくて辛くて、フィリアは自分が許せなかった。
「フィリアは強い子だから……」
「強くなんてない……」
誰一人救えない、こんな自分など。黄昏人の純血だというのに、言霊をその身に負う唯一の存在なのに、笑えるくらい何の力も持っていない。レムングスがいなければ、たった一人では、何も出来ないのだ。
力無く返す少女に、ハデスは最後の力を振り絞って、言葉を続ける。
「彼は、お前の鏡だよ……お前の心を映す鏡。偽り無く、全てを映すから……見たくないものも見てしまうだろうが、逃げては……駄目だ。向き合わねば、彼は戻らない……」
大丈夫、と穏やかな口調でハデスは少女に囁き続ける。
彼は鏡。私の心を映す鏡。偽り無く己の汚さ全てを映し出してしまうから、フィリアは見たくなくて、怖くて、彼を遠ざけてしまった。
あの返り血は自分は受ける筈だったのに。
それが辛い。自分の手ではなくて、彼の手を汚してしまったことが。そして、ハデス司祭を失ってしまうことが、信じられない。目の前で死の色が深くなっていく彼を前にして、何も出来ない自分の無力さを、フィリアは詰った。
災いだけを周囲に振り撒いて、それなのに彼は何故こんなにも柔らかな微笑を自分に向けてくれるのだろう。いっそ責めてくれたら、楽になれるのに。
自分を責め続ける少女に、ハデス司祭は悲しそうな眼差しを向けた。
「メイリンがまだ城の中に……行っておあげ」
「メイリンさんが……!?」
絶望の淵にいる真紅の瞳に、小さな光が宿る。それを、ハデスは見つけて微笑んだ。
幼い頃より少女を育み、見守ってきた男は、彼女に看取られる最期を幸福だと素直に思った。それが目の前で泣き腫らす少女に届けばいい、と願う。もっと、上手く伝えられる言葉があればいいのに。彼女の悲しみを拭うほどのそれを見つけられず、ハデスはそれだけが心残りだった。
幸福だった。
ヒユウから、天涯孤独の少女を託され、育て始めたあの日から。彼女の成長を毎日一日千秋の思いで、見守ってきた。その華奢な身体には重過ぎる運命を背負い、けれど一生懸命に前を向こうとする少女を不憫に思わずにいられなかった。何故彼女がこんな目に遭うのだろう。同じように傍で見守ってきた彼も、そう思っている筈だ。だから ――
「ヒユウ、フィリアを……フィリア……どうか、幸せに」
虚ろな目が、宙を映す。きゅ、と少女の両手の中にある彼の右手が、弱々しく、握り返した。それが最後だった。急速に冷たくなっていく彼の身体に縋って、フィリアは必死に名前を呼び続けた。
「ハデス様……っ、ハデス様ーーー!!」
「ハデス様、死んじゃ駄目だ! イエジ様っ、助けて、助けてよ!」
クシシュトフもハデスの傍まで近寄って、そして彼の顔を覗きこんで、大声で泣きじゃくった。
「……フィリア、そろそろここを出なければ。またすぐに敵兵が来るかもしれない」
「……」
ハデスの手を握ったまま座り込んだ少女の背中に向かって、ヘテイグは躊躇したがそれでも厳しい言葉を投げた。彼女の心情を思えば、もう暫くそっとしてあげたい。けれど、ここは内戦激しい帝都の最中で。いつ新たな敵兵がやってくるかわからないのだ。
「それに、お前は皇城へ行かねばならんのだろう?」
「……メイリンさん……」
そうだ。彼女を助けないと。
今、自分に出来ることをやらないと……。きっと、ハデス司祭もそれを望んでいる筈だ。そう頭で理解していても、脱力したように身体はなかなか動かなかった。ヘテイグが近寄ってきて、少女の腕を掴んで立ち上がらせて、やっと自分の足で立つことが出来た。
泣き腫らしたおかげで真っ赤な目をなるべく見ないようにしているヘテイグの配慮が、なんだかとても目に沁みた。
「ハデス様を、運ばなくては……」
こんなところで放って置けない。へたりこんだまま動かないクシシュトフも、避難させないといけない。「クシシュトフさん……」と声をかけようとしたとき、外から鈴の鳴るような声が届いた。
「うふふ、これは素敵な場面に出くわしたようね」
「!?」
新たな敵兵か、と外に出たフィリアは目を丸くした。
小さな少女が、教会の前に佇んでいる。桃色のツインテール、大きな瞳は藍色、色白の少女は幼いながらも、美しい造りをしていた。可愛らしい水色のドレスの裾をつまんで、淑女の礼をとってみせる。
「はじめまして、フィリア、私のお姫様。私はエレーナ。エレーナ・ティスティーダ・ハウメイ。ハウメイ王国現王ルドヴィークの妹よ」
「! どうして、ハウメイ国の王女が私の名前を……?」
ハウメイ国 ―― 聞いたことがある。ロウティエを海を隔てた南方にある大陸の小国。ロウティエとの国交がそれほど盛んな国ではないので、それ以上の情報はフィリアは知らない。しかし、現在ここにいるということは彼女の国もロウティエを狙っているということなのだろう。ただそれでも、何故それほど遠い国の、王の妹である彼女が自分を知っているのかは疑問だったが。
「簡単よ。私も貴女と同じ故郷を持っているからよ」
「黄昏人……?!」
自分の正体を知られている。その上、彼女も同じであると唐突に知らされ、フィリアは目を見開いた。
「半分だけね。ついでに、兄様は黄昏人の血は引いてないわ。異母兄妹だから」
うっとおしげに片方の髪を払うと、エレーナは続けた。
「母親が、黄昏人だったの。あの故郷エウノミアから命からがら逃げ出して、そして流れ着いた国で、運よく助け出されたのね。そして、国王の側室に収まったの。この国では考えられないでしょうけど、ハウメイのように他の地では黄昏人が実権を握っている国があるのよ」
「……何故、王妹である貴女が、こんなことを?」
背後の教会、その中にいる存在を気にしながら、彼らを巻き込まないようにしなければ、とフィリアは慎重に言葉を紡いだ。彼女の狙いは、自分なのだ。
「ふふ……私の国はね、飢饉があって、今とても飢えているの。だから前からこの豊かな大地が欲しかった。そして力ある者ならば、たとえ王族でも戦う道を取るのよ!」
エレーナが叫ぶ。どこからともなく黒い鳥が数羽襲い掛かってきたが、それはヘテイグが素早く剣で受け止め、薙ぎ払った。悲鳴を上げて黒い羽根を撒き散らす中、エレーナは艶っぽく笑う。幼い割りに、とても好戦的な性格のようだった。
「どうしたの、先程の獣は呼び戻さなくていいのかしら? 見ていたけど素晴らしいわ、百獣の王を完全な制御下に置いているのね……私にそこまでは無理」
自嘲を含んだ声色に首を傾げる暇もなく、どこからか近付く羽ばたきの音。ヘテイグは天を仰ぐなり、ぎょっとした。黒い鳥の大群が、こちらに向かってきている。
「鳥……! 先程の攻撃はお前か! 飛獣を落したのもお前だな!」
剣を振るって鳥達を追い払うが、如何せん数が多すぎて埒が明かない。原因を叩かねば、とヘテイグは隙を窺う。エレーナは甲高い笑い声をあげて、ヘテイグを馬鹿にした。
「そうよ、今頃気付いたのお馬鹿さん! さあ、貴方も歌いなさいな。どちらがこの鳥達を操れるか勝負致しましょう!?」
「歌……?」
「……あら、もしかして知らないのかしら。ならば見せてあげる、私の葬送曲を」
エレーナの唇から、可憐な歌声が紡がれる。およそこの場には似つかわしくないほど、優雅な調べだ。しかし、今まで漂っていた鳥の大群が、一斉にフィリア達に向かって襲い掛かってきた。
「こいつら、歌に反応しているのか……っ!」
召喚獣を呼び出さねば、とヘテイグは催眠状態へと移行する。だがしかし、それは少女の悲鳴によって掻き乱された。
「そんな……、やめて下さい……!」
違う。歌は、そんな風に歌うものじゃない。
だって、言ってくれた。
―― 歌は、歌う者の心がそのまま伝わる、と。
だからそんな風に歌わないでください、と少女は切羽詰ったように叫んだ。
「はぁ? なんなの、それは。歌は私達の武器よ、今使わずにしていつ使うというの!」
「違います、黄昏人の歌は聞く者を操るほどの力は無いと……」
「ふふ、ではこれはどう説明するというの!」
「!」
視界一面に羽ばたく黒い鳥達が、鋭い琥珀の視線を少女へと向ける。獲物を狙う、爛々とした輝きに、フィリアは無意識に息を呑んだ。
「半分しか黄昏人の血を受け継がない私ではせいぜい、知能の低い鳥を操る程度だわ。まあこれでも数を増やせば結構な攻撃になるのよね!」
鳥が次々と特攻してくる。嘴が、二人の衣服、肌を引き裂いた。けれど、直撃しないのは、わざとなのだろう。肌表面を狙って、皮膚を切り裂いて、少しずつフィリア達を嬲るつもりなのだ。
帝都上空で飛獣を襲った形と同じだ。自らの命も省みずに、ただ武器として。ケルジャナ砂漠での、悲しい記憶が蘇って、フィリアは叫んだ。
「やめて、鳥はあなたの道具ではないわ!」
「ふん、百獣の王を支配下に置いている貴女がそれを言うの?」
激昂した少女に僅かに圧倒されたのか、エレーナは攻撃を止めて、言い返した。負けん気の強い彼女は、口論でも勝たないと気が済まないのだ。
「レムングスさんは物じゃない……、大切な……友達です」
友達、そう表現してもいいのか。そんな資格は自分にはもう無いけれど。
彼にとって自分は名前を奪い身体の自由を支配している立場だ。そして、最も彼が嫌がることを強いてしまった。取り返しのつかないことをさせてしまった。どれだけ悔いても、彼にかかった返り血を拭うことは出来ないのだ。
それでも、彼には出来る限り自由でいて欲しかった。こんな風に、自分の代わりに戦って欲しいわけじゃない。汚れて欲しいわけじゃなかったのに。
「歌だってそう、そんな風に歌って欲しくない。歌は誰かを傷つける為に歌うものではありません。それでは貴女が、後悔することになります」
「何それ、私に説教してるの?」
心底不思議そうに聞き返すエレーナに、フィリアは生真面目に頷く。
「……友達ですって? 傷つける為じゃないですって? 言うにことかいて、この私が後悔するですって?」
おーほほほほほ! と帝都中に響き渡りそうな甲高い声を上げて、心底おかしそうに少女は笑い出した。
その背後で、今まで戦いに巻き込まれないよう木の影に隠れていた褐色の肌の青年が「あ、あの~」と近付く。そして、笑い冷めやらぬエレーナに向かって、恐る恐る告げた。
「エレーナ様、そろそろ時間切れです……っ!」
年上のくせに妙にびくついた態度の青年がそう言うと、幼い美少女は「はぁあああ?」と逆ギレしだした。
「んもう! 楽しいところなのに邪魔しないでよ、トーシャ!」
「そ、そんなこと仰られても! なりません、あの方が来られるそうで、ルドヴィーク様が帰って来いって~! 言うことを聞かないとあとが怖いですよ~」
帰りましょうよ~と情けない声で、トーシャは訴えた。高慢な態度で従者を苛めていたエレーナだったが、はっと顔色を変えて、押し黙ってしまう。地団駄を踏みそうな、苛立ちを抑えた態勢のまま、いきなり深呼吸を繰り返した。その横で、トーシャがまるで馬にするように「どうどう」と宥める。決して彼に悪気はないのだが、それは承知しているのだが、だからこそエレーナは思いっきりトーシャをぶん殴った。
「……! くっ、あいつ……やっと出てきたかと思えば良いところで……わかったわよ! 今日はここまでよ。また、お会いしましょう!」
その言葉を残すや否や、鳥達を呼び出す。従者の首根っこを掴んだまま、大群の上にひょいっと乗る。軽々と二人を乗せた鳥の大群は、帝都の南の方向へと飛び立っていった。
嵐のように現れて去っていったエレーナ達を、ヘテイグは狐につままれたような思いで見送るしかなかった。




