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黄昏人  作者: はるハル
楽園が見た夢
76/93

7




 “ごめんなさい……”


 遠く霧がかった景色の中で、フィリアは涙に濡れた声を聞いた。


 最初はか細かった声が次第に近付いてくる。


“ああ、許しておくれ……”

―― 何を……?

 ひたすらに許しを懇願する言葉が、繰り返し紡がれる。怯えと恐れと後悔と悲痛が詰まった声が、涙とともに吐き出されゆく。男性なのか女性なのか、篭っているような、どちらも被さって聞こえるようで、よくわからなかったが。

―― 女のひと……?

 声の主を探して見渡すと、視界の端に、女性が蹲っていた。顔は伏せていたからよくわからなかったが、体型と腰丈まで柔らかな栗色の髪から、女性だと思った。

 震える華奢な肩が痛々しい。見る者の心を痛めるような嘆きように、フィリアも苦しくなって、声をかけずにいられなかった。柔らかい土の上を歩きながら、近付いてみる。そして、どうしたのですか、と女性の背後から声をかけようとした。しかし、それは寸でのところで留められた。

 何故ならば、泣きながら彼女は死体を土に埋めていたからだ。

 その白い手は、零れた涙と泥と血に塗れていた。

 そして柔らかいと感じていた地面を見下ろすと、それは色の失った人の腕だった。ぎょっとして見渡すと、数え切れないくらいの死体が、そこら中の地面に埋まっていた。



「……っ!?」

 声にならない悲鳴を上げて、フィリアは飛び起きた。荒い呼吸を繰り返し、酸素を充分に肺に送って落ち着きを取り戻した頃、ようやく視界に周囲の景色が馴染んだ。

「ここは……エウノミアの……」

 唯一の黄昏人の集落だ。昨晩、谷底に落ちたフィリア達を、ここに住む老人が見つけてくれて、ここまで案内してくれたのだ。そこまで整理すると、早鐘のような鼓動は少しましになっていた。けれど、不快感はこびりついて離れない。不吉すぎる夢に、フィリアは溜息を長く吐いた。

 おそらく、己の不安な心境がこのような夢を呼んだのだろう。幻の地に辿り着けた興奮も手伝っているのかもしれない。

 そう思い込もうとしたが、言い知れぬ不安や悪寒が背筋を辿って、少女を苦しめた。

 本当に、あれは単なる夢……?

 あの女性の後悔と怯えは、フィリアですら味わったことのないほどの深い闇を孕んでいた。

 とにかく気分を落ち着かせたくて、水でも飲みに行こうと少女は寝台から降りた。扉の取っ手に手をかけたとき、そういえばと少女は思い出す。今晩はもう部屋で休むように告げられたとき、老人は大事なことだと言って付け足したことがあった。

 寝静まったあと、部屋の外へ出てはならぬ。耳も閉ざし、鍵を閉めて休め、と。

 あのときは、それ以外のことで頭が一杯で深く追求しなかったが、よく考えると変なことを言われたものだ。周辺の魔物を警戒しているのだろうか。それにしては、老人の表情は暗くて、まるで夢の中の女性の絶望と似ていた。

 そのとき、布を切り裂くような悲鳴がフィリアの肩を大きく揺らした。

「な、何、今の……っ?」

 驚いて、部屋から飛び出して、悲鳴の響く方へ駆けた。フィリアは嫌な予感と、それが齎す小さな震えに身を竦ませた。耳をつんざく悲鳴は、聞き間違いでなければ、あの老人のものだった。半狂乱の叫びは、尋常ではない。一体何が起こったのか。魔物の襲撃なのだろうか。そう思わせるような、何か大きなものがぶつかり合う音が家の外から聞こえた。

 廊下に飛び出すと、外に続く扉は既に大きく開け放たれていた。それも大きな暴力の痕を残すかのごとく、真っ二つに破壊されていて。慌てて駆けた為、よく見ていなかったが、家のそこら中に物が散乱していた。まるで大きな嵐が去ったあとかのようなそれに、フィリアは驚いた。いつのまに家の中にまで侵入されていたのだろうか。尚も続く悲鳴に、扉の破壊された出口から飛び出そうとしたその瞬間、少女の腕は何者かに後ろに引っ張られた。

「誰!?」

 身構えながら叫ぶが、すぐに警戒を解いたフィリアは訝しげに、己の手首を掴む青年 ―― フェイフォンを見上げた。

「フェイフォンさん……? 離してください。聞こえなかったのですか、おじいさんの悲鳴が……っ、魔物が……!」

 助けなきゃ、と訴える少女を、青年は感情の窺えない黒水晶の視線を返すのみだ。老人の付き人である青年が、何故彼の悲鳴に反応しないのか。昨晩の暖炉の前での二人の様子を見ていた少女には解せなかった。

「離して!」

 埒が明かないと思った少女は力任せに青年の腕を振り払った。拘束は思ってたほど強いものではなく、すぐに解かれる。その隙を縫って、フィリアは扉から外へと飛び出した。次に少女の視界に飛び込んできた光景は、言葉で言い尽くせないほどの衝撃を彼女に与えた。

「……っ……?」

 少女が心配していたような、魔物は何処にも存在しなかった。狂ったような悲鳴とぶつかる音は確かに存在していたが、それは全て老人一人によるものだった。

 明かりの灯らない暗闇の下、冷たく吹き荒ぶ風の中、老人が狂ったように叫び、家中の物を破壊し、外に生えている枯れ木を掻き毟るようにぶつかっては、再び悲鳴を上げていた。どこにそんな力があったかのか、老人の深い皺が刻まれた腕が折れてしまうのでかというくらいの暴れようで。とても、あの理知的で決然とした姿勢の正しい老人には、見えなかった。

 声も出せず、身動きもできずに少女はただ固まっていた。何が起きているのかわからなかった。あの老人の姿が、谷にいた狂人と重なって、フィリアは震える。知らず、ヒユウ様、と呟いていた。

 震えて立ち尽くしていると、あの無表情な青年が家から出て、老人を拘束して大人しくさせていた。随分と手慣れた様子に、この有様が今初めてのことではないと知れる。フィリアはどういうことなのか、と疑問と恐怖をありありと浮かべながら、青年の答えを欲した。けれどやはり、青年からの反応は無に近く、淡々と老人を部屋へと連れて行ってしまった。

「何だ、あれは」

「ヒユウ様……っ!」

 ちょうど、裏手に続く庭(といっても、あるのは岩と枯れ草しかない)から、ヒユウの姿を見つけて、ここでようやくフィリアは安堵の息を吐いた。恐ろしい夢を見てから強張った身体が、男の姿を一目見ただけで、解される。昔からそうだった。フィリアにとって、ヒユウの存在は何よりも大きくて安心できる場所だった。

 思わず、昔のようにヒユウの傍まで駆け寄った。理由のわからない不気味さを持て余し、己だけでは解決出来そうになり問題だっただけに、彼の登場は有難かった。何故、いつのまに彼は外に出ていたのか。どこで何をしていたのか。普通なら浮かぶ筈のその疑問も、今の混乱状態の少女の頭からは追いやられてしまっていた。

 心の底から安堵に和らげる少女に、しかしヒユウは無表情に一瞥をくれるだけですぐに興味を失ったように逸らされた。いつもと違う反応に、フィリアは違和感を見つける。

「何が起きたか、言え」

 その声色は少女が驚くほど、淡々と感情のこもらないものだった。顔色の悪い少女を気遣う様子も全くない。ここでようやく、今までのヒユウはいつも自分を気にかけてくれていたのだと、柔らかな表情を向けてくれていたのだと思い知った。

「……あ、え、えっと……その」

 連続して起こる不可解な状況に、フィリアの混乱は酷くなった。今までこれほどヒユウの冷たい反応、声色を向けられたことなど無かった。蒼の双眸に浮かぶ色が怒りだったらまだいい、その原因を聞けばいいのだから。けれど、目の前の彼はフィリアという存在を視界にまったくいれていなかった。取り付く島も無い、というのはこういうことではないのか。ヒユウの態度の違いに愕然となったフィリアは、声も出せずに立ち尽くすのみだった。

 そんな少女の反応を気に留めることもなく、ヒユウは家の中へと入っていく老人と青年の様子を見遣った。そこにどこか、侮蔑、嫌悪といった色が見えたような気がして、そしてそれを先程自分にも向けられていたと理解して、フィリアは一瞬で真っ青になった。

「ヒユウ様……」

「……」

 ヒユウは愕然となった少女を構うことなく、一瞥すら向けることなく、青年のあとを追って家の中へと入っていった。


「……フィリア?!」

 どれくらい時間が経ったのか。ほんの数秒だったかもしれない。でもそれすらわからなくなるほど、フィリアは呆然としてしまっていた。だから、自分にかかる声も、すぐに捉えることが出来なかった。

「フィリア、どうした!」

「あ……ヘテイグ様……?」

 肩を揺すられて気付く。いつのまにか、少女の至近距離に、ヘテイグの心配そうな顔があった。覗き込むようにして、気遣う言葉をかけてくる。その優しげな声色に、フィリアは何とも言い難い感情の波が湧き起こった。

「ヘテイグ様、どうしてここに……無事だったのですね……レムングスさんも!」

黄金の獣が、嬉しそうに駆けて少女の足の周りを何度も旋回した。今まで幾度もの呼びかけにもレムングスからの応えがなくてとても心配していただけに、足をくすぐる彼の柔らかな毛の感触は涙を誘う。

「ああ、色々と彷徨ったが……途中で、クラーヴァ殿とも合流した。その獣は谷の狂人に囚われているのを、クラーヴァ殿が発見して助け出したそうだ」

 彼の背後を見ると、辺りをきょろきょろと窺うクラーヴァ、アレシア、ツヴェルフがいた。本当は彼らと合流する前に、シェルンと一時行動をともにしていたのだが、いつのまにか彼の姿は消えていた。驚きはしたが最初から乗り気でない同行だったのだ。むしろいなくなって清清したくらいで。しかし目の前の少女にはそこまで説明する必要性も感じずに、彼の心の底に押し込まれることとなった。

「フィリア、無事だったか!」

 ツヴェルフとアレシアも少女に近寄ってきて、無事を喜ぶ笑顔を浮かべてくれた。自然と、フィリアの顔も綻ぶ。

「ツヴェルフ様、アレシアさんも……クラーヴァ様も、無事で良かったです」

「いやぁ、散々だったが……とりあえず、合流できてよかったぜ。歩けど歩けどあるのは岩山ばかりで、何もねーからなぁ……まさかこんなひっそりと隠れるように集落があったとは。さっきの凄まじい悲鳴がなけりゃ、見つけられなかった」

 ところで、あの悲鳴は何だ。魔物か?

 魔物が暴れたような惨状を見渡しながら、ツヴェルフが問いかける。真っ二つに割れた扉を見て魔物の襲撃があったと思っているのだろう、とにかくフィリアが無事で良かったと繰り返す彼に、少女は何と説明しようか迷った。

「そういえば、ヒユウの奴は? 一緒なんだろ?」

 まるで少女の傍にいるのは当然だろう、と言わんがごとくのツヴェルフに、フィリアは固まった。一瞬で、傷ついたような色を浮かべる真紅の双眸に、驚いたのはヘテイグだ。

「どうしたんだ? ヒユウ様は? まさか、ヒユウ様に何かあったのか」

「……」

 おそらくヘテイグが心配するような、怪我をしたとかそういったことは全くない。けれど、フィリアにとっては、今までにない衝撃的なことが起きて、いまだに整理が出来ずに、ヒユウの入って行った家の中にも足を踏み入れることが出来なかった。

 少女の様子がいつもと違うことに気がついた三人と一匹は、いつのまにか破壊された扉の前に佇んでいた気配に、目を向ける。

「……長が、中でお待ちです」

 それがフィリアが初めて耳にした、フェイフォンの声だった。




 再び、フィリアはあの暖炉のある部屋にいた。

 しかし、今度は人数が増えて、木製の低いテーブルを前にフィリアが座り、その膝頭の前にはちょこんとレムングスが鎮座し、右隣にヘテイグ、左隣にはアレシア、その少し離れたところにはクラーヴァが相変わらず不遜な態度で座っている。窓際にある木椅子に座り、時折窓の外を窺うツヴェルフ。ヒユウは反対側の壁に背を預けたまま、暖炉の傍にあるゆったりとした椅子に座る老人を見据えている。黒髪の青年は昨晩と同じく、扉のすぐ横に佇んでいた。

 老人はレムングスを見て僅かに目を見開かせたが、とくに触れてくることはなかった。

 フィリアは、ぱちぱちと爆ぜる音をどこか遠くで聞いていた。考えねばならぬことがいっぱいあって、頭は一杯だった。

「……お前は、まだ正気を保てているのだな」

「……それはどういう意味でしょう……?」

 重苦しい沈黙が続いた後に落ちた老人の呟きは、最初に会ったときと変わらぬもので、内心ほっと安堵しながら、フィリアは問うた。先程の狂ったように叫び暴れる老人の姿は、まるで夢だったのではと思った。

「違う、夢ではない」

 だが、少女の疑問を厳しく否定するように、老人は言葉を重ねた。

「お前は知っておくべきだろう……黄昏人の純血ならば、避けられぬ運命だからな」

 いやでも、その言葉には重たい響きが含まれ、フィリアは緊張にごくりと喉を鳴らした。ちらりと壁際に立つヒユウを見遣る。いつもならば見るだけで心の支えとなるというのに、今は、彼がとても遠いところへ行ってしまったような気がして、少女の不安を煽るだけだった。泣きたい気持ちを堪えるように無理やり視線を剥がして、老人の言葉を待った。それを、隣に座るヘテイグは痛々しそうな視線で見詰めていたことに気付かずに。

「……昨夜、我は言ったな。魔物は目に見えるそれらだけではないと」

「はい」

「魔物は我らの心の底にいる。種子が芽吹いて、あの姿となるのだ。誰もが……あの醜くおぞましい魔物を孕んでいる」

 少女の脳裏に、シェルンのいつかの言葉が蘇った。

 人間の皮を被った中に、あの醜くおぞましい姿が、隠されているのだと。彼は、それを暴き出すのが愉しいと言っていた。とても暗い笑みを貼り付けながら。

「我々黄昏人は心の内にある魔物に囚われやすい……力あるゆえに、その力がこの魔物を目に見えるまでの大きなものへと変えてしまうのだ」

「……それはどういうことなのですか?」

 老人の表現は抽象的で、今の少女にはとてもまわりくどく感じられた。より強く怯えを煽られる言いように、少女は耳を塞ぎたいとも思ったが、ここで自分が逃げてはいけないと強く思った。

「黄昏人の純血が、正気を保てる時間は少ない……谷にいる狂人どもを見ただろう。あれは全て黄昏人のなれの果てだ。我々がいつか辿る道だ」

「……っ……!」

 少女の背に冷たいものが走る。隣に座るアレシアやヘテイグの肩が揺れ、少女の肩にぶつかる。それだけで同じように彼らも、衝撃を受けているのだと理解した。

「個人差はある。けれど誰も逃れることは出来ない。たとえ、一度も真名を奪うこともなくとも。先程の我の姿を見ただろう? 夜の闇は……眠りの世界に足を沈めたあと、我の正気を奪う。昼間はまだ正気だが……それも時間の問題だ。日に日に、我の精神は蝕まれている」

「……」

 言葉を失った。何を言うべきなのかわからず、ひたすらフィリアは目の前の老人を凝視するしかなかった。

 真名を奪わなくともいずれ、辿り着く道の先。あの谷にいた言葉も通じなくなってしまった、狂人達が? 人の姿も、尊厳すらかなぐり捨ててしまったようなあの姿。

 自分もいつかああなってしまう、というのか。

 目の前の凛然とした老人も?

 ヘテイグもアレシアもツヴェルフも、クラーヴァですら目を剥いて、老人の言葉に耳を傾けていた。谷から轟く狂人の叫びは、聞くだけでその狂気と憎悪の深さに不快な汗が背筋を走り、耳を塞ぎたくて堪らなくさせる。一日中続く彼らの叫びを、ここにいる者は全て例外なく聞いていた。ゆえに、信じられなくて、つい老人と少女を見てしまう。あの叫びが、いつか少女と老人からも届くというのか。

「言霊を知っているな」

「はい……私達黄昏人は言霊を失わずにいたから、人間とは違い、魔法を行使できるということは聞きました」

 まだ衝撃から立ち直れずにいたが、それでも老人の問いに、少女は精一杯の気力を振り絞って答えた。

「そうだ……そしてそれは我らの受けた罰でもある。決して、祝福ではない」

「え……」

「言霊は今の我らには重いのだ。精神と肉体がついてゆけず、魔物を生み出すことによって更に精神をすり減らし蝕んで、やがて狂気に冒される」

 ついには微かに震えだす手を、フィリアは抑えることができなかった。恐怖なのか、不安なのか。ただ近い内に己の身にも襲うであろう恐怖に、怯えることしかできなかった。震える手を上からぎゅっと握る男の手があった。はっとして顔を見上げると、ヘテイグが真剣な表情で少女を見下ろしていた。

「ヘテイグ、さ……」

 更にぎゅっと力を込められた暖かな手が、大丈夫だと力強く物語ってくれていた。フィリアはその優しさに答えるように、こくりと頷いた。

 アレシアも強く頷いてくれた。彼女も、フィリアを支えようとしてくれている。それだけで、勇気が胸の底から湧き上がってきた。

「わかりました……それが、私の運命というならば……戦います」

 老人は目を見開いた。扉の横にいる青年の黒水晶も、初めて焦点が結ばれて少女を見詰めている。ヒユウも、僅かに目を細めて、少女を見詰めていた。

「話して下さってありがとうございました。私のお話も、聞いてくださいますか」

「……話とは、昨晩の、講和とやらか」

「そうです。ロウティエ帝国は、長年、黄昏人達との争いを続けてきました。黄昏人が魔物を率いて人間を襲い、そしてそれに抗い、黄昏人狩りを経て、大きな戦いは終わりました。けれど、各地に潜んでいた黄昏人の血を引く人たちが、帝国の教化政策に苦しむ人間達と組んで、反乱を起こして再び、争いは過熱してしまったのです」

 フィリアは必死に今のロウティエ帝国の状況を説明した。自分が黄昏人の純血であり、その為に反帝国組織の旗印として担がれたことも話した。結局反乱は帝国側の勝利で治まったが、まだ多くの捕虜が沙汰を待っている状況であることも。人間は黄昏人を許さないだろう。黄昏人も人間を許すことはないだろう。けれど、どちらかが憎しみを手放さないと、ますます血で血を洗う惨状になるだけだと、拙い言葉ながら続けた。

 そして、共存を目指す為に、この地にいる黄昏人たちの協力が必要だということも、強く主張した。全ての魔物の憎しみを抑えることは難しいかもしれないが、それでも歩み寄ってくれれば、帝国側も妥協案を出せるというものだ。

 そのためにも、一度帝都へ来て欲しい、と頼んだ。

 そして、もう一つ。フィリアは尋ねたいことがあった。

「教えてください。どうして、それほどまでに人間を憎むのですか」

「……我々は憎しみ合うように、定められたからだ」

「定め……?」

 フィリアは眉間に皺を寄せた。彼らのことを知りたい。知ることが、講和への第一歩だと思う。だから、人間に対する憎しみの源を深く知りたいと思った。人間が先に、言霊を持つ黄昏人を恐れ排除しようとしたのか、それとも黄昏人が人間を憎み魔物を生み出したのか、フィリアにはわからない。はっきりした始まりなど、ないのかもしれない。だからこそ、両方から聞いて、考えたかった。これはフィリアの役目だと思ったのだ。けれど、老人から零れた答えは、少女の失望を誘うには充分だった。

 定め、など少女にとって、一番無責任で考えることを放棄しているように思えてならない。

「……お前の目的は、本当に講和のみなのか」

「え……? は、はい、そうですが……」

 何故そんなことを訊くのかわからず、そういえば、昨晩に講和をもちかける前も、老人は神妙な顔をしてこちらの勢いを削ぐような台詞を言ったことをフィリアは思い出した。

「おじいさん……?」

「すまないが、お前のその申し出を受けることは出来ない」

「何故!」

 フィリアより先に、立ち上がって反応したのはアレシアだった。言葉にしてはいないが、ヘテイグも殺気を交えた視線を、老人に投げつけていた。それらを見渡しながら、老人は大きな溜息を吐く。

「まあ、落ち着け。その理由をこれから話す」

「……っ」

 呆れた口調で諭すように言われて、アレシアは渋々といったように座り直す。

「……この島は、元々大きな大陸だった。ロウティエほどの広大さではなかったが、それでも豊かで大きな大地であった。しかし、神の怒りに触れ、恩恵を得られなくなったこの大地はやがて滅びる。見ればわかると思うが、年々、この大地は沈んでいっているのだ。あと十年ももたぬだろう」

「!」

 確かにこの地に辿り着いたとき、想像していたよりもずっと、この地は狭かった。数日あればぐるりと一回りできるほどの、広さ。そして、実りの無い、光の閉ざされた灰色の世界。誰が見ても、滅びに向かっているとしか思えない様相だ。

 しかしまさか、あと十年も経たずに沈んでしまうだなんて。それがわかっていながら、何故彼らはいまだここに留まったままなのかとフィリアは疑問でならなかった。

「それを防ぐ術も、権利も我らには無い。逃げることも許されていない。ただ黙って、滅ぶのを待つことしか出来ぬ。疎まれ、孤独と狂気のうちに死ね、とそう神が望んでおられるからだ」

「そ、そんな……」

 老人からは全てを諦め、絶望だけに侵食された色しか見当たらなかった。抗うことも捨てて、ただ目の前に突きつけられた運命を静かに受け入れる。そういった覚悟しかなかった。フィリアは哀しかった。どうして、そんなにも諦念に塗れているのか。全てを諦め、己の運命を他人の手に委ねてしまっているのか。彼女には、目の前の老人はそんな弱い心を持っているわけでない、むしろ強いと感じられただけに、哀しくて堪らなかった。

「フィリア……お前は黄昏人達を纏める長の直系の子孫に当たる」

「え……」

「そして、我はお前の祖父の、弟……つまりお前の大叔父ということだ」

「私の……大叔父、様……」

 突如として齎された真実に、ぱちくりと目を瞬かせた。目の前の老人と、血が繋がっているとは思いも寄らず、天涯孤独の身だと信じていた少女の心に大きな灯がともるのを感じた。けれど、彼からはそんな生易しい感情は見つけられなくて。

「最早、直系はお前を除いて、いない。ゆえに今までは我がこの地を纏めていた」

 老人はただ淡々と、事実のみを述べていっているようだった。もしかしたら、あえてそうしているのかもしれない。けれど少女には酷薄に映ってしまい、少なからず肩を落としてしまう。

「直系は原罪を死ぬまで背負い、代々その罪は子に受け継がれてゆく。だがお前の母親はお前に罪を背負わせたくなかったのか、その連鎖に堪えられなかったのか……あろうことか、この地を逃げ出した」

「私のお母様が、この大地を逃げ出したのですか……?」

 呪い、とはどういったものなのだろう。その言葉を耳にしただけで、薄ら寒いものが少女を襲う。けれど今はそれよりも、今まで知りたくとも知れなかった、自分の実の母親の話を聞くことに、必死になってしまった。

 一言も聞き漏らしたくないといったような少女の真剣な表情に、老人は目を細めて「そうだ」と返した。

「どちらにせよ、呪いから逃れようとする行為はますます呪いを強化させる。まもなくこの大地は滅びる。多くの者が正気を失い、または失う前にこの地から逃げ出し、世界を恨みながら狂気とともに魔物を生み出していっている。かつての、この世界の楽園といわれた、神の寵児とまで言われた我らの惨めな末路。最早、誰もその過去を信じないだろう……もう夢だ。楽園など、泡沫の夢だった……」

「泡沫の、夢……」

「お前の父親は、この地を出ようとしたとき、お前達母子の身代わりになって死んだ。我らが殺した」

「!」

 父親。今まで孤児だった為、両親について深く考えることはなかった。極力、考えないようにしていたのかもしれない。戦災孤児と聞かされていた為、両親はとっくに亡くなっていたと思ったからだ。でも改めて、彼らの生死について聞かされて、フィリアは衝撃を受けた。予想以上の衝撃に、心のどこかで、彼らがどこかで生き延びていてくれたら、と微かな希望を抱いていたことを思い知った。

 しかも、同じ一族の人間によって、殺されたとは。

 淡々と、ともすれば冷酷に告げる老人を呆然と見返したまま、フィリアは言葉を紡ぐことができなかった。

「お前の先程いた『叫びの谷』。あそこがお前の父の墓場でもある。あの日、お前の父はあの谷底へ虫の息のまま放り投げられた」

「お前、正気で言っているのか! こんな……実の娘の前で、なんて、酷いことを……っ!」

 耐え切れず、掴みかからんとばかりに激昂したのはアレシアだった。彼女の一族は、同族を何よりも大切にする。家族ならば尚更だ。ゆえに、少女の大叔父ともあろう彼がこれほど冷酷に少女の実の父を殺したことを告げるのが、信じられなかった。淡々と語る口調から、とても悔いてるような素振りもない、少女に対して謝罪もない。到底、許されるものではない。一発くらい殴らねば、と力んだ少女を留めたのは、クラーヴァだった。老人の胸倉へとのびる筈だった腕は、男の逞しい腕に捉えられている。

「……落ち着け、お前は」

「離せ!」

「だから、落ち着いてみろって。ほら」

 面倒くさそうに顎先で示された先には少女の姿勢正しく座る姿。彼女の表情に視線を移したアレシアははっとして、ようやく冷静さを取り戻した。そして、ばつが悪そうに、クラーヴァの手を振り払う。

 泣いているかと思ったが、フィリアの表情はとても冷静だったのだ。といっても、顔色は真っ青だったので、衝撃を受けているのは確かだろうが。それでも、ここで必死に堪えている少女の頑張りに、水を差すわけにもいかないと悟ったアレシアは拳を握って、どかりと座り直した。

 老人はそのやりとりを落ち着いた様子で眺めていた。たとえ、この場でアレシアに斬られても構わない、そんな風にも感じられた。

 再び降りた沈黙は、老人の続きを催促するものだった。疲れたような溜息を吐いたあと、彼は続きを口にする。

「もう充分にわかったろう……最早、ここは滅びを待つ大地。国として機能を持たなくなって久しい。正気を保っている僅かな者達が、いつ谷にいる狂人と化すのか怯えながら、ひっそりと滅びを待ちながら暮らすのみだ。今更、人間達と講和したところで何も変わらない」

「そんな……」

 反論しようとする少女を遮るように、老人はかぶりを振る。全てがもう無意味だというように。

「狂人は最早呪いの言葉すら吐けず、獣と化している。そんな奴らと講和など、できるはずもないだろう? あの者達は人間も黄昏人も神も龍も全てを憎んでおる。憎悪だけが糧なのだ」

 少女は俯いたまま、黙っていたが、ゆっくりと頭を上げて、老人を真っ直ぐに見詰めた。感情の波を押し殺した声が、小さな唇から零れる。

「どうして……」

「?」

「どうして……私達はそれほどに疎まれ、呪いを受けねばならないのでしょうか……どうして、それほどまに憎悪に囚われているのですか」

 理由が知りたかった。

 沈みゆく大地。徐々に正気を奪われゆく恐怖。神から受けた呪い。希望もないまま、滅びを受け入れている彼らは、当然のように言った。疑問など持たずに、ただ受け入れていた。酷く怯えつつも、当然の仕打ちであるかのように。

 その理由を知りたかったし、純血のフィリアは知る必要があった。

「……罪を犯したからだ……そうされても仕方ないほどの……わかっていても、それでもそれを受け入れられるほどの我らの器は大きくない。だから憎むしかない。全てを」

「……罪……とは一体。それを教えてください」

 自分には知る必要がある。この地に住む黄昏人の長の直系というならば。

 もうここまで来て怖いものは何もない。半ば、自棄になっていたのもある。少女は強い口調で、老人から答えを求めた。

 暫し迷っていたが、老人は長く重たい溜息を吐いた。それは少女の問いに答えてくれる、という合図ということが短い付き合いながらも、わかった。


「そんな話よりも、“覇王の剣”とやらを教えて貰おうか」

「シェルンさん!?」

 扉を開けて、シェルンがいつもの揶揄する笑みを浮かべながら、会話の先を遮る。彼の背後から、もう一人の『聖なる手』も出てきた。相変わらず不気味な仮面を付けていて、素顔は知れなかったが。

 フィリアは驚きの声をあげた。ヘテイグは無意識に少女を庇うように前で出る。レムングスも床にぺたりとつけていた腹を離して、僅かに毛を逆立てた。ツヴェルフやクラーヴァ、アレシアも警戒の態勢に入っている。すぐ傍に立っていた黒髪の青年も、いつのまに彼らがこの家に侵入していたか気付けなかったのだろう。僅かに驚きをその黒水晶に浮かべていたが、すぐに元の無表情に戻った。ヒユウも壁に預けていた背を起こして、男の動きを追っていた。

「フィリアが長の直系ならば尚更、あんたは全てを彼女に伝えるべきだ」

 ずかずかと土足のまま、部屋にあがりこんでくる男に老人は座ったまま、動かなかった。驚きよりも、鋭く何かを探るような睥睨の視線を投げつけている。

「……“覇王の剣”だと。貴様、それをどこで聞いた」

 老人は今までにないほど慎重に言葉を選んでいると、そうフィリアには見えた。常とは違うその様子が聡いシェルンにもわかったのだろう、満足そうに口角を歪める。

「成程。その口振りからすると、実在するのは本当のようだな」

「……どうやら貴様こそが、我らの望まぬ闖入者のようだ」

 それきり、老人の口は貝のように閉ざされてしまった。

「今更、口を閉ざしても遅いぜ。さっさと吐いちまいな」

 軽く笑うと同時に、シェルンは背後にいる『聖なる手』に合図を送る。すると『聖なる手』は傍にいたフェイフォンを拘束し、喉元に刃の先を突きつけた。横暴な行動に、フィリアの口から非難の声が上がる。

「シェルンさん、何を……やめて!」

「お前の目的は講和だろうが、俺はそんな下らねー目的の為に、はるばるやってきたわけじゃねぇ。全ては、黄昏人の宝とされる“覇王の剣”の在り処を突き止める為だ」

「“覇王の剣”……」

―― その剣、突き刺した大地を主に捧ぐものなり ――

 単なる伝説の存在だ。よくあるお伽話に出てくる、幻の宝。そんなものがこの地上にあるだなんて、フィリアにはとても思えない。けれど、シェルンは本気で信じているようだった。老人の反応にますます確信を得た、といったかんじだ。

 半信半疑だったが、今はとにかく、フェイフォンを離してくれと訴えた。しかしやはり、彼はフィリアの言葉などに耳を貸すことはない。まだ悠然と座ったままの老人に向かって、脅しの言葉を囁いた。

「さて、こいつの命が惜しければ、知っていることを全部話すんだな。なんなら、その剣を俺にくれても、構わないぜ?」

 優勢だと感じていたシェルンは余裕綽々の態度で、老人と対峙する。けれど、老人からは沈黙しか返ってこない。どれだけ脅しをかけても、老人の態度は変わらなかった。老人どころか、拘束されて喉元に刃を突きつけられている青年すらその無表情を崩さず、怯えも恐れも黒水晶の瞳に浮かべることはない。ただぼんやりと宙に焦点が結ばれているだけ。シェルンは自分が侮られていると感じたのか、不愉快そうに目を細めた。

「どうやら俺は本気と思われていないようだな」

「! シェルンさん、やめて!」

 フィリアが飛び出すよりも先に、鮮血が室内の白い壁に飛び散った。

「きゃあああっ!」

 ばたり、と黒髪の青年が倒れ落ちる。『聖なる手』の右手に携えた刃が赤く濡れていた。青年の喉から大量に流れ出した真っ赤な血が、灰色の石床の上を滑り、少女の足元まで辿り着く。どう見ても即死だった。悲鳴を上げることもなく、青年は絶命した。

 わなわなと震える少女の身体をアレシアが支えていた。ヘテイグとレムングスが、シェルンと『聖なる手』に鋭い殺気を投げつける。今にも戦闘が開始しそうなぴりぴりとした雰囲気の中、老人は鮮血の痕を眺めていた。血臭が鼻につくのか、眉間の皺を深くさせながら、指で鼻頭を拭う仕草をする。

「……愚かな真似を」

「話す気になったか?」

 獲物を前に舌なめずりをするように歓びを称えたシェルンが、それを隠そうともせずに老人の前へと一歩足を踏み出す。力の無い老人では、最早抵抗する気力も無くなっただろう。そうシェルンは判断したのか、とても意気揚々としていた。しかし、老人の反応は彼の期待したものとは遠く離れていて。

「……我々にとって、甘やかなる死に過ぎない」

「何だと?」

 あくまで冷静な老人に、シェルンの余裕たっぷりな態度を徐々に乱されていく。

「貴様らの殺した男の顔をよく見てみるがいい」

「はぁ?」

 怪訝に思ったが、老人の言葉の謎を知りたかったのか、シェルンは横目で即死した黒髪の青年の顔を覗き込んだ。

「!」

 彼の表情には死の苦痛は一切なく、それどころか安らかな笑みさえ浮かべていた。まるで長い苦悶から解放されたかのような、晴れ晴れとしたものだった。

「どうして……」

 シェルンと同じくそれを目にしたフィリアは震えながら、疑問を口にする。青年の穏やかな表情を見たのはこれが初めてだった。よりにもよってそれが、死んだときの表情だなんて、信じられない。

「言っただろう……その程度の死など、苦痛ではないと」

 老人は静かに続ける。暗い闇色を宿した瞳で、驚きに目を見張るシェルン達を見上げた。

「愚かな欲望を抱く者よ。見せしめに次は我をも殺すか? しかし、我は恐れずに受け入れよう。そして、この地にいる黄昏人らも恐れるどころか、むしろ喜んで受け入れるだろう。何しろ、我らは自害することすら許されていない身であるからな。正気のまま長き生から解放されるというのならば、それはどれほどの幸福であろうか?」

「な……っ」

 自害すら許されていない、ということは、彼らは死にたがっているということだろうか。明らかになっていく彼らの心の深い闇にフィリアの心は抉られた。言いようも無い哀しみが流れ込んでくる。

 さすがのシェルンも、この状態では己の思い通りに動くことはないと悟ったのか、苦々しそうに唾棄するのみだった。倒れ伏した青年の安らかな笑みを、気味悪く思いながら。

 一種の膠着状態に陥ったかと思ったとき、それを破ったのは、少年特有の高い声だった。フィリアにとって聞き慣れたそれに喜びが湧き上がったが、すぐにその悲痛な悲鳴にも似た叫びから、凶報なのだと悟った。

「おねーちゃん……っ、たすけて……っ!」

「テイルさん!?」

「テイル!」

 テイルの幻影が、窓から飛び込んでくるなり、悲鳴のような叫びが響いた。突然の新たな闖入者に、老人も驚きを隠せなかった。

 白い少年の幻に、フィリアとアレシアが慌てて駆け寄る。尋常でない少年の様子に、二人だけでなく、周囲の者達も凶報を鋭く察知した。

 少年は泣いていた。幻影なのでおぼろげだが、フィリアにはすぐわかった。

 少女の胸に飛び込んできた少年は幻ゆえに、抱き締めることはかなわない。それが今、とても悔しかった。

「テイルさん、落ち着いてください……一体、何があったのですか?」

「城が……燃えているんだ……! どうしよう……僕、どうしたらいいの……っ!?」

「城が……!?」

「そうなんだ、帝都にいきなり大勢の兵士が攻めてきて……王宮も大神殿も、混乱状態だよ……っ!」

「馬鹿な!」

 即座に否定したのは、ヘテイグだった。テイルから齎された情報は、にわかに信じられないような内容で、ヘテイグがそう反応するのも無理はない。けれど、こんな切羽詰った少年の様子から、嘘を吐いているようには到底思えなかった。

「本当だよ……、おねーちゃん、どうしよう……僕……あ……っ!」

「テイルさん! テイルさん……!?」

 胸の中で悲痛を訴える少年の姿が突然、掻き消えてしまった。予期せぬことに、フィリアも動揺して少年の名を何度も呼ぶ。けれど、それきり彼の幻が現れることはなかった。

 彼の身に何か起こったのではないか。嫌な想像ばかりが、脳裏を巡って、少女はうろたえた。けれどなんとか自分を落ち着かせようと己の心を叱咤する。

「始まったか……」

「何を知ってるんだ、シェルン!」

 シェルンが小さく笑ったのを目聡く見つけたアレシアが怒鳴りつけるように言った。大の大人ですら縮こまってしまうであろう迫力に、シェルンは肩を竦める。

「言っておくが知ってるだけだ。俺は、何もやっちゃいねーよ。ロウティエは多くの恨みを抱えた大地であり、外から見れば喉から手が出るほど豊かな大地ゆえにいつかは起こることだった。……おそらく、幽閉された元皇太子ディーン派によるクーデター、そして他国による侵略が始まったんだろう」

「!」

「馬鹿な! それが本当だとしても、そう容易く帝都まで打撃を受ける筈がねーだろう!」

 今度はクラーヴァが怒鳴った。

 帝都にはゼノンを始めとする、帝国軍部の主力は充分に温存されている。ヒユウやクラーヴァ、ヘテイグといった抜きん出た精鋭がいなくとも、そう容易く他国の侵略に脅かされるような脆い刃ではないのだ。

 そのことはシェルンはよくわかっていたので、頷く。しかしすぐに低い呟きが、漏れた。

「……そうだ。普通ならばな」

「まさか……、内通者か!」

 こんな短期間に、しかもヒユウ達の留守を狙ったタイミング。ディーン皇子派と他国の同時攻撃。すなわち、帝国内部に強力な内通者がいるとしか考えられない。

「そういうことになるだろうなぁ……そうでなければ、城が燃えるなんてこと、ないだろうよ」

「くっ、こうしてられるか……すぐにロウティエへと戻るぜ!」

「しかし……船は木っ端微塵に砕かれてしまったし、行きに一週間以上もかかった道のりをどうにか短縮しないことには……とてもじゃないが間に合わない」

 居てもたってもいられず、地団駄するクラーヴァの心境を痛いほど理解していたヘテイグだが、冷静に考えると問題は山積みだった。今から帰る方法を探しても、果たして間に合うかどうか。

「それでも行くっきゃないだろうが。行くぜ!」

「こら、ちょっと待て、だからその方法を探さないことには……! だから、待てってば!」

 堪えられずに部屋からどかどかと出て行ってしまったクラーヴァのあとを、アレシアは慌てて追いかけた。忙しい足音を聞きながら、フィリアは老人と向き合う。

「大叔父様……どうにかして、帝都に戻る方法はありませんか」

「行くのか、お前も?」

 言外に、フィリアを苦しめた国の為に戦おうとするのか、という意味が含まれていた。それを察知した少女は僅かに目を伏せる。視界の端に、青年の死体が入る。それを悼むように見詰めてから、彼女は頭を上げて言った。

「はい……私を育んでくれた大地です。見捨てることなんて出来ません」

 城が燃えている。メイリンが危ない。フィリアは彼女のことが心配だった。ハデス司祭やクシシュトフも、無事なのだろうか。途中で幻影が消えてしまったテイルも、どうなっているのか不安でならない。事態は一刻を争っていた。

「……わかった、大型の飛獣を貸してやろう」

 それがあれば一日二日で辿り着ける、と老人は言った。黄昏人に従う、数少ない魔物の一匹らしい。ケツジーのつぶらな瞳と似ており、二周りも三周りも大きな肢体を持っていて、ここにいる人数ならば一度に同乗出来るようだ。

 すぐに準備を整えたクラーヴァ達は既に飛獣に跨っている。シェルンも一時的に戻るようだ。

 飛び立つ直前に、見送りに来た老人に向かって、少女は頼みごとを口にした。

「あの、まだこの地には迷っているロウティエ帝国の人間がいます。どうか彼らのこともお願い致します」

 サラやラインハルト、他の帝国の騎士のことも、気に懸かっていた。どうか無事でいて欲しいと思う。これ以上、フィリアは自分の関わった争いの犠牲になって欲しくなかった。その切迫した思いが伝わったのか、すんなりと承諾の返答を貰うことが出来た。

「わかった。捜索して見つけ次第保護しよう。飛獣にて、帝都へ送り届けることも約束しよう」

「ありがとうございます……」

 老人と視線が交わる。

 フィリアは暫し、自分と血が繋がった、唯一のひとを見下ろしていた。

「……行くがいい。後悔しない為にも」

「大叔父様……私……」

「……もう一度、お前が戻ってくることがあれば……そのときこそ、全てを話そう」

「はい……」

 真剣な老人の表情に、フィリアも表情を引き締める。

 飛獣の白く大きな翼がゆっくりと羽ばたきを繰り返し始めた。四足が僅かに浮いた瞬間、フィリアは喉までこみあがっていたことを思い切って口にしてみる。

「あの……最後に一つお尋ねしてもよろしいですか」

「……何だ」

「私の、お母様がどうなってしまったか……ご存知でしょうか」

 少女の質問をあらかじめ予想していたのか、老人は目を伏せる。そこに初めて彼から、申し訳なさそうな、そんな感情が見えたような気がした。

「……知らぬ。お前の父がお前達母子を逃し、我らは二人を見失った。お前が知らぬというのならば、最早生きてはおらぬだろう」

「そうですか……」

 わかっていた。それでもじくじくと痛み出すのを隠すことは出来なかった。

「どうして……今は私を殺そうとはしないのですか」

 彼らは、地から逃げようとしたフィリア達親子を殺そうとした。フィリアはまだ生き延びていると発覚したというのに、彼らは殺そうとはしない。殺気なども、全く感じることはなかった。

「……」

 沈黙した老人から答えは得られそうにない。予想していたことだが、それでも落ち込む心を隠せなかった。時間ももうそろそろ限界で。すぐにでも帝都へ向かわなければ、手遅れになってしまう。

 飛獣が地面から浮上し始めた。相変わらず天は光を閉ざされ、どんよりとした暗い色に覆われている。目を伏せた老人、小さくなるその姿をフィリアはじっと見詰めていた。目に焼き付けるかのように。

 もう顔を確認できるかできないかぎりぎりのところで、老人は顔をあげて、何事か言葉を紡いだ。それが先程の問いの答えだと確信した少女は、思わず身を乗り出してその動きを目で追った。


 疲れた ―― そう老人の唇は象ったかのように、少女には読み取れた。





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