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黄昏人  作者: はるハル
楽園が見た夢
73/93

4




「サラ姫、無事か」

 どうにか濁流から逃れ、浜辺に辿り着いたヒユウは、抱えていた少女に視線を落とす。呼びかけてみるが、彼女の目は硬く閉じられ、意識は深いところに沈んでいた。その場に仰向けにして寝かせ、少女の名前を呼びながら頬をぺちぺちと叩く。首の後ろに手を差し入れ、気道を確保する為に僅かに持ち上げる。すると、眉間に皺を寄せた少女の口から、水が零れた。

「う……ごほっ!」

「サラ姫、しっかりしろ」

 げほげほ、と苦しそうに咳き込む少女の背中を、ヒユウは優しく撫で擦った。その優しい感覚と声に、サラは夢心地のまま、うっとりと手を伸ばす。

「ヒユ……さ……」

「無理に話さなくていい」

 その手を取って、もう片方の手で少女の目を覆った。視界を覆う暗闇と落ち着いた声に誘われるかのように、サラは再び意識を手放す。気を失った少女から視線を上げて、ヒユウは周囲を観察した。荒れ狂う海は無く、穏やかな波を寄せる浜辺に、ヒユウとサラはいた。浜辺の反対側には、乾いた大地が広がっている。

 ここが、エウノミアなのだろうか。

 地理的にもその筈であるが、何の変哲もない砂浜にいるとその実感も湧き難いようだ。とりあえず、サラがゆっくり休めるところが必要である。ヒユウは少女を抱き上げて、周辺を捜索しようと視線を海から反対側の岩山へ向けたとき、砂利を踏む音が届いた。

「これは驚いた……まさか、ここへ辿り着く奴がいるとはな……」

 呆然とした面持ちの男が一人、立っていた。



 木目の天井がぼんやりと映る。

「ここ……」

 重たい瞼を何度か瞬かせながら、全身を襲う気だるさに身じろぎした。傍らで木椅子に腰掛けていたヒユウが覗き込むように、声をかけてくる。

「サラ姫、気がついたか」

「ヒユウ様……! ヒユウ様……っ、わたくし、怖かった……」

 大粒の涙をぽろぽろと零しながら、サラはヒユウの胸へと飛び込んだ。そのまま男の胸の中で泣きじゃくる。いつもならば恥ずかしくてそんな真似は出来なかっただろう。けれど、恐ろしい出来事の連続で、サラの精神は限界を超えていたのだ。拉致され監禁状態のまま、過酷な船生活へと送られたあげく、気がついたら船首像に吊り下げられ、あまりの恐怖にそこでまた気を失った。そして再び目が覚めると、冷たい海の中だったような気がする。とうとう死を覚悟したとき、ヒユウの姿が目の前にあって、最期の己の願望が見せた幻だと思った。けれどどうやら、幻ではなかったらしい。やはり、彼は自分を助けに来てくれた。それだけで、サラの心は幸せに包まれた。

「巻き込んでしまったことを、貴女に詫びなければならない」

 華奢な肩に手を置きながら静かに言うヒユウに、サラはふるふると首を横に振って、顔を上げる。

「そんな……ヒユウ様の責任ではありませんわ……。それにわたくし、ヒユウ様が助けに来て下さるって、ずっと信じていました……」

 だから今は嬉しい、とサラはふわりと微笑んだ。それは心から正直な気持ちだった。ずっと焦がれていた蒼穹の視線が自分に注ぐ。それだけで、浮き立つ心を抑えることが出来ない。先程までの恐怖も不安も、彼が傍にいるだけで彼方へと飛んでいってしまう。我ながら単純な性格をしていると、サラは頬を紅潮させた。

「……ヒユウ様、この戦いが戻れば、戻ってきてくださいますわよね?」

「サラ姫?」

「お、お父様も、ヒユウ様が将軍の地位に戻られれば、婚約を考え直して下さる筈です。お姉さまだって、そう仰っていましたし……」

「婚約だと?」

 訝しげな視線に、サラは先程までの舞い上がりかけた気持ちしゅるしゅると萎んでいくのを感じた。「は、はい……」と自信なさげに頷くと、ヒユウの表情はますます硬くなる。

「……サラ姫。言っておくが、私は貴女のその気持ちに応えることは出来ない。婚約は単なる政略だった筈だ。軍部と皇族との狭間に立たされた貴女の父上が保身の為に成したに過ぎぬもの。今更、彼が思い直すこともあり得ぬだろう」

「! そ、んな……どうして……?」

 サラの震える手が、ヒユウの衣服の裾を通して伝わっていく。

 ヒユウこそ、彼女がいまだにこれほど自分に執着していたことに驚いていた。ユリアーナの希望に従って、少し彼女に優しくしすぎてしまったかもしれない。

 はっきり真実を告げるヒユウの言葉をサラは素直に受け取らず、違う解釈をしたらしい。俯いて、低く押し殺した声が紡がれる。

「あの黄昏人のせいですか……? あの娘の方が大事ですのね、あの娘に操られているから、ヒユウ様は……」

「操られてなどいない。あの娘も関係ない。私が結婚することなどありえんからそう言ったまで」

 サラの口から、フィリアのことが零れるとは思いも寄らず、微かに狼狽した。だが感情を他者に悟らせない術に長けた男は、その冷たい美貌の下に隠す。じっと見詰めてくる少女の碧い瞳は、真珠のような涙を湛えていた。

「ど、どうして……?」

「そういう運命だからだ。貴女は城へ帰り、父や姉とともにいれば幸せになれるだろう」

「や……ヒユウ様でないとわたくし……!」

 幸せになんてなれない、とサラは青ざめて、言い募った。

「それは貴女が外を見ようとしていないだけだ。もっと世界を知れば、多くの幸せが待っている。私といて、貴女が幸せになることは無い」

 それは、変えようのない真実だった。閉ざされた清らかな籠の中で育ったサラに対して、ヒユウは彼女の理想の騎士を演じてみせた。それこそお伽語に出てくるような、清廉潔白な騎士を。だが、それはヒユウの本当の姿とは異なる。演じていることすら、目の前の少女は知らない。知ろうともしない。それでは、永遠に本当の幸せを手に入れることは出来ない。ユリアーナが唯一大切にする妹姫に対する、最後の親切心のつもりで、ヒユウはそう告げた。

「いいえ、いいえ……っ、ヒユウ様、ヒユウ様がいいの、わたくしは……! ヒユウ様をお慕いしているのです、ずっと、会ったときから……!」

 けれど頑なに首を左右に振って、サラは受け入れることを拒んだ。欲しい物が手に入らなくて駄々をこねる幼子のように、泣きじゃくる。痛ましく、見る者にとってはそれこそ心を奪われる、保護欲を駆り立てる姿だろう。一瞬、ユリアーナの言葉が頭を過ぎったが、ヒユウははっきりと言葉にすることにした。

「私は貴女に対して何ら特別な感情を抱いていない」

「……っ……!」

 眦から、ぽろぽろと真珠の涙が零れて落ちる。深い悲しみに、途方に暮れたように少女は涙を零していた。それを無表情のまま、ヒユウは見下ろしている。これ以上の優しさをかけるつもりはない、という男の明確な意思を感じ取ったサラは項垂れて、振り絞るように最後の我が侭を口にしたのだった。

「わかりましたわ……ただ、城へ戻る、までは……傍にいてくださいまし」

「……わかった」

「……そろそろ、いいかねぇ?」

 俺の家なんだけどなぁ、とぼやきながら、大柄の男は頬の古傷をぽりぽりと掻いた。

 サラは今まで他に誰かいるだなんて思いもしなかったようだ。びくりと震えて、ヒユウの背に隠れた。怯えを隠さない様子に、男は大袈裟に溜息を吐く。短く刈られた黒髪に頬が出た角ばった輪郭、顔の上に走る幾筋もの古傷のせいで、厳つい印象を与える男だった。

「ここに流れ着くのは死体やら船のがらくたばかりだったが、まさか、生きてる人間が辿り着くとはなぁ」

 感心したように呟く男の視線は、口調とは違って鋭い。探るようなそれをヒユウはあえて無視した。

「世話になったな。そろそろ、ここを出て行く」

「おっと、まさかこの先を進むつもりってか。あんたらが何をしにきたのかは知らんが、やめといた方がいいな。ここからでも見えるだろう、荒れ果てた大地が。何もねーよ、狂人どもの争いに巻き込まれるだけさぁ」

「それでも行かねばならん」

 昼間だというのに酒を浴びながら、男はあご先でくいっと扉の先を示した。

「ふうん、それでも行くってか。じゃあこれも何かの縁だ、教えてやる。真っ直ぐ進むな、谷を迂回しろ」

「……何故」

 まだ本調子ではないサラを抱え上げながら、ヒユウは問い返す。

「谷は狂人どもの巣窟だ。死ぬまで憎しみ、争うことを選んだ狂者のな」

 男はにやりと口角を上げて、見送った。





 + + +





 黒い毛だまりと思ったそれは、毛むくじゃらの背中だったらしい。狂ったような咆哮を時折発したので、魔物かと思ったが、それも違うようだ。元は人間……否、この大地には黄昏人しかいないから、彼は黄昏人なのだろう。

 枯木や枯れ草を集めて作られたベッドらしき場所に、フィリアは横たえられていた。海上で戦闘になり、そこで何かに導かれるように、フィリアは歌を歌った。シェルンが持っていた、「鍵」と呼ばれる書物に突如として浮かび上がった旋律を目にし、強い衝動に突き動かされ、気がついたら歌っていたのだ。海が割れたと思った瞬間、思考は途切れた。次に目覚めたとき、乾いた岩山の中にいた。

 ここが、未知の領域といわれた、エウノミアなのだろうか。

 想像していた光景と大きく違っていて、フィリアは混乱した。そして今の状況にも。狂った咆哮を上げると、毛むくじゃらの数は増えだした。フィリアに何かすることはない。けれど、これからどうするのか、話し合っているように思えた。薄暗い空を見上げると、黒い鳥が不吉な泣き声をあげながら、旋回している。耳を澄ませば、それだけでない。様々な鳴き声が岩山に木霊している。多くの魔物の、戦慄さえ覚える恐ろしい声に、少女の身体は固く強張った。

 まさか、このまま餌にでもされてしまうのだろうか。

 増えゆく毛むくじゃらの数に、フィリアは嫌な予感を覚えた。話しかけても言葉は通じず、狂った声をあげるだけ。レムングスを呼んだが、反応はなかった。船内で網に囚われた彼はどうなったのだろう。無事にエウノミアへ辿り着いたと信じたい。

 一人でここから一度逃げ出そうとしたのだが、ますます狂った叫び声をあげながら、フィリアは暴力を振るわれた。

 恐ろしい。

 暴力が、ではない。その風貌でもない。狂ったような叫びが、不協和音となってフィリアの精神を不安にさせるのだ。

 夜になったら、逃げ出そう。そして皆を探そう。

 そう決意した少女を見透かしたように、毛むくじゃらの狂人達はフィリアをかついで、どこかへ登ろうとした。

「は、離して! どこへ連れて行くのですか」

 訴えても、返ってくるのは不明瞭な言葉ともとれぬ叫びだけ。列をなして、フィリアをどこかへ連れて行こうとする。いつのまにか、凶悪な形をした魔物がその列に加わっていて、フィリアはきっと食われてしまうのだろうと恐怖にもがいた。

「何だぁ、お前ら?」

「シェルンさん!」

 音もなく列の中に飛び降りた男の青髪の束がふわりと舞う。肩の上に少女を抱え上げている毛むくじゃらの鳩尾に掌打を叩き込み、くの字に折った。拘束が緩んだ隙を狙って、シェルンは少女を奪い返し、狂った咆哮をあげる彼らの追撃を軽やかに避けながら、枯木の山へと逃れた。

「何だ、あいつら。フィリアを生贄にでもしようってのか?」

 駆けながら、シェルンは独りごちた。彼の目にも、毛むくじゃらの姿をした存在が不審に映るのだろう。背後を時折確認しながら、安全だと思える場所まで一気に走り抜けた。





「ったく、行けども行けども枯木と岩山ばかりで、人がいねぇ。どうなってんだ、ここは?」

 ぶつぶつと文句を口にしながら歩いているのはクラーヴァだ。海が割れたとき、傾いた船から落ちた筈だが、気がつけば浜辺に倒れていた。びっしょりと濡れた服を乾かす時間も惜しく、とりあえず周辺をうろついてみたのだが、見事に何もない。一緒に流れ着いたアレシアも、不服そうにしながらも行動を同じにすることにした。そして、ツヴェルフも近くに流れ着いた為、二人と合流した。

「いててて」

 『聖なる手』にやられたおかげで、ツヴェルフは本調子ではなかった。痛んだ身体を抑えながら、これはここ数日召喚できない状態だろう、と推察し、不甲斐ない己に溜息を吐く。フィリアを見失ったのも痛かった。ヒユウかヘテイグが彼女とともにいるのならば安心なのだが。早く探し出さねば、と周囲を見渡すと、浜辺の近くの岩山の影に木で出来た家を見つけた。

「おう。昨日といい、珍しい客が続くなぁ、おい」

 中を覗いてみると、木椅子に凭れ、酒を浴びるように飲む一人の大柄の男がいた。短く刈られた黒髪、頬張った顔のあちこちに、古い傷跡が走っている。低く掠れた声には、突然の訪問者にもさして驚く色は混じっていなかった。

「ここに誰か来たのか?」

 ツヴェルフが訊くと、男は酒瓶を机の上に置いた。

 クラーヴァはというと主に一言の断りもなく、まるで自分の家のような態度で、暖炉の傍で服を乾かしている。扉の前で警戒心むき出しに立っていたアレシアは、そんな行動に呆れ果てていた。

「おうよ。大層な色男と、まるでどっかの国のお姫様みてーなお嬢ちゃんと、絵に描いたような二人だったぜ」

 何かを思い出したのか、にやにやとした顔つきになっている。

「黒騎士と、サラ姫か。あの濁流を生き延びるとは……」

 アレシアは素直に驚きを顕にした。あれほど荒れ狂った海に落ちて助かるわけがない、と思っていたからである。あそこにいた騎士達、海賊達も皆そう思っただろう。けれどクラーヴァは、ヒユウがその程度で死ぬわけがないと確信していたらしく、当然だろうと鼻を鳴らした。ツヴェルフもそう信じていたものの、ほうと安堵の溜息が漏れる。

「それにしても、ここが黄昏人の故郷というのは本当なのか」

 その割りには、荒廃した大地だ。見たところ、それほど広さも感じられない。瑞々しい緑も殆どなく、ただ赤茶けた大地と、潤いを失った岩山が続いている。こんなところに、あの黄昏人が住んでいるのだろうか。

 強大な一族、その故郷というと、帝都に及ばずとも、巨大な都を築いていると思っていた。様々な書物の多くが、エウノミアを楽園のごとく、と記していたからである。だが実際は楽園とは程遠い、木の根も乾くほど枯れ果てた大地で。

 男は皮肉げな笑いを噛み殺した。

「はは、そうだな。とても、人が住んでいるとは思えないほど、荒れ果てた大地だろう……強力な結界に守られた未知の領域の中身がこれと知って、驚くのも無理はねーわな」

 だが、と男は続けた。

「結界は、外界から守る為のものではない。この大地から黄昏人を逃さないようにする為の、ものだ」

「!」

 三人は驚愕して、男を見た。

 結界は普通、中にいる存在を守る為のものだ。逆の意味を持つということは、一体どういうことなのだろうか。溢れる疑問を見透かしたように、男は窓の外に広がる、枯れた岩山を眺めた。

「ここは呪われた最果ての地。黄昏人と人間、その違いは言霊を持つか、持たないか、たったそれだけだ。だが、それだけだという違いは、両者を隔てる大きな溝であり、埋めることは出来ない。互いに相容れることもなく、理解することもできない」

 言霊を持つか、持たないか。それだけの差。言葉にすると確かに小さな違いに思えてしまう。

 押し黙ったままのアレシア達を見渡しながら、男は問いを投げかけた。

「どちらが祝福された方だと思う? 言霊を奪われた人間と、残された黄昏人のどちらが、神の祝福を失ったと?」

「……人間が、見捨てられたのか? だから人間は、祝福の残る黄昏人を排除しようとするのか」

 ダフネがよくそう言っていたのを思い出したアレシアの呟きは小さい。

 矮小だ。シェルンの言葉が、脳裏に浮かぶ。

 クラーヴァはそれに何か反論しようとしたが、少女の暗い表情にぶつかって、何も言えなくなってしまった。

「違うな……答えを言ってやる。どちらも、祝福を失った。永遠に」

「どちらも、だと?」

 クラーヴァは意味がわからない、と苛立ったような視線を投げつける。男は酒瓶を再び手にとった。中身はもう残り少なく、せいぜい唇を濡らす程度だ。物足りなさそうに舌打ちした男は、酒瓶を背後に放った。

「そうだ。言霊を奪われた人間は力を失い、永遠に妬み憎む者となった。言霊を残された黄昏人は忌まわしき一族として呪いを受け、永遠に憎まれ、追われる者となった」

 だから、どちらにも神の祝福は無い。

 男は、そう言った。






「シェルンさん、どちらに向かっているのですか?」

 枯木やごつごつとした岩場が続く道を、シェルンとフィリアは辿っていた。傾斜がかかっており、この大地を見渡せる高い場所へ向かっているのだろうか。

 早足で男の背を追いながら問うと、迷いの無い足取りとは正反対の、逡巡した声が返ってきた。

「う~ん、町……かねぇ」

「町があるのですか?」

「いや、知らねぇ」

 驚いて聞き返す少女に向かって、きっぱりとシェルンは言い切った。何故か自信たっぷりの即答に、フィリアは呆気に取られてしまう。

「まさか、黄昏人の故郷には魔物と狂人だけで、他はだーれもいませんでしたってのは無いだろ? どっかに集落みたいなもんが、あると思ってるんだがな」

「そう、ですね……確かに、ここまで誰も住んでいる気配がないのはおかしいと思います」

「だろう?」

 じゃ、一緒に探そうぜ、とシェルンは何故かうきうきとしだした。

 彼と行動するのは正直気が重い。本心を言うと、とても怖かった。だがかといって彼から離れて単独行動をして、さっきの毛むくじゃらに遭遇して再び捕らわれるのだけは避けたい。それに彼は、この地において重要な手がかりともいえる少女を手放そうとは思わないだろう。

 鳥肌の立つ腕を摩るフィリアの怯えの原因を、知ってか知らずか、シェルンは軽く笑った。

「そんな怖がらなくても、フィリアは俺が守ってやるって。だから、安心しな」

「貴様に託すつもりはない」

「!」

 突然降ってきた言葉に、はっとして振り返る。フィリアは何度も目を瞬かせた。ヒユウと、その背に隠れるようにしてサラの姿があったからだ。

「ヒユウ様……! サラ様も、よく、ご無事で……」

「ほお、黒騎士。それにお姫さんも。よくもまあ、あんな状況で生き残れたもんだぜ」

 大して驚いた風もなく、シェルンは口角に揶揄を浮かべた。彼に殺されかけたといっていいサラは、あまりの態度に顔を真っ赤にさせる。しかしそれよりも恐怖が先立つのだろう、黄昏人であるフィリアにも怯えと敵意を向けながら、ヒユウの背に隠れた。

「どうせ、お前らも町を探しているんだろう? いいぜ、一緒に行ってやっても」

 あくまで上から目線な態度でシェルンはヒユウ達と行動をともにすることにした。

 ヒユウとサラが無事で、フィリアは心の底から安堵した。暗い海に飲み込まれていくヒユウの姿がずっと、頭から離れなかったのだ。

 背中に突き刺さる視線が痛かったが、ほうと息を吐いて、フィリアはシェルンから一歩遅れて足を動かす。無事な姿をもっとじっくり確認したかったが、サラの敵意に満ちた様子から見るに、もう少し時間を置いた方がいいだろう。黄昏人である自分のせいもあるが、半分はシェルンのせいだ。あれだけの酷い扱いをしたのだ、恨まれても仕方ない。まあ彼の場合、その恨みすら心地よいのだろうが。


 歩き続けてどれほど経ったのだろうか。辺りはすっかり暗くなったが、景色は歩き始めた頃と大差ない、岩山ばかりだ。仕方なく、適当な洞穴かどこかを見つけて、そこで野宿することにした。焚き火するのに枯れ草を集めていたフィリアが、すぐ近くで周辺を窺う男を見詰める。以前より胸に抱いていた疑問が、口をついて出た。

「……シェルンさんの目的は、『覇王の剣』なのですか」

「どうして、そんなことを訊く?」

「知りたいのです、シェルンさんの目的を……」

 龍の血肉を食らい、不老不死となってしまった、亡国の王子。五百年もの月日を生きた彼は、今帝国の『聖なる手』として動いている。彼の本音を少しでも聞ければ、この怯えも消えて、理解することが出来るだろうか。

「……そんなにも知りてーのか?」

 こくりと頷くと、途端にシェルンの表情に揶揄の色が加わった。こうなると碌でもない展開にしかならない、と今までの経験で知っている少女は反射的に後ずさる。

「キスしてくれたら、教えてやってもいーぜ」

「な、嫌です……!」

 この後に及んでも、ふざけた対応をするシェルンに心の底から憤った。馬鹿にするにも程がある。嫌でもあのときのことが思い出され、かっとなった少女は怒りを沸騰させて、「もういいです」と立ち去ろうとした。けれど、男は少女の腕をとって、それを許さない。

「今度は頬でもいいって」

「やめ……っ!」

 含み笑いを投げて、素早くフィリアの首に腕を回したシェルンはそのまま、無理やり口付けをしようとした。

「むぐ……っ?!」

 しかし、少女の唇を塞いだのは男のそれではなく、白い手袋だった。それが誰のものか気付いた少女の顔は見る見るうちに真っ赤になっていく。背にもぬくもりがあった。ヒユウが背後から腕を回して少女の口を片手で覆うことによって、シェルンの無法な振る舞いから守ってくれたようだ。

 助かった、というべき状態なのだろうが、とても振り向ける雰囲気ではない。背中から伝わる怒気が、怖くてたまらない。ヒユウに後ろから手で口を塞がれた状態のまま、フィリアはただ固まるしかなかった。

「貴様、何をしている」

 低く押し殺した声色を受けて、シェルンはあっさりと少女から腕を離した。

「くそ、三度目は失敗したか」

「……三度目だと?」

 ますます、辺りの空気が底冷えして、フィリアは身動き一つ出来なくなってしまう。シェルンの言動行動はわざとだ。少女の一番嫌がることをして、反応をいちいち眺めて愉しんでいるのだろう。フィリアはあまりの状況に泣きたくなった。シェルンを睨むことすら、出来ない。これ以上この場に留まるのは耐え難く、口を覆うヒユウの手を振り払うと、その場から逃げ出してしまった。

 小さくなる背をにやにやしながら見送っていたシェルンの顔のすぐ傍で、ひゅっと風を切る音がする。

「……っぶねぇな」

 ヒユウの拳を寸前で避けながら、口を尖らすシェルンの表情はどこまでも人を馬鹿にした色だ。

「てめぇに殴る権利なんて、ないだろう? フィリアが組織に連れ去られるよう仕組んだのは、龍の騎士、てめぇだ。そこでフィリアがどんな目に遭ったところで、それも想定の上ってことだ、違うか?」

「……よもや貴様に道理を説かれるとはな」

 嘲笑を浮かべて、ヒユウは冷たく見据える。纏う空気は明確な殺気を帯びていた。ここで戦闘になっても構わない、そんな空気だ。だが、シェルンは今この場で喧嘩を買うことはしなかった。

「それに二回目は双方同意の上だぜ。お前の怒りはお門違いってことだ」

「嘘はもっと上手く吐け」

「嘘じゃねぇって。してきたのはフィリアからだ。これは本当だぜ、なんなら本人に聞いてみるがいい」

 自信たっぷりに断言するシェルンは、「喧嘩は、そのあとで買ってやらぁ」と言い残して、背を向けた。




 相変わらず狂人達は、フィリアを探しているようだ。

 居た堪れずに逃げ出した少女は、前方にある岩場の向こうから轟く咆哮を耳にして、一瞬で身を強張らせた。それに共鳴するかのごとく、魔物の飢えたような唸り声も響く。そう遠くではない。ここは危険だ。すぐにヒユウ達に知らせに行かねば、とすぐに踵を返した。だがヒユウ達もとっくに狂人達の存在に気付いていたらしく、すぐさまフィリアとサラを安全な場所へ導いた。

「二人はここにいろ」

 暗い洞穴に二人を連れてきたヒユウは、くれぐれもここを動くな、と言い含めて出ようとした。狂人達と戦うつもりなのだろう。それを止めたのは、怯えに震えたサラだ。

「いや、ヒユウ様っ、行かないで……!」

「サラ姫」

 縋ろうと手を伸ばすサラを、視線で留める。厳しい視線にサラはびくりとして、伸ばした手を胸の前で組んだ。不安をどうしても抑えることが出来なくて、涙を滲ませながら蒼穹の双眸を見上げた。

「ヒユウさま……」

「すぐに戻る」

 不安そうに呟くサラを安堵させるように力強く言った。そして、フィリアに一瞥を向けてから、ヒユウは踵を返して、洞穴から出て行ってしまった。

 薄暗い洞穴の中、二人だけが取り残される。震えるサラが気懸かりで何か話しかけようかとも思ったが、彼女の怯えの原因の一つがフィリアだ。そう知っていて、話しかける豪胆さは無く、沈黙が場を支配した。

「わたくし、ヒユウ様をお慕いしていますの……」

 だがその気まずい沈黙を破ったのは、サラだった。少し離れた場所で膝を抱えていたフィリアは驚いて、顔を上げる。

 まともに彼女と正面から視線を交わしたのは、これが初めてだった。過酷な旅の中で疲弊した様子だが、それでもそのあまりの美しさにフィリアは見入った。絡まることを知らない金糸、けぶる睫毛が縁取られた、きらきらと宝石のように瞬く青の瞳は今、黄昏人に対する怯え、敵意を交えながらも真っ直ぐに見詰めてくる。緊張のせいか、ほんのりと染まった薄紅色の頬、桃貝の色が滲んだ柔らかな唇はきゅっと引き結ばれている。あと数年もすれば大人の色香も加わり、ユリアーナにも劣らぬ完璧な美貌を手に入れるだろう。彼女達を女神と崇める気持ちが、フィリアにはよくわかった。

「あなたは……?」

「……私は、黄昏人です」

 フィリアは不思議に思った。何故わざわざそんなことを聞くのか。それとも、言外に「立場を弁えなさい」と言いたいのか。おそらく、そうなのだろう。ちゃんと自覚があるのか確かめる為に聞いたのだと思って、フィリアはそう答えた。けれど、返ってきたサラの不満そうな表情から、それは誤解だと知れる。

「わたくし、誤魔化されるのは嫌いですわ。あなたの本当のお気持ちをお聞かせくださいな」

「……」

「わたくしが、ヒユウ様の婚約者だったという立場を気にしているというなら、その必要はありませんわ……既に婚約は破棄しておりますし」

 小さくなる語尾、自嘲めいた表情から、サラは言いながら傷ついているようだった。そんな彼女に対して、親近感が沸き起こる。けれどいくら、ヒユウへの想いが育ってしまうのを止められなくても、それを他人に告げるつもりは、フィリアには無かった。ましてや己の口からなど。サラとは違い、それが許される立場ではない。そんな資格もとっくに失われている。そして何より、口にして、ますます想いに歯止めが効かなくなるのが怖いのだ。

 黙ったままでいると、サラの唇から、落胆の溜息が零れた。失望した、といった表情だ。

「つまらない、ひと……」

 再び沈黙が降りる。こんな洞穴の奥まで、外で繰り広げられているだろう剣戟の音はあまり届いてはこない。居心地悪そうに膝を抱えながら、サラはぽつりぽつりと独りごちるように零した。

「……ヒユウ様は、今でもユリアーナお姉様を……愛していらっしゃるんですわ……わたくし、ずっと知っていましたけれど……知っていて、それでもヒユウ様に惹かれてしまいました……」

 魔の戦いに勝利した式典で、馬上の彼に一目で心を奪われしまったのがきっかけ。それから、よく姉に会いに屋敷に訪れるようになった彼の姿を色めきたつ侍女に隠れて、こっそりと盗み見る日々が始まった。淑女としてはしたない振る舞いだと思ったけれど、そんな思いも一瞬で消えた。怜悧な美貌に触れた夜は、そわそわと落ち着かなくなって、眠るのが難しかった。

「罰が当たったんですわ……」

「え……?」

 黙って話を聞いていたフィリアは、沈痛そうに顔を膝に埋めるサラの様子が痛ましく、同じように顔を歪めた。

「政略だって、知っていました。父上が悩んでいたのも、知っていましたの……わたくし達姉妹二人を、軍部と皇族の両方に嫁がせねばならぬ、と」

 父は、帝国軍部が行っていた何か危険なことに関与していたのだろう。そのあと皇族は元老院側につくことに決まってしまって、かといってそう簡単に軍部側から元老院側につくことも叶わず。やむなく、中立の立場をとらなくてはいけなくなったのだ。

「わたくしはぞっとしました……他の方に嫁ぐことなんて、考えていませんでしたの。ヒユウ様に夢中で、どうしても彼が欲しかったのです。だから、父にお願いしましたの……わたくしは、ヒユウ様でないと駄目だって……それ以外の方とは絶対に結婚しません、と……涙を流して訴えたのです。お姉さまの降嫁が決まったのは、そのあとすぐでしたわ」

「……」

「お姉さまは怒るどころか……優しく微笑んで、わたくしの恋を応援したのです……だから、これは罰なのですわ……!」

 そう叫ぶように言って、顔を両手で覆ったサラは、膝に埋めた。

 時間が経てば、ヒユウの心もいつか自分に向くと信じた。信じたかった。けれど、それも叶わなかった。そんな時間を運命は与えてくれなかったらしい。それも、目の前の少女のせいだと、恨んでしまう気持ちもあった。ヒユウが何故か、この少女を気にかけている事実は余計に、サラの心を抉った。姉ならばいい。ヒユウの心が占めるのは姉ならば、まだ自分は許せるのだ。

 それでも、彼が手に入らないという現実を、サラはまだ信じたくなかったのだけれど。

 はっきりと、自分に想いが向くことはないと告げたヒユウの声が脳裏に響く。無意識に、ぎゅっと膝を抱える腕に力が入った。

「サラ様……」

 フィリアはただじっと、目の前で涙を零す美しい姫を、見詰めていた。素直に気持ちを吐ける彼女がいつも羨ましかった。けれど、彼女も押し隠した罪悪といつも戦っていたのだろうか。彼女にとっては忌まわしい立場にある、黄昏人の自分に吐いてしまうほどに。

 膝に顔を埋めて震える少女に手をのばしかけたとき、不吉な悪寒が少女の肩を大きく震わせた。

「サラ様、逃げて!」

 それは殆ど直感だった。抱こうとのばしかけた手で、サラを思い切り突き飛ばした。黒い蔓が二人の間を割って入るかのように、伸びてくる。その先に捕えるものがなく行き場を失ったかのように、蔓先が一瞬動きを止めたが、すぐにフィリアの身体に絡まった。

「ひっ……」

 突き飛ばされ体勢を崩したサラが、目の前の光景に短い悲鳴を上げた。黒く棘のある蔓のようなものが、フィリアの身体に何重にも絡んでいたのだ。棘が少女の肌に食い込んで、赤い血が滴っていく。がくがくと震える身体をかき抱きながら、なす術もなく、洞穴の外へと引きずり出されていくのを眺めることしかできなかった。


 洞穴の外は、身体中毛だらけの狂人達が囲むようにしていた。数の多さに、シェルンもヒユウも手を焼いていたようで、洞穴に忍び寄る魔物の黒い蔓に気付くのが遅れたらしい。

 ごつごつした岩場の続く道を挟んだ向こう側は、深い谷底になっていた。洞穴から引き摺り出された少女の身体が、岩場を越え、宙に浮く。少女の目の前に、高すぎて底が見えない谷が広がった。狂人の咆哮が、より一層強く轟く。

 やはり、彼らはフィリアをどうしても殺したいらしい。黒い蔓が、少女の身体から離れた。奇妙な浮遊感を感じたのは一瞬で、あとはただ吸い込まれるようにして下へ落ちゆくのみ。

「フィリア!」

 すかさず、ヒユウが踵を蹴って谷底へと飛び込んだ。

 宙に投げ出され、下降する少女の腕を捉え、胸の中に強く引き寄せる。少女を抱えたまま、ヒユウは喚起を行おうとした。

 一度は、ノエル ―― というより帝国軍部の思惑により、龍を封じられてしまった。開発中の寄生獣によって。だが実は、ヒユウの身に巣食う寄生獣はとっくに排除されていた。それも、父の如意宝珠によって。今まで、召喚できないふりをしていただけだ。そもそも、龍族のヒユウに寄生獣など意味をなさない。何故ならば、高位元素で成り立つ彼らの中で最高位は龍であり、その龍を支配できる召喚獣など存在しないのだから。だから、龍の力を呼び覚まそうとした。一瞬で催眠状態に己を移行し、憑依の段階に移ろうとする。だが、何かの圧力によって、それは遮られた。

「何っ!?」

 ヴェルンヘル、貴様か――

 巨大な龍族の力が、ヒユウに大きな重圧となってのしかかる。

 舌打ちして、ヒユウは剣柄から片手で剣を抜き、崖壁に向かって突き刺した。がりがり、と硬い音をたてて急降下の勢いを幾らか和らげる。だが、それでも足りない。かなりの高さである。ここから落ちればいくらヒユウとてただでは済まないだろう。それに、今はフィリアを抱えているのだ。黄昏人といえど、言霊を持つ以外は人間と変わりない。華奢で、か弱い少女なのだ。龍のヒユウからすれば、ほんの少しの衝撃ですら、脆く壊されてしまう小さな存在。

 ヒユウはしっかりと胸の中に抱え込み、崖壁を突き刺して割っていく剣を握る手に力を込めた。





 + + +





「あちゃー、出遅れちまったぜ……」

 シェルンはこめかみに手を当てながら、もう何も見えない谷底を見下ろしていた。すぐに気を取り直したように、どこかへ向かおうと歩き出す。よろよろとした足取りで洞穴から出てきたサラをまったく気にかける風でもなく、置いてきぼりにする気満々な様子に、サラは大いに慌てた。

「ま、待ちなさい……! わたくしを、置いていくつもりですの!?」

 どうも、シェルンに対しては淑女からは程遠い振る舞いになってしまう。自覚しつつも感情に逆らえないサラは、強い口調で言い放つ。必死に走って、遠くなる背に追いつこうとするが。

「ふ、お姫さん、俺にはお前を助ける義理はねーんだよ」

 返ってきた視線はひどく冷たかった。あっさりと切り捨てられたサラは、混乱と不安の波に呑まれて、叫んだ。

「ま、待ちなさい! 待って……お願い……っ!」

 最後は懇願する口調になってしまう。涙混じりの声にも、シェルンの足が止まることはなかった。すたすたと降りていき、冷たく拒絶されたサラは一人ぽつんと、岩山の中に取り残される。

「そんな……」

 こんな酷い扱いを、今までされたことなんてなかった。今まで、誰もが皆、サラを何よりも特別に扱い、大切にした。それが当たり前だった少女は、こんなときどうしていいのか全く分からなかった。

「ヒユウ様……お姉さま……っ」

 呆然と立ち尽くすサラのすぐ近くから、唸り声が響く。がたがたと歯を鳴らして、サラは暗闇の中、目を凝らした。いつのまにか、自分を取り囲むようにして、犬に似た魔物が荒い息を吐いている。

「や……ぁっ……」

 あまりの恐怖に、限界を超えたサラはその場で気を失って倒れてしまった。魔物達は恰好の餌食となった少女に飛び掛らんとしたが、鋭い殺気がそれを阻んだ。

「ちっちっ、そのお姫さんは、駄目だぜ」

 大柄の男が悠々とした足取りで獣達に近付いてくる。始めは邪魔をされて怒りに吼えていた獣だったが、すぐに耳を垂らして、己より強い存在へ平伏す態度へと変えた。飢えた唸り声ではなく、きゅうん、と縋る鳴き声を漏らす獣達は渋々といったかんじで、その場から追い払われる。満足そうな笑みでそれを見届けたあと、男は倒れ伏しているサラへと視線を落とした。

「仕方ないな……ユリアーナの大切にしてるお姫様だからな」

 頬に走る古傷をぽりぽりと掻きながら、ぽつりと独りごちる。はあ、と重たい溜息が漏れた。

「それにしても、あの野郎……」

 ヒユウとフィリアが落ちた谷底は真っ暗で、何も見通すことは出来ない。男は暫く、谷底に広がる闇を忌々しげに見下ろしていた。




「サラ姫……、サラ姫! 目を覚まされてください」

「ん……」

 肩を揺すられ、遠くから届く声が段々と近くなる。それは覚醒が近いことを、少女に教えてくれた。ぴくりと震えた瞼の上に、安堵の溜息が落ちる。

「良かった、ご無事で……」

「!」

 視界に映った男の姿に、がばりと少女は身を起こして、警戒した様子を見せた。それに苦笑を浮かべながら、ラインハルトは「どこか具合の悪いところはございませんか」と気遣いの言葉を重ねる。

 それに答えようとせず、視線を逸らして距離を取ろうとする少女。そんなすげない反応にも、ラインハルトは慣れたようで今更めげることはなかった。このままこうしていても駄目だ、他の人間を探しましょう、と提案する男に、やっとサラは頷いてみせた。

 立ち上がろうとした時、男は優雅に手を差し伸べてくる。紳士として当然の行為であったが、サラの心地はますます沈んでいった。

 この手が、ヒユウ様であったならば、どんなに幸せだったことだろう。

 どうしても比較してしまう ―― ヒユウと、他の人間を。

 暗い表情を浮かべたサラから、何を考えているのか鋭く察したのだろう。今まで王子然としたラインハルトの表情にほんの少し陰が落ちた。それでも、何度もサラを気配り、その美しい容貌を褒め称え、彼女をここまで酷い境遇に追いやったヒユウやフィリアを悪し様に言った。その言い様に、疲弊した心を持て余していたサラがとうとう怒った。

 彼の、こちらの意思に関係なくずかずかと無遠慮に踏み込んでくる態度が、厭で堪らない。飾り立てた褒め言葉も心に響くどころか、空虚さに拍車をかけるだけ。彼も、その他の男も皆、自分を見ていないとサラはわかっていたのだ。

「わたくし、貴方が嫌いですわ」

「……サラ姫?」

「貴方はいつもわたくしの意思なんて無視で、ご自分のやりたいようにばかりします。わたくしのことも、ろくに知らないくせに、外見ばかりを褒められて、そんな空っぽの言葉に心を動かされるとお思いですの? わたくしはお姉さまの代わりではありませんわ!」

 つい苛立ちに任せて、ぺらぺらと今まで溜まっていたものをサラは吐き出した。口にしてから、はっと我に返った少女は思わず手を口に当てた。

 いつもの自分だったら怯えるだけだったのに。何故、吐き出してしまったのか。ここ数日の過酷な環境で、心が麻痺してしまったのかもしれない。ヒユウに失恋して、自棄になってたせいもあるだろう。シェルンが怒りを煽り、それに流されていつも爆発していた。それが癖づいてしまったのだろうか。何より、酷い扱いを受けて、もう我慢の限界だったのだ。言ってみれば、八つ当たりに近い。恥ずかしい。淑女としてはあるまじき姿だ。

 ちらりと様子を窺ってみると、ラインハルトはぽかんと口を半開きにしていた。とても、サラの品のよい唇から飛び出た言葉とは、思えなかったらしい。あまりの羞恥に、サラは視線を引き剥がした。

「ごめんなさい……わたくし……」

 苛立っていた。シェルンからあまりの扱いを受けて、ショックだった。傍にいると約束したヒユウが、黄昏人の少女を追って谷底へ身を投げたことも、とてもショックだった。勿論、前々からラインハルトのことは苦手だったのもある。けれど、八つ当たりに違いはない。素直にそう詫びると、ラインハルトの無邪気な笑顔とぶつかった。

「謝る必要はありません」

「え……?」

「驚きましたが……それよりも今は嬉しい気持ちが大きいのです。貴女の本音をずっと聞きたいと思っていましたので。今までユリアーナ姫やあの男の影にばかり隠れて、貴女は滅多に私に口をきいてくれなかった……恥ずかしい話ですが、いつも嫉妬しておりました」

 ヒユウの影に隠れるのが悔しくて、嫉妬のあまり、いつも大人気ない態度でつっかかってしまった。それが、サラをますます頑なにさせるとわかっていたのだが。自尊心が邪魔して、ヒユウがいるから、と責任転嫁してたのだ。

 嬉しそうに語るラインハルトを、今度はサラがぽかんと眺めていた。








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