3
窓枠に腰をかけたメイリンは、片膝を立てたまま、ぼんやりと庭園を眺めていた。正妃の間から見えるその景色は、一際美しく、心を慰めてくれるものだったが、彼女の顔色が晴れることはなかった。
彼女の傍にあるテーブルには、他国から取り寄せた焼き菓子の盛った皿と、芳しい香りを漂わせた紅茶が置かれている。それらも今着ているドレスも、帝国の皇族貴族達から正妃となった自分へと贈られた、最高級の品々だ。
誰もが自分に傅いて、敬う。
旅の踊り子として各地を放浪していた時とは、雲泥の扱いだ。あの頃は、美しく神秘的な踊り子と持て囃されてはいたが、同時にその誰もが、娼婦を見るように蔑み憐れんでいたのは知っていた。所詮、踊り子というのは、そういう身分なのだ。己の身体を見世物にして、下卑た男達に媚を売って、そして情けを貰う。汚れなき鳥の籠の中で矜持を育てられた貴族の姫君達にとっては、自分のような存在が一番、侮蔑すべき対象だろう。後宮にあがる前から、彼女達が自分に対してどのような反応をするのかは考えるまでもなくわかった。予想通り、彼女達はレヴァインの側室となったメイリンに容赦がなかった。心配するフィリアには殆ど言えなかったが、酷い嫌がらせは毎日のように続いた。命を狙われたことも、ある。けれど、メイリンはそれに憤るどころか、逆に安堵してすらいた。
―― だって、ほら、同じではないの。
穢れない、高貴な生まれのお姫様達も。どす黒く、汚い腐った臓腑を、美しく煌びやかな装いで隠している。下卑た男達に媚びて、利用して、身を売る自分とどれだけの違いがあるのか。女は汚らしい。男の欲望を煽り、満たす為だけに存在する。だから嫌い。同じ生き物であることを確信したメイリンは彼女達を殺すことに何の躊躇いもなかった。
そして正妃となった今、誰も自分に意見する者はいない。嫌がらせをする者も、侮蔑の言葉を囁く者も全て屠った。メイリン付きの侍女達も、いつ自分が不興を買って殺されるのか、と怯えているようだ。その怯えようを最初こそは面白おかしく見ていたが、時間が経つにつれて、不愉快な思いが胸を占めるようになり、彼女達を傍から長く下げるようになった。
メイリンはちらり、と部屋の片隅に立ったまま、微動だにしない一人の少女を見遣る。メイリンの護衛としてついている『聖なる手』、そして、以前は皇宮の女官だった少女だ。趣味の悪い仮面をつけたままの彼女は、まるで彫像のようで、生きている者の気配が感じられない。彼女達『聖なる手』を掌握したレヴァインは、元老院も思いのまま、軍部すら彼に滅多なことをいえない状態のようだ。古き時代に失った皇帝の権威がまた、復活しようとしている。
顔を上げて、空を見上げた。
もう、フィリア達は船に乗って、海へと出航した頃だろうか。
ぼんやりと物思いに耽ろうとしたメイリンは、視界の端にふわふわと浮遊する白いものを見つけた。
小さくて白い、透けた男の子。
「誰?」
「あ……」
「どうしたの? あなたみたいな子がどうしてこんなところに?」
「迷子じゃないよ、えっと……君がメイリン?」
悪戯を母親に見咎められた子供のようなバツの悪い表情で、テイルは頭を掻きながら、ふわりとメイリンの傍まで降り立った。彼の白い髪と薄い空色が混じっている。少し透けた姿、しかも空を飛んでいるというのに、メイリンはあまり驚きもせず、警戒もしなかった。護衛役の『聖なる手』が動かなかったからもあるが、色んなことが立て続けに起きていて、心が麻痺しているからかもしれない。
「どうして私の名を?」
「うん、あの……フィリアを知ってる、よね?」
様子を窺うように小首を傾げて見上げる少年はあどけなく、とても警戒心を与えるようなものではない。だというのに彼の口から零れた名前に、メイリンの心はざわめき、冷えていく。
「メイリンの様子をね、時々でいいから見てって」
本当はこっそりとメイリンの様子を見るつもりが、あっさりと見つかってしまって、居心地の悪い表情をしていたらしい。メイリンはふっと自嘲めいた笑みを貼り付けた。
「私を見張っていろって? また、いない間に私が何かしでかすか、わからないものね」
「ち、違うよ、フィリアねーちゃんはそんなことしないよ! ただ、心配だからって……友達なんでしょ?」
「……貴方は何者?」
必死にフィリアの擁護をする少年を遮るように、メイリンは表情を消してすっと目を細めた。せっかく友好的な出会い方だったのにと残念に思いながら、テイルは自分の名前を告げる。
「正妃様なら、知っている筈だよ。僕の名前は、テイル」
「! ……そう、貴方が、テイルなのね……元老院が血眼になって探していた教皇様。けれど私は、久しぶり、と言った方がいいのかしら?」
目を伏せて自嘲気味に微笑むメイリンに、テイルの方は何のことだか理解できなくて、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
「おねーちゃん、僕と会ったことあるの? あの砂漠に、いたの?」
「ずっと、昔よ……十年近く前。貴方は幼子だったから、覚えていないのも無理はないわ。私も小さかったから殆ど覚えていないもの。それに貴方と、そして貴方の父であるダフネがケルジャナ砂漠にやってきた後、しばらくして私は砂漠を出たのだから」
窓枠に腰掛けたメイリンは目を伏せて、傍に植えてある茂みの葉を右手で弄びながら、答えた。
「……砂漠を出たの? どうして……」
テイルは途中で言葉を切った。砂漠から抜け出そうとする者は少なからずいた。戦いに嫌気が差した者、戦いの道具となることを拒否した黄昏人など。おそらく、メイリンもそうなのだろうと、暗い影が落ちた表情を見て察したのだ。
「それにしても、どうして教皇となった貴方がこんなところに? 神殿を抜け出してきたの?」
「ううん、身体は神殿の中にいるよ。ただ、ちょっと外を見たくて……ごめんね、内緒にしてくれる?」
きっと見つかれば叱られてしまうのだろう。上目遣いに様子を窺う少年の仕草が可愛らしくて、メイリンの口元はふっと和らいだ。そして、新教皇の能力は千里眼と、幻影を生み出すことだと重鎮が話していたのを思い出した。己の影を作って、千里眼をも行使すると、ただ遠くまで見渡すだけでなく、その場で意思の疎通まで可能なのか。彼の能力は歴代の教皇達に比べても特殊で、強いようだ。
先程の自由に空を飛ぶ姿を見て、どんな場所にでも行ける少年の力をメイリンは羨ましく思った。けれどすぐに、それは間違いだと気付く。その力ゆえに、彼は大神殿の奥にその身を繋がれているではないか。
「……いいわ、内緒にしてあげる」
同情されるのを厭うメイリンは、胸の内に湧いた感情を押し殺しながら、言った。ほっと安堵の息を吐いた少年は、名案が浮かんだというようにぱっと表情を輝かせると、メイリンの手首を両手で包む。
「よかった、ありがとう。あ、そうだ。ねぇ、おねーちゃんもおいでよ」
「……どこへ?」
所詮幻なので、少年の手の感触を感じることはない。けれど包まれた手首が何故か暖かく感じて、メイリンは不思議に思った。
「これから、人と会うんだ。大神殿の庭で。こっそりとだから、それも内緒にしてくれる?」
「ふふ、いいわよ」
ひらりと身軽な動作で、メイリンは窓枠から庭園の芝生へと足を降ろした。瞬時に部屋の隅に控えた『聖なる手』が動く。それまでその存在に気付いてなかったテイルは驚いた声を上げた。窓枠越しに対峙しながら、メイリンは「あなたは来なくていいわ。心配しなくても城から出ないから」と彼女の同行を禁じた。それでも護衛役としてすんなりと引き下がるわけにはいかないのだろう。じっと仮面越しに見据えたまま、動かない。唯一見える唇は土気色で、横一文字に引き結ばれている。三つの黄金の目とその間を走る真っ赤な文様。その不気味さに、テイルは息を呑んだ。
「これは命令よ」と告げると、諦めたのか音も無く、部屋の隅へと戻った。メイリンはテイルを促して、待ち合わせの場所へと向かった。
「ところで、誰と待ち合わせているの?」
「うん、フィリアねーちゃんがね、僕の為にってね、司祭様に言ってくれて……それで、会いに来てくれたんだ」
「ああ、ハデス司祭様ね」
フィリアの父代わりであるハデス司祭は、メイリンも会ったことがある。フィリアと出会った赤レンガの街で滞在したときは毎日のように会っていた。ふとあの頃の光景が脳裏に浮かんで、慌ててメイリンはかぶりを振った。そして前を向いた、その途端。
ぎくり、とメイリンが視線を揺らした先には、こちらと同様に目を見開いて固まっている、少年がいた。
「……お前……メイリン……」
「……クシシュトフ」
お互いの名前を紡いだまま沈黙した二人に、テイルと、そしてクシシュトフとともに訪れたハデス司祭は顔を見合わせた。
「あ、二人ともやっぱり知り合いなんだ……」
それにしても何だか険悪な雰囲気に、テイルは戸惑った。メイリンをここに連れてきたのは、まずかったのかと思い悩む。実は今まで、テイルは何度かこっそりとメイリンの様子を遠目から見たことがあった。その度、いつも、彼女は苦しそうだった。広くて豪奢な部屋、綺麗なドレスを着て、多くの侍女に傅かれているというのに、全然楽しそうじゃない。それどころか、深い孤独の闇に沈んでいた。それは大神殿で一人で過ごすテイルにとって、まるで自分を見ているようにも思えて、放って置けなくなった。なかなか話しかける機会が無かったのだが、今回彼女もケルジャナ砂漠にいたという過去も知って、それならば、クシシュトフと会って少しでも和めばいい、とそう思って連れてきたのだが。
どうやら、テイルの思い描くような穏やかな雰囲気にはなり得そうもないようだ。
「イエジ様、死んだよ……」
「知っているわ」
暫く無言で睨み合っていたが、先に口を開いたのはクシシュトフの方だった。悄然とした声とは対照的に、メイリンの返事は淡々として、素っ気無い。ぐっと拳を強く握る少年の肩が微かに震えている。滲み出す怒りを敏感に感じ取ったテイルは、二人の間に割って入って雰囲気を戻そうと試みるがハデスに止められてしまった。
「……お前、何をしてるんだよ。こんなこと、やってる場合じゃないだろ? よりにもよって、帝国なんかに……俺達を散々苦しめた奴らに媚びやがって、正妃なんかになって贅沢三昧、って、なんだそれ……それを知ってイエジ様がどう思うか、考えたことが……」
「あんたに!」
かっとなって、メイリンは怒鳴った。だがすぐに、頭に血が昇った己を珍しく思い、必死で冷静になろうと努める。荒ぶる心を押し殺す術は、踊り子になってからは下卑た男達に媚びることで、皇宮に上がってからは下らない嫌がらせを続ける貴族の姫君を受け流すことで、育まれていった。妖艶な笑みで図星を突いて、相手から冷静さを奪う。そしてこちらの流れに引き込んでしまう、それがメイリンのやり方だった。己の心に蓋をすることなど簡単だ。けれど、何故だか今はそうすることが酷く困難だった。
「何がわかるっていうの。あんたには、絶対わかんないわ、イエジなんて、私の言うことを聞かなかった愚かな男よ。戦うのが嫌で怖くて、そうして結局何も出来ないまま、殺されてしまった役立たずではないの!」
「なっ……イエジ様を馬鹿にするな! イエジ様は、ずっとお前のことを心配して、最期まで……!」
「心配だけならそれこそ馬鹿でもできるわ。フリなら、余計ね」
「……お前……っ!」
激昂するクシシュトフの傍らに佇むハデスを見遣ったメイリンは、侮蔑の笑みを口角にのせる。
「あんたこそ、のこのことよくこんなところまでやって来れたわね。しかももう、イエジの代わりを見つけてあるの。やっぱり、妾の子は違うわ」
ばし、と乾いた音が、メイリンの頬を鋭く走った。
クシシュトフは滲んだ団栗眼をぎっと吊り上げさせると、くるりと踵を返して駆けていく。テイルが慌ててそれを追いかけようとしたが、思いきり大きな音を立てて頬を殴られたメイリンを放って置くこともできない。
おろおろと視線を交互に散らしていると、ふと苦笑が届いた。
「……追いかけてあげたら? 今頃、きっと泣いているわよ。あの子、泣き虫だったから」
「でも……メイリンも心配だ」
あっけらかんとしたメイリンは一見、すっきりした表情をしている。だが、テイルにはメイリンがどうしようもない孤独の連鎖に組み込まれてしまっているようで、とても大丈夫には見えなかった。
「ふふ……私は泣いていないわ。泣いている女の子を慰めるのは、男の子の役目でしょう?」
時が、止まった ―― 気がした。
「……は?」
「なあに、もしかして知らなかったの」
目を丸くして固まるテイル。メイリンは殴られて真っ赤になった頬をなで擦りながら、くすくすと愉悦を混じらせた笑い声を零した。まだ、信じられない、と混乱に頭を抱えるテイルは、ハデスの口からきっぱりと真実を突きつけられることとなった。
テイル、クシシュトフは女の子なんだよ ―― と。
+ + +
気持ち悪い。
頭がぐわんぐわんと揺れている。実際に船自体も揺れているのだが。脳味噌、内臓、体内に詰まっているもの全てぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているようだ。
航海六日目。それまで青色しか映さなかった空が、今は激しい雷雨を伴った黒雲に埋め尽くされ、静かに波打っていた水面も船を飲み込まんと荒れに荒れている。ようやく海賊すら恐れる海域に入ったようだ。
この状態で船酔いするな、という方が無茶だろう。フィリアは今まで味わったことのない嘔吐感に見舞われ、立つことすら侭ならなかった。騎士達は総出で甲板に出て、船の操縦にかかりっきりの上、魔物まで出没したようでヘテイグも借り出されている。アレシアと共に船室での待機を命じられたが、今、フィリアはレムングスを連れて医務室に続く廊下にいた。船室にいるアレシアが、フィリア以上に具合を悪くして吐き続けており、船酔いに効果のある薬草が医務室にあると聞いていた為だ。だが医務室までの道のりは遠く、フィリアは途中で壁に寄りかかって、ずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。
予想以上に辛い。
傍にいるレムングスも、この揺れには相当堪えているらしく、へたりこんでしまっている。大丈夫? と囁きながら、背中を擦ってあげるが、か細い鳴き声をあげるだけで精一杯のようだ。こんな状況の中、ヒユウ達は外にいるのだと思うと、フィリアは身震いした。逃げ場もない海の上で嵐に襲われ、魔物も出没する領域。いくら精鋭の騎士達といえど、過酷な状況には違いない。外に出てもフィリアに出来ることはなく、非力な自分を悔やんだが、今更そんなことを思っても仕方ない。とりあえず、今自分に出来ることをしよう、と壁に寄りかかりながら医務室まで進んだ。辿り着いた途端、嘔吐感が一層増してしまった少女はその場で吐いてしまう。胃が空っぽになるまで吐き、荒い息を少し整えてから、麻袋に入った薬草を取り出す。緑色の細い葉っぱ。それを噛み砕いて飲み込むと、酔いがましになるらしい。最初あまりの苦さにフィリアは半泣きになったが、無理やり嚥下した。後味も悪く、水で流し込みたかったが、水は貴重なので出来る限り使用は控えるよう言われているのだ。レムングスにも食べさせてから、少女は数枚の薬草を掴んで、部屋に戻った。
船室で、アレシアはぐったりと寝台の上に倒れこんでいた。顔色は真っ青だ。慌てて彼女の様子を看ようとしたフィリアだが、こつりと靴音が後方から届き、振り返る。
「誰……きゃっ!」
いきなり髪を鷲掴みにされて、そのまま、後方へと引き摺られる。すかさずレムングスが唸り声をあげて飛び掛ろうとしたが、あらかじめ予想されていたのか、素早く網を投げつけられた。暴れれば暴れるほど、網は獣に絡み付いて動きを封じていく。魔法がかけられているのか、噛み切ることも出来ないようで、獣の体力を効率的に奪っていった。徐々に動きの鈍くなる獣に、フィリアは叫び声を上げる。
「レムングスさん!」
「厄病神め……白金の女神を汚した罪、思い知らせてくれる」
「っ……!」
今フィリアの髪を掴んでいるのは、サラ姫とユリアーナ姫を女神と崇拝する騎士の一人だと自ら告白した。白金の女神、と呼ぶ彼らは、彼女達を本物の女神と信じている。美しく穢れなき、姫君。そんな彼女を巻き込んでしまったフィリアは、彼らにとって疫病神にしか映らない。
「ごめんなさい……必ず、サラ様は取り返します」
言われずとも、サラのことは命に代えても守ると決めていた。これ以上、自分の為に誰かが犠牲になるのは、我慢がならない。
「その言葉に嘘はないな?」
耳元に落とされた冷たい囁きに、フィリアは強く頷いた。
ひとまず嵐は去り、魔物も撃退したようで、甲板から騎士達が降りてくる。嵐が去ったといっても、まだ黒雲は空を埋め尽くしており、いつまた激しい雷雨に見舞われるかわからない状況だった。
その上、さらに視界を奪うように、霧まで漂い始める。
「嫌な霧ですね。まるで、私達を捕え逃さず、口へと誘う、蜘蛛の糸のようですよ」
辺りを注視するヒユウに声をかけてきたのは、清廉な白の騎士服に身を纏うラインハルトだった。雨水を含んだ黄金の髪が頬に張り付き、それを鬱陶しそうに払う仕草も計算されたような優雅なそれだ。レヴァインと美貌の質は似ているものの、レヴァインのような女性と見紛う色香を持っていないせいか、彼の方が余程、物語に登場する王子といった印象を周囲に与える。
皮肉以外の言葉をかけられたのは初めての気がする。珍しいこともあるものだと内心思いながら、ヒユウは海を眺めたまま、返した。
「……海賊すら忌み嫌い、踏み入れない海域だ。この程度では終わらんだろう」
「一つ、お聞きしたい」
硬い表情のラインハルトに、一瞥をくれる。その目線だけで、ヒユウは先を促した。
「サラ姫を人質として、奴らは黄昏人の小娘を要求するでしょう。その場合、貴殿はどちらを選ぶおつもりですか」
「……」
「姫より、あの厄病神を優先させるようなことなどあってはならないことです。それはご承知でしょう」
「サラ姫は必ず救い出す。その言葉に偽りは無い」
「……それならばいいでしょう。だが、姫を救い出すのは私の役目です、それもお忘れ無きよう」
挑発的な言葉を残し、ラインハルトはその場から颯爽と去る。その後姿を何気なく見送っていたヒユウの頭上から、慌てた声が降ってきた。
「危ない! 舵を右に切れ!」
叫んだのは、マストの上に取り付けられた見張り台で、周辺の様子を窺っていた赤髪の騎士だ。間一髪、間に合ったようで、船は衝突を避けることが出来た。安堵した騎士が顔を上げて、何事かと尋ねる。
「何だ、漂流物か?」
「……難破船のようだ」
見張り台の上から辺りを窺うと、海面のあちこちに船の残骸が浮遊していた。
「大昔に難破した船だろうな」
「ここが噂に聞く、船の墓場か……」
甲板上からも視線を散らしてみると、霧の中にうっすらと、船の残骸らしき黒い影が見える。嵐に巻き込まれ、あるいは魔物に襲われて無残な姿となった船の多さに、騎士達は無意識に息を呑んだ。
ぎゃあぎゃあ、と赤ん坊の泣き声に似た不吉な音が木霊する。死肉を食らう、黒屍鳥だ。飛び出た金色の目をぎょろりと上下左右させながら、船の上空で群れをなして飛び交っていた。
「おい、あれって……」
「俺達が、死ぬのを待ってるんだろう?」
騎士の一人が眉を顰めながら返すと、隣にいた騎士はうげ、と呻いた。
今まで誰も足の踏み入れたことのない領域、エウノミアに近付いてきている、という事実を実感できるようになり、騎士達は皆恐怖、不安を感じると同時に不思議な高揚感に包まれていた。彼らの持つ生来の戦闘本能がそうさせるのだろうか。二交代制から三交代制に切り替え、今まで以上に警戒を怠るなと言い残し、ヒユウはひとまず船内へと戻ることにした。
すると一足先に降りたヘテイグが血相を抱えて、駆けて来た。尋常でない様子に、ヒユウの表情もまた厳しくなる。
「ヒユウ様、申し訳ございません。何者かがフィリアを攫ったようです」
少女の傍に常にいる獣、レムングスの姿も見当たらない。ヘテイグはヒユウの前で深く低頭した。歯噛みして、拳を強く握り締めた彼の様子から、抑えきれない後悔が伝わってくる。ヒユウは目を伏せた。
嵐と魔物に襲われ、全ての騎士が協力しなければ、あの場は切り抜けられなかった。けれど、そんな混乱こそ、奴らにとっては好機にもなるのだろう。予想できた筈だ。
「……いや、あの状況では仕方なかった。だが、まだ船内に隠されている筈だ。二手に分かれて探すぞ」
後悔の波に襲われているヘテイグを諭すようにヒユウは返す。顔を上げて「はっ」と返事する青年とともに、船内を探そうとしたのだが ―― 突如、船を轟音が襲い、大きく揺らいだ。船に、何かがぶつかったのだ。踵を返し、船上へと出た時、信じられない光景を見た。
雨は止んでいたが、霧がかった灰色の景色の中、ヒユウ達の乗っていた船に横付けるようにして、大きな帆船の姿があった。
難破船ではない。真っ直ぐに伸びたマストの上に腰掛けた一人の男が、優雅な笑みでこちらを見下ろしていた。
「さーて、伝言はあった筈だぜ。フィリアを返せ」
『聖なる手』の一人、シェルンが甲板にいるヒユウに向かって言い放つ。その言葉を合図に、柄の悪い、見るからに海賊といった風貌の男達がぞろぞろと甲板上に姿を現した。あの港町で雇ったのだろうか。どちらにせよ、こんな海域まで乗り込む輩に碌な性質の者はいないだろう。
「貴様……そんなことより、サラ姫を如何した! 姫は、無事なのだろうな?」
ラインハルトは一歩進み出て睨み上げるが、シェルンは白けた表情を返すのみだった。
「答えよ! でなければ、貴様の要求には答えぬぞ」
「へいへい、うるせーなぁ。お前さんの大事な姫さんは、あっちだ。元気にしてるって」
ちょっと元気すぎるぜ? と付け足して、シェルンは顎先で示した。「あ、でも今はちょっと元気じゃないかな?」と軽く笑うその男から、ラインハルトは視線を船首へと移す。
龍を象った船首像の先に、求めていたサラ姫の姿があった。先端に縄で吊るされている。船の揺れに従って、少女の小さな身体も揺れている。力無く首は項垂れ、さらさらとした金髪が漂っていた。ここからでは、生死すら確認できない。
「貴様……っ!」
これ以上ない程の怒りに、ラインハルトは拳を震わせた。今にも飛び掛らんと、シェルンを睨み上げる。その目は爛々と輝き、殺意に満ちていた。他の騎士達も、あまりの状況に少なからず動揺し、そして同時に怒りをその身の内に滾らせてゆく。彼らにとって、皇族はやはり守るべき大切な存在なのだ。それ以前に、何の罪も無い非力な少女があのような悲惨な目に遭うのを、看過できる騎士はいなかった。
ヒユウも一歩踏み出して、剣柄に手をかけた。一斉に降り注ぐ鋭い殺気を、シェルンは心地良さそうに目を細めて、受け止めた。海賊達も、ひゅう、と口笛を吹いて、並び立つ騎士達の怒りを煽る。
「おっと、俺以外にも『聖なる手』が一人いるんだ。俺が合図すりゃ、あの縄は切られて、お姫様はあっというまに渦巻く海流に巻き込まれて、海の藻屑だぜ?」
今にも飛び掛りそうだったラインハルトはその言葉に、一気に肝を冷やされてしまう。下唇を噛み締めながら、シェルンの卑怯なやり方を罵った。だがそれすらも、シェルンには痛快な響きに過ぎない。
「やめて、シェルンさん! 私ならすぐに行きます。だから、早くサラ様を返して下さい!」
「フィリア?!」
ヘテイグが振り返ると、フィリアが甲板上に出てきた。拉致されたと思っていた少女の背に、一人の騎士がぴったりとついており、近付こうものならば、彼女の喉元に当てられた剣先が深く食い込んだ。
「よお、待ってたぜ、フィリア」
にっこりと満面の笑みのシェルンを睨みながら、フィリアは怒りを押し殺した声を出す。
「シェルンさん……何てことを……早く、サラ様を返してください」
「それは、フィリア、お前が俺のところへ戻ってきてからだな」
サラのあまりの扱いのせいか、少女からいつもの頼りなげな雰囲気は消えていた。明確な怒りを感じ取ったシェルンは、物珍しげにその様を観察する。
「わかりました、行きます」
嵐が鎮まったおかげか、先ほどの酔いは嘘のように消えている。若干の気持ち悪さは口の中に残っていたが、それはシェルンに対する怒りによって、どうでもよくなってしまっていた。しっかりとした足取りで海賊船へと向かう少女を、ヘテイグは止めようとしたのだが。
「フィリア!」
「大丈夫です、私は彼に殺されることはありません。ですが、サラ様はそうじゃありません。今は、サラ様の安全を確保することが一番です」
「……」
ヘテイグは、言葉に詰まる。確かに、この中で一番、安全が確保されているのはフィリアだ。シェルンも、彼女の命だけは奪いはしないだろう。反対に一番危ういのが、サラ姫。彼の気紛れによって生かされていると言ってもいい。どちらを優先するかなど、この場にいる騎士達の中ではとっくに決まっている。
何より、フィリア自身にきっぱりと拒否されている。彼女は絶対に、サラ姫の安全が確保されるまでは、守られてはくれないだろう。
だがかといって、彼女をシェルンに取られるわけにもいかなかった。帝国の騎士として、だけでなく。ヘテイグにとって他でもない、ヒユウに託されたのだ。少女を守ることを。そして、理由はそれだけでないことを、ヘテイグは薄々と理解しつつあった。
進み出る少女の前に、ヘテイグは立ちはだかった。
「ヘテイグ様……退いて下さい」
「どけ、貴様!」
フィリアの後ろにいた騎士が、苛ついたように顔を歪めた。少女の喉に突きつけられた剣先が、赤い線を作る。それを見て、ヘテイグは表情をさっと消した。
「ヘテイグ様、駄目! 早くしないとサラ様が……!」
吊るされたサラの華奢な身体が、風に攫われて大きく揺れる。もしこの状況でサラが目を覚まして恐怖に暴れようものならば、縄を切らずとも、海の底へと落ちてしまうだろう。いつまた嵐がやってくるかもわからない。シェルンの気紛れがいつ終わってしまうかわからない。時間が無いのだ。そう訴えたフィリアだが、真っ直ぐにこちらを射抜く青年の双眸に言葉を奪われてしまった。
「駄目だ。俺はお前を守ると決めた」
尊敬するヒユウの命令だからではない。ただ、目の前の少女を守りたい。
そのとき、ヘテイグはやっとそのことに気がついた。
一体、いつからだろう。目の前の少女は、人間の天敵である黄昏人だというのに。尊敬するヒユウの名誉を尽く汚した原因であるというのに。今ではもう、彼にとって当然のように守るべき対象となってしまっている。
「……ヘテイグ様……」
フィリアは目を見開いた。ヘテイグの真摯な表情に戸惑うのはこれで二度目だ。何故か、視線を逸らすことが出来なくて、そんな自分に動揺した。
二人のやりとりを視界の端に収めたヒユウが一歩進み出て、すらりと剣を抜く。鈍い銀に輝く刀身が晒された。
「貴様の要求は飲めない。サラ姫を降ろせ」
そして後方にいたツヴェルフに目配せする。次の瞬間、ツヴェルフの姿はその場から煙のように、ふっと消えていた。
「ちっ、縄を切れ!」
もう一人の『聖なる手』にそう命令するなり、マストから素早く飛び降りたシェルンは、海賊船に飛び移ってきたヒユウとの激しい剣戟を開始した。
「そうはさせるかっての」
遠くから聞こえたツヴェルフの声に、フィリアは驚いた。ヒユウより後方にいた筈の彼が、いつのまにかサラ姫が吊るされている船首像の上にいたのだ。そしてすぐにそれが、彼の召喚獣のおかげなのだと悟った。
「邪魔はさせませんよ」
縄を引っ張ってサラ姫を取り返そうとしたツヴェルフだが、淡々とした声色で阻む『聖なる手』に、顔を歪ませる。奇妙な仮面に長い裾を垂らした奇妙な装束姿。そこから繰り広げられる戦闘能力は、とても人間のものには思えない。過去に、死者の森にて味わった屈辱を今こそ晴らさねば、とツヴェルフは乾いた唇を舐めた。
「野郎共! 帝国の騎士様を殺るチャンスを逃すなよ!」
海賊の一人が野太い声で叫ぶと、狂喜の大歓声が黒屍鳥の鳴き声を掻き消す。血と暴力に飢えた男達が、一斉に帝国の騎士達へと飛び掛ってきて、一気に混戦状態へと陥った。
シェルン率いる海賊達と、ヒユウ率いる帝国の騎士達。両陣営の戦いが、二隻の船上で繰り広げられることとなった。
一方、シェルンが海賊を連れて登場するほんの少し前。クラーヴァはとある船室の前で、地面を見下ろしていた。正しくは、床にへたりこんでいるアレシアを、呆れたような表情で見下ろしていた。
「おい」
床に投げ出された赤い三つ編みを足先でつつくようにして、クラーヴァは複雑な心境を押し隠しながら呼びかける。好敵手と認めた相手の、こんな姿は出来るなら見たくない。だが、見つけてしまっては、何故か放置することも出来ず、とりあえず無愛想に声をかけてみた。だが、やはり相手に返事をする余裕はないようだ。
「ったく、無様だぜ。たかが船酔いでこんな様になるとは……」
「―― かましいっ! あっちへ行け!」
クラーヴァのあからさまな侮蔑に、アレシアは激昂した。今すぐにこの場から立ち去りたかったのだが、生憎身体は言うことを聞かない。先程、フィリアの悲鳴を聞いたような気がして、なんとか這い蹲りながら進んだのだが、体力は限界だった。肩で荒く息をしながら悪態をつく少女をクラーヴァは舌打ちとともに抱え上げた。
「なっ、お、降ろせ!」
思いも寄らぬ出来事に、アレシアは酷い船酔いも忘れたかのように暴れた。しかしそれも男の鍛え抜かれた腕によって呆気なく封じられてしまう。そのまま、彼女を船室の寝台の上へと戻そうとしたが、突如として響く轟音と振動に、クラーヴァは鋭い視線を天井に投げた。ただ事ではない雰囲気に、アレシアも抵抗を中断して、辺りを見渡す。どうやら外で何かが起きたようだ。アレシアを抱えたままクラーヴァが甲板に上がったとき、嵐が再び船を襲い始めたところだった。そして激しい嵐の中、混戦状態となった二隻の船上の光景に、二人は呆然とした。
「な、敵襲……!? おい、お前、降ろせ!」
しかしその声も無視して、クラーヴァはアレシアを抱えたたまま、剣を取り出して海賊達に攻撃を仕掛けていった。
無茶苦茶だ ―― というアレシアの悲鳴は嵐に掻き消された。
それから事態が急転したのは、混戦状態となって半刻も経たない内だった。
「サラ姫……っ!」
船が大きく揺れ、その振動によって船首像にかかった縄が外れ、暗い海の中にサラ姫の身体は投げ出された。ラインハルトは剣を絡ませながら、驚愕の声を張り上げる。他の騎士達も最悪の展開に真っ青になった。こんな濁流渦巻く海に落ちて助かる見込みはほぼゼロだ。どれだけ泳ぎに長け、鍛えられた騎士でもひとたまりもないほど荒れた状態だ。だがそれにも関わらず、ヒユウは手摺に足をかけて、海の底へと飛び込んだ。
「ヒユウ様……! いやぁ……っ!!」
「フィリア、駄目だ!」
咄嗟に、追って手摺から身を乗り出した少女を、ヘテイグは後ろから羽交い絞めにした。混乱状態に陥った少女が、拘束を解こうと身じろぎしながら目を凝らして海面を凝視する。だが、真っ黒な海は何も映さず、荒れ狂う波が船底を叩くばかり。絶望的な状況に、他の騎士達は言葉を失った。龍を封じられた身のヒユウは生身の人間と変わらない。嵐で荒れ狂う魔の海域に飛び込むなど、自殺行為である。そう理解しているというのに真っ先にサラを追って飛び込んだことにラインハルトは衝撃を受け、同時に固まって動けずにいた己を恥じた。
シェルンも少なからずヒユウの行動には驚いたようだ。同じように海面に目を凝らしていたが、ふと懐に違和感を感じて視線をそちらに寄越す。
上着の裾から、うっすらとした、淡い光が零れていた。
「!」
鍵だ。エウノミアへと続く扉の鍵が、光を発している。シェルンはすぐに懐から一冊の本を取り出して、ぱらぱらと頁を捲った。今まで何も記さず、真っ白だった頁には、文字が浮かび上がっていた、
「……そうか。鍵、そして、鍵を持てる者……」
独りごち、拘束されながらも海に乗り出すようにして叫んでいる少女に視線を移して、シェルンはほくそ笑んだ。もう一人の『聖なる手』に目配せする。彼は心得たように、フィリアを拘束するヘテイグに向かって剣を斬りつけた。拘束を解かれ、自由となった少女が手摺に手をかける前に、シェルンは彼女の傍まで素早く降り立って、書物を彼女の前へと掲げた。
「さあ、歌え、フィリア! これが、鍵だ。エウノミアへと辿り着く為の!」
「歌……?」
淡く光る文字達。それは旋律を奏でるもの。歌だった。フィリアが見たこともない文字、おそらく古代に失われた文字なのだろう。それが、エウノミアに入るための、歌。
黄昏人がこの歌を歌わない限り、エウノミアへ入ることは出来ない。そうシェルンは言った。
しかしフィリアの胸中は今それどころではなかった。ヒユウが、海に落ちたサラを追って飛び込んでしまったのだ。こんな、嵐の荒れ狂う、暗く深い海の底へ。
信じたくない。こんなの、嘘。嫌だ。ヒユウ様を助けて。エウノミアなんか、どうでもいい。
そう泣き叫びたかったのに、そんな心を無視するかのように、フィリアの身体は動き出した。書物を手にして、込みあがる衝動に駆られるままに、視線は光る旋律を追う。
古代に失われた文字が、少女に読める筈もないのに、勝手に唇から零れ出す。その調べは初めてだというのに、何故かとても懐かしく感じられる。
何故、と自分に問いかける。けれども答えは見つからない。ただ衝動だけが、己を突き動かす。
穏やかな少女の歌声に従うがごとく、嵐は徐々に勢いを潜め始め、辺りを覆っていた霧が晴れ始めた。騎士達も海賊達もお互い戦っていたことを忘れて、呆然とその神秘的な歌を聞き入っている。
荒れ狂っていた波は鎮まり、そして、船のちょうど真下から、海面が真っ二つに割れた。支えを失った船が、大きく傾く。
フィリアの意識はそこで途切れてしまった。




