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生まれて初めて見る、大海原。
眼前に広がる水平線は限りなく、青い天にまばらに浮遊する雲が水面に反射して、対になるように漂っている。白い鳥が群れをなして、海原のすぐ上を滑るようにして飛び立つ。世界の広大さを思い知らせるような、絶景。だがそれも、今の少女の憂いを拭い去ってはくれなかった。
エウノミア ―― 人間を憎み、恐ろしい魔物を創り出している黄昏人の故郷。
今から、自分達はそこへ向かうのだ。黄昏人との講和を結ぶ為に。純血であるフィリアならば、彼らも話を聞いてくれるだろうという、一縷の希望を携えて。ただ、その光は不確かで、この闇に包まれた道の向こうを照らすには、とても足りない。
果たして、このような大役が自分に務まるのだろうか。どれだけ抑えこんでも、振り払っても、次の瞬間には澱のように、不安が心の奥底に溜まっていく。
フィリアは頭を振って、別のことを考えるようにした。足元に、こちらの様子を窺っているレムングスがいるのに気付いて、口元を綻ばせて、自分は大丈夫だと告げる。しかし、その微笑もすぐに儚く散ってしまった。顔を上げた視界の端、港に佇んでいるユリアーナの姿を見つけたからだ。
薄紫のサテンのドレスが、潮風にふわふわと揺れている。
彼女の視線はただ真っ直ぐに、乗船し、港に向かって敬礼している騎士達、その中心にいるヒユウを捉えていた。そのひたむきな視線に、少女の胸はきゅっと締め付けられる。不意に、フィリアに気付いたように、それが移される。顔を強張らせた少女に、ユリアーナは苦笑ともつかぬ微笑をその美貌の上に浮かべた。
出航を知らせるラッパの音が、フィリア達を乗せた黒塗りの帆船を海原へと送り出す。港に佇むユリアーナの姿が段々と小さくなる。やがて黒い点となった頃、フィリアは視線を剥がして、周囲を見渡そうとした。すると、ヒユウの蒼の視線とかち合い、少女は驚く。
「ヒユウさ……」
名を呼び終わる前に、視線を逸らしたヒユウは身を翻し、甲板に集う騎士達に向かって何かを命じる。その反応にショックを受けながら、フィリアは手摺に手をかけて、ぼんやりと海を眺めた。潮風が、妙に目に沁みる。
「あまり端に寄るな、フィリア」
「ヘテイグ様……」
きびきびとした足取りで、漆黒の騎士服に身を包んだヘテイグが隣に並び立った。遠くなるロウティエ大陸に、男の目は細められる。
「……海は初めてか?」
「はい」
頷くと、「だろうな」とヘテイグは苦笑を交える。
「港に着いてから、お前は海ばかり見詰めている。物珍しくて仕方ないといった表情だ。放って置くとそのまま、飛び込んでしまいそうで、見ていて危なっかしい」
「そ、そんなに……?」
確かに港に着いてからは、海の広大さ、青さに驚き、一瞬で魅了された。時間があれば眺めていたし、乗船後はさらに興奮を煽られたように思う。けれど、その様子が周りから一目瞭然、というのは恥ずかしい。うっすらと頬を染めた少女を見詰めながら、ヘテイグは何かに思い至ったようで、はっとする。
「別に、お前が気になって見ていたわけじゃない。ただ俺は、ヒユウ様に命じられて、それで……」
「ヒユウ様が……?」
何故か慌てたように言い繕うヘテイグを不思議に思いながらも、彼の口から零れた名前に、フィリアは敏感に反応した。
「いや……」
続きを待っている様子に、ヘテイグは言葉を濁す。そして、出航直前にヒユウに呼び出され、命じられた時のことを思い返していた。
「俺がフィリアの護衛、ですか」
ヘテイグが僅かに目を見開くと、ヒユウは常にある無表情のまま、頷いた。
出航直前に、ヘテイグ一人だけ呼び出されたかと思うと、ヒユウは一つの役目を、彼に課した。
フィリアの護衛を最優先事項とする、という役目。
しかも今の響きからすると、今までヒユウが担ってきた、“最優先に彼女を守る立場”をヘテイグに任せると、言いたいのだ。何故、こんな状況の中で ―― これから何が起こるかわからない、未知の脅威の真っ只中に飛び込んでいくというのに、そんな命令を下すのか。今まで少女を守ってきたヒユウの真意が掴めず、どういうことなのかと、ヘテイグは疑念の視線を抑えることが出来なかった。
「今後、私はサラ姫を最優先せねばならん」
シェルンは用意周到だった。ヒユウが帝都を離れられない間、彼は巧みに撹乱した。居場所を特定するだけで精一杯で、それもすぐにトカゲの尻尾きりのように振り払われてしまう。結局、港町スローンズでも、彼らから何か仕掛けてくることはなかった。
海上という、安全な場所が極めて限られた場所。そこでサラ姫を盾に、フィリアを奪おうとするつもりなのだろう。しかも海賊すら恐れる海域で、さすがのヒユウもフィリアとサラの二人を同時に守れる自信はない。それがシェルンの狙いだった。シェルンにとって、必要なのは、鍵を持てる者であるフィリアだけ。彼がフィリアを殺すことだけはないが、サラ姫の命はとても危うい。シェルンの気紛れによって、あっさり海の上に捨てられてしまうこともあるのだ。
元婚約者であり、皇帝から直々にサラ姫の奪還を命じられたヒユウが、彼女を最優先することは至極当然のこと。
それはヘテイグにも予想は容易く、納得した。しかし、心の何処かでは納得したくなかった。
「……承知致しました」
きっと、少女は落ち込むだろう。しゅんと肩を落とした少女が脳裏に浮かんで、ヘテイグは振り払うように頭を横に振った。
「……関係ない、こちらの話だ」
「……はい……」
微かに傷ついた表情を浮かべた少女だが、すぐにそれをさっと消して、素直に頷く。言葉を選び間違えたかと内心舌打ちしたヘテイグだが、訂正する気にもなれず、そのまま、今後少女が注意すべきことを伝えた。
「……とにかく、あまり不用意にうろつくな。特に皇宮騎士団の人間には用心してくれ。いや、出来れば近付くことも避けてくれ」
「皇宮騎士団の方、ですか?」
船内の人間は大きく二つに分かれる。
帝国軍部の騎士と、皇宮騎士団の騎士。今までの歴史上でも、彼らの仲が良かったことは殆ど無いが、現在は最高に不仲、そう表現しても良い状況だった。彼らを率いる、黄金の髪に緑の瞳の騎士、ラインハルトはヒユウを敵視しているようで、何かと皮肉をぶつけている。フィリアに対しても、敵意を隠さずに忌々しげな視線を投げてくる。今の時点では、傍にいてくれるヘテイグ達のおかげで、少女に直接何かを言ってくることはなかったが。
「そうだ。軍部の人間ならば、俺やヒユウ様があらかじめ言い含めてあるから問題はないと思うが、皇宮騎士団の奴らはお前に何をするかわからない。出来る限り、俺かヒユウ様、ツヴェルフ殿……と行動するんだ、いいな?」
彼の脳裏にクラーヴァが浮かんだが、すぐに排除された。ヘテイグに彼の行動言動は予測できない。個人的にも彼はフィリアに好意的でなさそうだし、余計な揉め事が起こるだけだろう。
「はい……ごめんなさい、色々とご迷惑をかけてしまって」
今更だとは思うが、フィリアは謝らずにはいられなかった。こうやって何かとヘテイグはフィリアを気遣ってくれる。夜会のときも、出航前もそう。不安に沈む少女の傍に来て、さり気ない心遣いを与えてくれるのだ。
出航前、乗船しようとするフィリアに向かって、ユリアーナは歩を進めてきた。何故、彼女がこちらへ向かってくるのかわからず、緊張と不安で固まった少女を見て、ユリアーナは優美な笑みを湛えるのみ。一見、その笑みは優しく女神然としたものだったが、フィリアにとっては緊張を強いられるものだった。
簡素な挨拶を述べるユリアーナに、フィリアも困惑の混じった挨拶を返す。そして、一歩近付いた彼女は、鈴の転がすような声で囁いた。
「ヒユウ様を貴女にお貸ししましょう。でも、必ず、お返し下さいましね」
大きく目を見開いて固まる少女に対し、ユリアーナの笑みは最後まで崩れなかった。
牽制。それは、世情に疎い少女にもわかった。ただでさえ、自分は嘘が吐けない性質だ。きっと彼女は、自分のヒユウに対する想いを、敏感に感じ取っているのだろう。
彼女の立場からすれば、当然だ。大切な妹姫ならばともかく、忌まわしい黄昏人であるフィリアのせいで、ヒユウは大変な目に遭っているのだ。それ以前に、どこからどう見てもヒユウに釣り合うわけがないのに、分不相応な想いを抱えてるのが、許せないのかもしれない。やはり、弁えなくてはいけない。つい夜会のことが浮かんで、調子に乗ってしまいそうだった自分を、追い払おうとした。
諦めなくちゃいけない。想いを育ててはいけない、と決意をしたばかりなのに。フィリアは項垂れる。傍にいる限り、どうしても想いは育ってしまう。離れるしかない、と思っても、状況がそれを許してくれない。いっそ、告白して、思いっきり振られてしまった方が諦めがつくかもしれない、と思った。
でもそれこそ、身勝手な行動で自分のエゴだと思った。自分がすっきりしたい為に、ヒユウに余計なことで患わせたくなんてない。やはり、黙ったまま、諦めるしかないという結論に辿り着いた。
早く、消さなきゃいけない……でも、どうやったら消えるのか、考えてもわからなくて、フィリアは途方に暮れた。
ロウティエ大陸はとっくに見えなくなってしまった。青い空と、水平線が無限に広がるばかりだ。アレシアはあまりに平和な光景に目を細め、また初めての航海ということもあって、辺りを見渡しながら、甲板に出た。宛がわれた船室にいてもやることもなく退屈なのだ。部屋を出れば、数人の騎士達や船員と遭遇する。彼女にとっては、誰もが憎い仇であって視界にいれることすら不愉快ではあったが、これも最初から覚悟していたことだ。ぐっと我慢して、とりあえず、潮に満ちた風を吸い込んだ。
きょろきょろ、と亜麻色の髪の少女を探すが、見当たらない。
「お前……カシュガ族の生き残りってのは、本当か」
「……それが何だ」
突然の声に驚くこともなく、振り返ることもなく、アレシアは低く押し殺した声で、返した。声の主はわかっている。彼女にとっては、倒すべき敵の一人。
続く言葉を待っていたが、沈黙が降りてしまい、少女は苛立たしげに振り返った。案の定、そこには金髪の男、クラーヴァが立っている。一目で鍛え上げられたとわかる逞しい体格、太陽に晒されて色の抜けた金髪は少し痛んでいるようだ。今まで何度も、真っ直ぐに鋭い殺意をぶつけてきた緑の双眸が今は、何処か視線の先を定められず彷徨っているように感じて、アレシアは眉間に皺を寄せた。
「用が無ければ私は行くぞ」
急かすように言い募ると、クラーヴァは漸く視線を定めた。
「……俺はあのとき、カシュガ族討伐の任務を課せられた。そのときは将軍ではなく、一騎士だったが」
「!」
その一言は、まさにアレシアにとって晴天の霹靂だった。
唇が、わななく。
「貴様、が……」
この震えが、どの感情から来るのかわからない。怒りか、それとも、焦がれていた仇と相見えた喜びか。
「貴様が、父上や母上……妹までもを無残な目に遭わせたのか!」
叫ぶと同時に、アレシアの腰に下げられた愛刀の白刃が太陽の下に晒された。
「おい、それよりも教えろ。何で、てめぇに恨まれなきゃいけねーんだ?」
「戯言を!」
剣を抜こうとしない男に、何よりその言葉に頭に血を上らせたアレシアが、刃の切っ先を日に焼けた男の喉元に突きつける。必死で自分を押し留めているのか、少女の手はぶるぶると震えていた。残った理性を総動員して自制しなければ、その刃が男の肌に沈み、鮮血が噴出す想像を叶えたくなる衝動を、止めることが出来ない。
「貴様は、貴様ら帝国は、エルカイル教会の教化政策によって、エルカイル教を信仰する者以外を、虐殺したんだ!」
「お前こそ、冗談を言うんじゃねぇ。俺は、カシュガ族が周辺の村を襲い、略奪し、討伐に向かった帝国の兵士達も卑怯なやり方で殺したと聞いたぞ。だから、帝都にいる帝国軍も動かざるを得なかったと!」
鬼気迫るといった少女に負けじと、クラーヴァも声を張り上げた。ただ、剣を抜くことはせず、驚愕に目を見開いていくアレシアをじっと見下ろしている。
「な……、そんなの、エルカイル教会が企てた罠に決まっているだろう!? 奴らは、エルカイル教以外を信仰する私達の存在が疎ましかっただけだ! 私達は草原で暮らし、大地に剣舞を捧げながら、暮らしていただけだ。何も、誰も略奪なんてしていない、なのに、何で殺されなければならない……!」
これ以上、この衝動を鎮めることは彼女に不可能だった。思いも寄らぬ言葉に動揺したおかげで、理性など一気に吹っ飛んだ。
振り上げられた白刃が太陽の光を浴びて、見事な弧の軌跡を描く。一瞬、それに魅入られてしまったクラーヴァは剣を鞘に収めたまま、受け止めるだけで精一杯だった。
「く……!」
「妹は……まだ七つだったのに……私の身代わりとなって、殺された。首をはねられて、焼け払った草原の上に見せしめに置かれていた……この、絶望がお前にわかるか?!」
「……!」
血を吐くような痛々しい叫びに、クラーヴァは目を剥く。
首を野晒しだと?
いくらなんでも、帝国軍の騎士はそんな残虐なことはしない。それにあのとき、自分達騎士は、カシュガ族を掃討したあと、すぐに引き返した筈だ。草原を焼き払った覚えもない。あのあとに、一体何が起きたというのか。
「クラーヴァ様! 女、貴様……!」
甲板での騒ぎに駆けつけた帝国の騎士が二人を見止めた途端、ぎょっとした声を上げる。
「手を出すな!」
すぐに腰に下げていた剣柄に手をかけたが、クラーヴァの激昂した一言によって押し留められてしまい、騎士の顔に焦燥の色が混じる。
「し、しかし……っ」
「うるせぇっ、邪魔するな! 邪魔しやがると、お前も斬るぞ!」
こういう時のクラーヴァには逆らわない方が良い、と今までの経験上、その騎士はよくわかっていたのだろう。ぐ、と言葉を飲み込んで、一歩下がった。その間も、アレシアとクラーヴァの苛烈な剣戟は続く。
「私は、貴様達を永遠に許さない!」
「ちっ……!」
だがしかし、そのアレシアの渾身の一撃も男によってあっけなく無力化される。愛刀は宙を斬り、甲板の端に落ちた。
「……殺せ」
喉元に切っ先を向けられたアレシアは、鋭く射抜くような視線とともに、短い一言をクラーヴァに投げつけた。
途端にしん、と場が静まる。遠くで、海鳥の泣く声が風に漂って、届くのみ。クラーヴァは、じっと目の前の少女を見返した。形勢は逆転した筈なのに、何故か勝利の喜びは湧かない。彼女の瞳は痛い程に真っ直ぐで、死を恐れる様子はない。剣士らしく、潔く負けを認めて、死を受け入れていた。一見、そのように見えたが、クラーヴァには何故か、彼女をそう見ることが出来なかった。
「……くそ……っ」
頭を左右に振って、クラーヴァは立ち上がると、剣を鞘に収めてさっさと踵を返した。その態度に激昂したのは、勿論死を覚悟していたアレシアである。
「何故、殺さない!」
馬鹿にされたと思ったアレシアは、これ以上ない屈辱に堪えられずにクラーヴァの背中に向かって、突撃した。まさか後ろから体当たりされるとは思わず、上手く受身を取れなかったクラーヴァはそのまま、船上でアレシアとともに転がり、そして揉み合いになった。アレシアが上になり、クラーヴァが上になり。剣士同士の決闘の様相など、どこにも見当たらない。その場に割って入る度胸も無い周囲の騎士達は、ただ呆然と成り行きを見守るしかなかった。
男の上から跨る体勢となったアレシアが、その太い首を絞めようとする。すぐに少女の両手を捕えたクラーヴァが、意外にも華奢なその手首に驚きつつも、文句を言おうとして顔を上げようとするが ――
「て、てめ……っ!?」
ぽたり、とクラーヴァの頬に何かが落ちる。
空は快晴だ。雨のわけがない。分かりきっている筈なのに、クラーヴァは天を仰いで、雨雲を探してしまった。動揺と驚愕で身体は固まってしまう、ということを初めて、身をもって体験したのだ。
「……っ、返せ……! 妹を、返してくれ……っ!」
悲痛な叫びが、涙と一緒にクラーヴァの上から降ってきた。
何故だか、雫が落ちた部分が、とても熱い。呆然とそれを見上げていた男だったが、すぐに今の状況 ―― 自分の上に跨ったまま、泣いている少女 ―― を思い出して、慌てて立ち上がった。今度はアレシアも力なく、その場に崩れ落ちた。じっと顔を俯かせて、肩を震わせている。それを暫し見下ろしていたクラーヴァは、居心地悪そうに、口を何度か開く。上手く言葉が出てこなくて、視線を彷徨わせた。
「おい……アレシア、とか言ったな」
「……」
なんとか搾り出した声に、少女の肩はびくりと反応した。
「少し、時間をくれ」
「……何だと?」
胡乱げに睨み上げるアレシアの目は真っ赤に充血していたが、涙は無かった。そのことに、クラーヴァは内心安堵した。
「この任務を終わらせて帝都に帰り、そのことを確かめる。あの任務を課したのは、元老院だ。もし、お前の言う通りならば、俺が蹴りをつける」
「余計なことをするな! 恨みを晴らすのは私だ、私がやる」
男の提案に、アレシアは盛大に文句をつけた。
冗談ではない。クラーヴァに借りを作るのは嫌だ。自分の一族を滅ぼした男の言うことなど、誰が聞くものか、と男に向かって大声を張り上げた。しかし、頑固さにかけて、クラーヴァに勝てる者など、そうそういない。
「うるせぇ、俺がやると言ったらやる。てめぇは邪魔だ、大人しくしとけ!」
「な、なんで、貴様にそんなことを言われなきゃいけない、お前は関係ないだろう?! これは私の問題だ、私が決着をつける。そしてお前も殺してやる!」
やはり帝国の軍事の要、その一翼を担う聖印騎士団を率いるクラーヴァの迫力は、並大抵のものではない。気勢を無理やり削ぎ落とされたアレシアはそれでも尚、気力を振り絞って反論した。すっかり元の様子に戻ったアレシアを認めて、クラーヴァの口の端が知らず、上がる。
「そういうわけにいくか、俺の問題でもあるんだ。それに俺が憎いんなら、何度でも殺しにくればいい。受けて立ってやるぜ」
「上等だ」
男の微笑を挑発と取ったアレシアは柳眉を吊り上げて、再びの決闘の約束を口にした。ちょうどそのとき、己の名を慌てたように呼ぶ声が届いて振り返ると、亜麻色の髪を舞わせながら、フィリアが駆け寄って来る。
「アレシアさん、大丈夫ですか……!?」
「ああ、平気だ。心配せずとも、大きな怪我はない」
「よかった……」
胸を撫で下ろして安堵する少女に口元を和らげたアレシアは、視線を甲板の端へと移すとそのまま足を進めた。その後ろを、フィリアが不思議そうについていく。足元ではいつものように、黄金の獣が絡み付いていた。
「アレシアさんの愛刀……」
端に落ちていた愛刀を拾うと、胸の前に掲げ、アレシアはじっと白刃を見詰めた。清冽な輝きを宿したそれは、覗き込む少女をはっきりと映し出す。
今まで刃を振るったあと、とてもではないが、その白い輝きと対面する心地になれなかった。血糊に汚された白刃、それに映る己を見るのが厭だったかもしれない。けれど、何故だろう。何も、問題は解決していないというのに。かつて、剣舞の前にするのと同じように、白刃の輝きに触れたくなったのは。
「アレシアさん……?」
「いや、なんでもない」
不思議そうに声をかける少女の存在を思い出し、アレシアはすぐにそれを鞘に収めた。そして身を翻して船室に戻ろうとするが。
「何だ、どうした、フィリア。そんなまじまじと見て……?」
「いえ……アレシアさん、何だか……すっきりした顔をしていたから」
良かった。何が起きたのかはわからないけれど、と言い残して、フィリアは船室へ降りようと言った。
何の役にも立てないのでせめて、食事の用意のお手伝いをすることをフィリアは申し出た。断られるかと思ったが、人手が足りていないのか、意外にもすんなり了承を得られた。といっても、ヘテイグやツヴェルフにはとても渋い顔をされてしまったが。
航海の食事は、やはり陸地でのそれと違う。長期保存の為、二度焼きしたパンは重要な栄養源のようだ。ただ噛み切れないほど硬くなるようで、豆のスープや葡萄酒に浸して、ふやかしてから食すらしい。大きな鍋に張った水が、ぐつぐつと煮え出す。豆や塩漬けした肉をいれて、香辛料で味を整えた。
台所には他にも数人の人間がいた。彼らは騎士ではなく、この航海の為に派遣されたらしい。誰もが慌しく準備に取り掛かっている為に、無駄な会話も無く、フィリアは目の前の鍋の様子を注視するしかない。
一つ、溜息が零れた。
ヒユウに、避けられているような気がする。ちょうど、ユリアーナが港町に訪れて、そして宿で手当てをした後、それからだ。視線すら、合わなくなってしまったのは。
フィリアは即位式典の宴の夜を思い出した。たった数日前のことなのに、まるでもう遠い昔、否、夢を見ていたのかと思うほどだった。美しいドレスを着て、ヒユウとワルツを踊った。そのときの彼はとても優しかった。声色も、昔と変わらない。そして、皇宮の見張り台で二人っきり、昔と同じように柔らかい表情で、歌を聞いてくれた。とても幸せだった。記憶を取り戻してから、やっと、昔に戻れた気がしたのに。
でも、今の状況は想いを消そうとしているフィリアにとっては好都合かもしれない。そうだ、これはやはり、自分に諦めろということなのだ。そう納得しようとしても、それで少女の心が浮上することはなかった。
食事中もヒユウと顔を合わすことはなかった。ますます落ち込むが、フィリアはそれを押し隠そうと努力した。表面上は成功して、アレシアに変に思われることはなかったのに。
「どうしたんだ?」
「ヘテイグ様……」
すっかり、外は夜の闇に包まれていた。ただ昼からの快晴は続いているようで、綺麗な星空が一面に広がっている。情緒に鈍い、とよく言われるヘテイグでさえ、はっと息を飲み込むような、美しい夜空だった。だというのに、目の前の、手摺に手をかけて佇む少女の表情は沈んでいて、とてもじゃないが星空を愛でているようには見えない。
「いいえ、何でもないです」
隣に寄るヘテイグに戸惑いながらも、儚い笑みを浮かべて首を横に振る少女。それが何故か、ヘテイグを無性に苛立たせた。
「とても、何でもないようには見えん。何があったんだ?」
「……何も……」
「それは嘘だ」
きっぱりと断言すると、反論の言葉に詰まった少女の真紅の瞳が不安げに揺れる。
「……俺はお前に、一人で不用意にうろつくな、と言った筈だ」
「ごめんなさい……」
はっとしたように、フィリアは顔を青ざめさせて、俯いて謝った。どうやら、昼間に注意したことも、今の彼女の頭から抜け落ちていたらしい。どこからどう見ても、彼女の様子は変だ。落ち込んでない筈がない。はっきりとした理由はヘテイグにはわからなかったが、なんとなく、少女がこれほど落ち込む原因になるのは、一人しかないように思えた。
「俺に話せないことでも、ヒユウ様になら……」
そう言って呼びに戻ろうとするヘテイグの腕を、フィリアは慌てて掴んで止めた。
「やめて、ヒユウ様は呼ばないで……! 私は大丈夫ですから、お願い……」
今にも泣き出しそうな少女の顔を見つけた途端、ヘテイグは顔を歪めさせた。苛立ちが、喉の底からつき上がってきて、それを抑え込む為に、眉間に皺を寄せて力を込める。
「俺は、お前のそんな辛そうな顔を見たくない」
ぽろりと、本心が漏れた。いつのまにか、ヘテイグの腕を掴んだ少女の手は、逆に男の手に掴まれていた。そのまま腕から離す為かと思ったが、繋がれたまま。フィリアが顔を上げると、真摯に見詰めるヘテイグの視線と交わった。痛みを堪えたような色に少女は心配になるが、何故か言葉は出てこない。繋がる手から伝わるぬくもりに、このときになって漸く、フィリアは動揺を覚えた。
そのまま静寂とともに、彼はフィリアの傍にいた。
ちょうど死角に当たるメインマストの影に気配を隠していたその男は、足音も立てず、甲板から立ち去った。しかし、船内に続く階段を降りようとしたところ、目の前に立ち塞がるようにして、ツヴェルフが立っていた。
「どけ、ツヴェルフ」
忌々しげに睨むヒユウと同様に、ツヴェルフの周囲にある、いつもの飄々とした空気は綺麗さっぱり拭い去られていた。
「……お前はこれでいいのかよ?」
低く、押し殺した声が零れる。
「一体、何の話だ」
「しらばっくれんな。フィリアが、他の男に攫われてもお前はいいのかって聞いているんだ」
「下らん」
冷たく言い捨て、去ろうとするヒユウの肩を掴んだツヴェルフは、無理やりそこに引き留めた。怒りが滲んで、肩を掴む手に力が篭る。ヒユウはその端正な顔を不快げに歪めさせた。
「下らなくねぇ! お前は、フィリアをヘテイグに託すつもりなんだろう。何で、そんなまわりくどいことをするんだよ? 絶対に後悔するだろうに、お前はそれでいいのか!?」
「お前にはわからん!」
「……っ!」
胸倉を掴んで、そのまま壁へと思いきり押し付けた。壁に後頭部を強かに打ち付けたツヴェルフは痛みに呻く。すぐにヒユウははっとして手を離すと、舌打ちをその場に残し、コートの裾を翻して立ち去った。
「……いってぇ……ったく、なんだあいつ」
あまりにも、いつもと違う様子だった。常にある、ヒユウの冷静さは取り払われていて、だからツヴェルフの挑発にも簡単に乗せられてしまったのだ。これほど感情を顕にする彼を知らなかったツヴェルフは呆然と、尻餅をついたまま、ヒユウの去って行った方向を眺めていた。
「……わっかんねぇ……何をしたいんだ、あいつは……」
焦り、だろうか。ヒユウをらしくない姿にさせているものは。
だとすれば何に焦っているというのだろう。
どれだけ考えたところで、あれほどヒユウを焦らせるような存在が思いつかず、ツヴェルフは壁に背中を預けたまま、暫く唸っていた。
そして外では徐々に、嵐を含んだ暗雲がエウノミアへと目指す船に近付きつつあった。




