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「ど、どうしてこんなことに……」
茫然とした呟きは小さく、すぐに喧騒の中に溶けてしまった。
大広間のすぐ傍にある控え室には、楽器の最終確認をしている楽士が数人いた。そして、壁に取り付けられた鏡を凝視しながら念入りに化粧を施している黒髪の少女が一人、鏡の中の頭を抱える少女に向かって軽く笑う。
「大丈夫、大丈夫。何事も経験よ。そんな緊張しないで」
「緊張しないわけないじゃないですか!」
半泣きの状態でフィリアは思わず椅子から腰を上げて叫ぶ。けれど、最早これ以上メイリンに抵抗する気力もなくて、がっくりと項垂れながら椅子に座った。そもそも、今まで舌戦で彼女に勝ったことなど一度もない。こんな事態になってしまって、最初から敵わないと思いつつも力を振り絞って抗ってみたが、やはり無駄だった。何が何でも今日は大人しく宿に戻ればよかったと何度も思った。
「いくらなんでも、貴族や皇族の前で歌うなんてそんなこと……」
想像するだけで、ぶる、と体が震えた。血の気の引いた少女とは正反対の暢気な声が、さらに少女を追い詰める。
「大丈夫。フィリアの歌声はとても綺麗だもの。一年前に聞かせてくれた時みたいにやれば全然大丈夫よ。それにフィリアはたくさんの歌を暗唱できるんでしょう」
確かに、フィリアの特技といえるものは“歌”くらいのものだった。住んでいた街では歌ってとせがまれるままに歌を歌ってきた。フィリア自身、歌を歌うことが好きだったので聖歌だけでなく各地に伝わる民謡など、多くを暗唱できるまでに夢中になった。しかし、だからといってこんな展開は勘弁願いたい。
「歌を覚えるだけなら誰でも出来ます。……そもそも私の歌は子供達の子守唄代わりのものなのですから。皇族の方が耳にするには稚拙すぎて、不敬罪に当たります……」
貴族達の前で歌う。しかも皇帝陛下も耳にするという。実際に口にするとその事実がどれだけ畏れ多いことなのかが真に迫ってきて、度胸や目立ちたがりとは遠い性格の少女は頭を抱えた。どうにかメイリンに思い直させようと切羽詰った声を出したのだが、微妙に勘違いしたメイリンはフィリアに向き直って、力いっぱい激励してきたのだ。
「そんなことないわ! フィリアの歌は本当に素敵なのよ、もっと自信もってよ。私をサポートすると思って頑張って欲しいの。ね、お願い」
「……」
顔の前で両手を合わせてお願いするメイリンはとても可愛くて、こんな風にお願いされては人の良いフィリアに断ることなど不可能だった。本人もわかっていてやっているのだから、始末に終えない。溜息を吐いて、「では出来るだけ頑張ります……」と肩を落として降参の意を示した。
周りにいた楽士がそれを見て、フィリアの肩に手をおいて「相手が悪かったね」と同情と慰めをくれた。
+ + +
手の中にあるグラスを傾けると、真っ赤な水面に映った広間の光景が一瞬で溶けた。また緩やかに像を結ぶ軌跡を見詰めていると、拍手の音が鼓膜を打つ。数えるのも億劫なのであやふやなのだが、既に五組以上の舞が終わったのだろう。
大広間の中心に踊り場を設けて、多くの紳士や貴婦人がそれらを囲いつつ、普段では滅多に見られないであろう庶民の娯楽を楽しんでいる。だがそこから少し離れた奥の段差上の椅子に腰掛けていた彼は、それに目を向けずにただグラスを見詰めていた。そこに映る金髪の男の姿は、いかにも面倒臭げといったかんじだ。しかし、側近らしき兵士が近付いてきて何やら耳打ちすると、漸く瞳に本来の色が戻った。
「やっと、つまらない前座が終りだねぇ」
肩越しに振り向くと、薄いベールに包まれた空間がある。
「陛下」
静かに呟くと、中で頷く気配がした。再び視線を戻すと、大広間の中心には既に楽士数人と黒い髪をもつ舞姫、そして歌い手の少女がそれぞれの場所についていた。
すぐに軽やかな音が響き、その旋律に可憐な歌声が混じる。一滴も漏らさぬように、男は耳を傾けた。詩の内容は純真無垢な少女が情熱的な恋に落ちる、といったよくあるものの一つだったのだが。
成る程、これなら噂になるのも仕方ない。彼は素直にそう思った。
巷で有名な舞姫の踊りは少女特有の天真爛漫さと、大人の女性の持つ色香を併せ持っていた。表情豊かで、指の先まで研ぎ澄まされた踊り。自分の魅力を知っていると同時に、それを最大限まで発揮する術を持つ舞姫は、それまで好奇心が大半だった貴族達の心を見事に捕えたようだ。
舞が終わると、盛大な歓声と拍手が湧き起こった。
「なんと美しい……息をするのも忘れてしまったよ」
「本当に。宮廷内ではあのような情熱的な舞は滅多に見られない」
口々に賛美の言葉が漏れる。先程まで明らかに平民を見下すような視線を投げていた貴族の人間も悔しそうに彼女達を見ている。舞を終えて頬を紅潮させた舞姫がそれらに向かって嬉しそうに一礼した。ほっとした面持ちだった歌い手の少女がつられるようにして満面の笑顔を浮かべる。彼女も観客と同様に夢中で拍手をしていた。
「名は、何と言う」
その時、小さくも大きくもない呟きが、一瞬にしてその場の熱を奪うように落とされた。舞姫と歌い手の二人は弾かれたように、こちらに視線を向ける。周囲の貴族達の表情にもはっきりとした動揺が滲んでいた。扇子で口を隠すことすら忘れた貴族の娘が信じられない、と呟く。無理もない。
声は、ベールの奥から発せられたものだからだ。
「メイリン。メイリン・アクアと申します」
「良いものを見させてもらった」
「身に余る光栄で御座います、皇帝陛下」
驚愕はしていたが、舞姫はその場に片膝をついてそう返してきた。澱みのない凛とした声色。なかなか度胸は座っているようだ、と感じて男はグラスに口をつけた。彼女達が踊り場から下りて大広間から出て行くとともに、次の楽団が入場してきた。男は、グラスを置いて立ち上がる。
「では、陛下。私はこのへんで」
ベールの奥に向かってその一言だけを残し、一礼する。新たに流れ出した音楽と舞には一切の興味を向けずに、彼はそのままその場から立ち去った。
「少し、風に当たってきますね」
声に疲れを滲ませたフィリアは、足早に大広間から続くテラスへと出た。
舞を終え、再び大広間に戻ったメイリンとフィリアはあっという間に人だかりの中心となってしまった。殆どがメイリン狙いなのだが、それでも多くの貴族の男達にダンスを誘われてフィリアは断るのに四苦八苦した。酒場にいる男のような乱暴さはないのだが、強引さとしつこさでは良い勝負になるのではないか。
―― 皇帝陛下の目にとまったという舞姫と歌姫の手を一番先に取れるのは一体誰か。
口に出したわけでもないのに、彼らの中では今夜の一番の賭け事になってしまっているようだった。フィリアは半ば逃げるように大広間から抜け出すと、一直線にテラスの手すりまで向かった。
夜空には、無数の星を従えた月が支配者然とした輝きを放っていた。手すりに両手を置いて、宴の熱気に当てられた頬を冷やすように夜風に身を任せる。短時間に色んなことが起きた為に、いまだに夢心地のような気分だ。
ハデス様、一体どこに……。
慌ただしさから抜けるとまずそれしか頭に浮かばなかった。そして同時に自分への憤りも感じた。ああもう、何をやっているのだろう、自分は。大切な人が行方不明になっているというのにドレスなんか着てこんなところにいるなんて、不謹慎だ。いくら自分が役立たずとはいってもこんなところにいていい筈が無い。何も出来ないのならば、宿で自粛するべきだ。かと言って強引にここに連れて来たメイリンを何かと思うわけではない。彼女は彼女なりに心配して元気付けようとしてくれているだけなのだから。
ただ、優柔不断で、曖昧な自分が嫌になる。
そして同時に思い起こされるのはハデスの行方についてだった。どう考えても彼は連絡も無しに自ら姿を消すとは考えられない。ということは連絡をしたくても出来ない状態に陥っているということなのだろう。
誘拐。その二文字が頭を離れなかった。
「やっぱり帰ろう」
そう思って引き返そうとしたフィリアだったが。
「もう帰ってしまうのかい? これからが宴もたけなわという頃合なのに」
最初は、女性かと思った。
緩く波を描く艶やかな金髪は腰まで届くほどの長さ、毛先に近い位置で結われた赤い飾り紐が微風に弄ばれている。深海の双眸がなんともいえない色香を放ちながら、フィリアを射抜く。肩にかけられた外套の下から覗く繊細な刺繍の施された衣服は一目見てわかるほどの一級品。宝石は耳環以外に目立ったものを身に付けていなかったが、気品溢れる立ち姿からすぐに身分の高い人間だとわかった。どこか愉悦を湛えた表情のまま、こちらへと歩を進めてくる。
「君、さっき歌を歌っていた子だね?」
色気のある声は低く、女性だと勘違いしてしまったことに動揺して咄嗟に声が出なかった。慌ててこくこくと頷く。そんな少女を見て、その男はますます微笑を深めた。
「名はなんていうの?」
親しげに至近距離まで近寄ってこられて、思わず後退った。しかし後ろは手すりがあってこれ以上は下がれない。圧倒されながらもなんとか「フィリアと申します……」と返すことが出来た。
「そう、フィリアか。可愛い名前だね。君の歌も透き通るように綺麗で、可憐だった。鈴を転がしたように、清廉な響きだったよ。古来から、鈴の音色は邪悪なものを祓うといわれているけれど、まさにそういった表現が相応しい。清浄で、穢れを知らぬ調べ。出来れば、もう一度聞きたいねぇ。もっと傍で……そう、このぐらいの距離で」
「えっ、……あっ、あの」
ひー、な、何。な何ですか。
すらすらと聞き慣れない賞賛の言葉を並べられ、フィリアは羞恥とむず痒さを全身に覚えた。ただでさえ男性に免疫が無いというのに絶世の美女と見紛うような秀麗な笑顔を向けられて、しかも吐息がかかりそうな至近距離で知らず頬が紅潮してしまい、どう返せばいいのかわからずにおろおろと焦ってしまう。そんな初々しい少女の反応が面白かったのか、金髪の男はくつくつと肩を揺らして笑いを堪えていた。
「ああ、本当に可愛いね。小鳥のように、愛らしく、癒される。君の歌声、小鳥の囀るような声とはこういうことをいうんだろうねぇ……」
「こ、小鳥っ!?」
フィリアは胸中で悲鳴を上げた。
「君の歌声が聞きたいな。ほら、月も君の歌に焦がれて、今にも君を連れ去ろうと眩く照らしているではないか。ああ、それとも君は今宵だけ舞い降りた月の女神なのかな? 愛らしい月の歌姫よ、真っ直ぐにのびた月の光の階段を上って帰ってしまうその前に、どうか今一度だけ、愚かな地上の人間達に慈悲を、祝福の歌を捧げてやってはくれぬだろうか」
最早、フィリアは絶句して、ただ固まるしかなかった。
「ふふ……、どうやら月の歌姫の調べはそう容易には耳にはできぬようだねぇ。残念だ。ああ、でもその方が、いい。その方が、後の喜びも得がたいものになる」
そう囁きながら、フィリアの頬に手をそっとのばしてきた。
「畏れながら殿下、将軍がお呼びです」
「……ふぅ、無粋な真似をするねぇ」
突然割って入った騎士の声に、金髪の男は頬に触れるより早く伸ばした手を戻し、髪をかきあげた。少し考え込むように長い睫毛を伏せるが、すぐに口の端を歪める。
「まあいいか。またね、フィリア、月の歌姫。舞姫にもよろしく」
そう言ってフィリアに向けてにっこりと微笑むと、踵を返してテラスから立ち去ってしまった。
な、なんだったんだろう、今の。
その場で呆然として突っ立ったままのフィリアがふと我に返ったのは、それから四半刻もたった頃だった。