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黄昏人  作者: はるハル
最後の歌
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11



 ふわり、と頭の上にそっと手を置かれる感触。

 優しく頭を撫でられるのが、とても好きだった。

 月日を重ねるごとに多忙になってしまったから、会いに来てくれる回数が減ってしまった。それが顕著になったのは、彼が帝都にある士官学校へと入学した頃からだ。

 主要な地域の領主権を有する貴族の、とくに家督を受け継ぐ者はそこでの修学は強制で、徹底的に英才教育を受けさせられる。将来、帝国の未来を担う者として人脈を作る為にも、様々な地からこの帝都へと集まると聞いた。帝都との交易においては重要な土地であるフェニキアを代々治める貴族、その跡継ぎである彼も帝都へ出向かねばならないのは当然のことで、仕方が無いことだとはわかっていた。それでも、帝都と少女のいる教会は遠くて、寂しかった。

 時折、会えるだけでとても嬉しかったけれど、また会えなくなるのが寂しくて、でも我侭を言って困らせちゃ駄目だ我慢しなきゃという気持ちとごっちゃになって、別れ際はいつも、泣くのを堪えていたような顔をしちゃっていたようだ。自分ではあまり自覚は無くて、あとからハデス司祭に教えてもらって知ったことだけれど。

―― ああ、それで。

 ヒユウ様はどこか困ったような、そんな表情をしていたのかと思い出した。

 そして、宥めるように頭を撫でてくれた。その優しい感覚が心地よくてくすぐったくて、ようやっと笑顔に綻んだ少女に彼は安堵の息を吐いて、「また、来る」といつもの言葉をぽつりと残していったのだ。




「おい! 大丈夫か!」

「っ! ……あ……」

 どうやら、ジェーンストーンの街へ戻る途中で、ふと意識を手放してしまっていたらしい。手頃な大きさの木陰に休まされたフィリアは、アレシアの呼びかけによって再び目を覚ました。おそらく、精神的・身体的疲労のせいだろう。ひどく身体がだるい。

 こちらを覗きこんでいるレムングスに「大丈夫です」と笑んで、立ち上がろうとする。その途中で二の腕を掴んで手伝ってくれたのはアレシアだった。

「ありがとうございます。……シェルンさんは」

「先に行った。いても邪魔なだけだからな」

 周りに彼の姿が無い疑問をぶつけた少女にアレシアは答えた。フィリアが彼を苦手に感じていることをわかっているのだろう。もしかして、先ほど倒れたのも彼のせいだと考えて、アレシアは彼を先に行かせたのかもしれない(彼のおかげで疲労が増したのは事実だが)。初めて会った死者の森での彼らのやりとりを思い出して、フィリアは少し笑った。


「ん? 何か騒がしいな」

 見ると本拠地の地下へと続く入り口の方で人が集まっていて、何かがあったようだ。最初、フィリアが逃げ出してしまったのが知られてしまったのかと思った(騒ぎになるのを避けるため、フィリアが脱走したことは一部以外には伏せられていた)アレシアだったが、すぐにそうでは無いと気づく。

「シェルン、何があったんだ」

 人だかりの中には先行したシェルンもいた。シェルンがアレシアに何か答える前に、周囲にいた男達がアレシア、そして隣にいるフィリアの存在に気づいてしまった。

 シェルンより頭二つ以上も高い、筋肉隆々とした男が一歩進み出てくる。見るからに柄の悪そうな男達。その好意的でない雰囲気を敏感に察したフィリアは、たじろぎながら、見上げる。優しくない視線が降り注いだ。

「……アレシア。なんで、その小娘がこんなとこにいやがる? お前とともに戻ってきたぁどういうことだ?」

「……お前達には関係ないことだ。それよりも、お前達こそ何だ、今から夜の砂漠で散歩でもするのか? 言っておくが夜の砂漠に出て行くのは自殺行為だぞ」

 素直なフィリアの表情から悟られるのを避けるため、アレシアは少女を背に庇うようにして立った。男達が反論する前に、横に突っ立っていたシェルンがからかいを含んだ声色で、口を挟む。

「拷問が過ぎて、あと少しで殺っちゃいそうだったなんて、世話ぁねーよな」

「!」

「これから謹慎処分として、少しの間ジェーンストーンに追いやられちまうんだとよ。ダフネ様にたっぷりと怒られて気が立ってるところだから、これ以上煽ってやんなよ、アレシア」

 拷問。

 不穏な言葉と、そしてシェルンのにやにやとした視線によって、フィリアはすぐにその対象が誰なのかを察した。背筋に冷たいものが走って、思わず駆け出す。男達の間をすり抜けて行く少女の目的地を悟ったアレシアは慌てて追いかけた。

「フィリア! 待て!! まだお前をあの男に会わせることはできない!」

「どうしてですか!」

 フィリアよりも、普段戦闘員として鍛えているアレシアの足の方が当然速い。何より疲労が重なっている少女に追いつくことなど普通の人間にとっても容易いのだ。本拠地に入ってすぐにあっさりと捕まってしまったフィリアは、内心で抱える悔しい思いをぶちまけるように叫んだ。

「その男を助け出して、一緒に逃げ出されたら困るからに決まっているだろう」

 少女一人ならば無理だろうが、今はレムングスという未知数の要素がある。彼の能力を把握できていない今、少女の好き勝手にさせるわけには行かないのだ。

「じゃあ、アレシアさんも来てください! 様子を見たいだけですから!」

 普段の大人しい様子に慣れていたアレシアはその勢いに押されたかたちで、仕方なく地下牢まで連れて行くことになった。少女の迫力に負けたのもあるが、アレシア自身、仲間の仕打ちにどうなってしまったのか気になったせいもある。いくら、普通とかけ離れた環境に置かれたとはいえ、彼女もまだまだ精神的に熟し切っていない少女なのである。拷問などという言葉に、動揺しないわけがないのだ。


「……ひどい」


 地下牢に辿り着いたとき、またフィリアは言いようも無い悲しみに包まれた。レムングスのときもそう。これから、一体いつまで、こんな酷い光景が目の前で繰り広げられていくのだろう。

 アレシアも思わず目を逸らした鉄格子の奥では、鎖で壁に磔にされた黒衣の騎士 ―― ヘテイグが力無く首を前に垂らしていた。微かに上下する肩が、彼のかろうじての無事を主張している。

「……ひどい? これは当然のことだ」

 だが、少女の口から発せられた同情の声は、当事者であるヘテイグにはねつけられてしまった。彼にとっては同情・哀れみの言葉の方が余程癪に障るのだろう。

「敵地で捕虜になった兵士にこの程度の拷問などぬるいくらいだ。兵士は全員この程度の痛みに耐えられるよう鍛えねばならん」

 てっきり意識を失ってしまっていたかと思ったが、彼はフィリアが来るよりも前から、覚醒していたらしい。口振りも、傍目から見た状態からは考えられないほど、しっかりしている。

 平然と悲しいことを言うヘテイグをフィリアは痛々しそうな目で見た。

 彼を助けたい、それなのにこれほどまでに拒絶の壁を作られてしまうと、うまくいくものもいかない。

 フィリアは振り向いて背後にいるアレシアを見上げる。そして、ヘテイグと二人っきりにさせて欲しい、と小声で訴えた。当然、アレシアは反対したが、少女も譲らず、意外にも頑固なその様子に戸惑った。何より、少女の姿が、懐かしい存在と重なるのだ。

―― ティエラ……。

 誰よりも、大切だった。いつだって、自分のあとを追いかけてきた。剣舞の民として生まれたのに、剣にはからきしだった妹。愛しくて、守りたくて、でも守れなかった存在。アレシアは下唇を噛み締めて、こみ上げかけた思いを無理やり押さえ込む。なんとか平静を取り戻したものの、結局少女のてこでも動かない様子に根負けしてしまい、レムングスをアレシアに預けるという約束を交わして、妥協したのだった。

「レムングスさん、アレシアさんと少しの間だけここから出ていてください」

 最初こそ傍から動く素振りを見せなかったレムングスだったが、「お願いします」という少女の言葉に渋々といった様子で腰を上げ、アレシアに続いて牢から出ていった。途中何度も振り向いて、フィリア、そして鉄格子越しにいるヘテイグへと視線をぶつけながら。

 心配、してくれているのだろうか。

 仄かに温まるフィリアの胸中とは反対に、ヘテイグは同じように牢から出て行った獅子に似た魔物を厳しく見据えていた。

「あの魔物……お前が生み出したんだな」

「……はい」

 それを否定することはもう不可能だった。事情はどうあれ、レムングスという存在を物言わぬ魔物へと変えて己の支配下に置いたのは事実なのだから。

「やはり、お前は黄昏人だったか」

 口にして、ヘテイグはすぐにその言葉のおかしさに気づき、口を噤んだ。

 何を自分は言っているのだと、自嘲する。目の前の少女が忌々しい黄昏人の生き残りだということは、最初からわかっていた筈だ。だが、彼女から戦いの臭いがあまりにもしなくて、強く意識しないとすぐにその事実が霧散してしまう。そのことがヘテイグに恐れと焦りを齎すのだ。

 一方、フィリアも今更な台詞に僅かな違和感を感じていたが、単に自覚をしろと責められているのだと受け取って、その違和感をすぐに消し去る。そして、本題を口にしようと、ごくりと息を飲んだ。

「ジェーンストーン……あなたがこの砂漠の中に入って目を覚ましたときにいた街に、今ヒユウ様がいます」

「!?」

「この砂漠からあなたを助け出すことは出来ませんが、ジェーンストーンまでなら、隙を見て逃すことは出来ると思います」

「な、何を言っている!」

 壁に背を凭れさせていたヘテイグは身を起こし、驚愕を露にして叫んだ。がちゃりと鎖が鳴らす硬質な音が響く。突然身を動かしたおかげで、全身にある拷問傷が疼き出したヘテイグは、「っ……!」と声にならない悲鳴を喉の奥で飲み込んだ。

「あ、動かないで、傷が……」

「そんなことはどうでもいい! お前、何を考えている?」

 この後に及んで敵であるヘテイグの傷を心配する少女に対して、信じられない思いで一杯になった。それも当然だろう、今までに幾度と無く彼は少女を殺そうと近づき、結局殺すことは出来なかったが、それでも少女にとって彼が敵意や殺意、恐れを抱く対象となるには充分なほどのことをしたのだから。

「そこにいるイエジ様は優しい方です。ヒユウ様と一緒にいるみたいです。彼の助けがあれば、ここから出られるでしょう」

 ヘテイグの混乱をよそに、少女はまたもや的外れな返答をしてきた。しかも、どうやら彼女はヘテイグを安心させようと必死に言い募っているようだ。ますます、わけがわからなくなってきたヘテイグは、召喚を行うときのような精神統一を施さなければならなくなった。

 凪となれ、硬質な石となれ ―― ここは、敵地の奥。己の身は敵の前に晒され、敵に圧倒的優位の位置をとられている。絶望的状況ほど、より高度な精神状態の維持が必要となってくる。

 一呼吸置いて、先程より平坦となった精神の波を見下ろしたヘテイグは、視線を鉄格子の前で膝をついている少女へと移す。少女は、突然沈黙したヘテイグを心配そうに見詰めていた。

「……何が狙いだ。油断させた俺達を集め、一網打尽にするつもりか」

 棘を含めて言いながら、しかし目の前の少女の赤い瞳はそれを否定していた。

 真紅の瞳 ―― 最初は血塗られた禍々しい色だと思ったが、今はまるで泣きはらしたような、あるいは狩られるだけの草食動物……兎としか思えない。

 ヘテイグは苛立った。わけがわからない。少女の真意が掴めない。彼女を忌々しい黄昏人だと言い聞かせる一方で、あまりにも弱々しいその姿に、単なる弱い者いじめをしているだけの気分に陥ってしまう。それが彼の心を乱させる。否、これもきっと黄昏人の言霊の威力なのだと。そう思い込んでも、苛立ちは消えなかった。

 一度俯いたフィリアが、ややあって顔を上げて口を開く。

「あなたは、ヒユウ様がお好きなのでしょう?」

「……は?」

 何が関係あるのかわからず、それ以上に突然の不可解な言葉に心の底から怪訝な声が出てしまった。

―― そもそも、同性愛者でもないのに、同性に、しかも男が男に対して好きとかおかしいだろう?

 ヘテイグは心の中だけで突っ込んだ。

「……私も……、いえ、私もヒユウ様にとても感謝しているんです」

「……」

 目の前の少女の口から、憧憬の対象であるヒユウの名を聞くことに、最初ほど抵抗は感じられなくなった。最初は、少女がそれを口にする度に汚される思いがして、屈辱と苛立ちでかっと熱くなったのだが。勿論、今も少女の口から彼が語られるのを良しとしているわけではなく、面白くない思いはまだ残っている。けれど、最初に感じた苛立ちと今抱える苛立ちの中身は微妙に変化していた。その己の変化に、ヘテイグは戸惑っていた。

「それに、貴方はヒユウ様にとって大切で、必要な存在だと思いますから……」

「……それが」

 何だ、とでかけた口を、ヘテイグはすぐに閉ざした。

 ヒユウにとってヘテイグが必要な存在かどうかは置いておいて―― 事実そうであろうとなかろうと、それが理由になるとでも思っているのかと、少女に対して無性に腹が立った。少女には何の関係もない、筈だ。ヘテイグがヒユウを尊敬していることや、ヒユウがヘテイグを必要としていることなど。そのことが、少女が危険を犯してまで、彼を助ける理由にはならない筈だ……けれど、少女にとってはそれが理由らしい。こんな、信じられないほど下らないことが理由となるらしい。それは彼女にとって、ヒユウが動く理由の基点ということだ。ヘテイグがヒユウを尊敬し、ヒユウにとって彼が必要な存在だから、助ける。それは、彼女がヒユウのことを ――。

 その先は嫌な思考にしか辿り着かない、とヘテイグは無理やりかぶりを振って中断させた。

「……帝都では、年に一度、地鎮祭というものがある」

「じちん、さい……?」

 突然変わった話題に、フィリアはきょとんとして鸚鵡返しした。

「地を鎮める祭り、と記す。興亡常無しと呼ばれた混乱期を経ての帝国建国、それまでにこの大地は血を吸いすぎた。多くの屍を築きすぎた。人々の血や屍、怨念や怒りを吸いとった大地を鎮める為の祭りだったが、年月を経ることによって、それは形式を大きく変えたようだ。祭りの主部である、守護神である龍に奉ずる闘舞がいつしか、皇帝の権力が強かった時代は皇族による剣の舞、帝国軍が力をつけてからは、帝国騎士同士による模範試合。今では帝都の士官学校の学生による、闘術会が開催されている」

 闘術会、というと学生同士が戦ったりするということだろうか。帝都での行事に疎く、知らない単語に興味を惹かれたのもあるが、それよりもヘテイグがこんな普通の会話を始めたことに驚愕しながら、フィリアは話に聞き入っていた。

「士官学校生同士での戦い……もあるが、それは予備戦だけで、本戦へと勝ち上がると、帝国軍の正騎士と戦うことになる。正騎士は士官学校生にとっては先輩にあたる。帝国軍の騎士が、やがて入軍する後輩に手解きをするという意味合いが強い大会だが、……ヒユウ様は違った。並み居る正騎士を相手に勝ちあがり、興味を示したゼノン様が相手をしたほどだ」

 それがヘテイグがヒユウを初めて目にしたときだった。士官学校に入りたての少年が、鍛え上げられた大人の正騎士を打ち負かしていったのだ。ゼノン相手ではさすがに手解きされている状態であったが、何よりヘテイグにとって印象に残ったのは、ヒユウの表情だった。鬼気迫る、といった言葉が相応しいほど、何かにとりつかれたような強さを発していた。彼に負けた正騎士達は、才の問題もあるが、それよりもヒユウから発する異様な威圧と迫力に打ち負かされたといっても過言ではない。

 あとから聞いた話だが、彼は士官学校へ入る直前、両親を暗殺した侵入者を返り討ちにしたという。フェニキア城に火を放たれ、生きたまま炎の中に投げ入れられた彼の両親はそのまま焼け死んだ。その炎の中、少年だけが生き延びて、尚且つ暗殺者を葬ったというのだから、噂にならぬ筈がない。その話に驚愕し、そして闘術会のヒユウの戦いに魅了されたヘテイグが騎士、召喚士を目指すのは至極自然な流れだった。

「貴族として生まれた俺は、あらかじめ騎士の道を定められていた。別に不満は無かったが、そうなりたいと強く望んだこともなく、誇りもそれほど感じていなかった。だが、ヒユウ様を知ってからは少しでもあの存在に近づきたくて、そして少しでもお役に立てれるよう、召喚士を目指した。騎士として生きていけるこの身を幸運にも思った。無謀と知りつつも、何度もヒユウ様にぶつかっていった」

「そうなんですか…」

 フィリアは羨ましそうに、ヘテイグを見た。ヒユウを語るときの彼はとても誇り高く、拷問を受けて血だらけであっても、とても力強い存在に見えた。何より、ヒユウと共有している過去があることが、こうやって得意げに人に語ることができるのが、羨ましい。

―― 頭が、いたい。

「……あれは、あなたのことだったんですね」

「何?」

「昔……聞いたことがありました……それを今、思い出しました。後輩に、とてもまっすぐ自分に闘いを挑んでくる存在がいるって。剣の手解きをすると驚くほどに吸収して、自分のものにすると。成長が楽しみだって、仰ってました……」

「……何故、お前がそんなことを……」

 ヘテイグは目を大きく見開いて、ぽつぽつと話し出す少女を見下ろした。

「……私、ヒユウ様に拾われたんです。ずっと前に……物心つく前に。一人で泣いていたところをヒユウ様が見つけてくださって、そしてハデス様のところに預けられたのです」

 拾われたときの記憶はいまだにあやふやなままだ。フィリア自身幼かったせいもあるだろう。ただとても辛くて悲しくて涙がとめどなく溢れて、そのせいで景色が滲んであやふやだったのを微かに覚えている。ヒユウもまだ士官学校に入る前の、少年だった。抱き上げられて、優しく背中を擦られて、泣き疲れた少女はそのまま眠ってしまったのだと聞いた。

 ヘテイグはますます目を丸くさせて、声も出せないほどに驚きを顕にした。まさか、少女とヒユウにそんな繋がりがあるなど、にわかに信じられる筈もなかった。

「ずっと戦災孤児だって。ヒユウ様もハデス様もそう仰ってました。私もそう思って疑いませんでしたから、まさか、黄昏人とは思わなかったですけれど……」

 うっすらと自嘲めいた笑みを浮かべて、少女は自らの過去を紡ぎだした。

 そうだ。戦災孤児だと思って生きてきた。大陸内のあちこちで民族同士の小競り合いや紛争はあったから、戦災孤児自体は珍しいものではなかったし、不思議にも思わなかった。両親がいないことを空虚に思う心はあったが、ヒユウが会いに来てくれたり、ハデスがずっと傍にいてくれたから、平気だったのだ。

 ずきずき、と疼く頭の痛みが、フィリアに失われた過去の記憶へと続く扉の何重もの鍵を緩めていく。少し前から、扉は開きかけていた。最初の鍵はきっと、女官として夜会に出て、そして魔物が高い窓から降ってきた、あの瞬間。あれがフィリアの心の奥底に封じた記憶の箱を揺り動かした。そして、もっとも大きな鍵は、レムングスが魔物となったあの瞬間。他者を支配する、あのおぞましい感覚が、三年前、それより前の記憶を全て奪った体験を思い出させたのだ。一度開いた扉からは、次々と記憶の欠片が流れ出てくる。霞がかった光景がはっきりと輪郭を帯びて、鮮やかな彩りをもって、浮かび上がってくる。

「私を教会に預けてからは、ヒユウ様は時々、様子を見に来てくれました。お忙しい身なのに、時間の合間を縫って、私を遠乗りに連れて行ってくれたり、勉強を教えて下さったり、それからフェニキアのお城にも行きました……やっぱり、そこでも迷子になりました……」

 口をついて出てきた、昔の思い出。宝物みたいに、大切な記憶。忘れたくても忘れられないほどに大切だった筈なのに……三年前の恐ろしい体験によって、そのときの痛みから逃げる為に、すべてを投げ捨ててしまったのだ。だから、これは報い。ヒユウ様に見捨てられても、敵として葬りさられてしまっても仕方ない。

 もう誰にも言えない。国賊という立場になった以上、本当はヘテイグにも言ってはいけないことなんだろうけれど、それでも誰かに話したかった。誰でもいいから、覚えていて欲しかった。自分が死んでしまったあとでも。

「……本当か」

「……信じられないですよね、こんな話」

 驚愕に染まったヘテイグの顔を見て、フィリアは微かに笑った。



「とにかく、明日に宴があります。きっと隙があると思います。あなたをジェーンストーンまで逃がします」

「……」

「今は出来る限り身体を休めてください。……それでは、そろそろ出ます」

 さすがにこれ以上ここに留まるのは、アレシアが牢の出口にいてくれているにしても、限界だろう。拷問を受けたヘテイグの身体も休めないといけない。傷を癒す術もないフィリアはここにいても意味が無いどころか、余計な疲労を募らせてしまうだけ。少女は立ち上がって、牢屋をあとにした。出口付近にはアレシアと、その足元でおすわりしているレムングスがいた。フィリアの姿を認めると、そのまま出口へと促して歩き出す――その途中。

「……あの男を逃すことなど、お前一人で出来ると思っているのか。明日は一日中お前に見張りがつくんだぞ」

「……アレシアさん……」

 きっと牢屋の会話を聞いていたのだろう。それぐらい、いくらフィリアでもわかっていたことだ。そして、アレシアの言葉も痛いほど理解していた。レムングスの力だけでは(しかも、人を殺さずに)、牢に捕まっているヘテイグを助け出してジェーンストーンへ逃すのは無理だ。つい先程、レムングスとともに逃亡してしまった二人に、より厳重な見張りがつくことも当然だろうと思った。

 でも、それでも彼を逃がすのは可能だ。少女の切り札を使えば、彼を助けることは出来る。

「お願いします、アレシアさん。ヘテイグさんは見逃してください。私の望みはそれだけです」

 彼らはヘテイグよりも、自分を失うことが痛い筈だ。だから、きっとフィリアの要求を飲むだろう。その代わり、少女に辛く厳しい要求をぶつけてくるだろうが。

「……ということは、一人の敵を逃す代わりに、大勢の敵を殺す覚悟が出来たということか?」

 もうこれ以上、迷っている時間は与えられない。

 己に与えられた運命からは、決して逃げられない。

 ここ数日迷って、嘆いて、泣いて、逃げ出したあとに突きつけられたのは、その真実だけだった。

「……はい」

「……お前が戦うと決めたらそれでいい。あの男一人を殺して、お前を失うわけにはいかないからな」

 目を閉じてこくり、と頷く少女を、アレシアは色の無い表情で見下ろしたまま、言った。










◇  ◇  ◇







「何者かが数名この街にはいってきたようですね。本拠地に潜む組織の人間でしょうが」

 夜を迎える頃となると、ここジェーンストーンには昼間の賑わいが嘘のように静寂の帳が降りる。砂漠の夜は底冷えし、砂嵐が視界を奪う為、暗くなると人は家路を急ぐのだ。

 ところどころ罅が入った天井を凝視しながら、ギルベルトは呟いた。彼らは今、ジェーンストーンにて、イエジの住む家の地下に匿われている。天井に伝わる微かな振動と空気に混じる気配だけでも、日々の訓練と実戦によって研ぎ澄まされた彼らの感覚は、異変を正確に感じ取れるという。

「……ヒユウ様」

「何だ」

「イエジという男をどうお思いですか。信用できるとお思いですか」

 黒衣に身を包み、部屋の端に佇む男に向かって、ギルベルトは胸に抱いていた不審な思いをぶつけてみた。己では判断し難い疑問を、ヒユウがどう判断しているかが気になったのだ。だが彼が何か答える前に、部屋の扉がぎぎ、と年季の入った音とともに開く。


「信用できねーってんなら、無理にしなくてもいいんだぜ、にーちゃん」


「……クシシュトフ殿」

「……だけど、のたれ死んじまうお前らを放って置くことも、これから組織の人間にほいっと手渡すことだって出来ることを忘れんなよっ。……ほらお姫さん、あんたも大人しくこの地下にいておいてくれよなっ!」

 間違っても普段されないような殿付けをされた少年――クシシュトフはむず痒い気分を押し隠しながら、ヒユウとギルベルトの二人に対して怯むことなく、果敢にねめつけた。まだ十代前半といったところだろう。深緑の髪は毛量は少ないが肩下まであって、項で一つに括ってある。小柄で、一見すると少女にも見える顔立ち、大きな目が感情豊かに動く少年だった。

 一瞬緊迫した空気が流れ落ちたとき(あくまで少年にとってのみだが)、彼の後ろについていたサラが、つつ、と少年の前に回り込んでくる。

「まあっ、わたくし達を見殺しにできるというの……? クシシュトフはわたくしが嫌いですのね……?」

 そして、悲しみを湛えた表情でサラは少年をじっと見詰めた。

 ただでさえ、天上に住まう女神、その可憐なさまは花の妖精だとも喩えられている存在である。そんな美少女が、宝石のような青い瞳をじわりと涙で潤わせ、更なる輝きをもって一心に見詰めてくる。しかも、まるで今にも光の泡となって消えてしまいそうなほどの儚い憂いの表情つきである。これを至近距離でぶつけられて、動揺しない男はまずいない ―― ただし身内であるレヴァインや見慣れているヒユウは除いてだが。

「う……いや、嫌いとかそういう問題じゃねーよ、お姫さん」

 例外無く、顔を真っ赤にさせた少年、クシシュトフはたじろいで一歩後退した。口調の悪さとは裏腹に、なかなか初心なようで天真爛漫なサラの扱いにほとほと困っているようだった。

「なら、そんな意地悪なことを言わないでくださいな……」

「……おい、にーちゃん達。このお姫さんをあまりうろつかせないようにしてくれよなっ。外に出たら、目立ってしゃーねーよ」

 至って無邪気かつ無自覚に目が眩むほどの美貌を魅せつけるサラに参ったクシシュトフは、先程思いっきり喧嘩腰な睨みをぶつけたのも忘れて、ヒユウ達に助けを求めた。少年に救いを請われたヒユウはというと、視線をサラへと移し、「……姫、また出たのか」と呆れを含ませた低い声を零した。

 一転して、立場が危うくなってしまったサラは慌てる。少年の前からヒユウの傍へと駆け寄り、彼の呆れを解そうと言葉を探した。

「あ、ち、違いますわ、ヒユウ様……あの、わたくし、このような狭いところ……しかも地下だなんて息苦しくて、少し外の空気を吸おうと、ヒユウ様と一緒に……でも間違って外へと出てしまっていて」

 けれど、それはますますヒユウの溜息を重くさせるだけで、しかも自分の住処を狭いと評されたクシシュトフの突っ込みを呼び寄せただけだった。

「狭くて悪かったなっ! とりあえずこのお姫さんなんとかしてくれよなっ! ばれたら俺達の……何よりイエジ様の身もやべーんだから」

「ああ、すまない、クシシュトフ。それより聞きたいことがある」

「な、何だよ」

 ヒユウの視線が自分に集まって、無意識にクシシュトフは背筋を伸ばした。

 苦手、とまではいかないが、ヒユウの発する威圧感と迫力には何だか蛇に睨まれた蛙のような気分になってしまうのだ……蛙になったことがないから、正確にはわからないが。なんというか、悪いことをした覚えはないが、悪戯を見つかったときのような「やべー、やべー」という気持ちに近いかもしれない。あ、それよりも厳格な指導官を前にした、出来の悪い生徒かもしれない? 

 そんな取り留めのない思考を持て余したまま、クシシュトフは続きの言葉を待った。

「先程の侵入者は何者だ? 本拠地の人間がこちらに勘付いたのか」

「へ? 侵入者?」

 クシシュトフはきょとんとして、彼の質問を頭の中で繰り返した。けれども、わからなくて疑問符だけが頭上に浮かぶ。


「それなら、大丈夫ですよ」

「イエジ様っ」

 少年にとって父代わりの存在の登場に、クシシュトフはそれまでの考え事もすっかり手放して、子犬のように駆け寄って行った。

「クシ、ありがとう。いつもすまないね」

「なあに、お安い御用だよっ!」

 得意げに胸を張る少年に優しい笑みを返して、イエジはヒユウ達に視線を移した。

「どうやら本拠地で悪さをした男達が、謹慎処分としてこの街に暫く追いやられているだけだ。反乱組織にも色々と規則があってね、それを破る者にはそれなりの罰則が与えられる。昔から、時折あることだから、別に貴方がたのことが漏れたわけではないのですよ」

「そうでしたか」

 イエジの説明に、ギルベルトは少し警戒を緩める。だが、ヒユウは厳しい表情のままだった。

「だが、そろそろここに留まるのも、匿う身としても限界だろう?」

「それは……」

 どうやら図星だったようで、穏やかなイエジの表情に影が差した。

「ヘテイグの身は気になるが、サラ姫をこれ以上ここに置いておくわけにもいかぬ」

「ええ、そうですね……」

 そう、皇族の姫であるサラをこんな危険な場所にいつまでも置いておくわけにもいかない。皇帝を主君と仰ぎ、皇族の安全を第一とする皇宮直属の騎士団とは組織は違うが、帝国軍部の騎士にとっても皇族は、守るべき大切な存在なのである。

 そして、この地にいてもこれ以上ヒユウ達に出来ることはほぼない。サラという守るべき存在がある上、戦闘要員が少数すぎるのもある。彼女を置いてヘテイグを助け出すことも出来ない。何より、帝国軍との連絡手段が無いのは痛い。即刻戻って、反帝国組織の対策を練らねばならないのだった。

「にーちゃん達、ケルジャナ砂漠を渡って帰るってのか!? そりゃ自殺行為だぜっ、魔物うじゃうじゃいるしよーっ、お姫さん連れてなんて、無茶にもほどがあるぜ!」

 ヒユウとギルベルトの様子を見て、この街から出て砂漠の外へと戻る気満々なのは明白だった。そのことにクシシュトフは仰天した。組織以外の人間がこの砂漠に入るのも出るのもただでは済まない。今回彼らが助かったのは運が良かっただけだ、奇跡といってもいい。次は確実に魔物に殺される、と必死で訴えてみた。だが相手の男二人は躊躇うどころか、全く意にも介さなかったようで。

「……そのことだが、一つ気づいたことがある。このケルジャナには多くの黄昏人の混血が住み、その周囲を魔物が巣食い、帝国の侵入を阻むようにして彼らを守っている。それは以前より知れたこと。だが、反帝国組織には黄昏人だけでなく、普通の人間も混じっている。この街にも、混血、人間と様々だ」

「……ええ、その通りです。帝国に恨みを持つのは、何も黄昏人だけではないですから……」

「そうだな。だが、ではこの地の魔物はどうやって、敵と味方をかぎ分けている? 組織の者はこの砂漠に自由に出入りできているだろう。魔物に襲われることなく、安全に。反対に、侵攻しようとする帝国の人間は例外無く襲われている」

「……確かに」

 ギルベルトはヒユウの言いたいことがわかった。おそらく魔物にとって、この砂漠に足を踏み入れる者が敵か味方か、それを判断する明確な何かがあるということだ。それが何かわかれば、ヒユウ達も同じようにして帰れるかもしれない。

「魔物全てが人語を解するほどに高い知能を持っているわけではない。だとすれば、あと人間よりも優れているのは、五感のみ……視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。おそらく、視覚、聴覚、嗅覚あたりが妥当か? 組織の人間のみが、自分は味方であるということを魔物の感覚に伝える何かを身に着けている、といったところか」

 確信したような口調に、イエジは大きな溜息を吐いた。その横で、クシシュトフが大きな瞳をさらに見開かせて、ぽかんとしている。

「……さすがですね。ええ、その通りです、組織の人間だけが、彼らの味方だとわからせるものを常に見つけているが故に、彼らは私達を守ってくれるのです」

 観念したようにイエジは語り出した。「少し、待っていてください」と言うなり、階段を上がりどこかの部屋へと行ってしまう。暫くしてから戻ってきた彼の手には、一つのガラスの小瓶が握られていた。

「『祝福の水』……私達はそう呼んでいます。これの中身が何なのかは私にもわかりません。とにかく、これを身体のどこにでも良いので、つけるとそれだけで砂漠に住む魔物は、襲って来ないのです」

「このような、水がですか?」

 にわかには信じられない内容だった。ギルベルトは小瓶を手にとって、照明に翳してみたが、中身は単なる水のようにしか見えず、ただゆらゆらと、照明の光をその透明な中に閉じ込めていた。蓋を開けると、微かに香りがした。今まで嗅いだことのないそれだったが、森林の中にいるような、様々な植物の香りが混じった自然の匂いがする。おそらく、砂漠の魔物はこの香りを嗅いで、敵か味方かを判断しているとのことだった。

 そんな中、ヒユウだけはその中身を見てその端正な表情を歪ませていた。



「貴方がたの言う通り、そろそろ潮時でしょう。それを身に着けて、明日にでもここから出てください。ヘテイグさんのことは、出来る限り私が何とかしてみます」

「……有難いことだ。だが、貴方も己の身をまず案じることだな。貴方に何かあれば、悲しむ者が必ずいる」

 ヒユウが視線で促すと、イエジははっとした。彼のすぐ傍にクシシュトフが不安そうな表情で見上げていたのだ。

「……そうですね」

 ぽん、と少年の頭に手を置いて、あやすように撫でた。くすぐったそうに少年は笑った。









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