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黄昏人  作者: はるハル
最後の歌
46/93

8




「……何でもする、とは、覚悟が出来たということか?」


「……覚悟……」

 彼の言いたいことが掴めず、顔を上げるとダフネの見透かすような視線とぶつかった。彼の表情は視線と同じく、厳しい。周りを包む空気が怒りの粒子を内包しているようにも見える。どうしてなのかわからず、少女に混乱を齎した。

「一人の敵を助けるために、大勢の敵を殺す覚悟だ」

「! ち、ちが……っ!」

「違わない。貴女が言っているのは、そういう意味だ」

 慌てて否定する少女に容赦せず、ダフネは両断する。

「……まだ自覚が足りないとは言え、貴女は言霊という祝福を有する黄昏人の生き残りなのだ。ゆえに、貴女は常に己の言葉には責任を持たねばならない、その重みを感じなければならない。今の貴女にはまずそれが足りない。それでは、私達の望む旗印にもなり得ない。……さあ、部屋に戻りなさい」

 呆然とする少女に反論を許さないまま、ダフネは厳しい現実を突きつけてきたのだった





 結局、ダフネに何も反論できず、すごすごと帰るしかなかったフィリアは自室で打ちひしがれていた。

 自分の言葉には、何もない。

 黄昏人だというのに。人間の失った言霊を持つというのに、悲しいほどに自分には何かをする力がない。

 ヘテイグを無理やり助け出すことも、ダフネを説得する力も持たない。

 何でもする、と言い放った言葉に嘘は無い筈だった。ヘテイグを、ヒユウの身近にいる人を助けるためなら、と思った気持ちは本当だった。けれど、結局、自分はこうやって一人、虚ろな気分を抱えたまま、項垂れている。それはすなわち、ダフネの言葉が正しいということなのだ。

 ヘテイグを助けたい。このまま、見過ごすことなんて出来ない。

 けれど、その引き換えに戦争の旗印になどなりたくない。

 そこまで思考して、これではダフネに呆れられるのも当然だろうとフィリアは思った。無責任と捉えられても仕方ない。自分は、何かを犠牲にする覚悟も無いまま、単に感情の赴くままに言葉をぶつけただけなのだから。自分のこの感情だけでは、それとは比べ物にならぬほどに辛酸と恥辱を味わっただろうダフネやここにいる者達を動かすことなど出来ないのだと、責任を持たずにただ自分の気持ちをすっきりさせる為に吐く言葉ほど軽いものはないのだと、ダフネは言いたいのだろう。

 あんなに嫌がっていた戦争の旗印にもなれない、と断言されたことも、フィリアに衝撃を与えた。それを認めたとき、フィリアは愕然とした。

 役立たず、と思われるのが怖い。

 誰かに必要とされたい。居場所が欲しい。ただ、自分という存在を何のフィルターも無く、受け入れてくれる場所が欲しい――そう常に心の底で願っている自分の姿が醜く水面に映し出されていて、少女は思わず目を逸らした。

 そして、口ずさむ。それは題名すらわからぬ歌。きっと、三年前より以前に覚えたものなのだろう。気分を紛らわす為に歌う歌はいつも無意識に出てきた。数小節を終えたところで漸く波打った心が落ち着いてくるのを感じて、フィリアはふと歌うのを止める。代わりに、口からは溜息が漏れた。

 ハデス司祭とともに暮らしていた頃にも、記憶のない自分への不安を持て余すときが少なくなかった。大抵は、何もすることがなくて、一人で時間を潰しているとき。

 不意に襲ってくる不安の波を穏やかにするために、少女はこうして歌った。題名すら知らぬ歌を歌うことで、確かに自分にも過去というものがあるのだと、確認したかったのかもしれない。ただ、紛らわすために歌ったあと、不安は消せても、その代わりに何故か虚しさが心に残ってしまうのだが。



「おねーちゃんの歌って寂しそうなのが多いね」


「……テイルさん?」

 俯いた顔を上げると、部屋を覗くように扉からひょこっと顔を出した白髪の少年、テイルがいた。気遣わしげな少年の表情に、フィリアはぎこちないながらも笑顔を浮かべて、大丈夫だと伝える。すると、おいでおいでの仕草が返ってきた。

「どうしたのですか?」

 「しっ」と人差し指を口に当てたテイルを不思議に思いながらも、とりあえず少年の言う通りにフィリアは腰を上げて部屋を出た。


「……おねーちゃん、お父さんとかお母さんっているの?」

 どこへ行くとも告げられぬまま、テイルの斜め一歩後ろほどの位置で歩を進めていると、唐突にそんなことを聞かれてしまった。突然の質問にぱちくりと瞬きをしたが、素直な性質のフィリアは何故そんなことを聞くのかと問い返すこともないまま、彼の言葉を反芻した。

 お父さんとお母さん……。

 それは、三年前より以前の記憶が無い自分にはとても遠い存在だ。気にならないと言えば嘘になるが、ハデス司祭を実の父のように慕っていた自分としては、彼に本当の両親を尋ねることは罪悪だと思っていた。だから一度として聞いたことは無かった。それに教会でハデス司祭とともに暮らしていた、そして自分だけでなく、周囲には戦災孤児が数人いた。だから、確認するまでもなく自分もきっと孤児なのだろうと思っていた。

「本当の両親は知りません……でも、ハデス様が、私の本当のお父さんだと思っています」

 ハデス司祭の名前を口にするのは久しぶりだと、無意識にそうすることを避けていた自分に気づいてフィリアはそっと溜息を吐いた。今となっては、じくじくと、焼きつくような痛みを伴う言葉。それを表に出さぬよう必死で堪えながらそう伝えると、テイルは少し考え込んでから、「そうなんだ……」と答えた。

「僕はね、ほら、僕にはさ、ちょっと変わった力があるでしょ。あの死者の森で初めて出会ったときの」

「はい」

 そういえば、彼との初めての出会いは生身ではなかったのだ。あの死者の森を出るために、彼が幽霊みたいな姿となって現れたときの様子を、僅かな苦笑いとともに思い出して、フィリアはこくりと頷いた。

「あの力もさ、僕は黄昏人の血を引くからなんだって。親のどっちかがね、黄昏人なんだって」

 相変わらず、どこへ向かっているのか、目的地はあるのか、それとも単なる散策なのかわからないまま。その軽やかな足取りと同じように、彼の口調もまるで空を仰ぎながら明日の天気を占うがごとくだった。

「……でも僕が物心つく前に、砂漠の外に出ちゃって、そこで運悪く、帝国軍に見つかって殺されちゃったそうだよ。だからね、僕はお父さんとお母さんの顔、見たこと無いんだ。おねーちゃんと、おそろいだね」

「……そう、なんですか……」

 あまりにもあっけらかんと言うものだから、フィリアは返答に詰まった。気まずそうに口ごもっていると、テイルは舌をぺろりと出して、悪戯を告白するような素振りでとんでもない言葉を続けたのだった。

「――て、ことになってるらしいよ」

「……えっ??」

 一瞬、言っている意味を本気で掴めなかったフィリアは、ぽかんと口が開いたままだった。それがおかしかったらしい。けらけらと、テイルは目を細めて肩を揺らしている。

「ここにいる皆には、そういうことになってるんだ……でもね。僕の、お父さんはね」

 何とか笑いをおさえながら、テイルは続ける。まるで狐につつまれたかのような少女から視線を前に移し、そこでようやくフィリアも、いつのまにか地下のような場所に降りてきたことに気づく。

「ダフネ様なんだ」

「!」

「これはね、皆には内緒なの。だから言っちゃ駄目だよ、おねーちゃん」

「え、あ、あの……どうして」

 何故、秘密なのか。彼の力は誰のせいなのか。どうしてそれを自分に教えてくれたのか。突然齎された事実に驚愕し、次々と溢れる疑問を上手く言葉に出来ないまま、フィリアは案内された場所の奥にある存在に、唇を震わせた。


「レムングスさん……っ!」


 地下の薄暗い部屋、清潔とは言い難い空間に黒いものが横たわっていた。

 それは、レムングスだった。フィリアは駆け出して、傍に寄って彼の様子を見る。一瞬、死んでいるのかと心臓がきゅっと縮まったが、彼の胸がゆっくりと上下に動いていた。大分と衰弱しているが、生きているようだ。ほうっと安堵したフィリアは彼の傍でぺたりと膝をついてしまった。

「これは……拷問の、あと……? ひどい……」

 生死を確認した後、最悪の展開を逃れられたフィリアが改めて見下ろすと、今度は彼が今までどんな目に遭わされていたのかを見てとれるようになった。以前に見た彼もひょろっと長い細身の風貌ではあったが、それとは段違いに彼は痩せ衰えて、肋骨がみずぼらしく浮き出ていた。ひゅ、と時折漏れる呼吸音は虫のようなか細さ。最早、衣服の機能を果たしていない布きれは、全身から滲み出る血で赤黒く染まり、皮膚と同化している。手足の爪は剥がされ、焼きごてのようなものを押されたのだろう、全身の皮膚が爛れ、人肉の焼けた独特の臭いが鼻孔を刺激した。

 フィリアは信じられぬ思いで、ただそれを凝視していた。

 彼は、ヘテイグとは違う。彼らの仲間である筈なのに……。

「レムングスさん、精一杯抵抗してさ。魔物になるのやだって、焼きごて押されても、骨を折られても、我慢したんだ。だからね、このまま限界まで虐めて、それでも従わなかったら、無理やり他の同化中の魔物の中投げ込むんだって……そしたら、今の抵抗力のないレムングスさんだったら、一緒に同化しちゃうから……」

「そんな、どうして……っ! レムングスさんは仲間でしょう!?」

「……うん……でも、万一このまま協力しないで敵になっちゃう場合もあるから……敵にでもなっちゃったら、レムングスさんは手ごわいからって。殺しちゃうのも、惜しいって……だから……」

 フィリアは倒れ伏しているレムングスを再び見下ろした。

「そんなの……、悲しい……レムングスさん……」

 震える声で呟くと、その呼びかけに応えるかのように、ぴくりとレムングスが動いた。

「レムングスさんっ!?」

「う……アー、イタタたタ……イた、い……?」

 仰向けのまま、少しでも動こうとすれば激痛が走るのだろう。レムングスは右目をゆっくりと開けた。左目は潰されたのか、血で赤く染まっている。

 濁った右目が、フィリアを射抜いた。

「っフィー、リいーぁ、アー……」

 どうしても、空気が抜けたように最初の音が音にならないようで。それをレムングス自身ももどかしく感じているのだろうか、苛立ちを抑える為に右の掌を閉じたり開いたり不自然な動きを繰り返している。

「私が、わかるのですか?」

「さっきもね、僕がこっそり様子見に来たとき、おねーちゃんの名前、呼んでたんだ……だから」

 こうしてこっそりとフィリアを連れてやってきたのだと、テイルは言った。

 まさか、自分を覚えてくれているとは、そして名前を呼んでくれるとは思わなかったフィリアは驚いて――勿論テイルの言葉にも――目を見開いた。二人して、覗き込むようにしてレムングスを見詰め、彼の言葉をじっと待った。

「ふィ……りぃ、アあ」

「はい、何でしょう……?」

 ひゅ、と空気穴から漏れるような音を挟みつつ、必死で名前を呼ぶレムングス。フィリアは涙が込みあがるのを堪えながら、焦らさぬよう、続きを促した。どう見ても、彼がもう長くないであろうことはわかった。きっと、彼は最期に、自分に何か伝えることがあるのだろう。そのために、命を削って、こうして言葉を紡いでいるのだ。一言一句聞き漏らさぬようにと、少女はぐっと唇を横一文字に引き結んだ。

「……お、おォ前に、オ、おレ、オレの名まえ、ヲ、……ヤルよ……」

「……名前?」

 静かに問い返すと、レムングスの右手が小刻みに揺れながら持ち上げられた。今にもぽきりと折れてしまいそうなその細さに、慌ててフィリアが両手でもって優しく包み込む。ぎくりとするほど彼の手首は細く、握り返す力は弱かった。

「た、黄昏ビと、の力……ほんとの、力、こ、言霊……他人の、ま、真名を奪うゥ。ウバう、支配すル、できるホド、強イ。だかラ、魔物をう、生み出す、デキル……獣の名前、無理ヤリ奪っテ、しも、シモベにするコトできル。……デでもそれ、難しい、いくら純血でも、難しい……抵抗されると獣の心が強けレバ、反対にオマエ、く、狂う。他のやつラみたい二、逆に、魔物に食わレルー、ルー……」

「真名……」

 真名 ―― 魂に刻まれた名前。それを言霊を用いて奪う、それによって他者を支配できる。それが黄昏人の力なのだとレムングスは、その力を得る危うさとともに伝えてきた。

「……おオレ、このまま魔物になルの、やだヨー。でも、もう無理……だから、お前にィ名前ヤルよ。……だって、お前、オレに酷いことしなイ……」

「でも、でもそんなの……魔物にならない方法がきっと……! 誰か呼んできて、この傷を治してもらえば……」

 言いながらそれは到底不可能なことだとは感じていた。今からではとても間に合わない、それほど彼は弱っている。それにダフネやシェルンがまずそんなことを許さないだろう。それでも、あれほど戦いを厭っていた彼が魔物になるなんて、フィリアは涙を堪えるだけで精一杯だった。

「どうセ、こ、このママ、おオレは……オレじゃ、なくなル。……だか、ら、あば、暴れてダレカ殺す、繰り返ス前に……お前に託シたィ。オレ、の願い、駄目か?」

 息をするのも苦しそうな彼が必死に言葉を紡いでいる様を見るのはとても痛々しい。それ以上に痛々しい彼の願いに、フィリアは下唇を噛み締めながら、首を横に振った。

「わ、わかりました……あなたの名前を、ください」

 震えながらそう告げると、レムングスが、笑った。激しい暴行で変形した顔面は血だらけで、唇と右目以外はまともに動かせないようだったが、それでも安堵したように笑った気配は伝わってきた。

「オオーよかタよー、オぉレ、レ……の名前、ハ……」

「あ……っ……」

 繋がった手が熱くて、フィリアは小さな悲鳴を上げた。まるで彼の残された体温を総動員してフィリアに伝えるように、熱が少女の掌に注がれてゆく。

「“レムンスティア・グリス”、……受け取レ……!」

―― レムンスティア・グリス。

 少女が、そっと舌の上で転がした途端、

「……ぅ、あ……っ!」

 何かが胸を貫き、そして同時に全身に何か膜のような覆い被さった。胸を強く抑えつけられるような感覚に戸惑い、フィリアは数瞬の間だけだが呼吸困難に陥った。それを横で見ていたテイルが吃驚して、声をかける。

「だ、大丈夫? おねーちゃん!」

「……大丈夫、です……」

 心配そうに顔を覗き込んでくる少年に、フィリアは何とか笑顔を作って答えた。

「一ツ……約束……」

「……な、んでしょう……?」

 自分以外の何かが自分というグラスの中に注がれていくような感覚。お腹の底に残ったしこりのような違和感に眉をひそめながら、フィリアはレムングスを見た。一瞬、視界が点滅したような気がして、びくりと肩が揺れた。

「レムングス、さん……」

 レムングスの輪郭が朧となって消えてゆく。肉体が一欠けらずつ淡い光の粒子となって、人の形から違う形へと変化させていく、その瞬間だった。先ほど、視界を遮ったのはこの光の粒子なのだろう。ゆらゆらとした光が、彼の形を崩し、何かを象り始める。フィリアもテイルも、呆然とその様子を見ていることしか出来なかった。

「お前、……オレの、名前呼ブ。オレお前助けルー、そ、ソレ、れだけ。人、殺すタメニ、オレの名前呼ぶ、駄目……」

「は、はい、勿論です。レムングスさんに、人殺しなんて、させませんから……」

「……ア、兄貴……親ジ……ゴメん、ヨー……」

 その言葉を最期に、レムングスは変わり果てた姿――獅子の頭と鱗に覆われた下半身を持つ魔物へと姿を変えた。けれど潰された左目だけはそのままで、琥珀色の右目だけがフィリアを静かに射抜いていた。その瞳の色があまりにも静かで、感情の色というものが消えてしまったように思えてしまう。そして同時に失ってしまったであろう彼の言葉、奇妙な話し方を思い出して、フィリアは耐え切れず涙を零した。

「……っ……」

 嗚咽を殺して涙を零す少女を気遣うかのように、獅子に似た魔物は自らの深い毛並みに少女の頭を埋めさせるように寄った。黄金の鬣がフィリアの頬、額に触れ、それが余計、少女の涙腺を緩めさせる。

「……ぅ……っ、ご、ごめんなさい……」

―― この感覚を、私は知っている。

 以前にも、こうして、私は真名を奪い、支配したのだ……そうだ、それに耐え切れず……私は記憶を失ったんだ……。

 気がついたら、教会にいた。三年前のあのとき。

 それが新たな記憶の始まりだった。





「レムングスさん……魔物になっちゃった……」

 それらの様子を少女と同じく間近で見てしまったテイルは、ぼんやりとした呟きを漏らした。

 遅かれ早かれ、戦いを厭う彼が魔物を作ることを拒み、自ら魔物となってしまうのはわかっていた。以前の優しく穏やかな彼を知っているテイルとしては、それは悲しく寂しいことだった。けれど。ここではそれは日常化していたし、仕方の無いことなのかもしれないと思った。そう思わなければいけなかった。でも、いくらそうして理性で感情を抑えていても、それでも、彼があの牢獄に蠢いているようなおぞましい魔物になるのだけは、嫌だと思った。

 今まで、何人のひとがあそこへと送られるのを見てきただろう。見送るしか、出来なかったのだろう。

 少女なら、……黄昏人の純血である彼女ならば、もしかしたら何とかなるかもという僅かな期待が無かったと言えば嘘になる。でも、フィリアという少女は、最初に想像していた黄昏人の姿からはまったくかけ離れていて。とてもじゃないが、戦争の旗印になどなれるような器ではないと思ってしまった。彼女は、戦いを知らなさ過ぎるからだ。そして、純血なのかと疑ってしまうほど、彼女からは力の片鱗すら見えなかったから。

 だから期待といっても、殆どあってないようなもので、それよりはレムングスの彼女を呼ぶ声を届けたかっただけなのだ。それで、少しでも彼が救われたら、と思った。――その、結果は。


「……これは驚いた」


「シェルン!?」

 入り口には長い青髪を一つに括った男が壁に肘をつきながら、テイルと、その奥にいる少女と獅子の魔物を視界に収めていた。

「あとは生ゴミ行きだっつー奴を、ああまで『造り直す』ことが出来るとはな」

「……口が過ぎる、シェルン」

「ダフネ、様……!」

 テイルが、シェルンの酷い言い草にかっとなって何か言う前に、その後ろから姿を現したダフネが渋面を作った。窘められたシェルンは素直に「おっと、すんません」と己の失言を認めたようだ……相変わらず軽い調子ではあったが。

「獅子に似た魔物……あれは、どれほどの力を持つ」

 少女と魔物を眺めながら、何の感慨も持たない声色で、ダフネはすぐ横にいるシェルンに問いかけた。

「おそらく、白獣の王、シュンゲイの亜種……白獣の姿を持つ魔物の中じゃトップクラス、というところか……」

「……レムングスの潜在能力と、フィリアの言霊によるものか」

「ああ。自ら真名を差し出した分、より強力に支配できることとなり、少女の潜在能力がより強く反映されることとなったのだろう……さて、試してみようかね。アレシア、お前行くか?」

 シェルンが顎先で促すと、いつのまにか後ろにいたアレシアは無言のまま、進み出る。長い三つ編みが彼女の背中で静かに踊った。

 すっと彼女の周りの空気が研ぎ澄まされ、戦闘態勢に入ったのだとテイルは今までの付き合いから察して、慌てた。彼女の攻撃対象は明らかに、少女、そしてそれに寄る獅子の魔物――レムングスだったからだ。

 それに感応するように、ぐるるる、と鬣に少女の顔を埋めさせていたレムングスは鋭い牙を見せながら、腹に響くような唸り声を上げた。

「レムングスさん……?」

 ようやっと涙も落ち着いてきた少女は、先ほどまで大人しかったレムングスの突然の変化に戸惑い、不思議そうに鬣から顔を放した、そのときだった。

「きゃあ……っ」

 ふわり、と身体が浮遊感に包まれたと思ったら、そのまま後方へと軽く放り投げられた。どうやらレムングスがフィリアの首根っこを咥え、そして自分が盾になるように後ろへと投げたようだ。尻餅をついて痛がる暇もなく、フィリアは目の前の光景に悲鳴を上げた。

「レムングスさん、あ、アレシアさん……っ!?」

 アレシアが白刃を構え、その前にレムングスが立ち塞がって、威嚇の唸り声を上げている。

「……お前が、あのレムングスか……変われば、変わるものだな」

 腰を低くして、いつでも攻撃に入れる状態で独りごちるアレシアの背後には、ダフネとシェルンが腕を組んでこちらを見ている。黙ったまま、ダフネは真剣な表情で、シェルンはいつもの含み笑いを浮かべながら、見定めていた。

 視線をアレシアに移すと、かつての仲間であるはずのレムングスに向かって、冷淡に刃を向ける姿しか、ない。何を、するつもりなのだ。彼らは、何を見定めようとしているのだ。

「や、やめ、アレシアさ」

「お前の力……どれほどのものか見せてもらう!」

 フィリアの制止の声など微塵も届かず、アレシアは地面を蹴った。レムングスも素早く横に跳び、彼女の一撃を避け、着地すると即座に助走をつけてアレシアの右から襲い掛かった。鋭い牙と爪でアレシアの素早い突きを弾くレムングス。だが時折、レムングスの動きが鈍ることがあった。その隙を逃さずにアレシアは間合いを詰めて、斬り払う。剣閃が前足にかかり、ぎゃん、と悲鳴を上げてレムングスが後方へと飛び退いた。

「祝福を受けたアレシアの方が上、か……? やはり、シュンゲイには遠く及ばないか」

「いや、レムングスの野郎に少しの躊躇があるからなぁ……まだわかんないっすよ」

 再び、間合いを詰めながら、構え合うアレシアとレムングス。それをのんびりと、まるで娯楽目的の御前試合でも眺めて感想を並べているかのように、シェルンはダフネに向かって話している。それに奮起されたフィリアは駆け出して、その間へと割って入った。

「やめてください!!」

 レムングスの前で両手を広げて、アレシアに向かって訴える。

 シェルンならばわかるが、アレシアまでこんなことに手を貸すだなんて思っていなかったフィリアは、ショックだった。その衝撃を吐き出すように、声を荒げた。

「……どけ、フィリア」

「嫌です、どきません。レムングスさんに戦わせるわけにはいきません。ましてや仲間同士でなんて……」

「戦わせるつもりはないだと……?」

 淡々と応えていたアレシアだが、少女のその言葉には驚いたようだ。聞き間違いだと確かめるために、鸚鵡返しに呟く。

「レムングスさんは誰も殺したくないんです。そのために、名前を呼ばないと……約束しました」

「……何を、胡乱な」

 切々と訴えるフィリアの姿に、呆気にとられたアレシアは言葉に詰まった。その後ろでシェルンがやれやれと肩を大仰に竦め、ダフネを見遣る。手のつけようがないね、とお手上げのポーズを取る彼の横を通り、ダフネはフィリアへと歩を進めた。

「……フィリア」

「わ、私、約束を破るつもりはありませんから」

 また役立たずと遠まわしに言われようが、かといって従うわけにはいかない。旗印の価値が無いと批難されたとしても、レムングスをこれ以上酷い目にあわせるくらいなら、そんな価値など無い方がましだ。そう強い意志をこめて、ダフネを見返すと、予想とは違い、ダフネの表情は歓喜に満ちていた。

「よく、やった。フィリア」

「……え?」

 てっきり批難されるかと思っていたフィリアが、今度は呆気に取られる番だった。ダフネはゆっくりとフィリアに近づいて、そして耳に心地良い声色で、続ける。

「こうして、貴女が黄昏人としての力を覚醒できた今日という日は……ああ、なんという歓喜に満ちた日であろうか……」

「え……」

 背後にいるレムングスを見遣る。かつての彼とは似ても似つかない、変わり果てた獅子の魔物……この姿が、自分が覚醒したという証になるのか。フィリアは気が抜けたように、呆然と彼を凝視していた。

「レムングスという力を最大限に引き出し、支配下に納めることの出来た貴女は、旗印としては充分だ。早速、このことを皆にも知らせよう……そして、戦の勝利を願う杯を掲げるのだ」

「……!」


 そうして、正式にフィリアを旗印とする盛大な宴の準備が、ダフネの一言より進められるのであった。








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