7
初めての空の旅は恐ろしかった。
次々と流れる白い雲、吐き気を伴う浮遊感、頬を打つような冷たい風、眼窩に広がる大地はあまりに遠く、今までの揺り篭のようにゆったりと流れる世界とは程遠い光景。激しい変化に、サラはついていけなかった。何度も、降ろして欲しい、と心中で叫んだ。姉や両親の顔を思い出し、助けを求めた。
けれど、それよりもサラに愕然とさせたのは、ヒユウが黙って自分を置いていってしまったことだった。衝撃だった。
すぐに追いかけようと涙ながらに訴えるサラを、レヴァインとセリネスは困ったような表情で宥めるのみ、もう一人の女性騎士であるケイトは面倒くさげに溜息を吐くばかりで不快だった。
違う、決して我が侭だけでここまで食い下がっているわけではない。
サラは嫌な予感がしていたのだ。ずっと、あの忌まわしい夜から、胸騒ぎは続いていた。ヒユウの身になにかが起きてしまうような、永遠に会えなくなるような、不安。だから何が何でも、どうしても傍にいたかったのに。
セリネスならわかってくれると思っていたのに、とサラは裏切られた思いで、侍女を責めた。泣きながら責めると、さすがの彼女も途方の暮れたような表情で、泣き崩れるサラをじっと見下ろしていた。それにますます腹を立てたサラは、周りの目を掻い潜ってケツジーのいる厩舎に忍び込み、たった一人でそれに乗ってヒユウを追いかけようとしたのだった。半ばやけになっていたのだろう。主人のその行動にはセリネスもとうとう観念せざるを得ず、代わりにケツジーの手綱を取ったのだった。そんな二人の無謀な行動にはレヴァインもケイトも困り果て止めようとしたが、セリネスはそれを振り切ってしまった。そのまま放っておくわけにもいかず、仕方なくそのままついてきた。
それからの追跡の旅もとても辛いものだった。何度も吐いてしまったけれど、それでも速度を落とすことを禁じて、ひたすら空を駆けた。魔物に遭遇する可能性は高く、実際に何度か遭遇し戦闘となったが、ケイトやレヴァイン、セリネスとでなんとか撃退することが出来た。直前にヒユウとクラーヴァが大半の魔物を倒してくれていたおかげでもあるだろう。
早く、ヒユウ様のもとへ。
何かに急かされるようにサラは走った。走るのは昔から苦手だったけれど、それよりもヒユウに会いたいという衝動の方が強かった。
そして、やっとヒユウに追いついたときの、衝撃。ヒユウが危ないと思った瞬間、サラは無我夢中で叫んだ――
「……ここ、は……」
重たい瞼をゆっくりと上げる。ぼんやりとした視界には、ところどころひびのようなものが入った白一面が広がっていた。全く思考が働かず、幾度かの緩慢な瞠目を繰り返す。そのうち、その白一面が天井なのだと認識できるようになったそのとき。
「ここは、ジェーンストーンというところですよ、お嬢さん」
「!」
不意に横から見知らぬ声が落ちて、サラは慌てて上半身を起こした。どうやら、どこかの部屋のベッドに寝かされていたようだ。だが、熱を帯びてるかのように全身けだるくて、上手く動かせず、起こす途中でふらふらと崩れ落ちそうになった。
「ああ、急に動いてはいけませんよ……警戒しなくとも、貴女に危害を加えるものはここにはいません」
ふと顔を上げると、一人の老人が傍で椅子に腰掛けていた。服装は灰色の簡素なもので、長細い布を頭に巻きつけており、そこから白髪が見える。日に焼けた浅黒い肌が、実年齢より僅かに若く見えさせていた。
「あ、あなたは……ここ、は……」
優しく穏やかな声色はサラの亡くなった祖父に似ていて、知らず警戒を緩めた少女は、目の前の老年の男に問いかける。
「私は、イエジといいます。ここはジェーンストーンという、ケルジャナ砂漠にあるオアシスの街ですよ。私はずっとここで子供達とのんびりと暮らしています」
安心させるように、老人は優しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとサラの問いに答えていった。
「ケルジャナに、街が……? ……! ヒ、ヒユウ様!! ヒユウ様はどこなのです!?」
「落ち着いて。ヒユウ……貴女と一緒にいたあの銀髪の方ですね。彼も、無事ですよ……貴女も知っている人が傍にいた方が落ち着けるでしょうね。呼んできましょう」
そう言うと、イエジは近くにあった窓に寄り、外の庭で遊んでいた少年達の一人にヒユウを探してきてくれるよう、頼んだ。はーい、と元気な声を上げて、ぱたぱたと少年はどこかへ駆けていく。それをぼんやりとサラは眺めていた。まるで、今までのことが夢のようだと感じるくらい、平和な光景で――しかもここがあのケルジャナの中に存在するだなんて、ますます夢のようだ。
けれど。でも。夢なんかではない。
サラは俯いて、かけられた毛布をぎゅっと握り締める。
――あのとき……ヒユウ様は、わたくしを見て、言った。
「……フィリア……」
確かにそう聞いた。何故か、胸がざわついた。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
心配そうに声をかけてくれるイエジにサラは俯いたまま、顔を横に振った。
イエジによると、魔物に襲われていたサラ達を発見した彼が助けてくれて、ここまで連れてきて介抱してくれたのだという。サラがぎこちなく礼を述べると、「いいえ、当たり前のことをしただけですよ」と老人はふっと笑いを浮かべたが、すぐにふと何かを思い出したかのように独りごちた。
「そういえば……貴女方よりも少し前、同じように砂漠で魔物に襲われていた方々がいましたね。風体からいうと、貴女の連れの方と同じ騎士でしょうか……」
サラが顔を上げると、イエジの表情は暗く、灰色の双眸は後悔の色に染まっていた。
「彼らは傷が酷く、すぐに動ける状態ではなくて介抱していたのですが……その内の一人は、ふと目を離した隙にどこかへ行ってしまいましたので心配です。あんな傷で砂漠へ向かうなど、自殺行為だというのに……」
◇ ◇ ◇
「レムングスさん……?」
薄闇の中、おそるおそる声をかけてみるが、返答は何も無かった。ここも外れかと、フィリアはがっくりと肩を落として、来た道を戻った。ちゃんと迷子にならぬように目印をつけてきたから、迷うことはないだろう……きっと。
レムングスが捕らえられたあと、フィリアは彼をずっと探していた。捕らえるということは、地下牢みたいなところにいるんだろうか、と自らも捕らえられた経験がある少女は想像で、本拠地の中のそれらしきところがありそうなところをうろついていた。組織の人間、とくにシェルンやダフネに近い人々に見つかるのはまずいだろうから、こそこそとまるで侵入者のような気分で、フィリアは壁を伝い、建物の中でも人の少なそうな、暗闇の深いところを探ってみた。未知の場所での探索は正直、恐ろしい。けれど、びくびくしているときではない。このまま放っておけば、レムングスは酷い目に遭うだろう。あれほど怯え震える彼の姿が目に焼きついてしまった少女は、じっとしていることなど出来なかった。
「あ、もうすぐ夕食の時間……戻らないと」
夕餉を知らせる鐘の音が遠くから響いて、フィリアは振り返った。お腹はあまりすいてないので、夕食をとらずこのまま探し続けたい気分で一杯だったが、無断でそうするとアレシアあたりが呼びに来るだろう。そのときに部屋にいないと、どこに行っていたのか勘繰られ、嘘の下手なフィリアから察するかもしれない。それは色々とまずいので、フィリアは小走りになって自分に宛がわれた部屋を目指した。
住居区から大分離れた末端まで来てしまっていたらしく、滅多に人も通らないようなところなのだろう。地面も壁も一面苔だらけ、地上では見られないような不思議な植物も多く育まれ、それらの葉先がフィリアの足をくすぐった。既に主人を喪って久しい屋敷の庭を踏み荒してるような気分だ。
あらかじめ迷子にならぬよう目印をつけてきたのが功を奏したのか、順調にフィリアは元来た道を戻っていた。そしてようやく住居区が見え、ほっと、自分の部屋もある建物に足を進めた。そして部屋に入ろうとしたとき、何の前触れもなく背中に衝撃が走り、呻く間もなく、フィリアは自分の部屋に押し込まれるように地面に叩きつけられ、上から押さえつけられた。
「っ!?」
地面に額を打った衝撃で頭の中が揺れ、フィリアは何が起こったのかさっぱりわからなかった。ただうつ伏せに倒されて、背中の上に何か重いものがのっているみたいで、咄嗟に両手をついて起き上がろうとしても無駄だった。すぐに両手を後ろ手に回されきつく拘束される。誰かがフィリアの上に乗っている。混乱で一杯のフィリアの首――ちょうど頚動脈の位置にひんやりと冷たく、鋭い何かを当てられた。
刃だ、と一瞬で身を竦ませたとき、首に触れるそれよりももっと鋭く冷たい言葉が降ってきた。
「貴様が、件の黄昏人の娘だな。グルンレスタでの借りを含め、この場でその首たたっ斬ってやろう」
「!」
若い、男の声だった。自分と同じくらいの。けれどフィリアは聞いたことがない。ただ自分に対する明確な殺意と敵意、そして憎悪までもが槍で心臓を貫くようにしてそこから伝わってきた。今度こそ殺される、と少女はぎゅっと固く目を瞑った。
「……と言いたいところだが、一瞬で殺すなど、生ぬるい。お前にはしかるべきところにて、しかるべき罰を受けてもらう。お前の犯した罪を白日のもとに晒し、 悔い改める姿を見るまでは俺の気は済まん」
「っつ……!!」
そう言うや否や、後ろ手に拘束されたまま、フィリアの身体をうつ伏せから反転させて背中を横の壁に押し付けた。だん、と背中を壁に叩きつけられた。相変わらず頚動脈を触れるように当てられた剣はそのままだったが、そこでようやく、相手の顔が視界に飛び込んできた。
乱雑に揃えられた黒髪に吊り目がちの三白眼、そこから殺意の炎が見える。声色から察した通り、外見を見ても自分と然程変わらない年齢なのだとわかる。それよりもフィリアに悪寒を走らせたのは、彼の風体だった。
ところどころ破れ血に塗れていたが、彼が着ているのは黒衣の騎士服。そして腰に下げられた剣の鞘。
―― 帝国軍の、騎士……!
追っ手だ。自分を捕らえる為に、そして殺す為にやってきた人だ。
グルンレスタで一度戦った相手。けれど、フィリアはそのとき単なる足手まといで爆撃やら魔法やらに翻弄されて、とても相手の姿を確認する余裕など無かった。初めて、間近に対峙して、目の前の青年の自分を見る激しい目に、フィリアは息を呑む。
「あ……」
刃を当てられ、小刻みに震える少女の唇を青年 ―― ヘテイグは蔑んだ目で見下ろした。
「どうした、黄昏人の小娘が刃ごときに震えるのは俺を油断させるためか? ああ、それともこの場に俺がいるのがそんなに不思議か。ならば教えてやる。お前達を追跡する途中、砂漠で魔物に襲われ、小さくない傷を負った……がしかし、やはり神は俺達を見捨てなかった。オアシスの街の者に……黄昏人縁の者に助けられたのは不愉快ではあるが、それはもういい。偶然、お前をあの街で見かけ、そしてこの本拠地へと連れ戻される場面にでくわしたのは僥倖であった……!」
「!」
レムングスをジェーンストーンにいるイエジのもとへ連れて行こうとして、シェルン達に連れ戻されたところに、彼はいたのか。まさか、あの砂漠の真ん中の街に追っ手がいるとは思っていなかったフィリアは驚いて、目を見開く。
「あなた、は……」
「……俺の夢と希望を奪ったお前が、この手で殺しても飽き足らぬほどに憎い……ヒユウ様の龍を奪い、地位も名誉も汚した貴様を……! 俺は絶対に許さん!」
「!!」
青年の口から思いも寄らぬ名前を耳にしたフィリアが、びくりと肩を大きく揺らした、そのときだった。
「フィリア、そこにいるのか?」
「!」
唐突に扉の向こうから投げかけられたアレシアの声に、ヘテイグがぴたりと動きを止めた。素早くフィリアの口を掌で覆い、息を潜めて様子を窺う。
しん、と静寂が辺りに落ち、いつもならすぐ返ってくる反応が無くて訝しんだアレシアは、「夕食、いらないのか?」と問うた。足音が段々とフィリアの部屋まで近付いてくる。それに心中で舌打ちしたヘテイグは少女の口を覆っていた掌を剥がし、ベッドの端と少女の両手首を持っていた紐で括り付けた。それはあっという間の出来事でフィリアは驚愕する。
「騒げばあの女もお前も殺す」
小声で脅し文句を落としてから、ヘテイグはすっと扉の影に寄った。
そのまま、アレシアが入ってくるのを待ち構え、捕らえる気だ ―― それだけは、駄目だ。
「アレシアさん、ごめんなさい! 夕食はいりません」
ベッドの端に拘束されながら、フィリアは扉の向こうにいるアレシアに向かって、出来る限りの平静さを装って声を上げた。それにはヘテイグの冷淡な表情も驚愕、そして怒りの色に染められる。が、フィリアは首を激しく横に振って、違うと訴えた。助けを呼ぶわけではないと訴える少女に、ヘテイグは怒りを忘れ、信じられないという風に目を見開かせた。
そして扉の向こうから、アレシアの怪訝そうな声が届く。
「……どうしてだ?」
「お願い、今は一人にしてください……考えたいのです、色々と……だから、お願いします、アレシアさん」
「……」
切実さの詰まった少女の言葉にアレシアも、言葉に詰まる。おそらく、レムングスの件でのやりとりを彼女も知らされているのだろう。今は誰にも会いたくないのだ、放って置いて欲しい、と少女は訴え、アレシアにその声が届くのを祈った。暫しの沈黙のあと扉の向こうから漏れた溜息は、その祈りが届いた瞬間だった。
「……わかった……」
「……ありがとうございます、アレシアさん……ごめんなさい」
扉の向こうで苦笑する気配がして、そして足音が遠のいていく。
こちらを気遣ってくれたアレシアを騙してしまったフィリアは内心、項垂れた。騙す、というよりも裏切りの方が近いかもしれない。自分含め、彼女達の憎むべき敵を庇ってしまったのだから。アレシアに危害が加えられるのを忌避した為、もあるが、目の前の青年の身をダフネ達に渡すことを恐れたのだ。
扉の影に潜んでいたヘテイグは、すっとフィリアに寄って来た。ベッドの端に括りつけられた紐を解くと、いきなり少女を首を締め上げた。
「ひ……、ぃっ……!」
「何故、俺を庇った! 何を企んでいる! まさか、これで俺を欺こうなど笑止。ヒユウ様の龍の仇をとるまでは、俺は何度でもお前を殺しにくるだろう!」
青年の殺意が雨のように降り注いで、それだけでフィリアの息は詰まった。真っ直ぐに憎しみをぶつけられ、少女は戸惑い、今までずっと奥底で抑えつけていたものがぐぐ、と込みあがってくる。呼吸困難に陥り、首を絞めるヘテイグの手を何とか解こうと、フィリアの爪がぎりぎりと立てられ、赤い直線が何本も引かれた。
苦しい、苦しい、苦しい。
「ヒ、ュ……っ……!」
―― 助けて……、助けて、ヒユウ様……!
意識が真っ白になる寸前で、何故かヘテイグはその手を緩め、拘束の解かれた少女はげほげほと身体をくの字に折って、必死に酸素を肺へと送った。
「……危うく、お前をこんなところで殺すところだった。それは、俺の本意ではないからな」
髪をかきあげ、一息吐いてヘテイグは自分を落ち着かせた。淡々と言いながらも彼は、先ほどの自分の激昂ぶりには内心動揺していたりする。常に精神の平坦さを求められる召喚士としては、失格だ。感情に流され我を失うなど、民の手本となるべき律となるべき騎士としても、恥ずべき姿なのだ。今までこれほどの感情の渦に巻き込まれることなど無かったというのに。それもこれも、少女を前にすると粉々に砕けてしまう。
きっと、砂漠での戦いで負ってしまった傷が深く、まだ疼くからだろうと思い込むことにした。傍で、げほげほと苦しそうに咳き込む少女を見下ろしながら、ヘテイグは波打つ感情の波紋をゆっくりと消し去っていく。
こうして間近に見ると、グルンレスタで見たときよりも一層、少女の頼りなげな風情が目についた。先ほど、自分を見る真紅の瞳には怯えと恐怖と驚愕しかなく、いくら覗き込んでも彼女からは血生臭い戦いの色というものが見えてこなかった。まるで、弱者を一方的に苛めいたぶっているような感覚しか沸いてこない。それが、無性にヘテイグを焦らせた。
―― そんな筈はない。
少女は黄昏人だ。忌まわしき、強大な力を操り、帝都を脅かす最大の敵なのだ。
けほけほと苦しそうに屈んでいる少女を見下ろしながら、ヘテイグはその呟きを繰り返した。
少女は首をおさえながら咳き込んではいたが、漸く呼吸のリズムが正常になってきたのだろう。一つ深呼吸するとゆっくりと顔を上げて、青年を見た。途端にぶつかる視線の鋭さに紡ごうとしていた言葉を飲み込んでしまったが、それでもぐっと拳を握って、少女は聞きたかったことを口にした。
投獄されたあと、ヒユウはどうなったのだろう。極刑は逃れたようだが、それでも安心できなかった。
「……ヒユウ様は……、ご無事……なのですか……?」
「何だと!?」
少女の口から彼の敬愛する名前が出て、ヘテイグは声を荒げる。が、一瞬、彼の動きが止まった。不安げに揺れる少女の双眸は、泣いているように見えたからだ。
けれど、すぐにそんなはずはないと、己の頭を叱咤して声を上げた。
「貴様にそのようなことを教えてやる義理などない! ヒユウ様の龍を奪い、名誉も地位も汚したのは貴様だろうが!」
「……っ」
ぐしゃりと、少女の表情が悲痛に歪んだ。それは刃を頚動脈に当てたときや首を絞め上げたときよりももっと、強い絶望に満ちたものだった。何故、少女がそんな顔をするのか理解できず、だからこそ苛立ち、ヘテイグはますます少女を責めた。それからは少女は言葉を無くしたように黙り込み、俯く。
そうこうしている内に、住居区に人の気配が増えてきた。おそらく、夕餉の時間が終わり、各々の部屋へと戻っていくのだろう。とりあえず、今はもうこれ以上動けないと踏んだヘテイグは、どうするか考えこんだ。けれどそんな彼に向かって、またもや信じられぬ言葉が少女の口から零れたのだった。
「……とにかく、今日はここで隠れてください。この部屋には人は全然寄り付きませんから、大丈夫です。生憎ベッドは一つしかないので、床で寝てもらうことになりますが……」
「……貴様、何を企んでいる」
青年にすれば当然の問い、それに少女は答えなかった。
穏やかに、誰にも迷惑をかけずに生きていきたいのに……、そんなことは無理なのだと嘲笑う声が響いて、目を塞いで耳を塞いでも、眠りについても夢の中でも木霊して、鳴り止まない。
嫌だ、もう何も見たくない。目を塞いで耳を塞いで、膝を抱えたままじっとしていたい。
そんな少女の必死な思いもやはりどこにも届かなかった。
夜中少女の部屋から抜け出したヘテイグは組織の人間に見つかり、捕まってしまったのだ。いつものように意地悪い笑みを浮かべたシェルンからそれを聞いた少女は、ばっと立ち上がり、この組織の全ての決定権を握るであろう人物へ向かって走った。
「ダフネ様……!!」
「……フィリアか」
「ダフネ様、あ、あの」
いつもの穏やかな表情の中に厳しいものが含まれているのを敏感に察したフィリアは、胸が不安と恐れで一杯になってしまい、自然と唇が震えた。
不安に揺れる少女の瞳を見下ろしながら、ダフネは首を横に振る。
「君の言いたいことはわかっている。けれど、彼を助けることだけは出来ない。彼は帝国の騎士だ。しかも君を捕らえ、殺す為だけにやってきたのだ……そもそも、何故庇うのだ?」
「でも、でも彼は……。……あの人は、一体どうなるのですか。お願い、殺さないで……!」
彼を庇う理由を上手く説明できる自信の無いフィリアは言いよどんだが、すぐにそんなことよりも彼の安否が気になって、問いかけた。彼は敵だ。フィリアにとって敵でなくとも、この組織にいる者達にとっては、倒すべき敵の一人なのだ。そんな状況で捕らえられた、となると、嫌な想像しか浮かんでこない。
一方、フィリアに縋られ、懇願されたダフネは少女の言葉に驚いて目を見開き、そしてやれやれと呆れたような溜息を吐いた。
「殺すな、などと……いいかい、フィリア。彼は手傷を負ってはいるが、あの忌まわしい黒印魔法騎士団の一人、それも副官なのだ。我らの、手強い敵なのだよ。いずれは戦い、倒さねばならぬ相手だ。もっとも、この砂漠の中では彼も十八番である召喚魔法は使えず大した敵にはならんがね。まあそれはどうでもいい、彼は我らにとって敵でしかない、勿論君にとってもだ。敵をみすみす逃がすなど、裏切り者のやることだ」
「……!」
やはり。彼は騎士だった。それも、黒印魔法騎士団の副官だという。
フィリアは彼の深い憎しみの理由がわかった。彼は、ヒユウにとても近い人間なのだろう。ヒユウを尊敬し、だからこそあれほどにフィリアを憎悪しているのだ。たった一人で、召喚魔法が使えないという状況の中でも、敵地の真ん中にいるフィリアを目指して潜入したのだから。深く考えるまでもなく、彼の思いの強さはわかった。そして、ヒユウにとても近い人間だということは、ヒユウにとっても身近な存在だということだ。
ぞくり、とフィリアは冷たいものが背筋を通るのを感じた。
―― また、だ。
また、自分はヒユウから奪ってしまった。
「……お願い……」
「フィリア……」
俯いた少女から表情は窺えない。一瞬泣いているのだろうと思ったダフネは、困ったような声色で少女を呼ぶ。
「お願い、何でもします。しますから、彼を殺さないで……」
上げられた少女の顔に涙は無かった。ただ泣いてはいなかったが、だからこそ伝わる悲痛さは強く、また少女の口から零れた言葉が信じられず、ダフネは言葉を失った。




