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「嘘っ!?」
「まじかよ……」
ケイトはぎょっとして叫んだ。今まで半ば他人事のように事態を傍観していたクラーヴァも、まさかの存在の登場に、心底うんざりしたうめきを漏らす。
さすがのヒユウも、驚きに目を僅かに見開かせた。が、すぐに普段の怜悧な表情に戻り、口の端に微笑をのせる。
「……これは、レヴァイン皇子殿下。貴方が、この事態の原因ですか」
レヴァインはヒユウとその胸に縋りつくサラ、その二人を呆れながら見ているケイトとクラーヴァを見渡しながら、ふふ、と肩を揺らして近づいてきた。元老院の証である緋色の肩掛けはない。いつもの豪奢で繊細な衣装ではなく、宝石も耳輪以外身につけてはいない、些か簡素すぎる恰好だ。その上に白の外套を羽織っており、その時点でケイトは嫌な予感がしていた。
「原因だなんて……、ただ私は可愛い従妹たっての願いを無碍には出来ぬだけだよ」
「殿下は、可愛い従妹が命の危険に晒されるかもしれぬ旅の同行を、許すおつもりか」
「……今の君に、拒否権はない。それにね、お姫様一人くらい守るのは容易いと、君の力を信じているからだよ」
先日の、極刑を逃れたのはレヴァインの力によるものが大きい。そのことを指している脅し文句のあとに、信じているなど言ったところでますます嘘臭く聞こえるだけだ。とことん皮肉な奴だと顔を顰めたクラーヴァは、これ以上は関わりたくないと徹底的に傍観を決め込むことにした。以前から、クラーヴァにとってこの皇子は苦手な部類だったのだ。しかし、続く発言がそれを許さなかった。
「だから、私も共に行こう」
「は?!」
――今、何と言った?
クラーヴァとケイトはぎょっと目を剥き、耳を疑った。
皇子に向かって不敬な態度を顕にする二人を不快に思うどころか、楽しげに口の端を上げてレヴァインは続ける。
「おや、元老院から聞いていないかい? 今回のこの任務について、一人、エルカイル教会からも応援をよこす、と。応援というより、監視の意味合いが強いけれどねぇ」
「……はっきり言うじゃねーか」
ぴくりと眉を吊り上げるクラーヴァの怒気をレヴァインは笑顔で受け流す。
「致し方あるまいよ。君達は、黄昏人の小娘をうすうす逃してしまった。これで本拠地をとらえなければ、ヒユウ、君は極刑にされても文句を言えない。私も、これ以上は庇うことはできないねぇ」
「レヴァイン様……」
いつのまにか傍に寄ったサラがレヴァインの裾をきゅっと握って、彼を仰ぎ見た。注がれる大きな青い瞳には、不安と、小さくない非難が浮かんでいる。
「ああ、そんな悲しそうな顔をするではないよ、サラ。大丈夫、本気で言っているわけではない。ちょっとした、後押しというやつだよ。君の騎士に本気を出してもらえるようにとね」
そう言って片目を瞑る従兄の姿に、漸くサラはほっと安堵したような微笑を浮かべた、今まで状況を見守っていたユリアーナが妹とヒユウに向かって声をかけてきた。
「サラ、気をつけてね。……ヒユウ様、どうかこの子を守ってあげてね」
「お姉さま……ありがとう」
「……」
ヒユウが無言で視線をユリアーナに向けると、彼女の双眸はどこか寂しげな、だが強い祈りを秘めた色を浮かべていた。
「……胡散臭い皇子が。何を企んでいるのか知らんが」
ユリアーナが護衛の騎士とともに帝都への帰途についたあと、ぶつぶつと不満を盛大に吐いているクラーヴァの横から、ケイトがヒユウに内緒話をするような素振りで寄った。
「ちょっと、ヒユウ。どうすんのよ、一体」
「……元老院の差し金である以上、このまま議論し続けたとて事態に何ら変化は望めん。時間の無駄だ」
「あっ、待ちなさいよ、ヒユウ! 私が言いたいのは皇子のことでなくって……って、もう、信じられない!」
まるで他人事のようにさっさと出立の準備に行ってしまったヒユウの背中に向かって、ケイトは毒を吐かずにいられなかった。
それもその筈、結局今回の旅にサラとレヴァインの同行が決まってしまったのだ。皇子として幼い頃から剣技や護身術を受けているレヴァインはともかくとして、問題はサラだ。箱入り育ちの深窓の姫君が、危険な旅などとても耐えられるものではない。いつ魔物と遭遇するかわからない状況、簡素な宿、場合によっては野宿などありえるだろう。けれど、彼女につけられた侍女はたった一人だという。それ以外のメンバーで、女性はケイト一人……その事実に気付いた彼女はますます嫌な予感がした。
――世間知らずなお姫様のお世話なんて、冗談じゃないわ。
しかも、ヒユウとクラーヴァの二人だけでも頭が痛いのに、レヴァインまで加わるだなんて、ケイトは思わず両手で頭を抱えた。この三人が一緒に行動だなんて、寝食もともにだなんて、想像するのが怖い。というか、想像できない。
元々、誰に対しても物怖じせずに言う性質なケイトは、侍女とともにグルンレスタの関所の一室で待機していたサラに対しても、はっきりと言った。
「ちょっと失礼しますけれど、貴女みたいなお姫様が侍女一人だけしかつけず、旅なんて出来ると思っていて?」
「……わたくしはもう子供ではありません、自分のことくらい自分でできますわ……」
放って置いて下さいまし、と付け加えたサラに、ケイトはかちんときた。
「そう、そこまで仰るなら私も遠慮なく貴女を放って置くことに致しますわね」
やっぱり、姫君なんていう人種とは、気が合わないのよね。
自らもそれなりに身分の高い貴族の出でありながら、蝶よ花よと愛でられるだけの生活、そして最後には道具としての政略結婚の道しか残されていない己の境遇をいち早く悟り厭ったケイトは、親の反対を押し切って士官学校入学、そのまま軍部入りした。
毎日のように着飾って茶会や夜会に出て、自尊心の高い女性達との腹の探り合いや見栄や自慢といった実にならない話をするだけの、虚飾に満ちた生活。それが一般的な貴族に生まれた娘達の世界だ。ただ、父親や姉に守られ、自分の想い人が婚約者だったサラの場合はそんな世界すら知らぬだろう。
ヒユウとの婚約が解消されたとき、そのままただ泣き暮らしていればよかったのに、と思う。憧れに似た恋慕の情もそれを失う悲しみも、時間がきっと癒してくれる。そして、そのあとに父親や姉が与えてくれる穏やかで優しい生活を甘受しておけば、汚いものも見ずに危険なことも知らずにすんだものを。
そう思いながら、ケイトは改めてサラを見た。
まるで、絵物語に出てくるような、お姫様だ。眩い金色に輝く絹糸のような美しい髪、純真無垢で穢れを知らぬ澄んだ空を詰め込んだ宝石のような瞳、けぶるような睫毛が白い頬に影を落とし、華奢で頼りなげな風情は見る者全てに庇護欲を駆り立たせる。常に誰かの庇護下にいなければ、たちまち散ってしまう儚い花のような少女。温かい世界で育ったからこそ、恐れるものを持たずに、一心に見詰めることが出来る。そのような少女が、ヒユウを慕う気持ち一つで、普段の生活からは考えられぬほどの過酷な環境の中、いつ魔物に襲われるかわからぬ状況に身を置いて、果たして大丈夫なのだろうか。
同情ともとれる、一抹の不安を感じながらも、これ以上用もないケイトはこの部屋から出ようとしたのだが。
「……あの……、ケイト、と仰いましたわね。ひとつ、お願いがございますの……」
「……何でしょう?」
いきなり呼び捨てなのね(身分の差を考えれば仕方ないが)、と思いながらも、彼女の言うお願いに興味を惹かれたケイトは振り返る。椅子に腰を下ろしたサラは、おずおずとした口調とは違い、真っ直ぐで真剣な表情だった。
「……ヒユウ様に、あまり親しげに近寄らないで下さいませ」
「……婚約は解消されたと聞きましたが?」
おそらく先程ヒユウに耳打ちして文句を言った様子を見ていたのだろう――果たしてあのやりとりが親しげに見えるのかはどうか置いておいて。何で他人にそんなことまで言われなくてはならないのだろう、とまたまたかちんときたケイトは少女が傷つくであろう現実をあえて言葉にしてやると、サラはやはり傷ついたのか、暗い表情で俯く。
「それは……ヒユウ様が黄昏人に操られて将軍の地位を失ってしまわれたから……ですわ。でも……今度の旅で彼らを倒せば、ヒユウ様はまた将軍に戻られる、と。レヴァイン様も、そうとりなして下さると仰られました。だから、……そうなれば、お父様も、考え直して下さる筈です……」
「そう、だから、貴女にとってはヒユウは今も婚約者のままだ、と仰りたいわけですわね?」
相変わらずあけすけに物言うケイトにたじろいだサラだったが、こくりと頷いて肯定した。
成る程、彼女も何も考えていないわけではないらしい。確かに、黄昏人との決着がつけば、ヒユウが元の地位に戻れる可能性は高いだろう。なんだかんだ言ってヒユウは帝国軍に必要不可欠な存在だ。本人自ら希望しなくとも、周りがそうさせる。そうなれば、彼女を溺愛する父親のことだ、一途に懇願されれば折れてしまうことは想像できた。だから、今回の旅は彼女にとっても重要なものなのだ。彼女がついてくる必要はどこにもないが、きっと、傍にいたくていてもたってもいられない心境なのだろう。あんな何考えてるかわからない無表情で冷たい男の何処がそんなにいいのか甚だ疑問だったケイトだが、彼女の一途な想いには感心した。
だが、かといって、そんな勝手な願いに応えてやる義理はない。
「畏れながら、お姫様。私にとって、ヒユウは貴女の元婚約者という以前に、士官学校時代からの友人で長い付き合いになるのですわ。そして帝国軍に所属する騎士として同じ立場にあります。今回の旅はお姫様もご存知の通り、遊びに出かけるのではなく、重要かつ危険の伴う任務にございます。お姫様の我がままなお願いを聞いていられるほど、甘い状況でもございません。同行が決定した以上、今後私から反対の言葉を唱えるつもりはありませんが、それでも最低限の忠告ぐらいはさせて頂きます。己の身を守る術すら持たないお姫様は、私達の指示に大人しく従い、お姫様らしく、影で守られていて下さいませね」
他人からこのようにきつく言われたことなどないのだろう。サラは最初こそ驚きに目を見開いていたが、すぐに自分が役立たず扱いされたことに気付いて、不愉快そうに顔を顰めさせた。
「……貴女も……ヒユウ様が……」
「何か仰いまして?」
サラの零した呟きを聞き取れず、ケイトは慇懃無礼な態度で聞き返す。
首を振って、微笑を浮かべたサラは、そのまま彼女の退室を促した。
「いいえ……、何でもありませんわ、ケイト」
普通の馬ではケルジャナまで辿り着くには時間がかかりすぎるとのことで、軍用に改良された飛獣ケツジーを使うこととなった。彼らは温厚な性質で遠距離飛行に適した存在であるが、それゆえ過去に乱獲されたあげく、奇病が流行ったおかげで、今では絶滅危惧種でもある。見かねた帝国が彼らの保護、繁殖を管理し、殆どの地域での彼らの売買を禁止している。また、彼らの繁殖は温暖な地域しか適さない為、グルンレスタよりも西南に位置するウッドシティルの街まで下らないと、手に入らぬらしい。
とりあえず、鍛えられた軍馬の中でも特に駿足の四頭を借り、一行はウッドシティルまで移動することとなった。
月毛の軍馬に跨ったケイトはちらりと右へ視線を移す。ちょうど、レヴァインがひらりと栗毛の軍馬に跨ったところだった。皇族として馬術も叩き込まれてきた彼にはなんてことはないことだろう。そのことをケイトも知っていたので、とくに不安には思っていなかった。それよりも、いつでも優雅な所作を崩すことは無いレヴァインを見てふと、彼には白馬を用意してあげたら、さぞかし貴族の姫君達は色めき立っただろうに、なんてどうでもいい感想を抱いてしまったほどだ。
問題は乗馬経験の無いサラだった。一般の貴族令嬢でも乗馬を経験する者は殆ど無く、彼女達にとって通常の移動手段は馬車である。しかし、現状で馬車などという悠長なものを使用できるわけがなく。
「サラ姫、こちらへ」
まず黒毛の軍馬に跨ったヒユウが、こちらを遠巻きにしておどおどしているサラの名を呼んだ。軍馬は通常の馬より丈夫に鍛えられているせいか、大きい。ゆえにサラは怯えているのだろう。けれども、名を呼ばれて、はっと顔を上げたサラは、勇気を振り絞ってヒユウの乗っている黒馬に近づいて行った。
やはり、ヒユウ様は黒馬が似合う、とサラは思わずにいられなかった。
今までに一度だけ……確かあれは三年前の魔の戦いの直後だった。国をあげての勝利の式典で、黒印魔法騎士団の将軍に就いた彼は黒馬に跨って、凱旋門を潜り大通りを抜け、民衆の大歓声を浴びながら皇城へとその姿を見せたのだ。青みがかった銀髪、精巧に造られた彫像のように整った顔立ち、馬上でぴんと背を伸ばして威風堂々と前を真っ直ぐに射抜く蒼の双眸。上賓として招かれていたサラはそのとき初めて彼を知り、あっというまに恋に落ちた。最初は胸の高鳴りが恋だとはわからずに、また身体の調子が悪いのかとうろたえたものだった。それから暫くして姉の婚約者として再び会ったときの衝撃は大きく、しかし、姉の婚約者としてでも、近くで姿を見れるのは嬉しかった。姉との婚約が破棄され、自分の婚約者となったときの衝撃も、また――
「きゃ……っ!」
そんな過去の思い出に浸っていたサラだったが、ぐいっと強く腕を引っ張られ、襲い来る浮遊感に短い悲鳴を上げた。けれどすぐに浮遊感は消え、代わりに背中と膝裏に感じる温もりが彼の腕なのだとわかった途端、白い頬に朱が差した。
ヒユウの膝の上に横向きに抱え上げられていたのだ。
「ヒユウ様……」
しかも、至近距離に彼の端整な顔がある。サラはますます真っ赤になってしまったが、すぐに初めて感じる馬上の不安定さに怯えて、反射的にヒユウの胸に縋る。右腕で少女の背を支えつつ、膝裏からも左手を抜いて手綱を操りながら、ヒユウはサラにとってとんでもないことを淡々と言い放った。
「……姫、急ぎの旅ゆえ飛ばすが、それでは落ちる。しかと掴まれよ」
「あ、は、はい……っ」
耳まで紅潮させたサラが慌ててヒユウの背に手を回してぎゅっと衣服を掴む。半ば、抱きついているような恰好で、サラの胸は羞恥で一杯になった。
「ふふ、お似合いだねぇ……」
そんな二人の様子を見守っていたレヴァインは満悦そうに、呟いた。当事者には届いていないその呟きは、ケイトの耳にはしっかりと届き、その内容に彼女は思わず眉を顰めた。確かに二人のやりとりは初々しい姫とそれを見守る騎士といった風情で、見た目的にもお似合いだろう。けれど、ケイトは複雑な心境であった。
ヒユウの「行くぞ」という合図で、四頭の軍馬はグルンレスタの関所を抜け、ウッドシティルまで続く道を駆け出した。
――随分、優しいんじゃないの。
前方を走るヒユウの背中に向かって、ケイトは不満そうに独りごちた。やはり、前々から思っていたことだが、あの姉妹に対するヒユウの態度は義務的な色以外も混じっている。彼女との婚約は政略に違いないが、それにしては丁寧だ。レヴァインが傍で見張っているからだろうか?
とにかくケイトが面白くない気分を感じている原因はそれ以外にもあって、出発の直前、ヒユウの膝の上に乗ったサラが、ちらりと一瞥をくれたのだ――その中には、ケイトに対する優越の色が混じっていた。
「……どうやら、勘違いしてるみたいだけれど」
なにやらサラは、ケイトがヒユウを好きなのだと思い込んでしまったようだ。それは全くもって盛大なる勘違いであるが、先程の一瞥を思い出したケイトは、あえてその誤解を解く気を無くしてしまった。
ちなみにサラ付きの侍女といえば、レヴァインと同じ馬に乗っており、その身をがちがちに固まらせている。最初クラーヴァと同乗するかという話もあったが、戦闘要員であるクラーヴァとヒユウ二人に足手纏いが同乗という状況は得策ではない、と考えた結果だ。
遠く滑らかな稜線を沈みゆく夕日によって紅く縁取られ、次第に辺りの気温も下がってきた。ただそれが天候によるものだけではないことをいち早く察したのはやはり、ヒユウ、クラーヴァの二人であった。ただならぬ幾つもの気配が潜み、ヒユウ達を待ち構えている。
「……おい」
「わかっている。殿下は後ろへ。ケイト、お前は殿下をお守りしろ」
「わかったわ」
ヒユウの指示に素直に従い、レヴァインは馬の足を緩めて後方へと下がった。その前をケイトが盾になるように位置し、腰に差していた細身の愛剣をするりと抜く。続いて前方にいるクラーヴァ、ヒユウも馬の足を緩めて、それぞれの愛剣を利き手に携えた。
「およそ北五百三十ミルに三匹、同じく北八百に二匹。敵との距離五十」
「俺が一気に叩く。てめぇはお姫様守っててやんな!」
気配のみを頼りに、即座に目測(ミルとは軍事用に使用される角度の単位である。五百三十ミルでおよそ三十度、八百ミルで六十度)したヒユウの横から飛び出したクラーヴァは叫びながら、敵の前へと馬を走らせた。剣を右手で掲げ、うずうずしてじっとしていられない子供のような様子に思わずヒユウは溜息を吐きたくなる。
「……一気に全部はいくらお前でも無理だろうが。それよりも、姫。頭を伏せて決して前を見るな!」
「は、はい……っ!」
ヒユウがサラに向かって決然とした声を上げた途端、前方の茂みから恐ろしい咆哮とともに魔物が飛び出してきた。鼓膜が突き破かれそうなそれにサラはぎゅっと目を固く瞑り、言われた通り、ヒユウの胸に顔を埋めた。そうするだけで恐怖は大分と薄まった。
クラーヴァの大振りの剣が横一閃、二匹がそれによって絶命したが、残りの三匹の内、二匹は初めからヒユウ達に狙いを定めて襲い掛かってきた。クラーヴァが舌打ちして後ろを振り返る。それをヒユウは「それ見たことか」と悠長な台詞で返しながら、馬を敵めがけて走らせた。右手で長剣を構えそのまま虚空に滑らせた次の瞬間、魔物二匹の頭は胴から斬り離されていた。
「きゃあぁあ……っ!!」
いななく黒馬の揺れ、そしてヒユウの剣が魔物の身体を切り裂いて血が噴出す生々しい音を掻き消すようにサラは叫ばすにいられなかった。ヒユウの外套でサラを覆っていたので、少女が返り血を浴びることは無かった。
残る一匹もクラーヴァがあっというまに片付けていた。それを見て、レヴァインは今にも拍手しそうな手振りで「お見事。さすがは帝国の誇る一の騎士達だねぇ」と感嘆の声を上げる。
それを視界の端で捉えながら、クラーヴァがヒユウの傍まで寄って来た。
「……やっぱり、これもあれか。反帝国組織のテロ活動の一環か?」
「それ以外にないだろうな。最近、とくにケルジャナの周辺では絶えないと聞く」
「やれやれ、本拠地を暴く以外にも新たな任務が出来たな」
鮮やかな緑の芝を赤く染めた魔物の死骸を見下ろしながら、クラーヴァは新たに出来た面倒事にうんざりとし、ケイトはその異様さに眉を顰めた。
「それにしても、魔物っていっても、獣に近いものからこんな何かわかんないグロテスクなものまで、色々いるのねぇ……」
ヒユウ達を襲った魔物はどれも奇形で、皮膚もなく、臓腑の塊に手足と顔がついたようなものたちだった。ケイトの言葉には皆同感のようで、すぐにその場を立ち去ることにした。
その際、ヒユウは己の胸の中で打ち震える華奢な存在を無言で見下ろす。サラはずっとヒユウの胸に顔を埋め、背中に回された手も硬直したかのように衣服を固く掴んだままだった。小刻みに震え、これ以上ないくらい感じた恐怖と衝撃を如実にヒユウに伝えていた。
ウッドシティルまでの道中で、馬の足を止めて、ヒユウは静かに言う。
「……サラ姫。このようなことは今後何度もあるだろう。やはり貴女は戻った方がいい」
胸の中の少女の肩がびくりと大きく揺れ、衣服を掴む手の力が強くなる。暫し沈黙が降りたが、少女はゆるゆると頭を横に振った。
「わ、わたくしはもう嫌……。知らないところで、ヒユウ様が危険な目に遭っているなんて……嫌なのです……どうか、このままお連れください」
「……」
頑ななサラの態度にヒユウは一つ溜息を吐いて、夕闇の中、ふたたび馬を走らせた。
襲われた場所はウッドシティルから遠くなく、一刻もかからぬ内に街門を潜り抜けた。ウッドシティルは商人や一般市民もいるが、軍事に携わる人間の方が多い。元々は交易の盛んな商用都市の一つであったが、三年前の魔の戦いにより、魔物の巣かつ黄昏人の隠れ住むケルジャナから、帝都を守る最後の砦とその姿を変えざるを得なかったのだ。
フリーパスで関所を抜け、軍人用の宿に泊まることとした。厩舎に軍馬を預け、サラと侍女、レヴァインをそれぞれの部屋へ案内したあと、ヒユウ、クラーヴァ、ケイトの軍人三名は宿のすぐ裏にある帝国軍支部の建物へと足を踏み入れた。そこでその支部の責任者である男二人に出迎えられる。
ヒユウが飛獣の手配を依頼すると、あらかじめ軍本部から伝達されていたのか、飛獣ケツジーはいつでも出立可能という答えが返ってきた。そしてウッドシティルの現状や、近辺の魔物の様子など幾つかの報告を受けた後、ケイトとクラーヴァは――というよりケイトが飛獣を見たいと言って(今まで見たことがないらしい)、面倒くさげなクラーヴァを無理やり引っ張りながら、案内人とともに部屋から出て行った。
帝国軍支部の一室。窓の傍に寄ったヒユウがケルジャナの位置する西南を眺めていると、後ろから声がかけられた。
「懐かしいですな、貴殿がここに来られるのは。実に、三年振りだ」
支部の最高責任者である、顎先と鼻の下に立派な髭をたくわえた恰幅の良い老年の男――マートレックは懐かしさの色に染めた穏やかな表情でヒユウを見た。まるで、己の息子の成長を喜ぶ父のようでもあった。
「マートレック将軍、久方振りだ。三年前は迷惑をかけたというのに、不義理であったこの身を詫びねばならぬ」
ヒユウが頭を下げると、マートレックは朗らかに笑った。人好きのする笑顔、目尻に刻まれた深い皺が、彼がよく楽しげに笑う好人物なのだと知らしめる。
「はは、そのようなこと、気にする必要はない。わしも、貴殿の父君には生前、大変世話になったのだからな。それに、三年前から今まで、多くのことがあったのだ……致し方あるまい」
「……」
マートレックは笑顔を収め、凪のような静かな表情をその面に貼り付けた。黙したヒユウの隣まで寄り、同様に窓の外を眺めた。既に太陽は落ち、代わりに煌々とした月が星々を従えている。
「失礼なことをお聞きするが、噂の通り、貴殿の龍は……」
「身の奥に封印されている。いくら呼んでも応えぬ」
事も無げに告げるヒユウに、マートレックの方が衝撃を受けた。
「……真にお労しい。三年前の貴殿の龍の召喚はまさに帝国の勝利を知らせる暁鶏であった。幸運にも、わしは貴殿の龍の召喚をこの目で見ることが出来た。あれは最早、奇跡に違いない。一生、忘れぬことなど出来ないほどの、光景であったというのに……。
三年前の魔物の大群との戦い……軍はこの最後の砦であるウッドシティルまでその侵入を許してしまった。当時は商用都市であったここは脆く、貴殿の龍がなければ、帝都まで魔物の牙で荒らされてしまっただろう」
静寂の降りた部屋で昔話をするマートレックの横顔を見ると、彼の目には癒えていない傷が浮かんでいる。彼は、今でもまるで昨日のことのように思い出しては、悔やんでいるのだろう。
「しかし、その召喚によって貴殿は深手を負い、瀕死の重体となった。身体の傷は時があれば癒える……しかし……」
言い淀んだが、マートレックは押し黙るヒユウを真正面から見据えながら、続けた。
「当時のことは、わしを含め数人しか真相は知らん。貴殿が龍の召喚に成功した本当の理由も、それによって支払った代償……否、今も支払い続けている代償も」
老年の男の言葉に、ヒユウの脳裏に咄嗟に浮かんだのは、少女の悲鳴と涙だった。刹那に過ぎったその光景に、無意識に眉を顰めさせた。それをマートレックは沈痛そうな面持ちでもって、見返す。
「此度の一連の出来事……貴殿が黄昏人に操られ軍部を裏切り、龍も将軍の座も失ったことは当然この地まで届いている。やはり……やはり、その原因はあの少女か。貴殿を龍の騎士として目覚めさせてしまったか弱き少女か」
「……」
「心配せずとも人払いはしておる。それともやはり、わしには、答えられぬか……。……貴殿は全てを自分一人で抱え込んでいるように見える。誰でもいい、その心の内を晒せる相手を見つけるがいい」
近く去り行く老兵の余計なお節介じゃ、と悪戯っぽく言う姿に、はあ、とヒユウを溜息を吐いた。
「……マートレック将軍。父を早くに亡くした私に貴殿は実の父のように接してくれた。三年前の戦いの時も、私の身を案じて、自ら志願したのであろう……そればかりに私の事情に巻き込んでしまい、いらぬ心配事を抱え込ませてしまったようだな」
「何を言う。子供に心配をかけられるのは親にとっては何より至福なことでもあるのだ。気にせずに頼るがいい」
がはは、と大仰な笑い声をたてる姿に、ヒユウはやれやれ仕方ない、といったように肩を竦め――ただ、彼の表情は、通常時のどこか氷のような冷たい印象からは程遠いものだった。
「……いや、此度のこと、どのみち避けられぬことだった。致し方ないことだ」
気を取り直して静かに言うヒユウに、マートレックは目を見開いた。
「まさか、諦めてしまうのか? 貴殿ともあろう男が。少女を救う手立てはないのか? あれほど大切にしていたというのに……貴殿のあのような穏やかな姿は、もう見られんのか」
「……事態は、私の予想以上に大きく、早く進んでいる。最早、この戦いは避けられん。全ての決着をつける為にも、あの選択は必要なものだったのだ」
「なんと……。……そうか……」
マートレックは悼むような表情でヒユウを見たが、その蒼の双眸の奥にある彼の固い意志を感じ取り、最早、自分に出来ることは何もないと悟った。
「……ところで、出発は明朝であったか。もう休まれた方が良いだろう。短い時間であったが、貴殿とこうして昔のように話せたこと、嬉しく感じておる」
「ああ、私もだ。今度会うときは……そうだな、ゆるりと杯でも交わしたいものだ」
「ふむ、そうだな。そのときは帝国の勝利の祝杯であると信じておるぞ」
杯を片手に持つ素振りで、マートレックは不敵な笑みを浮かべながら、ヒユウに別れの挨拶を述べた。その仕草にヒユウも一瞬表情をふっと緩めたが、扉の取っ手に手をかけた途端、すぐに元の怜悧な無表情へと戻した。
そのまま扉を押して部屋から出る間際に、ふと思いついたようにヒユウは言葉を放つ。しかし、それは重厚な扉の開く音に紛れ、マートレックの耳に届くことはなかった。
「……最後に一つだけ、訂正させて頂く。私は、最初から龍の騎士であった……フィリアと出会う前から」
一方、ケイトとクラーヴァは飛獣ケツジーの管理されている部屋へと来ていた。一匹ずつ仕切りがしかれ、藁葺きの上で大人しく横たわっている。
「へぇ……まだ軍部では研究段階だと思ったけれど」
「言っておくが民間のは、無茶な改良しやがって、寿命が短い奴らばっかりだぜ。元々はこれぐらいのでかさなのに、普段は幼体に変化させて、見つからんようにしてるんだ」
「あ、そうなの?」
そう言いながら、ケイトは飛獣ケツジーの背を擦った。穏やかな性質の彼らは気持ち良さそうにされるがままになっている。掌に感じる柔らかな毛が心地よく、ケイトは朗らかに笑った。飛獣に気を取られているケイトと違って、クラーヴァはすぐに彼らから興味を無くし、すぐ傍にある窓から外を覗く。
「……ここも、三年の間に大きく様変わりしたな」
「ええ、そうね。三年前、ケルジャナとの戦いで魔物はここまで押し寄せてきたんだもの。当時は商用都市だったし、今のような要塞とは程遠かったもの。大打撃だったわ……多くの人が死んだし……よく、ここまで復興したと思うわ」
「そうだな……、三年前は俺は遠方へ出征してたから、よく知らないんだが、総指揮がゼノンで一軍の将がヒユウだっけか」
おぼろげといったかんじで記憶を取り出しているクラーヴァを見てケイトは呆気に取られた。そして、まるで出来の悪い生徒を前にして、教鞭を振るう教師のような口調で続きを教えてやった。
「そうよ……んもう、それくらいしっかりと覚えてなさいよ。ちなみに、そのときヒユウが龍の召喚に成功して、魔物の大群を薙ぎ払って、そんで黒印魔法騎士団の将軍に抜擢されたのよ」
「あー、そうだっけか」
「あ、そういえばこんな噂知ってる?」
クラーヴァが怪訝そうに「あ?」と聞き返す。噂などに疎い彼が知っているわけがないか、とケイトは律儀に聞いた自分を後悔した。
「あのあとね、龍の召喚の反動か、ヒユウが一週間以上重体で寝込んでいたらしいのは知ってるでしょ。その間、軍用の医療施設からヒユウの姿が忽然と消えたらしいの」
「何だ、療養生活に嫌気がさして脱走でもしたのか?」
ちなみにクラーヴァは医療施設が嫌いで、無理やり押し込めても三日と立たずに脱走するのだ。どんな大怪我でも、必ずらしい。今では治療班も彼を医療施設に運ぶことは諦めていると聞いたことがあったケイトは思わず半目で睨みながら、「……あんたと一緒にしないでちょうだい」と呟き、すぐに気を取り直して続ける。
「……ちょうど、その頃に、軍部の研究施設の一つが大破するという事故があったのよ。そこの責任者が、ノエル殿の双子の兄上だっていう話。その施設にいたほぼ全員が死んでるから、事故の経緯は詳しくはわからないらしいけど……でも、最高責任者であるゼノン様は当然その理由を知ってるはずなのよね。事故なのか、それとも何者かによる襲撃か。でも、ゼノン様はその事件に関して、一切喋らないらしいわ……そしてノエル殿は何故か、ヒユウを異様に敵視している」
「……その施設をぶっ壊したのが、ヒユウってわけか? 重体で絶対安静中の身で、わざわざ、何の為にだよ?」
「さあ……、そこまでは私にもわかんないわよ。ただ、その件の始末が、ゼノン様らしくなくうやむやに隠されてしまってるんだもの。ヒユウが関係してるんじゃないかって、私は思うのよね」
「ふーん……そういや、今思い出したが。お前が近頃、軍部の書庫に入り浸っているという噂なら、俺も部下から聞いたことがあったぞ」
「あら……珍しく聡いじゃない」
ぺろりと舌を出すケイトをじろりとクラーヴァは睨んだ。明らかに気分を害したように、目を細めてケイトを射抜く。
「お前……ヒユウの周辺を探ってんのか? 疑うことでも出来たのかよ?」
「……クラーヴァったら、あんた自分がヒユウの監視役だってこと、忘れてない? どうして、私がヒユウのことを調べてたら、そんな怒るのよ」
「うっ……」
図星だったようで、クラーヴァはばつの悪さから目をふいと逸らして、不満そうに眉間に皺を寄せていた。そんな彼の横顔を、ケイトはどこか嬉しそうな笑顔で見守る。
「何だかんだ言っても、あんたはヒユウのこと信じてるのねー」
「な……っんだと!」
「あらやだ、照れなくてもいいじゃない。私だって、ヒユウのこと、完全に裏切ったなんて思ってないわよ。というか私の場合はそう信じたいってところだけれど。まあ、でも色々とね、気になることが出来ちゃってね……ふう。それもこれも、あんたの発言が発端だっていうのに」
肝心の本人は、すっかり忘れ去っちゃって……、とケイトは零す。
「は?」
クラーヴァは不可解な表情で、ケイトを見返した。彼女の言っている意味が全くわからないようだ。ケイトは心の中で盛大に溜息を吐いた。
そもそも、彼の発言――将軍の地位を失い、牢から出たヒユウに一方的に喧嘩を売り、そしてクラーヴァは龍を喪った彼に負けた――そのときの、「龍を封じられているなんて、嘘っぱちだろう?」という一連の発言。それが、ケイトの頭にひっかかっていた。確かに、英雄の証である龍の力を失った割には、ヒユウの態度は冷静すぎる。そして、改めて、ケイトは彼のことをあまり知らないという事実に突き当たり、軍部の書庫の奥に保管されている履歴書などを特別に見せてもらったりしていた。まあ、でも所詮、ケイトでも見れるレベルの文書内容だ。あまり、成果はなかったりするが。
「もういいわ、忘れて。明日も早いから、もう寝ましょ」
いまだ、不可解な表情を残すクラーヴァを部屋から追い出し、それぞれの寝室へと足を向けたのだった。




