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大通りを真っ直ぐ進むと大きく開けた楕円形の広場があり、大神殿の入り口に続く階段へと繋がっている。手前にある泉の噴水からは豊かな水が流れ出ていた。レテ河からひかれているらしいその水は神聖なものとされ、信者はここに訪れては恵みを祈るという。
蜜に群がる蟻のように広場は人で溢れていた。恐縮しながらフィリアはその中を掻き分けて階段を登った。最後の一段になって、ふと見上げると巨大な八本の石柱が少女を呑み込むように立っている。柱頭には幾何学模様と龍を模した飾りがあって、瞳に嵌められた琥珀の宝玉が帝都を見守るように神秘的な輝きを宿していた。
―― エルカイル教は、この世界の守護神である『龍族』を信仰対象としているのだ。そのせいか他にも龍を象ったレリーフやら石像が神殿の内外に関わらず、あちこちに見られた。
大陸最高の建築技術の粋を集めたその大神殿は、およそ三万を超える人々を一度に招き入れることが出来るほどの規模らしく。帝都に入るときに通った凱旋門に負けないぐらいの入り口の大きさに、思わずその噂も嘘ではないと納得してしまった。
フィリアは腰周りの何倍もありそうな巨大な石柱が規則正しく並んだ側廊を辿る。その厳粛な雰囲気に圧倒されながらもなんとか神殿の人間にハデス司祭の行方を尋ねてみたのだが。
「……どうだった?」
広場の噴水近くでフィリアの帰りを待っていたメイリンは、だが少女の表情から良くない結果だと悟って重そうに口を開く。
「……昨日、夕方に神殿の方に一度参られて……そしてここを出て行ったそうです。その後の行方はわからないと」
しょんぼりと肩を落としたフィリアに、「そう……」と返すしか出来なかった。
「届出は出したの?」
「はい。神殿の方が軍部に手続きをして下さると。あとは連絡をお待ちください、と言われました……」
教会と軍が協力してくれるならば心強かったのだが、それでもただじっと待っているだけなのはとても苦しかった。ああ、これからどうしたらいいのだろう。司祭を残して自分一人だけ街に戻るのは嫌だ。自分にとっては父親代わり。唯一の家族のようなものなのだ。ここに残って捜索したいと思っていたのだが。
いかんせん、資金も無ければ、帝都の地理など知識も乏しかった。
突っ立ったまま、思い悩むフィリアを気遣わしげに見ていたメイリンは、何かに思い至るとがしっと少女の腕を掴んだ。
「というわけで夜会に出るわよ、フィリア」
「……へ?」
なんで、夜会。何が、というわけでなのか、わからない。
呆気に取られた目でメイリンを見詰める。もう一度言われた言葉を反芻するが、やはり脈絡が全く掴めず混乱した。メイリンは男だけでなく女でも見惚れてしまいそうな艶麗な笑顔を浮かべると、呆然とするフィリアを構うことなく強引に引っ張っていく。
――― すぐ横に聳え立つ白亜の城へと。
「ええっ!? メイリンさんっ、私、いまっ、夜会に行ってる場合では」
ありませんよ、と言う前に。
「気晴らしよ、気晴らし。このまま宿に戻ってもどうせ奈落の底まで掘っちゃう勢いで沈んでいるだけでしょう? 軍人さんが探してくれると言うんだから、あんたはせっかくのお祭りなんだし楽しみなさいな」
「そんな、司祭様が大変な時に私だけ楽しむことなんて出来ません」
ハデス司祭が現在大変な目に遭ってるかもしれない、もしかしたらどこかの犯罪者に拉致られて、縛り付けられて、「命が欲しかったら金出しな」なんてナイフで脅されてるかもしれないのに、自分一人だけのほほんとお城に行けるわけがない。
ああ、それにしてもやっぱりハデス様は誘拐されたのだろうか。迷子になってるなんて、フィリアではないだろうし、やっぱり誘拐の線が濃い。なんらかの事件に巻き込まれてるに違いない。
段々と自分の悪い想像に没頭して青ざめていくフィリアを叱咤するように、メイリンは腰に手を当てて述べた。
「んもう、だからと言って放っておいたら、フィリアは寝るのも食べるのも忘れて落ち込んでしまうでしょう? 自分も探したいと言うなら、止めないわ。ただし、今日はもう日も暮れて危ないから駄目よ。真っ先にフィリアが行方不明になるのは目に見えているんですからね。探すなら、明日探しなさい。出来れば軍人さんに頼んで帝都の案内役を連れてね。……まあ、フィリアは役に立つどころか足を引っ張るだけのような気がするから、本当はじっと待っていた方がいいと思うんだけどね」
「うっ……」
次々と図星を刺され、二の句が告げないフィリアに更に追い討ちをかけるメイリン。ただでさえ人の目を引く彼女の冗舌っぷりに、周りの幾人かが驚いて足を止めた。
「でもまあ、探したいという気持ちはわかるわ。だから私は止めない。忠告するだけに留めておいてあげる。とにかく、今日は私の踊りでも見て心を休めなさい。心配なのはわかるけど、司祭さまが帰ってきたときに、あなたが倒れて寝込んでいたらショックを受けるわよ。ご老体にショックは良くないのよ」
早口で捲し立てられ、わかったわね?と小首を傾げながら強い口調で言い募るメイリンに抗う術など、フィリアが持っている筈もなかった。それに多くの視線から逃れたいという気持ちもあったのだろう。気付いた時には、こくこくと頷いていた。
「あ、メイリン!」
そんなやりとりをしていた時、城の方から若い男女数人がこちらに向かって手を振って声をかけてきた。一目見て楽士だとわかる格好をしていることからメイリンと同じく、芸を生業としているのだろう。
「帝都でも、メイリンの居場所はわかりやすいな」
「どういう意味?」
駆け寄ってきた彼らの一人が呆れたように言ったのを見て、メイリンは口を尖らせる。男は軽く笑って、大神殿の隣に聳え立つ白亜の城を見上げた。
「誉めてるんだよ。そんなことより、そろそろ準備しないと」
「あら、もうそんな時間? ……あ、フィリア。この人たちは私と同じ楽団の人なの。半年ほど前に誘われてね、それから一緒に旅しているのよ」
駆け寄ってきた男にそう返すと、メイリンは振り返ってそう説明した。ずっと一人で踊り子をやってきた彼女だったが、やはり一人よりは集団の方が集客の面でも安全の面でも好都合なのだという。メイリンを介してお互い紹介し合い、一緒に城へ行くことになった。
「やっぱり、すごい人ね……」
感動したのか頬に手を当てたメイリンに、フィリアも首を大きく縦に振って賛同した。
一夜目ということもあって、城の前には多くの人間が押しかけた。そこには皇族や貴族といった、自分達平民にとっては雲の上の如き存在を一目でも見ようという純粋な好奇心、なんとしてでも彼らの妾の座を手に入れて優雅な生活を送りたいという願望、欲望などが入り乱れた熱気で満ちている。
当然のことながら、皇族の安全の為に万全の厳戒態勢が敷かれていた。皇家直属の騎士団も存在するのだが、やはりそれだけでは心許無いということで帝国軍によって対策本部が置かれ警備の指揮に当たっている。入場の際の入念な審査は勿論、一般公開といっても身元がしっかりしていないとさすがに入場の許可は下りないようだった。
あらかじめ楽団として参加登録していた為に入場も比較的容易だったメイリン達は初めて触れる貴族達の華やかな生活の片鱗に、溢れる好奇心と興奮を抑えるのに必死だった。
別の意味で緊張していたフィリアは改めて自分の姿を見ると恥かしさで顔が熱くなってしまう。ふと城内の広い廊下で立ち止って、おずおずと口を開いた。
「メイリンさん……あの、やっぱり私」
「私の踊りを見るまでは却下よ、フィリア」
言い切る前に先手を打たれ、うう、と恨みがましい視線を目の前を歩くメイリンに向けた。そんな少女を見遣って、わざとらしく溜息を吐きながら、
「フィリアってば、女の子なのにどうしてそんなにお洒落に興味がないのかしら。普通ならこんな素敵な夜会でドレス着るのって舞い上がっちゃうくらい楽しいものだと思うのだけれど。現に私なんて今すぐこの場で踊り出しちゃいたいくらい、どきどきしてる」
と、可愛らしくその場でくるりとターンをした。ふわりと水色のドレスと長い黒髪が靡いて緩やかな軌跡を描く。その軽やかな動きに数人の貴族らしき紳士が視線を向けた。決して淑女とは言えぬ振る舞いだが、不思議と人の目に不作法と映ることはなく。それどころか、妖精のような世俗から離れた存在のように捉えられていた。そこがメイリンの最大の魅力だった。
「だって……メイリンさん達はともかくとして、私までこんな格好をする必要は」
「なーに言ってるの。あんなシスターの格好で夜会に出られちゃ、それこそ余計目立って仕方ないじゃない」
「……それはそうですけど」
正論で返され、フィリアは口篭もった。入場条件として正装が必須であった為に無理やりメイリン達に着替えさせられてしまったのだ。ふう、とメイリンに気付かれないようにこっそり息を吐いて、見下ろす。
手触りのいい薄い布でできた桃色のドレス。体のラインを浮き彫りにし、肩を露出したそのデザインは着慣れないフィリアにとっては下着でいるのと変わらないほどの羞恥を覚えた。ドレスの上からレースのついたショールを肩にかけて少しはその羞恥も薄れたのだが、それでも恥かしい。周りを見渡してみれば胸元や背中の広くあいたドレスを着た女性は数多くいたのだが、それは羞恥心を消してくれるという点においてはあまり効力を発しなかった。
それでもメイリンが自分をどうにか気晴らしさせてやろうとしているのがひしひしと伝わってきて、感謝の気持ちでもって何とか羞恥心を押し込めて城内に足を踏み入れたのだが。やはり、自分は場違い、不釣合いにしか思えない。帰りたくて仕方ない。
広い廊下に敷き詰められた深紅の絨毯は柔らかく、高い天井を見上げれば何やら隅までびっしりと繊細な紋様が彫られていて宝石が散りばめられている。豪奢な調度品が並び、行き交う人々も皆きらきら輝いて眩い。まさに別世界、だと驚嘆せずにいられなかった。だが、毅然と歩くメイリンはこの煌びやかな世界にびっくりする程溶け込んでいて。
お姫様だって言われても、ああやっぱりって納得できちゃうなぁ。
暫し見惚れてしまった。改めてメイリンが望むように皇族や貴族の側室、出来れば正妻となって幸せになって欲しい、と思った。その為に今夜は彼女の応援に専念しようと密かに決意したのだった。
正直なところ、何か違うことに意識を向けないと今すぐに逃げ出したい心地だったからなのだが。
長く広い廊下を進むと、大広間に出た。楽士の奏でる穏やかな音楽に混じって、男女の談笑が耳に届く。立食式のパーティーでテーブルの上には宮廷料理だけでなく、各地の名物料理が並んでいた。旬の素材を活かし、食欲を煽るように巧みに盛られたそれは、香しい匂いを漂わせて鼻孔をくすぐる。微かに空腹を感じたフィリアだったが、入場した途端に食事、というのも礼儀に欠けていると思い、というよりメイリンに「色気より食い気なのね」と呆られそうだったのでなんとか堪えることにした。
入った途端、数人に声をかけられたがメイリンはそれを全て笑顔で受け流した。その手慣れた様子を見てさすがだと感心していると、給仕係からグラスを受け取ったメイリンがオレンジ色の液体が入った方を差し出してくる。それを一口飲むと、甘い柑橘の味が口内に広がった。メイリンの赤い液体はなんなのだろう、と見詰めていると、
「お子様にお酒は早いわよ」
諭すように言われてしまった。
「……私と一個しか違わないのに」
子供扱いされてフィリアは頬を膨らませたが、その仕草が余計子供っぽくさせていることに気付いていないのだろう。メイリンは微笑んで、視線をフィリアから大広間に移した。
「見て、フィリア。あの白と青の制服を着て立っている人はきっと皇家直属の騎士団だわ」
少し弾んだ口調で、フィリアの肩を軽く叩いた。
騎士は帝国の中でも確固たる地位を持ち、幼い頃から騎士を志し木刀を握る少年は多く、憧れる婦女子も多い。子供に聞かせる寝物語の中にも騎士が主役の英雄譚は数多くあって、騎士という存在に夢見がちになってしまうのもそういう背景があるからだろう。
「やっぱり騎士様は格好良いわね……でも私としてはやっぱり帝国軍の騎士様の方が好みだけれど」
確かに、フィリアにも騎士というものに漠然とした憧れの気持ちはあった。直接目にするのはこれが初めてだが、素直にメイリンの視線を追う。しかし、メイリンの発言につい小首を傾げてしまった。彼女の言う彼と帝国軍の騎士がどう違うのかわからず、いや、そもそも帝国軍以外に騎士がいるのかなんて知らなかったのだ。
そんな疑問の視線に気付いたメイリンは流暢に説明しだした。
「この国には騎士は二つの種類があるの。一つは皇家直属の騎士団で、もう一つは帝国軍に所属する騎士団。皇家直属の騎士団は……近衛騎士団といった方がわかりやすいかしら。皇族を守るのがお仕事だから、基本的に城内に配置。でもって全員貴族ですからね、玉の輿を狙うにはうってつけだけれど、やっぱりお飾り的な印象が拭えないわね。帝国軍の方が能力も人気も高いし、立場的にも上なの。実際に戦争になったら彼らが前線に立って戦うからね、各地の紛争も彼らが赴いて解決しているわけだし。
それに縁故が重要な貴族だらけの近衛騎士団と違って、帝国軍部は完全な実力至上主義だから、平民でも入ることも可能だし才能があるなら成り上がることだって出来るわ。普段から徹底しているというか……身体だけじゃなく精神が脆弱じゃとてもやってられないのよ。だからやっぱり自然と実力に差がついちゃうのよね。……あ、成り上がるといっても、さすがに要職は貴族で占められているけれどね」
それでもそう考えると、同じ貴族でも帝国軍の騎士団の人間の方が好感がもてるのだ、とメイリンは言う。その考えに成程、と納得する間も与えず、急かすようにフィリアの肩を軽くゆすった。
「あ、あの黒の軍服! やっぱり“黒印魔法騎士団”が今回の警備の指揮を担当しているっていう情報は正しかったのね」
「黒印魔法騎士団……?」
黒印、というだけあって全身黒の軍服に身を包めた騎士が壁を背にして立っていた。なんだか他の騎士とは違って、周りの空気が鋭いような気がする。注意深く周りの様子を見張っていて、仕事熱心だと思った。同時に、自分達だけドレスを着て楽しんでいるということに罪悪感を感じてしまう。
「やだ、もしかして知らないの? “聖印騎士団”と並ぶ帝国の二大騎士団の一つよ。帝国軍のトップに立つ騎士様! 超エリートじゃない……ってまあ帝国軍と近衛騎士の違いも知らないんだから、当然か」
こんなにも世情に疎いとは思わなかったわ、とやや呆れがちに呟かれ、フィリアはやや申し訳無さそうに肩を竦めた。フィリアが住んでいた街は余程の田舎だったのだと思い知る。中央の噂など滅多に届かない。またどちらかと言うと年寄りが多かったように思う。だから若い女が黄色い声を上げて噂話に花を咲かせるようなことも、殆どなかった……と思う。実際は、単にフィリアがそういう噂に興味がないというのが大きな要因だったりするのだが。
「すごいですね、メイリンさん」
尊敬にも似た思いを込めて呟くと、「常識なのよ」とまた溜息を吐かれてしまった。
「ああ、でもやっぱり噂の黒騎士様はいないのねぇ」
「黒騎士様?」
黒い騎士なら、この広間にも何人かいるではないか。そんなフィリアの思惑を悟ったメイリンは、ちょっと遠い目をした。でもすぐに気を取り直して、どこか楽しげに説明する。彼女がいい男好きなのは知っていたが、ミーハー体質だとは知らなかった。というより、いつもの彼女が姉御肌で大人っぽいから意外に思うだけで、これが歳相応のはしゃぎっぷりなのだろう。
「あのねぇ、黒騎士様ってのはね、あだ名なの、あだ名。本名はね、ヒユウ・イル・リューシア様で、黒印魔法騎士団を率いる将軍なの。帝都からすぐ近くのフェニキア地方を治めている公爵様でね。一、二番を争う評判かしら。地位も名誉もあって見目麗しい、そして二十三歳で独身、とくれば、そりゃ嫌でも注目されちゃうわ。あ、でも婚約者はいたかもしれないけど……」
「へぇ」
「聖印騎士団将軍のクラーヴァ・ヴィダ・ハンソン様も硬派らしくいまだに独身で、人気が高いわね。ハンソン家は帝都でも指折りの名門貴族だし。でも二十八歳だからなぁ……ちょっと、フィリアとは歳が離れてるかな、十歳差だもんねぇ」
「へぇ……って、え?」
何故、そこで自分が出てくるのだろう、と一瞬固まったが、そんなフィリアを気に留めることなく次々と大広間の人間を物色しだした。
「あの人なんてどうかしら? ね、結構格好良いじゃない?」
「……メイリンさんは騎士様と結婚したいんですか?」
どうもさっきから騎士ばかりに目をやっている。この夜会で皇族の側室の座を狙っていると聞いたのだが、と思って訊いてみたのだが、意外な答えが返ってきた。
「何言ってるの、私じゃなくてフィリア、あなたよ」
「……え、ええっ!?」
驚きで声を上げると、すぐにし、と口元で人差し指を立てられた。周り数人の怪訝そうな視線に気付いて、フィリアは慌てて「ごめんなさい」と謝る。
「ど、どうしていつのまにか私の相手選びになっているのですか!?」
小声のまま、メイリンを問い詰めた。
「え? フィリアはやっぱり騎士様より皇子様の方がいいかしら? 私はフィリアは騎士様と合いそうだなぁ、と思うの。なんとなく雰囲気が」
「いえ、そういう意味ではなくて」
「いいじゃない。せっかくなんだから、フィリアも結婚相手選べばいいのよ。このまま一生シスターのまま教会の中で老人や子供を相手にして終えるつもり? そんなの女が廃るじゃない、勿体無いわ! あ、ほら、あそこの騎士様もなかなか渋いかも……でもフィリアと並ぶと少しロリコンくさく見えちゃうのが難点ね……」
大体、フィリアが少し幼く見えてしまうのも問題なのよ、とぶつぶつ呟きながら、また何やら失礼な物言いで品定めを続ける。暫しぽかんとしてしまったフィリアだが、慌てて窘めようとした。
「な、何を言ってるんですか、メイリンさん! そんな、選ぶとかそんな大それたこと出来るわけありません、そんな立場ではありません。そもそもそんな物言いでは騎士様達に失礼です」
何故いつのまにこんな話になっているのだろうとフィリアは軽く頭痛を覚えた。毎日の暮らしに精一杯で結婚なんて考えたこともない。自分のようなどこにでもいる凡庸な小娘を、しかも出自不明の孤児で記憶喪失という厄介な事情を抱えた自分を貰ってくれるような酔狂な人間がいるなんて想像もつかない。だというのに。相手が騎士だなんて畏れ多い、分不相応、無礼にも程がある。
必死に言い尽くすフィリアに、メイリンはけちー、と子供のように口を尖らせた。
「メイリン!!」
ぱたぱた、と忙しない足音を立てて、メイリンと同じ楽団の人間がやってきた。その慌てた様子にメイリンも目を見開いて、
「どうしたの、そんなに慌てて」
と小首を傾げた。そして話をしだす。彼女には悪いが、フィリアは話の矛先が逸れてほっと胸を撫で下ろした。辺りを見回してテーブルの上にあった水の入ったグラスに手を延ばす。さっきのやりとりですっかり喉が渇いてしまったのだ。舌先を濡らすと、先程までのまごついた心が急速に落ち着きを取り戻していくのを感じた。
「え、なんですって!? 声が出なくなった?」
「そうなんだ。練習のしすぎなのか喉を痛めてしまって……。歌い手は彼女しかいないというのに、困った……」
「こんな直前にだなんて……」
「どうしようか。歌がないと少しやりにくい部分もあるから、曲を変える?」
やや深刻な面持ちで会話する二人から少し離れてフィリアは手持ち無沙汰で立っていた。どうやら、ハプニングが起きてしまったらしい。心配そうに見詰めていると、俯いて考え込んでいたメイリンが顔を上げて、目が合った。そのまま、暫しじっと凝視され。こちらに近付いてくるとおもむろに肩に手を置かれてしまった。
なんだか嫌な予感がした。