1
「う~~ん、う~~~んん……」
「……あ、あのー……」
見られている。
というか、思いっきり頭の先からつま先まで舐め回すかのようにじろじろと観察され、しかもそれが眉間に皺を寄せての不審者を見るような態度なものだから、さすがのフィリアも文句の一つも言いたくなる状況であった。
鬱蒼とした深い森の中。
謎の少女に剣を突きつけられ、肝が冷える思いをさせられたのも束の間、今度はもう一人の男が、無遠慮に凝視してくるこの状態。一体、彼らが何者であるかをフィリアが問おうとしたところ、
「お嬢ちゃん」
「は、はい」
不可解な行動を見せていた青髪の男が不意に真面目な顔つきになる。別にやましいことなどない筈なのに、フィリアの鼓動は高鳴った。
「お嬢ちゃんは、お嬢ちゃんだよな?」
「……はい?」
意味不明な質問。
首をひねるしか出来ずにいたフィリアの代わりに、赤髪の三つ編みを揺らした少女――アレシアというらしい――が先ほどから奇妙な行動をしている連れに苛立ったように声をかけた。
「シェルン、さっきから何なんだ」
「いやぁ、なんていうか、想像と違ったというか……純血の黄昏人だろ? 俺ぁもっとこう……いかにもな人物を予想していたもんだからさ。たとえば……」
「たとえば?」
「そりゃぁお前、純血でもない奴らでさえ、あれなんだぜ? てっきり、純血の黄昏人っつーとものすげー力持ってるわけだから触れれば怪我しちまいそうな全身凶器みたいな、しかも性格はというと何を考えてるかわからねーような無口無表情無愛想な無い無い尽くしの薄気味わりー奴かと思ってたさ」
シェルンと呼ばれた男は今にも口笛を吹きそうな軽快な身振りで、今まで黙って彼らの会話を聞いていたフィリアの真正面までやってきた。後頭部の高い位置で一つに括られた青い髪が弧の軌跡を描く。男は僅かに身を屈ませて、目線の高さを少女に合わせると、にっこりと笑った。
「まあこんなお嬢ちゃんなら大歓迎だね。なんともまあ、からかい甲斐がありそうじゃないか」
「えっ!?」
ぽんぽんと頭の上に手を乗せられ、フィリアは目をむいて彼を見た。シェルンは少女の反応ににやりと口角を上げて返す。初対面だというのに何やらとても馴れ馴れしい態度。今の、この緊迫した背景にそぐわない男の態度にフィリアはどう対応していいのかわからなかった。その傍らで、三つ編みの少女が溜息を吐くのが視界に入る。やれやれといった様子の彼女は、鞘にしまった剣を肩の上に乗せて歩き出した。
「……また出たか、お前の悪癖が。少なくとも、この森を脱出するまでは控えることだな。無駄に痛い思いをしたくなければ」
「はぁいはい、ご忠告どうも。でも、俺がその辺の雑魚兵士に油断してやられるわけないけどな」
そう言って、彼はフィリアに歩くよう促し、自分は最後尾へとついた。そうして、いまだ陰鬱な空気を宿らせた森の中を三人は歩く。長い草に覆われた、道なき道。先頭であるアレシアは歩きながら、その長い草を踏み分け、後ろにいるフィリアの為に道を作ってくれているようだ。
「……何も、敵兵とは言ってない」
こちらに背を向けて歩きながら、アレシアは先ほどの会話の続きを、淡々と言う。
「はぁ?」
「わざわざ敵兵に斬らせるまでもない。その前に私が腐った性根ごと叩き斬ってやるから、安心しろ」
「ははっ、いつもながら、手厳しいねぇ」
あくまで軽く受け流すシェルンだったが、僅かに顔色が悪いのは気のせいではないだろう。
頭上で飛び交う喧嘩漫才のような会話を聞きながら、フィリアは先ほどまで全身を覆っていた混乱と緊張の糸が徐々に緩和されていくのを感じていた。
―― 大丈夫。この人達は少なくとも、敵ではない。まだ断言できないけれど、仮に味方でなくとも、今すぐに自分を殺したり危害を加えようとするつもりはないらしい、その点だけは確信できた。彼らから殺意とか敵意とか、そういった負の感情が自分に対して向けられてないからだ。昨夜から、憎悪の篭った殺意の台風に巻き込まれた状態で、すっかりそういった念というか気配に敏感になってしまったフィリアであった。ただ、このまま彼らについて行ってどうなるのか、これから自分はどうすべきなのかは全くといっていいほど、見えてこないが。それでも、混乱している時間などもうないことだけはわかる。
今、一番気懸かりなことといえば、やはりヒユウとツヴェルフの安否。それを確かめる為にも、とにかく、自分の置かれた立場を知らなければ何も始まらないのだった。目の前の二人組なら、色々と事情を知っているに違いないだろう――訊ねて教えてくれるかどうかはまた別問題として。
フィリアは唾を飲んで、前方にいる少女に向かって声をかけた。
「あの、あなた達は一体何者ですか。私をどうするつもりなのですか」
「……お前を、迎えに来た」
一拍の間を置いて返ってきたのは無愛想な答え。
迎え。やはり、ツヴェルフの言っていた『迎え』とは彼らのことなのだろう。とりあえず、ヒユウ達の行為が無駄にならなくてフィリアは安堵した。
「あそこにはお前の居場所などないのだろう?」
当然、といったように話し、押し黙るフィリアを見遣りながらアレシアは続けた。
「私達が何者なのかはまずはこの森から脱出し、そしてケルジャナ砂漠へ入ってからだな。そうすれば、口で説明するよりよくわかる」
途端、フィリアは目を大きく見開かせた。
「え……砂漠って、あ、あのケルジャナ砂漠へ向かっているのですか!?」
西南端に広がるケルジャナ砂漠――それはこの広大な大陸において、この世界最大の軍事力を有するロウティエ帝国の支配すらも行き届かない唯一の領域。
何故ならば、そこは夥しい魔物の巣だからである。砂で馬の足を取られ、ヒットアウェイを基本とした騎士団にとっては特に不利な戦場であった。その為、黒印魔法騎士団を擁する帝国軍ですら二の足を踏む状態であり、そのような場所であるから当然人が住み着く筈もなく、荒れ果ててしまい、結局、国益にもならぬからと打ち捨てられた土地であった。
ゆえに『主なき地』とも人々から呼ばれている。
この森から早く脱出せねばとは思っていたが、まさか森を出てからの目的地がそこだとは。世情から遠いフィリアでも知っているその情報を彼らが知らぬ筈はない。この地名は、人々にとって恐れしか抱かぬ、忌むべき土地なのである。けれどすぐ前を歩く、真っ赤な三つ編みを揺らした少女は「そうだ」と素っ気無く答えるだけで終わらせてしまった。振り返りもせず、至って無愛想に答えるアレシア。
その名前と印象に残る強い双眸のおかげで、フィリアはつい先程、彼女と以前に出会ったことがあるとやっと思い出せた。
それはフィリアが城の女官として働いていた頃、ネイミーと街にお遣いに行ったときのことだ。二人で街を歩いていて、そうすると大神殿の方から悲鳴が聞こえてきて自分達は野次馬のように見に行ったのだ。そのときに自分は彼女と出会った。ぶつかった、という方が正しいだろうけれど。あまり、顔を覚えるのは得意でない方だけれど、不思議と彼女は強く記憶に残っていた。
きっと、彼女の方は覚えていないんだろうなぁ、と思う。あのときのことを、……彼女が何をしていたのかを聞きたい気持ちもあるけれど、いささかそれを問うには現在の状況は緊迫しすぎていた。
「とりあえず、この森を脱出しなくっちゃなー。帝国軍よりも、この森の方が恐ろしい、これ以上の長居は無用だぜ」
「わかっている……しかし、“案内”が無ければ、この死者の森ではな」
最後尾のシェルンが先頭のアレシアに明るく話しかければ、返ってきたのは、僅かながらも戸惑いの含まれた声色だった。それに驚いたのか、シェルンの方にも少しの焦りが見える。
「お、おいおい、肝心の“案内”はどーしたよ?」
「……まだ、見えない」
「まじかよ!? あんのクソガキ……!」
仏頂面のアレシアに、うあー、と変な声を上げながら髪を掻き毟るシェルン。自分を挟んでの会話を耳に入れながらも、フィリアには彼らの焦りの原因がいまいち掴めなかった。
「帝国軍より……この森の方が恐ろしいのですか?」
確かにこの森はとてつもなく不気味だ。まるで正体不明の生き物の臓腑の中にいるような、そんな心地を感じる。けれどもそれは、帝都から命からがら逃れ、今まさに追っ手にかけられているフィリアの心が、この森の闇を異常に恐ろしく感じさせているだけだと思ったのだ。だから、帝国の追っ手がいつ現れるのだろう、と密かにびくついていたフィリアにとってシェルン達の会話は不可解だった。
確かにこの森は深くて怖い。けれど、それほど厄介な場所には思えない。
そう思って、訊いてみた。でも、それは間違いらしい。後ろで溜息を吐いていたシェルンが、不思議そうな顔でフィリアを見た。
「あれ、お嬢ちゃん、知らないのかい。この森はな、ああ、その前に、この森を流れるレテ河……五百年前の戦争で人の骸の山となって、滅びの河と呼ばれるようになったろ。そうして、この森は出来た。人々の死を覆い隠すかのようにな。そのせいか知らないが、この森に入った者はたちまちに方向感覚を失い、迷ってしまう。そのまま朽ち果てる者が多い、死者の森なんだよ」
「え……」
死者の森。
不吉な呼び名に、フィリアは固まった。
「へぇ、その様子だと、知らないみたいだな」
面白そうににやついたシェルンは、訊いてもいないこの森、レテ河にまつわる話をしだしてくれた。
「この帝国が出来る前に、この大陸に小国が乱立し、戦の絶えない時代があったのは知ってるだろう? 誰もがこの大陸を統一できずに争い続け、戦乱は永遠に続くかと思われた。大地は荒れ果て、人々は餓え苦しみ、略奪と殺戮に怯える毎日。パンの欠片一つで、民衆の間に醜い諍いが起きる。絶望と猜疑心だけが育まれ、食糧も尽きて、仕方なく子を殺し、飢えを凌ぐ親も多い。そんな混沌の中で、ある噂が流れた。このレテ河がな、生き返りの河だという」
「生き返り?」
「そう。この河を流れる水には不思議な力とやらがあって、これを飲んだ者にはたちまちに、元気になり、以前にも増して強くなる……それを聞いた民衆、軍人らがこの河に殺到した。この河の水を奪う為に、独り占めする為に、殺し合いまで起こった」
それは想像するだけでも凄惨な光景で、フィリアは思わず眉をひそめた。
「けれども……まあ、そんな都合の良いものなんて、最初からなかった。それどころか、その河の水には猛毒が含まれていた」
「毒……!?」
「……大陸の覇者を求める奴等の一人がな、河に毒を流して、そうして噂を流したんだよ。ただ敵を殺す為に、民衆すら巻き込んで。噂を信じて毒水を飲んだ者達はもんどり打って苦しみ、しかしその苦しみすら力を得る為の試練なのだと信じて、そうして死んでいったのさ」
「……酷い……」
「そうさ、酷い。そして馬鹿だ、人間は」
その話を聞いてから、フィリアは再び森を見渡した。そうすると、恐ろしさよりも、侘しい、悲しいという気持ちを呼び起こされる。時折響く葉擦れの音が、河のせせらぎが、人の啼き声に聞こえてしまう。
「それでな、今もこの森には無念を抱いたまま死んでいった奴ら……その亡霊が多く眠っているという話だ。戦装束をつけた白い人影を見た、なんていう話もよく聞く……ほら、あそこにも」
反射的にシェルンの指差した方を見上げると、そこには確かに白いもやが浮かび上がっていた。
「……っ!!」
思わず、フィリアはその場に腰を抜かしてしまった。声にならない悲鳴を上げたまま、その白い影から目を離すことが出来ない。徐々に輪郭を帯びだした白い影、それがフィリアにはなんとなく少年のように見えた。
「……見かけ通り、ビビリなんだな、嬢ちゃん」
見かけ通りは余計だ。
はっきりと愉悦を含んだシェルンの声――くぐもって聞こえたから、きっと口に手を当てて笑いを押さえているのだろう。内心憤りを感じずにはいられなかったが、今のフィリアに反論する余裕などなかった。目の前の白い影は、今度こそはっきりと少年の姿へと変貌し、こちらを見下ろしている。陽炎のようにゆらゆらと輪郭を揺らしながら降りてきて、つま先が地上につく直前で止まった。
『ひどいなぁ……せっかく迷子にならぬようにやって来た僕を、よりにもよって幽霊呼ばわり?』
「!?」
―― 幽霊が、喋った。
ますます、固まってしまったフィリアの傍でアレシアは重い溜息を吐いた。
「あれは幽霊ではない、仲間だ」
「……え?」
幽霊じゃない? 仲間?
ということは生きているのだろうか。でも、とてもじゃないが、目の前の少年が生身には見えない。それに少年の声も通常とは違い、直接脳内に響くように感じられて。じっと見詰めていると、白い少年はにこりと笑った。
一方、アレシアはゆらりと背後に不穏な空気を背負いながら、振り返る。
「……シェルン、これ以上ふざけると」
「わーったって、悪い悪い!」
かちゃり、と剣柄に手をかけたアレシアに、シェルンは慌てて謝った。
『まったく、相変わらずだね……敵兵に見つかっても知らないよ』
「こんな奥まで入ってこれる兵などそうそういないだろう。それより」
『わかってるよ。じゃあ、敵兵の待ち伏せしていないところまで、案内したげるよ』
アレシアが「頼む」と短く応じると、白い少年はゆらゆらと地面すれすれのところでつま先を浮かせながら、森の奥深くへと進んでいった。尻餅をついたままのフィリアを起こす為か、シェルンが手を差し出してきたがその手は無情にも、横から素早い動作で伸びてきたアレシアの手刀によって叩き落されてしまった。
「いってぇ! ……あにすんだよ、アレシア!」
「やかましい。お前はもう余計なことをするな、先に行け」
手の甲をもう片方の掌で包みながら情けなく訴えるシェルンを難なく追い払いながら、アレシアはフィリアの腕を掴んでその場に立たせた。
「あ、ありがとうございます」
「歩けるな?」
「はい」と頷くと、アレシアは白い少年のあとを追う。フィリアも慌ててあとをついて行った。
その背を追いながら、ぼんやりと思う。会って間もないながらも、フィリアにとって彼女は淡々と、ぶっきらぼうに物を言う人なんだという認識になってしまった。整った顔つきを僅かに変えることもなく、ばっさりと相手を斬るような物言い。
なんとなくヒユウ様に似ている、とフィリアは思った。そして、その名前を思い浮かべるだけでちりちりと焦げつくような痛みが走る ―― きっと、焦燥、そういった類の痛み。
軍部に対立してまで黄昏人である自分を逃がした罪は重いだろう。ヒユウとツヴェルフの行く末を思うだけで、呼吸が苦しくなってしまうのは罪悪感からか。
それを拭う為にも。何より、本当は今すぐに引き返して彼らの無事を確かめたい。でも、彼らの邪魔をしたくない。それらの欲求を通す為にも。
「……必ず」
―― 助け出さなければ。
白い少年の案内通りに進むと、あっという間に森を抜けることが出来た。
帝国軍の待ち伏せていない場所を選んだようで、周囲に兵士が潜んでいる気配は感じられない――もっとも、フィリアはそういった潜む気配を感じ取れるほどの熟練した戦士ではないので、アレシア達曰く、という言葉を前述の文の前につけなければいけないが。
ちょうど、朝陽が遠い山間から覗こうとしているらしく、果てしない空の向こうは綺麗な薄橙色。その色はとても懐かしく、今のフィリアにとってはとても眩いものに見えた――目に痛いほどに。
振り返れば、今までフィリア達を飲み込んでいた深く、哀しい森。一歩出てしまえば、今まで感じていた恐怖よりも侘しさばかりが胸にこびりついて、なんだか立ち去り難さがフィリアの足を重くした。なんだか、森が啼いているように思えるのだ ―― 寂しい、寂しい、と。ただひたすらに。
「……囚われるなよ、お嬢ちゃん」
はっとして見上げると、シェルンが複雑そうな表情でこちらを見詰めていた。
「この森にいる奴らはな、常に呼んでるのさ。だから、それに引き摺られちゃぁ、駄目だぜ。この森に残る妄執は古いだけに強くて厄介だ。お嬢ちゃんみたいにぼんやりしてると、また森に逆戻りだ」
「シェルンさん……」
そうか。この異様な立ち去り難さは、森に残された古き時代の嘆きが原因だったのか。そう考えると、先ほどまでの足の重さはあまり感じられなくなった。
「さて。前で睨んでいる人が怖いから、さっさと行こうぜ」
「はい、ありがとう、シェルンさん」
前方にいたアレシアと交互に見遣ってからわざとらしく肩を竦めるシェルンに礼を述べて、フィリアは一歩前に踏み出した。




