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黄昏人  作者: はるハル
風中の燭
32/93

8


 天を仰ぐ龍の彫像。

 それは今まで幾度となく見たものだった。龍とはこの大地の偉大なる守護者。一瞬で天の頂上、深泉の底に到達し得、雨を自在に操り大地をも震わす力をもつと云われる、超上の存在。

 国教であるエルカイル教の中枢である、ここ大神殿だけでなく、各地の教会にも同じ神像がある。遥か、遠い天を仰ぐ龍の彫像が。

 メイリンが初めてその彫像を見たのも、あてのない旅をしている途中に立ち寄った街でのことだったと記憶している。どんな街だったのか、どんな用事で寄ったのかはもうおぼろげだが、なんとなく入った教会でこの彫像を仰いだときの、なんとも言えない感情だけは覚えている。

 旅の踊り子なんて生業をしているものだから、教会や聖職者といった存在とはほぼ縁が無かった。聖職者と自分は、恰好も職業も正反対に位置するような関係だ。敬虔さや処女性を重んじる彼らは、自分のような存在を軽蔑すらしているし、自分達もそんな彼らを疎ましく思っている。

 ただ、メイリンが彼らを疎ましく思うのはそんな理由だけではなかったが。


 とにもかくも、神聖な場所というのは苦手だ。

 何度来ても、そう思う。

 彫像を仰ぎ、救いを求め、祈りを捧げる人間を見るのも、苦手だった。一心に祈る彼らの姿は、まるで狂気に苛まれたように見える。天上の存在に救いを求める姿は、とても滑稽で、無責任で、虚しく思えてしまう。だから、初めて教会に立ち寄ってから数年は、たとえ暇な時間をもてあましたとて、それらの場所に近づくことはなかった。

 けれど、一年前。

 のどかな、赤レンガの街で、自分は何度も教会に立ち寄ることとなってしまった。流行から捨て置かれたような、田舎。いつもなら、歯牙にも欠けず、商売にもならぬからとそそくさと離れるであろう、小さな街。けれどメイリンがすぐにその街を出なかったのは、一輪の白い野花を見つけたからだ。

 野道を歩く中でふと視線を下げれば、容易く見つけられるであろう存在。どこにでもありそうで、ひっそりと慎ましく咲いているそんな花。単なる風景の一部となるそれに目を惹かれたのは、ただ。ただ、それは踏み潰されもせずに、戯れに手折られもせずに、優しい微笑みに見守られながら、ひっそりと咲いていたから。


「あの子と私……どれだけの違いがあるのかしら」


 メイリンは大聖堂の真ん中で、もう一度、龍の彫像を見上げた。

 白い野花――あの少女と出会ってからは、この彫像を視界にいれる機会も多くなり、以前ほどの近寄りがたさはなくなった。シスターの鏡のような少女は、日々を慎ましく生きていた。朝、祈りから始まって、教会の掃除、洗濯、お遣いに明け暮れ、祈りで終わる。単調な日々に飽くこともなく、彼女は父代わりであるハデス司祭の教えに従順に過ごしていた。

 教会には信者だけでなく、子供達も遊びに来る。身近に遊べる場所で、親にとっても安全な場所というと、教会近辺になるのだろう。といっても、普通の街の教会となると、この帝都の大神殿に及ばないまでもそれと似たような――厳かで張り詰めた空気に包まれて、子供達が気安く遊びに来れるような場所ではない。けれど、この街の教会はその主の性質も大いに関係あるのか、子供達にとって恰好の遊び場所のようだった。

 だから、教会に遊びに来る子供達にせがまれ、僅かに照れながら歌う少女の姿もよく見られた。偶然にその近くにいたメイリンがその歌声に導かれて、そうして二人は出会ったのだった。

 優しく耳朶を打つ音色は、おそらく、子守唄であろう。少女の傍で肘をついて聞いていた子供達はまどろみの中にいる。うとうとと、今にも芝生に額から突っ込んでしまいそうなほど危ない体勢だった。それに気付いた少女は、慌ててその子の頭を支えて、優しく起こしてやった。まだまどろみの淵にいるその子供はまぶたを擦りながら、少女の膝の上に頭をのせて甘えてくる。少女は微笑み、そのまま歌い続けていた。その光景は、まさに人々が描くであろう平和そのものだった。暫し、メイリンはその光景を脳裏に焼き付けるかのように、見詰めていた。歌が止んだのは、少女が突っ立っているメイリンに気付いたからだ。

 聞けば、少女は孤児であるという。

「私と、同じ……」

 同じなのに。境遇は同じである筈なのに、どうして彼女と自分はこれほどまでに違うのか。そういう思いは少なからずあった。けれど、商売にもならぬのにその地に留まったのは、それだけではないと、思う。きっと、そこに安らぎを感じたからであろう。居心地が良くて、つい長居してしまったのだ。

 けれど。やはり。

――やはり、自分は留まるべきではなかった。すぐにでも街を出ればよかった。

 あの歌声を思い返す度に、悔恨の感情が意識を支配する。同時に少女に対して、無性に苛立ちを覚える。少女が自分に与えた安らぎは一瞬だけで、これからの自分の平穏を根こそぎ奪ってしまったからだ。

「出会わなければ……よかった……」

 以前に本人にも伝えた言葉。それは本心だった。少女の傷ついた表情を見て確かに己の胸がちくりと痛むのを自覚していても尚、その言葉だけは嘘偽りない真実だった。

 せっかく、悪夢のような日々から逃れられたと思ったのに。やっと、普通の女の子として生きられると思ったのに。悔しい。悲しい――




「……こんなところにいたんだね。ああ、そんな恰好では風邪を引いてしまうよ」

「で、殿下……!」


 ぎくりとした思いで振り返ると、レヴァインがゆったりとした足取りでこちらに近づいてきた。緩やかに波打つ黄金の髪を胸の前で緩く結び、緋色の衣を纏い、優雅な微笑みを浮かべながら。王者然としたその輝きに、メイリンは畏れすら抱いた。無意識に後ずさる彼女に、レヴァインはその微笑を苦笑に変えて立ち止まる。


「お祈りの時間にしては、遅すぎるのではないかな」

「……ひ、人が多くいる中で、祈るというのは苦手で」

 祈っていたわけではないが、動揺したメイリンは咄嗟にそう返していた。

 メイリンは一般の民衆と比べて、エルカイル教を熱心に崇めているわけでもない。むしろ、その反対だ。嫌っているとまではいかない、避けているといった表現が近いだろうか。聖堂にまで赴いて、祈る姿など誰も見たことがないだろう――事実、彼女は祈ったことなどなかったのだから当たり前といえば当たり前の話だが。そのことをレヴァインも勿論知っているだろう。明らかな嘘をついてしまい、メイリンはバツの悪い思いを抱いた。だが彼がそれを指摘することはなく、ただ静かに頷いて、その視線をメイリンの背後にある龍の彫像に向けた。

「ああ……私も同感だねぇ。祈りは、神との対話だから。私もなるべくなら、一人のときに向かい合う」

 しみじみと語る彼の視線は、真っ直ぐに彫像に注がれている。いつものどこか愉悦を含んだ笑みも、彫像を前にするとたちまちに霧散して、ただ真剣な色だけが彼の深い青の双眸に残されていた。

「……殿下がそれほど信心深いとは、初めて知りました」

 言ってから、メイリンは己の失言にはっと両手で口を抑えた。仮にも、大司教の立場にいる彼に対して、無礼すぎる物言いだ。けれど、目の前のこの男が、神に何かを祈ったり、救いを求めるというのは、なんというか似つかわしくなくて。

 おろおろと謝罪の言葉を口にすると、レヴァインはくすりと優美な愉悦を湛えて、そんなメイリンを優しく見詰めた。まるで幼子を見るかのような暖かい眼差しだった。

「……君にとって信仰とは、心の弱い者が縋るものだと、支えにするために利用しているのだと考えているだろう? 祈りもまた然り」

「そ、そんな……」

  否定しつつも、どきりと鼓動が一際大きく高鳴るのを強く感じた。少なくとも、メイリンは祈りを捧げる人間を、一人で自身を支えることが出来ないからそうするのだと感じていた。でもまさかそこまで見透かされているとは思わず、図星を指されたあげく素直に反応してしまった自分が恥ずかしくて、さっと目を逸らした。

「確かに、そういう部分もあるだろう。けれど、先程も言ったように祈りとは神との対話だ。神の前では全ての者が丸裸になる。神の前で嘘偽りの無い己を浮き彫りにさせて、そうして私たちは真実の自分を見詰めることができるのだよ」

「……真実の、自分」

「そう……。そうするうちに、抱えている様々な疑問、迷いが浮かび上がってくる。日々の取り留めの無い小さな悩みから、果てはこの国の行く末についてまで。どうして争いは起きるのか、どうすれば戦いはなくなるのか。その為に自分はどうするべきか。一体、自分は今何をしたいのか、自分の行動、言動について……そして、自分は何者なのか、何の為に生まれたのか。何の為に生きているのか、何を欲しているのか。迷いは様々だ。永遠に尽きることはない」

「……」

「祈りは、その迷いを答えへと導くための必要な流れだと……これは受け売りなんだけれどね」

 でも今では私もそう思っているよ、とレヴァインは悪戯っぽく笑った。

 ただでさえ人を惹き付けてやまない絶世の美貌をもつ彼が微笑むと、一瞬で思考も何もかも奪われてしまう。感覚全てが彼を追ってしまう。誰かが彼の美貌を毒花と喩えたが、それはぴったりだとメイリンは思っていた。大輪の薔薇、では彼の他人に与える強烈な印象を表現しきれていない。薔薇の棘どころではないのだ、もっと脳を直撃するような、芯から痺れさせるような、まさに毒のような美貌なのだ。

 暫しの沈黙が訪れ、メイリンはこの場を離れたい思いでいっぱいになった。彼は、こんな話をするために訪れたのではないとわかっていた。だから、メイリンはこの沈黙が破られる瞬間に恐怖すら抱きつつ、けれど逃れられもしないので、ただそのときが来るのを待つしかなかったのだ。


「……フィリアは逃れたよ。処刑寸前の、間一髪のところでね。もう君の耳にも届いているだろうけれど」


「……ええ」

 知っている。それはここにいれば、容易く掴まる情報だった。むしろ、知ろうとしなくても、あちらから流れ込んでくるほどの量だった。メイリンがぎくりとしたのは彼がこれから続けるであろう話の内容を想像してだ。

 一体、彼はどこまで知っているのか。メイリンが一番気にしているのがそれだった。


「……君は、気に病んでいるのかい? 友人を、売ってしまったことを」

 レヴァインはじっとメイリンを見詰めた。少女は目を伏せて、押し黙っている。何かに堪えるかのように、片手でもう一方の手をぎゅっと前で握った。それを見下ろしながら、彼は続けた。

「ああ……友人というより、君達は同胞と呼ぶべきなんだよねぇ」

「……っ!?」

「……私が何も知らされていないと思っていたかい。これでも大司教の一人だ。それくらいは知っているんだよねぇ」

 にっこりと無邪気な笑みを浮かべて、愕然とするメイリンをよそにレヴァインは続けた。

「君も彼女と同じ、黄昏人の血を引いている。君は、君の売った彼女の、同胞だ。……けれど君は仕方ない。脅されていたのだろう、軍部に。そう言わねば、君が代わりにあのような目に遭わされていたのだから」

 あっさりと返すレヴァインを目を見開いたまま見詰め、そうしてゆっくりと視線を下げたメイリンは大きな溜息を吐いた。

「やはり、殿下は、知ってらっしゃったのですね……。けれど、まさか黒騎士様がフィリアを助け出すだなんて、そんなことをするとは思いませんでした。帝国を恨み、各地に散らばる黄昏人の血を引く者に対する見せしめの為に、彼女を処刑するのだと……軍部から窺っていました……」

 だから、自分は協力したのだ、とメイリンは心の中で付け足した。

 途中で何度も胸が引き裂かれそうな痛みを伴ったけれど。その痛みに引き摺られて彼女に「逃げて」と零したこともあったけれど。けれど最初から、彼女にも自分にも引き返す道なんてなかったのだ。

「まさか、黒騎士様まで操るだなんて……あれが、黄昏人の力……」

 素直に恐ろしいと思った。純血の、黄昏人の力があれだとすれば、軍部がこれほど躍起になるのも無理はないのかもしれない。たとえ、同じ黄昏人の血を引く自分でも、あのように人一人操ることは不可能だ。それは確信をもっていえる、事実だった。

 しかし、レヴァインが首を横に振って、それを否定した。

「……いいや、それは違うよ、メイリン」

「え?」

「彼は……ヒユウ・イル・リューシアは操られていたわけではない。自らの意思で、少女を危機から救ったのだよ」

「!? ……な、何故、あの方がそのような……!」

「さあて……あの少女を心の底から大切にしているからかもね。……私にはとても信じられないけれど。どちらにしても彼は本当に憎たらしい男でね。何を考えているのかさっぱりわからない。こちらがどれだけ執拗に攻めても、なかなか真意を掴ませないんだ。だから、何を考えて少女を逃がしたのかはわからない……けれど。けれど、あの少女があの男にとって重い存在だということがわかった。それだけで、今は充分なんだよ」

 レヴァインの言葉に思わずメイリンは顔を歪めた。また、言葉では言い表せないような感情が胸をいっぱいにする。それは、ただ苦い。

「……君は、フィリアが嫌いなのかい」

「え……?」

「いつも、美しい笑顔を絶やさない君が、彼女のこととなると複雑な表情を見せるものだから」

「え、あ……」

 思わず、メイリンは自分の顔を確かめるように指先で頬を包んだ。

――そうなのだろうか。

 自分は、本当にあの少女を嫌っているのだろうか。

 何故、という気持ちはある。彼女と自分にどれほどの違いがあるというのか。境遇はなんら変わりはない、筈だ。けれど、どうして彼女と自分の歩んだ道はこれほどまでに違っていたのだろう。そういった、疑問なら昔からあった。同時に苦さも感じていた。少女の笑顔に無性に苛立ちを覚えることもあった。けれどその苛立ちも全てすぐに疑問に変わっていったのだ。確かに以前に彼女に向かって嫌いと言い放ったことはある。シスターの鏡のような振る舞いをする彼女に苛立って、そういうところが嫌いと自分は冷たく突き放したことが。けれどそれは、そう言えば彼女が傷つくとわかっていたから、そうしたのだ。だから今、改めてその部分を純粋に好きか嫌いかと問われれば、どう返すのだろう。自分は、本当に嫌いなのだろうか。

 好きか嫌いかでちゃんとこの感情を量ったことなどなかったので、メイリンは改めてレヴァインに指摘されて、戸惑うしかなかった。

 そうしてると、ふわり、と優しく暖かい空気に包まれ、不思議に思って顔を上げる。すぐ目の前にいつ見ても見飽きない美貌があって、メイリンは目を見開いた。

「……ごめんね、嫌いだなんて一言では済まないのだろうねぇ。君の、彼女に対する感情は……そんな表情をしている」

 レヴァインがメイリンの背に両腕をまわしたあと、すぐに彼は「ああ、すっかり冷えてしまっているねぇ」と労わりの言葉とぬくもりを彼女に分け与えた。そのぬくもりの中に甘い痺れを感じながら、メイリンはそっと瞼を閉じた。


「……フィリアは、今……」


「……おそらく、君の懐かしき場所に」


 己の胸に顔を埋める少女の背を優しく撫でながら、レヴァインは優しく囁いた。












◇  ◇  ◇










「婚約、解消……?」


 サラはただでさえ透き通るような白い肌をしている。正真正銘の、深窓の姫君である彼女は生来、人見知りが激しく、屋敷の外に自ら好んで出かけることもない。ゆえに彼女の肌は触れれば溶けそうな雪のごとき白さだった。そんな雪のような肌を一層青白くさせて、彼女は呆然と、テーブルを挟んで座る父親に向かって呟いた。


 昨晩――眠れぬ夜を過ごしたあと、気だるい身体を重く感じながら、話があるからと数刻前に居間に呼び出された。

 話。大事な話があると。部屋に立ち入ると、既に人払いはされていて、ソファに腰掛けた父しかその部屋にはいなかった。重々しい雰囲気に、サラは良い話題ではないのだろうと幾分肩を落としながら、自らも向かいに腰掛けたのだった。

 良い話題ではない、そう気付いてはいたが、父の口から告げられた内容は彼女にとって、想像以上に衝撃的なものであって。ただ、呆然と鸚鵡返しすることしか、できなかった。

―― ヒユウ・イル・リューシアとの婚約を解消。

 サラの父であるホーザックは叱咤するように、硬く頷いて言い放った。

「当然だ。帝国軍に楯突いたあげく、投獄され。しかも将軍の地位までも剥奪された男に我が娘をやるつもりなどない」

「でも、お父様! 彼は黄昏人に操られていただけですわ……!」

 ひどい。そんな言いようは。

 あまりの冷たく突き放した物言いに、さすがのサラもがたりとその場で立ち上がって反論していた。

 今までサラが、このように父親に向かって反論したことなどない。どんな言いつけにも大人しく、素直に従うような、そんな娘だった。姉と違って内向的で消極的、自己主張の苦手な彼女を心配していたホーザックにとっては、嬉しい成長だったに違いない――このような、状況でなければ、きっと。自分の愛しい娘が、よりにもよってあの男のおかげで己の殻を破ることができたなど、そんな事実をホーザックは認めたくなかった。だから、今の彼の心境はこれ以上ないほどに複雑だった。

「……仮にそうだとしても、彼は帝国軍に歯向かい、そして甚大な被害を与えた。それだけは確かな真実だ。一度しでかした罪は真っ白にはならぬ。不運なことだとは思うが、運命と思って諦めよ」

「そ、そんな……」

 サラは愕然とした。彼女は自分の父親がどれほど頑なな意志の持ち主か知っている。彼がこうと一度決めれば、家族の誰もその決定を覆すことなど出来ないのだ。彼がこの婚約を解消するとなると、絶対にそうなるのだろう。否、既にそうなっているのかもしれない。これは、事後報告に違いない。

――ヒユウ様と、もう、会えない……。

 その思考に達した瞬間、サラは冷たい悪寒が背筋を走った。


「……です、いやです!」

「サラ!?」

「わたくしは嫌です!」

「サラ、待て……!」

 制止の言葉を振り切るかのようにそのまま、ぱたぱたと駆け出して行ってしまった。

 それを始めは呆然と眺めていたホーザックだが、ふっと糸が切れたかのように背凭れに身を沈めて、重い溜息を吐いた。


「あれは……お前の手におえるような男ではない」

 そんな生易しい男ではないのだぞ。

 少女に向けられた言葉。忠告、警告の色を交えたその言葉。しかし、そんな言葉など今の彼女にとっては何の意味も齎さないだろう。恋は盲目とはよくいったものだ。

「……黒騎士め……」

 ホーザックは天井を眺めながら、忌々しげに吐き捨てた。

 




――ひどい。お父様はひどい。

 何もこんなときに。ヒユウ様が大変なときに、そんな簡単に切り捨てるようなことを言うなんて……わたくしに、諦めろと仰るなんて……!――


 初めてその知らせを耳にした時、サラはあまりの衝撃に気を失ってしまったのだ。目を覚ますと、心配そうに顔を覗き込む母と姉の姿があった。そうして、やはり悪い夢ではないと気付いてしまったのだ。

 けれど、信じられない。到底、信じられる筈が無い。

 ヒユウ様が帝国軍に叛いたあげく、投獄されてしまっただなんて――


「お姉さま……! お姉さまぁ……っ!」

 はぁっ、はぁっと息を切らせながら、彼女がこの世界で最も尊敬しているであろう己の姉を呼んだ。淑女の鏡のような女性、そんな姉を憧憬の対象としているおかげもあるし、元々サラという少女は活発から真逆に位置するような性質だ。だから、走ったりしたことなどなかった。彼女は、屋敷の奥で、静かに本を読んだり、刺繍をしたりするのが趣味なのだ。

 そんな彼女が息を切らせながら、足音をぱたぱたと立てて屋敷の中を走るなんて今まで誰も見たことがなく、屋敷の人間は何事が起きたのか目を丸くさせて、固まっていた。行儀見習いの教師も偶然居合わせたが、少女のあまりの切迫した様子に驚くばかりで、諌める言葉など思い浮かびもしなかった。

「まあ、サラ、どうしたの?!」

「お姉さまぁ……っ!!」


 降嫁した姉は、最近の緊迫した情勢のせいもあってか、一時、実家であるこの屋敷に戻っていた。それをサラは幸運に思った。彼女は騒ぎを聞きつけて、慌てて部屋から飛び出してきたようだ。そうして、妹のただならぬ様子に直面して、さらに驚きの色に染まる。

 サラはそのまま、彼女の胸に飛び込んで、行き場のない悲しみをぶつけた。

「サラ……お父様から、聞いたのね。ヒユウ様との……」

 妹の泣き声が落ち着いてから、ユリアーナは躊躇いがちに話しかけた。びくりとサラの肩が揺れ、ユリアーナの言葉を肯定した。

 姉も知っていた。ということは、やはりもう決定事項ということなのだ。おそらく、自分は一番最後に知らされたのだろう。途端に込み上げる悲しみを、サラはぎゅっと下唇を噛み締めることでどうにか堪えることができた。

「お姉さま、わたくし……諦め切れません」

「サラ……」

「ヒユウ様が大変なときに、じっと屋敷の奥でなんてしていられない……彼は操られているだけですわ! 彼に、罪はありません! わたくし、彼をお助けしたいのです……!」

 彼女にしては珍しく、強い口調で、強い声で訴えた。幾筋の涙を頬に伝わせながら、彼女は自らの想いをはっきりと口にしたのだった。

「そう……サラ、貴女本気なのね」

――それほどまでに、彼に惹かれていたのか。

 ユリアーナはじっとサラの双眸を見詰め、彼女の言っていることが嘘でないか確認した。いつもの、人見知りがちな少女ではなく、芯の強さを認めて、ユリアーナは溜息をついた。

「……わかったわ、サラ。貴女が本気だということは。とても大変な道を選んでしまったと思うけれど、途中で挫けたら駄目よ。わたくしも、応援するから」

 ぱっとサラの表情が輝いた。そうして、姉の真摯な言葉に力強く頷いた。













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