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その日、ハデスは帰ってこなかった。
どうしたんだろう、ハデス様……。
容易に約束を破ることなどしない。急遽戻れなくなったとしても、連絡くらいはいれる筈だ。昨夜遅くまで起きて待っていたのだが、いつのまにか睡魔に襲われて気付いたら朝だった。部屋にハデスが戻った形跡は何も無い。一階に降りて宿屋の主人に聞いたのだが、何の連絡も入っていないという。
フィリアは朝食もそこそこに、宿の入り口付近でうろうろしていた。何か良くないことが起きたに違いない。悪い思考ばかりが浮かぶのを何とか堪え、外套を羽織って外に出た。探しに行こうと思った。けれど昨日ハデスに言われた「出るな」という言葉が少女に二の足を踏ませていた。
帝都は途方もなく広い。方向音痴なフィリアが闇雲に探しに出てもすぐに迷ってしまうのが落ちだろう。それに今にも帰ってくるかもしれない、すれ違うと厄介だし……とそんな堂々巡りばかりを繰り返していた。もしかしたらすぐそこまで来てるかもしれない、という微かな期待を胸に大通りを隅から隅まで見張っていたのだが、一向に現れる様子はなかった。
大通りに面した宿屋の扉の前で右往左往していた少女はさぞかし挙動不審に見えたのだろう。聖祭で浮かれる人々の中にも、ちらちらと訝しげに少女を横目で見る者がいる。大抵はそれだけで終わるのだが、少し柄の悪い男がフィリアに目をつけて口の端を上げて。そのまま、近づいてきた。
宿の客だと思って慌てて入り口の辺りから遠ざかったのだが、そうではないことに気付いたのは、男が全身舐めるような視線を浴びせてからだ。
「よお、お嬢ちゃん。可愛いねぇ」
全身に纏わりつくような視線に顔が強張る。呆れたことにこんな朝早くから飲酒していたのだろう。男の耳朶は赤く、つんと鼻孔を刺激するアルコール臭が漂ってきた。このあとの展開が容易に予想できてしまって、フィリアは嫌悪感でいっぱいになる。
「ちょうど俺も退屈しててねぇ。ちょっとでいいから、相手してくれよ」
「あ、あの、すみません。ここで人を待っていますので……」
やっぱり……。
そんなうんざりとした心地を抱きながら、なんとか穏便に済ませたいと愛想笑いを浮かべたフィリアだったが、そんな引き攣った笑いなど酔っ払いの頭を素通りしてどこかにいってしまったらしい。男は「いいじゃん、行こうぜ。楽しいところ連れて行ってあげるからよ」と下卑た笑い声を交えながら、強引に腕を掴んでくる。不躾で無遠慮な力。生理的嫌悪で鳥肌が立つのと、腕を引っ張られるのは同時だった。
「やめ……っ」
条件反射で思わず目を瞑ってしまいながら、叫ぶ。切迫したか細い少女の悲鳴は、しかし自分の危機を周囲に知らせるためのものではなく。
むしろ、その反対だった。
「う、わああっ!!?」
自分の叫びを掻き消すように男の情けない悲鳴がして、フィリアはおそるおそる目を開けた。案の定、男は石畳の上に仰向けになって倒れている。
「ひえっ、ご、ごめんなさい!」
青ざめた顔で駆け寄ってみるが、男は濁った瞳で茫然と空を仰いでいた。石畳に背中を強く打った挙句、脳震盪を起こしたのだろう。今の状況を飲み込むにはまだ大分とかかりそうだ。
「あははははっ!」
予想外の展開に周囲の人間が唖然と少女を眺める中、甲高い笑い声と鈴の音が鳴った。びっくりして肩を揺らしたフィリアが振り向くと、人だかりの中で黒髪の美女が口に手をあてて笑いを堪えていた。
なんだか、どこかで見たことがあるような。
そう思いながら、じいっと見つめていると黒髪の美女がまだ笑いながら、手をひらひらと振った。
「ふふっ、久しぶりね、フィリア」
「……メイリンさん?」
宿の一階には食堂があった。その中の、壁際にあるテーブルを挟んで二人の少女が席についた。
一人はどこか気恥ずかしそうに身を小さくさせている亜麻色の髪の少女。向かい側には肢体に絡まるように艶やかな黒髪を腰下まで垂らし、黒水晶の瞳を持つ美少女。露出の激しい煌びやかな服装で、敬虔さを求められるせいか肌の露出部分を出来る限り少なくしているフィリアの服装とは正反対だった。
「うふふ、フィリアったら、相変わらず見た目と違って大胆よねー。まさか絡んできた酔っ払いを投げ飛ばしてしまうなんて誰も思わなかったわよ」
黒髪の美少女はおかしくてたまらないと言った風にグラスに口をつけた。彼女が動く度に、手足の鈴飾りが透き通った音を響かせる。
「わ、私も別に投げ飛ばすつもりはですね……。ただ急に腕を取られてびっくりしてしまって、つい反射的に」
「それって余計たち悪いわよ」
頬を紅潮させて言い訳をしたフィリアだが、さらにつっこまれて声を詰まらせる。
先程の男は見回りで通りかかった警備の人に任せた。きっと少し咎められるくらいですぐに解放してもらえるだろう。被害者になるはずの少女が無傷どころか相手を返り討ちにしてしまったのだから。
隙が多いのか無防備なのか、それとも従順そうな印象を与えるせいなのか、フィリアはああやって人から絡まれることが少なくなかった。シスターの服装を纏っている時にも、一人だと絡まれることが今まで幾度かある。とくにさっきみたいな悪酔いした人間にとっては格好の餌食らしい。ハデスに勧められるままに護身術を習ってみたのだが、頑張りすぎて条件反射が出るようになってしまったのだ。祈りを捧げ、人々に奉仕するシスターとしてはありえないことである。しょんぼりと肩を落としたフィリアに、虐めすぎたかとメイリンは話題を変えた。
「フィリアとは一年ぶりよね、どう? 元気でやってる?」
「はい、もう一年もたちますよね。街の皆もいつも通り元気で平和ですよ」
途端に、ぱっと梅雨晴れのようなにこやかな笑顔になったフィリアにメイリンは笑みを零した。
「ふふ、そうね。あそこまで平和で呑気で穏かな街もそうなかったわね。旅の舞姫なんてそこそこ有名になっても、冷やかしや軽蔑の目はどこの街でもあったわ。でもあそこだけは違った。皆、目を輝かせて踊りを見てくれるんだもの。楽しかったなぁ……」
「メイリンさん……」
暖かい光を宿した黒水晶の瞳はどこか遠くを見詰めている。きっと、初めて出会った街を思い浮かべているのだろう。フィリアも彼女の視線の先を辿った。
土地と同じく赤茶けたレンガの街は、余生をひっそりと過ごす老婆のように粛としてあった。のどかで穏やか、自然が多いことくらいしか印象に残らない、地味な街だ。
一年前、そこにメイリンが訪れて初めて二人は出会った。このご時世では女一人が生き抜くのは大変辛く、風当たりも強い。けれど少女は決して屈せず、ひたすらに前を向いて頑張って生きていた。そのひたむきさは少女の踊りをさらに美しく、力強いものへと変貌させ、その踊りに感銘を受ける者は後を絶たなかった。フィリアもその一人である。そして同時に、大きな衝撃を受けた。
どちらも身寄りがいないのは同じだった。けれども境遇も、精神も何もかも歴然とした差があった。世の中を熟知し、処世術を身につけて一人でも真っ直ぐ前を見据えて逞しく生きる少女。ハデス司祭に守られて、安穏と教会で過ごす自分とは大違いだ。彼女のように明日食べるものに悩んだことはない。屋根がある。安心して眠れる場所が必ずあるのだ。いかに、自分が恵まれているのかを痛感した。焦燥が胸を抉って、全身を駆け巡り、自分に問いかける声が止まない。
果たして、自分はこのままでいいのだろうか、と。
「それにしても、フィリアも聖祭にだなんて意外だわ。こーゆーことには全く興味ないと思ってたから」
「え?」
ぼんやりと思考に耽っていたのも相俟って間の抜けた声を出したフィリアに、メイリンは大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。
一体、なんのことだろう。
不思議に思っていると、メイリンも「あら?」と不思議そうな目で見返してきた。そして、暫し見詰め合う。
「……えっ、てもしかして知らないの? この聖祭の主な目的は、平民の中から皇族の側室を選ぶことなのよ。皇家にとっては政策の一環ってやつ? 軍人やエルカイル教会と違って、皇族や貴族は民衆に人気がないからねー。こうやって側室候補を募ったりして、民衆の支持を得ようってやつ。
まあそんな政治の目的はどうでも良くって、私達にとっては玉の輿のチャンスってやつなのよ」
「へえ、そうなんですか」
道理で街中では、ふんだんに着飾った女性の姿が多いと思った。合点がいったフィリアに、メイリンは黒髪を後ろに流す仕草をして少しばかり胸を張りながら、話す。
「やっぱり選ばれるためには、一芸に秀でた人間がいいわね。あ、勿論、美貌は前提条件として。頭もそれなりに良くなくちゃいけないし、品の良さも必要よね。まさにこの私が選ばれるための、お祭りなのよ」
「メイリンさんの舞はとても素敵ですよね」
メイリンは本当に美人だった。ぱっちりとした黒い瞳は印象的で、黒髪は常に日光に晒されているとは思えないほど、艶やかで。少し日に焼けた肌は瑞々しい若さに満ち、自分と同じ年頃とは思えないほど成熟した肢体は大人の色香を放っていた。全身から匂い立つ香りは癖がなく爽やかで、仕草も少女の可憐さと大人の女性の色香を併せ持ち、絶妙なバランスを保っている。そんな彼女の踊りはいうまでもなく華麗で、神秘的だった。側室どころか、正妻にだってなれそうだと思う。それほど彼女は魅力的な女性だった。その証拠に、この食堂でも多くの男性の視線を集めている。本人は気付かぬふりをしていたが。
紡ぐ言葉を全て丸呑みにして、ふんふんと素直に同意するフィリアに、メイリンはぽり、と頬をかいて少し居心地が悪そうに笑っていた。
あれ、と何故そんな反応をするのかわからなくて小首を傾げると、メイリンはふっと表情を和らげる。
「……そんな素直に賛同されちゃうと、ちょっと照れちゃうわね。そういえばフィリアは出ないの? 皇族は無理でも貴族とかなら」
突然自分に話を振られてフィリアは噴出しそうになった。
「えっ、そ、側室なんてそんな、む、無理です、私はいいです、ただハデス様のお供でついてきただけで」
「ぷっ、相変わらず、からかい甲斐のある子ね」
真っ赤になって左右に首を振るフィリア ――― 予想通りの反応をする彼女に、メイリンはどこか安心したように、笑い声を上げた。からかわれたのだと気付いた途端、フィリアはうう、と情けないうめき声を出して身を小さくした。何か違う話題を探そうと頭を巡らして、はっとする。
「そっ、そんなことよりも、司祭様の行方がわからなくなってしまって……! 昨日の内にここに戻ると言っていたのに、まだ帰ってこないんです……私、心配でどうしたらいいか」
本来の目的はこれだったのだ、情けないことに自分ではどうしたらいいのかわからない。今すぐにでも探しに行きたいと思っているのだが、すれ違ったりしたら、とか考えると途端に身動きがとれなくなる。世慣れしたメイリンならば何かいい案があるかと思って、フィリアは縋るような目でメイリンを見た。黒髪の美少女は少し目を見開いて、手に持っていたコップをテーブルの上に置いた。
「司祭様が行方不明? いつから?」
「昨日、帝都に着いてすぐにどこかへ出かけられたのです。昨日の内に戻ると仰っていたのに、今になっても戻られませんし……」
「何の用事かは聞いているの? 長引いているだけじゃないかしら?」
「どういった用事かは聞いてなくて……。それに長引くにしても、司祭様でしたら知らせて下さると思うのです。何も連絡がないということは、途中で何らかの事故に巻き込まれたりして、連絡できない状況の中にいるとかしか……」
考えられなくて、とフィリアはそこで言葉を切った。それ以上は口にすることが出来なかったが、少女の表情から、どんどん悪い想像に支配されていることは容易く読み取れた。メイリンはじっとフィリアの顔を覗き込んで、宥めるように首を振る。
「悪い方向へばっかり考えたら駄目よ、フィリア」
「あ、ごめんなさい、メイリンさん……」
はたと、俯きがちだった頭を上げてフィリアは謝った。
「謝らなくていいわよ、ハデス様はフィリアにとっては父親のような存在だもの。心配で堪らないのは当然だわ。元気を出して、なんて言えないけれど、でも、諦めないで。……ハデス様は無事よ。きっとすぐに帰ってくるわ」
「はい……ありがとうございます。そうですよね、落ち込んでいても仕方ないですよね。私が、頑張らなくては」
メイリンの励まされてフィリアは自然と笑顔になった。暗い思考が払拭されて、不思議なほどに明るく前向きな気持ちが溢れ出てくる。自分はこの言葉が欲しくて、話したのかもしれない。
「……頑張るって……まさか、フィリア。あんた、この馬鹿広くて入り組んだ帝都を一人で探すつもりなんじゃないでしょうね……?」
憂える表情から途端に眉を顰めて呆れた顔になったメイリンに、何かまずいことを言っただろうかと首を傾げながらも、フィリアは当然のように頷いた。すると目の前の少女は、何故か慌てたように身を乗り出してくる。その勢いの強さに、反対にフィリアは後ろにのけぞってしまった。
「ちょっ、ちょっと! そんなのすぐにフィリアも迷子になるか襲われるか人買に攫われるかするだけじゃないの!」
「だ、だって……でも他に方法が……」
頼りないことだが彼女の言うことは正論だ。自分ですらそう思うのだから。けれど、他に方法がない。帝都になんて来たのは初めてだし、知り合いなんかいない。頼れる人なんて自分には、ハデス司祭しかいないのだ。その彼が行方不明となっては自分でなんとかするしかないのだ。
そうかいつまんで話すと、メイリンはあからさまに頭を抱えて悩んでみせた。なんだか居心地が悪いのは気のせいではないだろう。
「無茶言わないでよ、フィリア一人でなんて。ハデス様はエルカイル教の司祭様なんでしょう? だったら、大神殿に赴いて事情を話せば、きっと探してくれると思うわよ?」
「!」
国教であるエルカイル教。その中枢が、大神殿である。
広大な帝都の都心部、そのさらに中央にある現皇帝の執政城、そして軍事の要である帝国軍本部施設。それらの隣に配されるということが、この国にいかほどの影響を与えている存在なのか想像するには難くないだろう。事実、エルカイル教会は政治にも深く関わっているらしい。といっても、それは上層の一部だけであり、大部分の聖職者は政治に関わることなく、日々、信仰に身を捧げているのだが。
しかしそれでも、そういった背景があるゆえに、エルカイル教会の人間は一般の民よりも大事に扱われている。普通の市民であるならば、たった一日行方不明になったからといって、捜索に乗り出してくれる機関などどこにもない。けれど、それが聖職者なら別なのだ。
それは盲点だった、というように、今度はフィリアが身を乗り出して瞳を輝かせた。まるで、命の恩人を見るかのような目である。肩を竦めたメイリンは「……やっぱり思いつかなかったようね。まあ混乱してたからしょうがないか」と呟いた。が、すぐにふと思いついたようにフィリアをじっと見詰め返す。
「……どうせ今夜は皇城に用事があるんだし、私が大神殿まで連れていってあげるわよ」
「えっ、いいのですか?」
「ええ、フィリア一人だと何日かかるかわからないもの」
にっこりと笑顔を浮かべた彼女は、きっぱりとそう断言した。
「それで、記憶の方は……?」
そう躊躇いがちにメイリンが口にしたのは、大神殿に向かう道中でのことだった。夕暮れが街を紅に染めても、大通りの人が少なくなる気配はない。それどころか、これからが本番だという賑わいに満ちていた。それを眩しそうに目を細めながら、フィリアはどう答えようか逡巡した。
「えっと……それがまだ……」
乾いた笑いを唇の端にのせて返した。
フィリアの記憶は三年前から始まった。何故かはわからないが、気付いた時には教会で暮らしていて、それより以前の記憶はどうしても思い出すことができなかったのだ。ハデスに訊いても、寂しそうな顔で首を横に振るだけで。その表情を見て、それ以上訊くことができなかった。毎日シスターとして忙しなく動き回っている時は、過去のことなど必要ない。そもそも思い悩む時間がない。けれど、ふとした時に自分の思い出が何も無いことに愕然とした恐怖を抱いてしまうのだ。
一年前に知り合って親しくなる内に、フィリアはメイリンにそのことを話していた。
フィリアの曖昧な愛想笑いにメイリンは暗い表情の中に、少しの呆れを含ませた。
きっと、へらっとした軽い反応が気に召さなかったのだろうか。行動力抜群な彼女にとって、記憶喪失のフィリアが、積極的に自ら記憶を取り戻そうとしないのが理解できないのだろうか。きっと、その両方だろうと思った。
でも、フィリアは怖いのだ。昔の自分を知りたいという思いも当然ある。でも、それ以上に自分は、自分の想像に怯えてじっとしているしかないほどに、臆病者だったのだ。