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翌日。
フィリアは仕事の合間に帝国軍本部施設へと足を向けた。結局、来てしまった自分に苦笑した。彼らを信じていないわけではない。でもやはり、ハデス司祭の行方が気になってたまらないのだ。じっとしていられなくて、何かせずにはいられない。方向音痴なのだが、毎日城中を駆けずり回っているおかげで、迷うことも少なくなった。
しかし道に迷わずに辿り着けたのはいいものの、そこからどうするかが問題だった。
「……受付みたいなものがあればいいのですが」
下手に声をかければ、先日の貴族の文官のように激昂させてしまうかもしれない。城に勤める貴族と帝国軍部の軍人は違うとは聞いているものの、フィリアは自分の行動に細心の注意を払っていた。
一階の廊下を歩きながら、聞き入れてくれそうな軍人を探す。左横に視線を移すと中庭が広がっていて、澄み渡った青空が見える。そのまま視線を下げると、剣の鍛錬をしている大勢の騎士がいた。おそらく、ここは騎士団の訓練場なのだろう。
そのまま真っ直ぐ進むと、右に曲がり角があってその先は大きな広間に通じていた。
「あれぇ? 女官の仕事でこんなところまで?」
声をかけるか迷っていると、背後から親しげに声をかけられた。髪先がつんつんとたった水色の髪の男が少女を見下ろすように立っている。
「いいえ、仕事ではないのですけれど……」
フィリアは言いよどんだ。この帝国軍本部で見かける騎士服ではないが、深緑色のコートに膝まである靴、出で立ちは軍人に思えた。年齢は同じ年くらいだろうか。だとしたら、新人兵士かもしれない。
「あなたは帝国軍部の騎士様ですか?」
「あー……」
フィリアの疑問に、男は少し視線を泳がせてから、「ま、そのようなもんかな」と言い難そうに返した。不思議に思ったが、相手から話しかけられた幸運を見逃すにはいかないと思い、フィリアは思い切って聞きたいことを口にした。
「あの、ある人の行方を探しているのですけれど、……あ、探していらっしゃるのは軍部の方達なのですが……ごめんなさい、信じていないわけではないのですが、どうしても、気になってしまって。それで詳しいことを教えていただきたくてこうしてやって来たんですけれども、……や、やはり駄目でしょうか……?」
焦って一気に話したため、何度も言葉に詰まってしまった挙句にわけのわからない文章になってしまった。しかも相手が騎士ということで緊張のせいか語尾はかなり弱気になってしまって。とほほと胸中で息を吐く。
「……ある人って、ハデス司祭?」
「! 知ってらっしゃるのですか!? し、司祭様の行方は一体」
「あー。とりあえず落ち着いて」
水色頭の男は、まるで幼子をあやすようにフィリアを宥めた。それに気づいて少女は羞恥で頬を紅潮させながら、顎を引く。
「ハデス司祭のことが心配なのはわかるけど、ごめんな。今はまだ捜索中としか言えないんだよなぁ」
「……そう、ですか……」
「大丈夫。ヒユウの奴もあんたにそう言ってたろう? あいつが言うんなら、絶対大丈夫だって」
「!」
まるでヒユウとの会話を見てきたかのように話す男に、フィリアは俯いていた顔を上げる。水色髪の男はにっこりと人懐っこい顔で笑って、少女の頭に手をのせた。そのまま、ぽんと軽く叩く。
「皇宮まで俺が送っていってあげるよ」
「え? いえ、大丈夫です」
「いーから、いーから。どうせ今は暇だし」
遠慮するフィリアを強引に皇宮まで送り届けると、少女は何度も頭を下げて中へと入っていった。その後姿を見ながら、水色髪の男――ツヴェルフはぶつぶつと独り言を呟き始める。
「ったく、あの野郎は肝心なところで甲斐性がねぇんだよなぁ……」
少女の頼りなげな後姿を思い出して、がしがしと頭を掻く。
「軍縮、ねぇ。……とりあえず、帝国軍部の騎士を城から追い出すなんて、いい度胸しているじゃねーか」
白亜の城を見上げたツヴェルフは不敵に笑うと、そのまま己の気配と足音を消し去って、真っ暗な影に身を潜ませた。
一日の仕事を終えて、いつものようにフィリアは部屋へと戻った。
昼間軍部に出向いてまで、ハデスの行方について情報を掴もうとしたのだが、それはあっさりと失敗に終わってしまった。水色の髪をした騎士(あまりそういう風には見えなかったが)は、一見とても友好的で優しそうに見えたのだが、なんとなくあの人から情報を聞きだすのは簡単じゃないと思ってしまった。帝国軍部の最高幹部であるヒユウのことを呼び捨てにしていたせいもあるかもしれない。
とりあえず、また仕事の合間に誰か違う人に聞いてみようと思った。出来れば、ヒユウにはまだ会いたくない。今会っても、きっと自分は金縛りにあって何も聞くことができなくなるだろう。もしかしたら、とんでもない行動をとってしまいそうで、それが一番怖かったが。
そんなことをつらつらと考えながら、フィリアは寝台のシーツが乱れていることに気付いた。女官の習慣か、それを整えようと手を伸ばしたとき、右腕に鋭い痛みが走る。同時に腕に何かが巻きついて、悪寒が雷のように背筋を走った。
「っ!?」
声にならない悲鳴を上げて右腕を振り回すと、床に何かが叩きつけられる音がした。咄嗟にもう片方の手で右腕をおさえて、後退った。恐る恐る視線を足元へと下げると、緑色で黒い斑模様のある蛇が威嚇音を発しながら、細長い身体をくねくねと動かしながら這っている。
「……へ、び……!?」
へへへ蛇!
その存在を認めて、全身が総毛だった。
何故、自分の部屋の寝台の下から何匹もの蛇が這い出てくるのか。叫び声を上げようとした瞬間、足の感覚がなくなってがくりと膝から崩れ落ちた。激しい頭痛と眩暈が襲ってきて、何も思考できなくなる。ぼやけた視界の中でも、恐怖のせいか自分を見上げる蛇の眼から視線を外せぬまま、フィリアは自分の身体がぐらりと横に倒れていくのを感じた。
……毒……?
もしかして、このまま、死んじゃう……?
蛇に噛まれてしまった右腕が、火傷したように熱かった。
「フィリア、まだ起き上がっちゃ駄目だよ!」
「もう大丈夫ですよ」
「駄目だってば。ほら、寝台に戻る!」
寝台から出ようとしたフィリアを、ネイミーは慌てて止める。渋々と元の位置――寝台の中で上半身を起こした体勢――に戻る少女を眺めながら、呆れたように「も~、これだから目が離せないんだから~」と呟いた。そして寝台の傍にある椅子に腰掛けると、コップに水を注ぎだす。
「さすがの女官長も、熱が下がるまでは休んでもいいって言ってたからね。今までの疲労の分もしっかり休んでね。はい、お水」
「ありがとうございます、ネイミーさん」
差し出されたコップを受け取って礼を言うと、フィリアはそれで乾いた舌を潤した。まだ微熱が残っているせいか、うっすらと額には汗が滲んでいる。それを眺めていたネイミーは笑顔を消して、次第にわなわなと拳を震わせた。
「それにしても、毒蛇だなんて……悪趣味にもほどがある」
致死量には至らなかったものの、体内に侵入した毒をフィリアは一昼夜苦しませた。発見も処置も早く適切だったおかげもあって、こうして短期間で回復に向かったのだという。
「夜会のことも聞いた……絶対にフィリアに嫉妬した人達の仕業だよ!」
「嫉妬……?」
その単語に、思わずフィリアはぎくりとした。
「そうよ、こんな陰湿で汚い真似するのなんて、レヴァイン殿下の寵を競うしか頭にない人達しかいないじゃん!」
常にのほほんと明るい少女がこんなにも腹を立てた様子は初めてで、フィリアはうろたえた。確かに、寝台の中や下でフィリアを待ちかねたように隠れていた何匹もの毒蛇が自然発生したものだとは思っていない。明らかにフィリアを狙ったもので、誰かの仕業なのだろう。でもネイミーの断定した口調には驚いて、周囲に人がいないかを慌てて確認してしまったほどだ。
「……でも、私なんてただの女官ですし」
あ、でも、ただの女官だからこそ、悪目立ちしてしまったのかもしれない。レヴァインをちょっと恨みたくなったものの、いくらなんでも自分ごときにこんな大層なことをしでかすとは、フィリアには到底考えられなかった。
いくら階級意識が高いとはいえ、あの煌びやかで大輪の花のように美しい貴族の姫君達が、自分のような平凡で、平民の女官ごときに嫉妬などするものだろうか。なんだかそれは考えるだけで無礼のような気がして、フィリアはうーんと唸った。それに他にもフィリアのことを疎ましく思っている人はたくさんいるのだ。というか、この皇宮でフィリアに敵意を抱いていない人の方が稀少だ、きっと数えるほどだと思う。そこまで考えて、フィリアは改めて落ち込んだ。
だが、ネイミーは首を横に振ってその勘違いを訂正する。
「あのねぇ、レヴァイン殿下の側室の人達はね、フィリアのことをライバルと思ってるんだよ」
「え、ええ!? ライバルなんて、そんな」
それはないだろう、とフィリアは即座に否定した。そもそも自分はレヴァインとは何の関係もない。彼の側室だったらわかるのだが、赤の他人で、何の関係もなくって、ほんのちょっと接触があっただけだ。色々と謎な発言をされたり頬に口付けを落とされたりもしたが、それも全て浮名を流す皇子にとってはほんの挨拶がわりなのだと思っていただけに、ネイミーの発言はまさに爆弾だった。
「不思議じゃないよ。皇族の人がね、皇宮に務める女官を見初めたって前例はあるんだよ。つまり、ここで働く女官も、彼らにとっては側室候補になるわけ」
「えっ、そうなのですか!?」
それはフィリアにとっては初耳で、そして慄くような新事実だった。単なる下働きだと思っていた女官の仕事だっただけに、皇族や貴族の目に留まるようなことがあるだなんて思いもしなかった。だがそれを知って、女官に貴族の娘が多いことに納得した。同時に、どうしてこんなにも女同士で探り合い、牽制し合っているような殺伐とした雰囲気だったのかにも納得した。
「まあ、でも滅多にないからね……でも、レヴァイン殿下があーいう風に目をかける女官なんて他にいないから……たぶん、これからもこんなこときっとあるよ……」
ネイミーは言いにくそうに、そう告げた。