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「おい、正気かよ、ゼノン!? 冗談じゃねえぞ!」
廊下にまで響き渡る声に、ちょうど部屋に入ろうと扉に手をかけたケイトはびくりと肩を震わした。しかしすぐにその声が誰のものなのかを知って、やれやれと肩の力を抜く。自分の名前を告げて入室すると、予想した通り見慣れた人物が憤懣やるかたないといった様子でテーブルを叩いていた。
すぐ傍の壁際で直立しているギルベルトに近寄る。あまり感情が表に出ない青年だが、自分と同じく内心で溜息を吐いているに違いない。そう思うと、妙な親近感が湧いてしまう。
「……ケイト殿。お久しぶりです」
「久しぶり、ギルベルト。……あなたもいつも大変ね」
―― あんなのの副官をやっているなんて。
そういった思いも込めた視線を金髪の男に向けながら、気苦労の多いであろう黒髪の青年に話しかけた。
「……まあ、今回は私も彼に同感です」
今回は、の部分がやけに強調されて聞こえるのは気のせいではないだろう。
「……やっぱり、本当なのね。今回の“龍の託宣”の内容は」
「ええ、そのようです」
神妙な顔つきのケイトにつられるように、ギルベルトも硬い表情で頷いた。
潔斎期間を終えて、本日未明に龍託 ――― “龍の託宣”が元老院を通して、ここ帝国軍本部にも通知された。今日明日中にも帝国民に対して公布されるだろう。
龍託は今までも重要な国策に関わってきた。というよりも、龍託に基づいて、国策が決定されることが多い。ロウティエ帝国の建国にも深く関わり、「神の声」とも呼ばれるそれは、政治において何よりも最優先される存在なのだ。
当然、いくら強大な力を持つ帝国軍といえど、“龍託”の内容に対しての反論は許されなかった。
「……で、案の定、クラーヴァがいの一番に異論を唱えているというわけね」
部屋の中央では、クラーヴァがゼノンに向かって声を荒げている。
ゼノンから招集を受ける前に、クラーヴァはきっと殴りこむ勢いでここにやってきたのだろう。副官であるギルベルトが慌ててそれを止めようとしたが、結局無理で、ずるずると引き摺られて来てしまった、というところか。
この二人ならよくあることだ。自分の予想は間違っていないだろうと思いながら、ケイトは部屋を見渡した。
部屋の入り口近くの壁際にケイトとギルベルト。部屋の中央では執務椅子に腰を下ろしているゼノン、机を挟んでクラーヴァがいる。それ以外では各騎士団を率いる将軍が数名いた。
いずれも帝国軍騎士の先頭に立って率いていく精鋭たち。帝国軍の幹ともいえる彼らがこうやって招集されるということは、それだけ重要な事態なのだということを表している。
今回の“龍託”の内容はこうして帝国軍本部が緊急会議を開かねばならぬほどの、大変なものだった。
その内容とは―――
「落ち着け、クラーヴァ」
「落ち着いていられるか! よりにもよって、軍縮だと!? よりにもよって、他国の間者が続々と集まっているこの時期にか!」
軍縮 ―― 軍備縮小。
それが今回の“龍託”の内容だった。正しくは、帝国軍のこれ以上の力の拡大はあらゆる戦火の種となり、災厄をこの国に齎すであろう、ということらしいが。
とりあえず、帝国軍部が厄災を招く元凶のように言われてしまったのだ。当然、帝国軍部の人間は心中穏やかでいられる筈がない。ケイトもこの知らせを聞いた時は、耳を疑ったものだ。今まで、大陸の民族紛争、暴動などを鎮圧してきたというのに、これから起こるだろう戦いに向けて切磋琢磨しているというのに、そんな気苦労も努力もやる気も根こそぎ奪うような、宣言である。クラーヴァが怒るのも無理はない。
諌めるゼノンにも耳を貸さずに、クラーヴァは鋭い眼をさらに鋭くさせて声を上げた。元々軍部はエルカイル教会と対立関係にある。軍人の中でもとくにエルカイル教会、元老院自体をよく思っていなかった彼だっただけに、今回の件でとうとう堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。
帝国軍の要である二大騎士団のひとつ、聖印騎士団を率いる将軍なだけに、迫力だけは抜きん出て強い。集まっていた他の騎士団の人間はすっかり気圧されてしまっていた。けれどやはり、本心はクラーヴァと同じなのだろう。クラーヴァにつられるように、一人一人が声を上げていった。
「帝国の治安は不安定です。上層部の亀裂も、民の不安も無視できないほどに。そのことにも他国は気付いています。こんな状況の中で軍事力を縮小するなど、常軌を逸しているとしか!」
「そうです、ハウメイ王国が海を隔てこちらの動向を監視しています、内乱などという侵略の好機を与えてしまう事態だけは避けねばなりません」
「わかっておる。元老院は帝国軍の力を削ぎたいだけだ。奴らは今回のこれが争いを鎮めるどころか、より多くの争いを生むということを全く理解しておらん」
ゼノンは冷静な声で、昂ぶった騎士達を諌めた。
こういうとき、ゼノンという男は頼りになるとケイトは思う。容易く大勢の人間を纏め上げる術を熟知している。怒りが最高潮に達する時ほど冷静さが必要になると、彼は知っているのだ。
クラーヴァにも彼の十分の一でもいいから冷静さが備わっていれば文句は無いのに。すぐに感情で突っ走ってしまうのが彼の欠点であった。とはいえ、彼のその直情的で大胆不敵なところが騎士の士気を上げる面では最良に発揮されていたので、いちがいに欠点とは言い切れないのだが。
「しかし、“龍託”だ。元老院の決定程度ならばいくらでも異論を唱えられる。だが、教皇の龍の宣託となると、少々分が悪い」
「まさかこのまま黙って受け入れる気じゃないだろうな?」
渋面を作ったゼノンの言葉を遮るように、クラーヴァは詰め寄った。怒気に満ちた彼には何を言っても油に火を注ぐだけなのだろう、とゼノンは内心で溜息を吐く。黙殺して立ち上がると、周囲の将軍達を見渡した。
「勘違いをするな。こうしてわざわざ招集をかけたのは、龍託の内容についての議論をする為ではない、あくまでも軍部内での混乱を鎮める為だ。各騎士団を纏める将達にそれぞれに命令を下す。これ以上の混乱の拡がりは許さぬ、とな」
龍託によって軍部は動揺しているだろう。エルカイル教会への反発、不満の声が噴出することなど、クラーヴァを見れば明らかだ。
とにかく今は部下達の怒りを抑えることに集中しろ、とゼノンは強調した。
「ゼノン!」
そんな暢気なこと言ってる場合じゃねぇ、とクラーヴァは反論しようと声を荒げるが、ゼノンは至って冷静な声でそれを許さなかった。
「今は耐え忍ぶときだ、クラーヴァ。今の状態で軍部までもが平静さを欠けば、内乱に繋がる。しかも軍部からの先制攻撃など、それこそ取り返しのつかないことになるぞ」
「くっ!」
ゼノンの言っていることは正論だった。エルカイル教会は軍部を煽っているのだ。挑発にのって宣戦布告でもしようものなら、それこそかつての暗黒時代の到来だ。他国にも侵略の隙を与えてしまうのはクラーヴァにとっても避けたい展開。しかし“龍託”で軍縮命令というこちらの異論を許さないまま力を削ぐなど、やり方があざとくて吐き気がする。
直情径行な彼にとって、こういった小細工をされるのが一番我慢がならないのだ。
「……冗談じゃねぇ」
―― 軍縮だと?
―― 龍託だと?
何が守護神である龍のお告げだ。この国を守るならば、軍縮など唱える筈もない。
胡散臭い、いくらなんでも胡散臭すぎる。 これでは、まるで滅びに向かって全力で走らされているようなものではないか。
「あいつらの言ってることは、暴漢を前に生娘に股を広げろと言ってるのと同じじゃねぇか! 冗談じゃねぇ、俺はそんなの許さねぇからな!」
戦闘時のようにクラーヴァは気が昂ぶっていた。いつもならこういう時、クラーヴァを諌めるのはヒユウだったりする。あの無表情で冷たい声は相手を一瞬で黙らせてしまう迫力があるのだ。
(まったく、単細胞なんだから……!)
ケイトは胸中で毒づいた。帝国軍最高司令官であるゼノンにここまでずけずけと不満を残さず言う人間はクラーヴァくらいである。ヒユウもゼノンに対して畏れることなく諫言するけれど、クラーヴァのように感情的に声を荒げたりはしない。少なくともケイトは知らない。ともかく本来ならとっくに独房にでも入れられているような態度をしているのに気付かないクラーヴァにも、咎めようとしないゼノンにもひやひやさせられていた。
ケイトはそろそろ止めないとやばいと感じて、ヒユウの姿を探した。そういえば、今日は一度も彼の声を聞いていない気がするなと思いながら。
部屋を見渡すと目的の人物は部屋の端で暢気に壁に凭れていた。クラーヴァとゼノンのやりとりなどに興味がまったく無いのか、腕を組んで気だるそうにその場に立っている。
一瞬怒鳴ってやろうかと思ったが、ケイトはすぐに声を失ってしまった。
クラーヴァ以上に、彼は不機嫌だったからだ。
全身殺気立っていて、刺々しい雰囲気に誰も彼に近寄れないでいた。クラーヴァと違って、彼の怒りは波紋一つない水面のようで、その静けさが余計恐ろしく感じた。
びくりと慄いたのち、ケイトは怪訝そうに眉を顰めた。
彼は、龍託のことで苛ついているのだろうか。けれども、これは充分に予測できた事態だ。どんな方法を使っても、エルカイル教会が軍部の力を削ごうということには。
「……ね、ねぇ、ヒユウが物凄く怖いんだけど」
思わず、クラーヴァの怒りをヒユウにおさめさせようとしたことも忘れて、ケイトはクラーヴァに近寄った。唐突に声をかけられたクラーヴァはヒユウに目を向ける。そのおかげで怒りのやり場とタイミングを失って、憮然とした声色になった。
「……さあな。昨日の夜会から、めちゃくちゃ機嫌が悪くなった。夜会前はそれほどでも無かっただんだが」
「……夜会で何かあったの?」
ケイトは昨日の夜会には出なかった。ちょうど聖祭の警備に当たってしまったのだ。まあ、ケイトにとっては貴族同士の夜会には何の執着もないので参加できなくとも支障は無かったのだが、何か事件が起こったとなれば話は別だ。こう見えても彼女は好奇心の塊、他人の厄介事ほど首を突っ込みたくなるものはなかった。
「いんや? 別に何もなかったぜ。お決まりのだるくて無駄な時間だった」
ヒユウの様子から見て何かを嗅ぎ取ったケイトだが、生憎クラーヴァは他人の心の機微には疎く、まったくあてにならなかった。
「……そしてもう一つ、皇帝からのお達しがあってな。城内の警備ももともとは近衛騎士団の管轄であり、帝国軍軍部が我が物顔で歩くというのも許されんということだ」
「何だと?」
思わず、クラーヴァは声を上げた。
「一応筋は通ってるからな。現状でこれ以上の確執を生むのはこちらとしては避けたい。とくにヒユウ。ここのところ、貴殿はよく城に足繁く通っているそうだが、それも控えてもらおう」
「……」
思わず、一触即発、という言葉を思い出したケイトだったが、ゼノンの言葉にヒユウは珍しく反抗するようなこともなく、「頭に入れてはおこう」と言った。了承といえるかどうかわからない微妙な答えではあるが。
そしてこのあともクラーヴァの訴えは続いたが聞き届けられることはなかったようだ。
かくして、建国五百年を祝う聖祭は、表向きは大した事件も起こらず、初めて平民出身の皇族が誕生したことで帝国民の間では大盛況のまま、幕は閉じられることとなった。