9
女官になって四日過ぎた頃、ようやく仕事にも慣れてきた。
聖祭中は皇宮内も慌ただしく、ひっきりなしに客間・廊下の掃除、洗濯、厨房の手伝いなどの雑用から、書簡を届けたりなど責任のあることもやらされたりする。身体的にも精神的にも、結構な重労働だった。
「えっ、それ本当?」
「確かな情報よ! こっちにいらっしゃるって!」
きゃあきゃあ、と女官達の騒ぎ声が聞こえる。衣装部屋の整理をしていたフィリアは、何事かと顔を上げた。その内の一人が、フィリアの方を振り向くと、ぞんざいな口調で声をかけてきた。
「ここの整理が終わったら、新しい衣装を各部屋に置いていって。その後は客間の掃除もよろしくね」
言うだけ言ったら、あとは用無しとばかりに部屋を出て行ってしまった。こちらの返事など最初から必要ないといったかんじで。色とりどりの衣装が散らばった広い部屋にぽつん、と一人座っていたフィリアはとりあえず作業に没頭しようと思った。
少女のいる部屋は貴族の使わなくなった衣装を管理している部屋で、膨大な数の衣装が積まれている。基本的に一度袖を通した服を、貴族は着ないのだ。もう二度と使われることのないであろう上質な絹で出来たドレスを畳みながら、勿体無いなぁと思っていた。あとどのくらいで終わるのだろうか。このあとに、客間の掃除がいくつか残っているし、夕餉の時には給仕役としても駆り出されていて。正直言ってかなり疲労が溜まっていた。
ちなみにメイリンは皇族のしきたりを勉強中で、今日はまだ会えてなかった。
本来ならメイリン付きの女官として入ったフィリアは、こういった雑用ではなく、一日中メイリンの傍に控えて、彼女のお世話をする筈であったのだが。平民出身の側室に平民出身の女官が傍に控えては格好がつかない、という理由からいつのまにやら遠ざけられてしまっていた。皇帝が下々の人事には一切関わらないことをいいことに、他の女官達に雑用をやらされていることにまだ本人は気付いていなかった。
「あ~あ、すっかり押し付けられちゃって」
黙々と作業を続ける少女の背後で苦笑する気配。扉の方を振り返ると、同じ女官姿をした小柄な少女が立っていた。耳にかかるほどの短い青髪で、同年齢ほどだろうか。くりっとした黒の瞳からどこか活発な印象を受けた。でもフィリアの働く皇子の宮では見たことはないから、別のところで働いているのだろう。
「あの人たち、自分の仕事をあなたに押し付けていったのよ」
「……でも、私はまだ新人ですから」
そんなことは鈍いフィリアでも薄々感じていたことなので、困ったように笑うしかなかった。基本的に仕事をすることは嫌いではない。身体を動かしていた方が余計なことを考える必要もない。それは今のフィリアにとってはむしろ好都合のことで。しかしそこまで言う必要も目の前の少女にはないだろう、と当り障りのない答えを返した。
青い髪の少女はふ~んと呟きながら、近付いてきた。
「……結構、割り切っているのね。まあいいや、あたしも手伝ってあげる」
「え? でも」
「いいからいいから! あたし、ネイミーっていうの。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします。私は」
「フィリアでしょ、知ってるよ。有名だもん」
フィリアは内心、かなり驚いていた。今までフィリアにこんな風に親しげに声をかけてくる人間はいなかった。明らかに無視をされたり、厭味や陰口を叩かれることが大半で。とてもしんどいけれど、貴族と平民の確執を知って仕方がないと諦めていた。それにメイリンがいるので頑張ることが出来たのだ。
そんなフィリアの胸中などお見通しなようで、ネイミーは苦笑しながらすぐ近くに腰を下ろすと、衣装の整理をしだした。
「ごめんね、びっくりしたよね。うん、でもね、メイリン様のファンって結構いるんだよ。貴族のおねえ様方とかレヴァイン殿下の側室やそのお付きの女官が怖くて、公言はできないけどね」
「そ、そうなんですか……」
「うん。少ないけど、平民出身の女官もいるの。まあ、大抵が厨房だったりで、こんな奥の宮で働く人はいないんだけどね。だからフィリアに話しかけてみたくても、なかなか機会がないんだよね~」
だけど、フィリアと友達になりたいっていう人はいるんだよ、とネイミーは笑顔を浮かべた。
「ネイミーさんも平民出身なんですか?」
「違うよ、一応貴族……かな……。といっても下級貴族! 没落しちゃって土地もってないからね。土地持ってない貴族ほど惨めなものはないよ。平民でも商人とかのがよっぽどうちよりいい暮らししてるし。生活なんて庶民と一緒。だから生計たてるためにここに来てるの」
そう言ってネイミーは喋り出した。
ネイミーはお喋り好きな上、情報通なようだ。今皇宮で流行っている服装や髪型、噂話など様々なことを知っていて、感心しながら彼女の話に耳を傾けていた。フィリアも黙々と一人っきりで仕事をするより、二人で楽しく話しながら仕事をする方が何倍もいい。自然と笑顔になって、彼女からも色んなことを話すようになった。
「そうそう、今さっき聞いたんだけど黒騎士様がさっき城の謁見の間に来たんだって。凄い騒いでた。フィリアに仕事を押し付けた子達もそれを見に行ったのよ。全くミーハーばっかりよね、ここの女官達って。まあ、噂話にでも興じないと、重労働ばっかりでストレスが溜まっちゃうってのはわかるんだけどね……まあ他にも色んな理由があって、精神的に疲れちゃうってのはあるんだけどさ。でも、新人苛めは感心しないなぁ、ホント。……って、フィリア? どしたの?」
「……えっ?」
きょとんとするフィリアを心配そうに覗き込む。
「えって、かなり上の空だったよ。大丈夫? もしかして仕事のしすぎじゃないの?」
「あ、だ、大丈夫ですよ!」
首を横に振って否定するが、ネイミーはますます眉間に皺を寄せて唸った。
「う~ん。でも……なんか顔色悪いし……。……そうだ、はいこれ」
「え?」
強引にドレス数着を手渡されたフィリアは頭の上に疑問符を浮かべる。
「この新しい衣装を部屋に届けたらもう休んだらいいよ、メイリン様に頼んでさ。客間の掃除はあたしがやっといたげるよ」
「そんなわけには……。それに全然大丈夫ですから」
フィリアは困り果てた。そうは言っても、今日はまだまだ仕事が残ってるのだ。勝手に休んでしまったら、マライアだけでなく他の先輩の女官達にも何を言われるかわからない。けれど、ネイミーという少女はかなり強引で、「いいからいいから!」とフィリアの背中を押して部屋から連れ出してしまった。
「フィリアってば、真面目すぎるんだよ~。こーゆーのは適当にこなして、適度に休まなきゃね。長続きしないんだよ? フィリア見てると絶対その内、ばたりと倒れちゃいそうでハラハラしちゃう」
なんだかメイリンと通じる強引さを感じて、フィリアは思わず「ネイミーさんってメイリンさんと似てますね……」と漏らすと、大変喜ばれてしまった。
それでも、そのまま休むことは申し訳なくて出来なくて、客間を一室だけ掃除したあと、少し休憩を貰うということにした。布巾で窓枠や机の上を拭きながら、思案する。
「……そんなに顔に出てしまうのかなぁ、私って」
だとすれば、方向音痴以上に改善したい問題だ。先程、ネイミーに指摘されたときは内心ひやりとした。まさか、自分の心中がばれてしまったのかと思った。あの場にメイリンがいれば、間違いなくからかわれてしまっただろう。
一言。ただ、聞いただけなのに。
なんで、名前だけでこんなにも鼓動が跳ね上がるのだろうか。フィリアは不思議でならなかった。別に恋をしているというわけではないと思う。ただ、無性に意識をしている。気になる。見るだけでいいから、と思ってしまう。
「お礼を言わなくちゃいけないし……」
そうだ。あの時のお礼を言わなくちゃいけないのだ。あの人のおかげで、自分は貴族というものに完全に幻滅することがなかったわけで。皇宮で女官としてやっていくという自信も気力もきっと持てなかったに違いない。
そう言い聞かせるようにして、フィリアは一人納得した。もやもやとした胸が少しすっきりして、壁にかかってある絵画の額縁を磨く。考え事に没頭していたせいで、部屋にもう一人入ってきたことに気がつかなかった。
「あの男はやめておいた方がいいよ」
「 ―― っ!」
びっくりして額縁に腕をぶつけ、もう少しで絵画を床に落としてしまうところだった。寸でのところでそれを制して、フィリアはほっと息を吐く。今日はよくよく背後から話し掛けられる日だと思いつつ振り返ると、客間の扉には見知った姿があった。
「レ……レヴァイン殿下!」
「お仕事、ご苦労さま」
優雅な足取りで歩み寄り、フィリアのすぐ傍にあるソファへと腰を下ろした。重圧に、ぎしりとした音が鳴る。フィリアは慌ててしまって布巾を取り落としたまま、礼をした。頭を深く下げながら、何でこんなところにこの人がいるんだろう、と疑問と混乱で一杯だった。
「頭を上げて。仕事の邪魔をしてごめんね」
「い、いえ……、あの……」
不安に揺れながら、頭を上げる。ソファに身体を埋めてこちらをじっと見詰めてくるレヴァインの表情に、いつにない迫力を感じて二の句が継げないでいた。長い足を組んで座る彼の姿は、やはり他にはない気品というものが備わっている。切り取って額縁に飾ればさぞかし絵になるだろうなと場違いなことを思ってしまった。
「レヴァイン殿下……? どうなされたのですか」
「あの男は謁見の間にいるよ。今、見に行けば、会えるかもね」
心臓が跳ね上がった。顔に熱が集中していく。必死に動揺を押し隠そうときゅっと口を横に引き結んだが、赤面した顔では何の意味もないだろう。「な、あ、あの」と上ずった声が漏れる。レヴァインが何故こんなことを言い出したのかわからず、見透かすような強い視線にほとほと困り果ててしまった。耐え切れず、俯いて前で掌を合わせて握り締めると、緊張で汗が滲む。
「もう一度言うけど……、あの男には気をつけた方がいいよ」
「え?」と顔を上げると、立ち上がったレヴァインが近付いてきた。壁際に追い詰められながら、フィリアはレヴァインの青の瞳から視線が逸らすことができなかった。
怖い……。
初めて、目の前の男に対してそう感じた。柔らかい口調なのだが、有無を言わせない迫力がある。そして、苛烈ささえ感じる青の双眸。同じ碧眼だけれど、やっぱり全然違うと思った。
レヴァインは強張ったフィリアの顔を見下ろしながら、挟むようにして壁に手をついた。完全に逃げ場を失って恐怖すら滲んでいる真紅の双眸を、穴が空くほど凝視して耳元に唇を寄せる。
「でなければ、私の可愛い妹のように、酷い目にあってしまうからね」
「……え……?」
「あの男は恐ろしいまでに、人の心を惹きつけるのが上手だ。とくに相手が女性となればねぇ……。私は今まで、何人も君のようにあの男に一瞬で心を奪われていくのを見てきたよ」
「っ! レ、レヴァイン殿下、わ、私は」
慌てて否定しようと声を上げるが、こちらを見下ろすレヴァインの双眸には、深い、底が知れない闇を秘めた青が広がっていて、思わず息を呑んだ。
「私は心配なんだ。皆、妹のような思いを味わって、枯れぬ涙に苦しまされるのではないかと」
「……妹……?」
「……じゃあね、可愛らしい歌姫」
レヴァインはいつもの悠然とした微笑を浮かべると、困惑と動揺に染まったフィリアの頬にさっと口付けを落とす。ぎょっとして、壁に張り付くように後退った少女に笑いを深めて、部屋から出ていってしまった。
フィリアは放心したかのように、暫くそこから動くことが出来なかった。
「レヴァイン殿下に妹君っておられました……?」
何故、わざわざ自分にあんなことを言いに来たのかがわからなかったが、やっぱり気になって頭から離れない。メイリンに会いに来て、口をついて出てきたのはこの言葉だった。
唐突な発言に、メイリンは飲んでいた紅茶をテーブルの上に置いて目を瞬かせる。
「いいえ、皇太子殿下であられる兄君と、弟君がお一人だけよ」
「……そう、ですよね」
それはフィリアでも知っていることだ。だからこそ、レヴァインの台詞は謎だった。もしかしたら、自分の覚え間違いだと思ってメイリンに訊いてみたのだが、やはり違うらしい。
「あ……でも、従妹は確かおられたわ」
「従妹……」
はっとした顔をしたフィリアを不思議に思いながらも、メイリンは言葉を紡ぐ。
「皇帝陛下の弟君に姫君がお二人。……姉姫の方は、一年程前にある侯爵家に嫁いだという話だけれど」
「そうですか……」
「それがどうかしたの?」
「いいえ、何でもありません」
考え込んだように目を伏せる少女に尋ねても首を横に振るだけで、メイリンは怪訝そうに目を細めた。
「本当に?」
「はい」
「……ふ~ん?」
何かを訴えるような視線を投げるメイリンにフィリアは溜息を零す。
「……メイリンさん。レヴァイン殿下に、何か仰られたでしょう」
でなければ、彼があんなことを言う筈はない。フィリアとヒユウのやりとりは本人達以外にマライアとメイリンしか知らないのだから。女官長であるマライアがわざわざそのことをレヴァインに伝えるとはあまり考えられない。それにこの中で一番レヴァインに近いのは、側室であるメイリンだ。
「な、何かって?」
案の定、声を詰まらせて視線をそわそわと泳がせた。押し黙ったまま見詰めるフィリアに最初は誤魔化そうとしていたメイリンだったが、観念したかのように眉尻を下げる。
「お、怒ってる……?」
「いいえ、怒ってなんていませんよ」
「……別に詳しいことは何も話してないのよ。ただ、『黒騎士様の好みのタイプはご存知ですか?』って訊いてただけで……」
そうしたらレヴァインに「どうやら、私の舞姫は黒騎士にご執心なようだね。妬けるなぁ」と言われてしまい。慌てて「ち、違います! わ、私の友達が気にしているようで……っ」とつい言葉を滑らせてしまったようだ。
済まなそうに口をもごもごさせながら、メイリンはフィリアの様子を窺っていた。上目遣いで呟く彼女は、まるで耳を垂らしてきゅ~ん、と許しを請う子犬のようで。フィリアは苦笑するしかなかった。
「……まあ、お聞きになりました、皆さん? 噂の舞姫と歌姫とやらはレヴァイン殿下だけでなく、ヒユウ様にまで色目を使うおつもりでしてよ」
「ええ、しかと。昼食後のお茶の時間には、あまりにも相応しくない話題ですこと」
驚いて、その声の主に顔を向ける。中庭に繋がるテラスで紅茶を楽しんでいたメイリンとフィリアの前に現れたのは、女官を数人従えている美しい女性だった。