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ハナゴンドウの矜持

作者: 八潮七瀬

泣いている友人を慰めるのは、なんて心地がいいのだろう。

目の前の美しい少女は、さっきから頰を赤く染め、形のいい眉を歪めて涙をこぼし続けている。

遠くから夕陽が、教室をまるで舞台のように照らしていた。


教室には私と襟子しかいなかった。

校庭からは、部活動を終えた生徒達の喧騒が聞こえてくる。

風が、電車が遠くの線路をわたる音を運んでくる。

けれど、私の耳には襟子の啜り泣く声しか届かない。

まるでこの教室だけが、世界から切り離されて別の軌道に乗っているような、そんな錯覚を覚えるほどに、孤独だった。


「襟子、そんなに泣かないで。彼みたいなひどい男、別れて正解よ」

俯いた襟子の顔を覗き込むようにして、柔らかい声色で労りの言葉をかけた。

数ヶ月前、学校帰りに彼女から紹介された男を思い浮かべようとする。

彼は、私たちの高校の二つ上の先輩だった。

一浪していて、今は地元の国立大学の一年生だという彼は、清潔な印象を私に与えた。

黒い短髪、薄手の生地のTシャツ、細身のジーンズ。

「はじめまして。襟子ちゃんとお付き合いしています」

先輩は、私に笑顔で挨拶をしてくれた。

その後も私を気遣って、高校の名物先生の物真似や、学食のおすすめメニューとか、共通の話題を探してくれた。

それでも、襟子のことを見つめる先輩の世界には、私は存在していなかった。

先輩の眼差しは、春の雨のように柔らかく襟子を包み込み、その膜は、襟子を磨き抜かれた夜光貝のような、侵食することのできない輝きを与えていた。

その時、私は生まれて初めて激しい感情に襲われた。

今まで私は、こんな目線で誰かに見つめられたことなんてなかった。

両親は私を愛してくれていたし、同級生の男子に告白された回数は決して少なくはない。

けれど、先輩の眼差しはそのどれとも異なる熱さを孕んでいた。

それまで自分と同じ場所にいたはずの襟子が、恋人の目線によって日に日に磨かれて美しくなっていくのを隣で見ているのは、とてももどかしかった。

「良い人だと思うけど、私のタイプじゃないかな。襟子を本当に愛してるのかな」

先輩と別れ、襟子と二人きりになった時、そう言うのが精一杯だった。

襟子はゆるゆると微笑みを浮かべながら空を見上げていた。

そのとき抱いた感情が、嫉妬という名前を持つのだと、私は暫くして知った。


彼の女癖に対する悪い噂を聞いた時に、私の心に浮かんだのは、襟子を見返せた、という気持ちだった。

あの目線が襟子だけに向けられる特別なものではないと思うと、不思議に嫉妬は消えていった。

代わりに、襟子に対する憐憫の情が湧いてきた。傷ついた彼女を慰めなくてはならないという使命感は、私の立場を襟子と同等にさせた。


依然泣き止まない襟子に悟られないように、私はあくびをかみ殺す。

教室の後ろのロッカーの上には水を湛えた水槽が置いてあって、その中で二匹の金魚がゆるゆると泳いでいる。水槽に酸素を送り込むモーターの音が、低く唸り続けている。

私はそろそろ家に帰りたくなっていた。

今日は、東京の大学に通う姉が家に帰ってくる日だ。表参道で人気のチーズケーキを買ってきてくれる約束だった。


「私はあの時、襟子に悲しい思いをして欲しくなかったから、反対したのに」

一瞬、自分の口から発せられた言葉の意味を掴むのが遅かった。

襟子の動きが、ぴたりと止まった。

私は、襟子が深呼吸をして、ペットボトルのお茶を飲み、話せる状態になるまで、身じろぎすることが出来ずにいた。


「心配してくれてありがとう。

けれど、私は彼を愛したことを後悔していないし、別れたことについて彼のことを悪く言わないで欲しいの。二人の間にどんな歴史があったかなんて、有希にはわかりっこないよ。

私は自分の苦しみは自分で責任を負う。そこについてとやかく言われたくない。

きつい言い方になっちゃってごめんね。」

襟子はいつものようにゆるゆると、でも毅然と笑ってみせた。


ああ、やっぱり襟子は美しい。

けれどそれは先輩から貰った美しさではなくて、もともと彼女の内側にあった強さだったのだ。

その強さを賭して人を愛する襟子のことが、私は羨ましかったのだ。

夕日はもうとっくに沈み、残照が山並みを照らしている。

目の前の襟子は、照らす光が消えても尚、美しい姿を保っていた。


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