年度替り
高校の卒業式から、早や一ヶ月。桜の花は五分咲きだけれどまだ風が少し肌寒い、そんな昼下がり。三年間通い慣れた道を、わたしは一人で歩いていた。
時間に制約があるわけではないから、いつものような早足ではなく、のんびりゆったり自分のペースで足を運ぶ。景色が違って見えるのは、身に着けているのがいつものセーラー服ではなく、淡いブルーのワンピースだからなのかもしれない。
大きく右に歪曲している角を曲がれば、正門が見えて来る。閉ざされた門の向こう側には、春休みにもかかわらず、幾人かの生徒や教師の姿が窺える。けれど誰一人として、こちらに気を向けてくれるつもりはなさそうだ。
どうしたものかと辺りを見回し、通用門の脇にあるインターホンに気がついた。そういえば校外からの来客が、このインターホンを押していた事を思い出す。瞬時躊躇い、意を決してボタンに触れた。
『はい』
さほど間をおかず、恐らく職員室の先生のうちの誰かなのだろう。機械質の声が返って来た。
「元三年二組の細谷香枝です。大学の合否報告に来ました」
頭の中で何度も練習した言葉を、インターホンに向かって告げる。なぜだか緊張しているのはきっと、こういったシチュエーションが初めてだからだろう。
『村上先生は国語教員室にいらっしゃるようだから、そちらに行ってくれる?』
「はい、分かりました」
わたしの言葉が終わると同時に、オートロックが解除された。そっと押してみると、鉄柵でできている扉が難なく開いた。
正面玄関から入り、ちょっと履き辛い感のある来客用のスリッパを履いたわたしは、国語科教員室のある二階に行く。
校舎の中は、いつもと同じ。なのにどこかよそよそしく感じられるのは、きっと気のせいなんかじゃない。嬉しいようなどこか寂しいような、複雑な気分。この階段もこの廊下も、ほんの一ヶ月前まではわたしの物だったはずなのに。
見慣れた扉に辿りつき、さっきと同じように一つ深呼吸をしてから軽くノックしてみた。
「どうぞ」
聞き慣れているはずのその声は、けれどやはり一ヶ月ぶりに耳にする。
「失礼しまーす」
本当は緊張しているのだけれど、つとめて平静を装い、部屋の中に足を踏み入れた。
「お前、合否通知はとっくに来ていたんだろう。報告に来るの遅すぎ。お陰でこっちは随分やきもきさせられたんだからな」
つい先日まで担任だった先生が、あの頃と同じ調子でわたしに声を掛けて来る。
「すみません。受験が終わってすぐに、田舎に行っていたんです」
これは、半分は本当で半分は嘘。田舎に行っていたのは本当。でもむこうにいたのはほんの三日間で、すぐにこちらに戻って来ていたのだ。
「まあ、そんなところだろうと思っていたけどな。それで?」
それで、というのは合否結果を促しての言葉。
「実は、ここに来たくなかった理由なんですよね。ダメ、でした」
そう言った時の先生のなんとも複雑そうな表情に、わたしは少しだけほっとした。
「そうか。それは残念だったなあ。それで、どうするんだ? もう一年頑張ってみるのか?」
「いえ。できれば就職希望なんですけど」
「って、あのなあ。この不景気のこんな時期に、高校新卒の求人があるわけ」
「ないでしょうね」
「一応分かっているわけだ」
「だから、ですね」
すっかり呆れられている。わたしだって無謀だと思っている。
「できれば、その、永久就職なんて、どうかなーと思うんですけどね」
今度は先生の目が大きく見開かれた。
「永久就職の意味、分かって言ってる、んだよな、当然?」
こっくりと頷くと、先生が思案顔になる。
「あてはあるのか」
「今から交渉するつもりなんです」
真っ直ぐに先生の目を見る。
「そうか。まあ、健闘を祈ってやるから、がんばれ」
「応援、してくれるんですか?」
「まあ、一応は担任だったからな。一般的な進路じゃないが、それもありだろう」
「一応、ですか」
溜息とともに俯き、来客用スリッパの爪先を見つめた。ざわざわと心の中に波が立つ。
「細谷?」
先生が訝しそうに声を掛けて来る。椅子の軋む音が耳に届き、先生が立ち上がったらしい事を知った。
「どうした?」
わたしの視界に深緑のスニーカーが映り込む。爪先と爪先との距離、およそ三十センチ。
「応援、しなくていいです」
「は?」
「応援、なんか、してもらわなくていいです」
「おい」
距離が半分の十五センチに縮まった。
「応援しなくていいから、わたしをお嫁にもらってくれませんか」
思い切ってそれだけ伝えて顔を上げると、なんともいえない表情の先生が目に入った。鳩が豆鉄砲を食らったというのが一番的確な比喩だと思われるその顔に、わたしはにっこりと笑顔を向ける。
「なんて、ね」
ぺろりと舌を出すと、先生がはっとしたように表情を緩めた。縮まっていた距離を、わたしから引き戻す。
「お前、冗談が過ぎるぞ」
そんなにあからさまにほっとしなくてもいいんじゃないだろうか。
「本気にしました?」
「一瞬だけだがな」
「だって本気だから」
「え」
またしても、先生の表情が強張った。
「四月一日までは先生の生徒だから。だから、年度が替わるまで待ったんです」
よく卒業式に教職員に告白する人を見かけるけれど、あれは間違っている。卒業式を済ませても、年度が替わるまでは学校に籍が残っているのだ。誰憚る事なくお付き合いをしたいのならば、年度が替わってからにしなくては意味がない。
だからわたしは、先生を好きになってしまった時からこの日をずっと待っていたのだ。
「ちょ、ちょっと、待て。今、考えるから」
「いいですよ、悩まなくても。ふられる覚悟はして来ていますから」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、だな」
片方の手のひらで口元を覆っている先生の頬が、心なしか赤くなっている気がした。
「突然プロポーズされて、はいそうですか、というわけにはいかないだろう」
「じゃあ、思い切りよくすっぱりと断っちゃってください」
なんでもない風を装っているつもりだけれど、先生の顔をとても見ていられなくて、自然と視線が下向きになってしまう。
「そうじゃないと、言っているだろう。あー、あれだ。とりあえず」
一度広がったつま先の距離が、今度は一気に詰まった。
「いきなり結婚しましょう、そうしましょう、というのはあまりにも非常識だと思わないか」
「そう言われれば、そうですね」
視線だけではなく、すっかりうな垂れてしまう。最初から分かっていた事だけれど、現実になるとけっこう辛い。
「だから、だ。とりあえず、結婚を前提におつきあいを、ということでどうだ」
先生の言葉に、ぱっと顔を上げた。
「え。先生、それって」
頭ひとつ分高い位置にある先生の顔が、真っ赤になっている。
「返事は?」
そして、わたしの顔にもかあっと熱が集中して来た。
「は、はい。よろしくお願い、します」
「じゃあ、まあ、そういうことで」
先生の大きな手に髪の毛をくしゃっとかき混ぜられ、その温かさにぽろりと涙が零れた。




