食らうと言う事は、殺める事であり、生きる事である。
私は食べることが好きだ、美味しいものを腹一杯食べたい。
だが食べ物というのはほぼ全てが元々生命を持っていた者である。
先日、羊を飼う牧場でジンギスカンを食べる機会があった。
窓越しに多数の羊、子羊を眺めながらソレを私は美味しく頂いていたのだが、あとから来た家族連れの言葉と態度でその気分が台無しになってしまった。
「えー、羊を見ながら羊を食べるの? 残酷ぅー、子供の教育に悪いから見えない席にして」
「全くだ! 生き物を殺して食べるなんてなんて残虐な店だ!」
ヲイヲイ……生き物を殺さずどうやって肉を出すんだ、此処は牧場に併設された食事処なんだからソレくらい想像つくだろう……。
自分の意志でこの店にやって来ておいてその物言いはどうなんだ……と、言ってやりたかったが流石に一来店者に過ぎない私がでしゃばるのもどうかと思い黙って食事を続けた。
殺す所を見なければ、自分は殺してないので残酷な人間ではない、とでもあの親は言いたかったのだろうか?
食べたい者が居れば誰かが殺し、失われた生命がある事に変わりは無い。
たとえそれが肉や魚を食さないベジタリアンの方だとしても、植物の生命を奪って生きている事には変わり無いと思う。
食べるために殺すことは罪なのだろうか、生きる為に絶対必要なことなのだから無罪である、当然そういう意見もあるだろう。
だが、生命を奪うという罪を犯している事には違いないと私は思う、だからこそ食べ物となった生命に感謝をし「頂きます」「ごちそうさま」と言うのだ。
金を払っているのだから「いただきます」と言うのはおかしい、と言う意見を最近耳にするが、金を払えば罪は贖えるのだろうか。
私はそうは思わない、食べられる為に奪われた生命が有ったことは疑い無いのだ、金を出し欲したのだから、それは誰かに命じて殺したのと変わらない、そう思う。
多くの場合、人は「自分が食べない物を食べる為に殺す」と言う事に対して酷く不寛容だ。
私達日本人は、牛豚鳥馬魚、クジラやイルカ等の海獣、野菜に穀物その他諸々、個人の信条や信教のによる例外を除けば、恐らく世界でも食べ物に対する禁忌感の少ない国民性と文化を持つだろう。
だが、それでもお隣の大陸の文化である「犬」「猫」「猿」等を食べる事をを目にすれば眉を潜める方が大半ではないだろうか。
食べるということは人間が生きる為に必ず必要なことだ。
何を食べるのか、それはその人の価値観や宗教観、文化観、体質や好み等多くの要素による物、故にそれを他者に押し付ける事は絶対にしてはいけないと思う。
無論、小さな子供が好き嫌いを理由に食べないと言うのを矯正するのは例外と言えるが、ソレ以外の上記理由による物であれば、食べる食べないの選択はその個人がするべき事だろう。
ある宗教では「牛」が禁忌であり、またある宗教では「豚」が欧州の一部では「馬」が禁忌である、それらの禁忌を我らが押し付けられる事は殆どないが「クジラやイルカ」を食べるなと活動している人達は禁忌の押し付けと見ることが出来るだろうか。
私が幼い頃育った地域では「くじら汁」と言う郷土料理がある、幼い頃には度々口にすることも有ったが、それもここ数年では盆や正月と言ったハレの日にしか作られなくなった。
無論絶滅危惧種を積極的に食べようとは言わない、だがどんな食べ物であれども生命の重さに違いは無いと私は思う。
食うと言う事は、殺すと言う事であり、生きると言う事だ。
誰かが何かを食べる事を否定するのは、その人が生きる事を否定する事であり、その人が今まで生きる為に糧としてきた生命を否定することだと思う。
だから私は、誰が何を食べようとそれにケチを付けたり文句を言ったりするつもりは無い、同様に、私が何を食べようとそれにケチを付けたり文句を言ったりする権利も誰にも無いと思う。
食べると言う事は、誰もが犯す罪なのだと思うから。