第四話『使い魔使いの魔法使いと使い魔上がりの紛い使い』(中)
3.
一階の捜査を中途で切り上げて二階へ上がった明は、まず真っ先に、先程自分を襲ったバレーボールが現れた辺りへとやって来ていた。しゃがみ、床に手をつき、目を閉じる。タロウはそれをただじっと見ている。やがて目を開けた明はすっと立ち上がる。
「やっぱり。魔力の残滓も何もない。タロウ、何か感じたか?」その問いに、タロウは首を横に振って答える。「お前ですら何にも感じないってことは本物だな。しっかし、直接の魔法でもないのにあんな現象を起こすなんて……、一体……」言って。竹河明は眉を顰める。「やばいなあ。本格的に、俺一人の手に負えるようなもんじゃなくなってきたかも」溜息を吐く明の脚を、タロウは鼻で小突いた。気付いた明は、ズボンのポケットに突っ込みかけた手を止め、柔らかな笑顔を彼に向ける。「そうだな。お前がいるんだから、一人じゃあないな。よし、行くか」
気合を入れ直した明は、ポケットから何も取り出さず、手を抜いた。とほぼ同時に。
「らららあー」
少女のものらしき声が廊下に響き渡った。
「あ?」「わふ?」
あまりに調子の外れた鼻歌に、寡黙なタロウでさえ思わず声を出してしまう。
「ら、ら、ら、らー」
下手くそで。有体に言えば音痴な鼻歌。しかし。辛うじて想像することの出来る本来のメロディに、明は聞き覚えがあった。
――運命?
ベートーベン交響曲第五番。通称、『運命』。交響曲第九番(通称、『第九』)と並び、日本でも富に有名なベートーベンの傑作曲でありながら、ギャップを狙った効果音としての印象が広まり過ぎて、今や笑いの場面で使われることが殆どになってしまったという、ある意味、悲惨な曲。それが、女子トイレの中から聞こえてきていた。
――よりにもよって……。
参ったな。と、頭を抱えつつも、明は女子トイレの中へと歩を進めた。タロウには「ここにいて見張っててくれ」と命じて。
三塙小学校二階の女子トイレ、奥から三番目の個室。下手くそな『運命』は、その中から聞こえて来ていた。フック式の鍵は掛かっておらず、故に扉は開け放されており、明は大した心の準備もなく、歌の主を見ることになった。
身体全体が半透明で。おかっぱで。ジャンパースカート風の真赤な制服を着た、見目十歳ほどの少女が、そこにはいた。
「なんだ、お前」
気付けば声が出ていたと言うぐらいごく自然に。明は彼女に話し掛けた。
「ヒトに名前を聞く時は、まず自分から名乘りなさいな」
鼻歌を中断した少女は、明の登場に驚く様子も見せずに凄む。まさかその凄みに屈したわけでもなかろうが、明は彼女の言う通りにする。
――名前を聞いたわけじゃないんだけど。
とは言い返さない。
「俺は明。で、こいつはタロウだ」
「そう、私は花子。お化けの花子。この邊ではトイレの花子さんで通ってる。よろしく」
「トイレの花子さんだってえ?」明は遂に驚愕して声を上げる。「待て待て待て待て、じゃあ何か? お前、あのトイレの花子さんだってのか?!」
「『あの』と言われても私にはピンとこないけど。私がトイレの花子さんだってことはちゃんと今自分の口から言ったところじゃないの」
「まあ、そうなんだが」
そういうことじゃないんだよ。と、明は懇切丁寧に『トイレの花子さん』という国内最メジャー級のお化けについて語ろうとしたが、坊主に説法以下の効果しかないと見て止めた。
「…………」
「なんだ?」
花子さんに顔を凝視されていることに気付いた明は訊ねる。すると花子さんは一度首を捻ってから答える。
「驚かないんだね」
「あん?」
「驚かないし、恐がらないんだね、私を見ても。そんな人間初めて。そもそも私の姿が視えて、その上お話まで出來る相手なんて滅多にいやしないんだけど。あなた、一體どういうわけで小學校なんかにいるの? しかも女子トイレに堂々と入って来るし。變質者なの? それとも變態なの? もしかしなくてもロリコン?」
「なんだその三択!? 逃げ場がねえな! 〝もしか〟しろよ! ……いや、気持ちは分かる。こんなところをもし人間の誰かに見つかったら俺は間違いなく御用だ。でも違うんだ。俺は変質者でもないし変態でもないし、どっちかって言えば年上好きな、魔法使いだ」
突然に現れた少年の『魔法使い』宣言に――花子はげらげらと笑いだした。
「魔法使い! 馬っ鹿馬鹿しい! そんなの本當にいるわけないじゃない!」
「トイレの花子さんに言われたかねえな」嘆息。「この際、俺の正体は何だっていいだろ。お前に危害は加えないから。ただ、幾つかの質問にだけ答えて欲しい。頼む」
「うーん、まあ、それぐらい賴まれてあげてもいいけどね。どうせ暇だし」
「ありがとう。じゃあ早速。この辺でおかしな鼠を見なかったか?」
「鼠? ううん。見てないよ」
「そっか。じゃあ次。……この学校には、お前以外にもお化けがいるのか?」
「いるよ」即答。「人面犬のロデム、人面猫のマダム、透明人間のバレーちゃん、人體模型の泰行くん……他にもたくさん。皆いいお化けたちだよ」
「……さっき俺はバレーちゃんと思しき奴に思いっきりボールをぶつけられたんだけど」
「あー、バレーちゃんは見回り擔當だからね。不審者は見境なく攻撃するんだよ」
「危ない見回りだな。まあいいけど。質問はそれだけだ。じゃあ俺はそろそろお暇する」
「なんだ、もう行くの。ばいばい、さよなら」
「おう、じゃあな」
手を振り、心なしか穏やかな表情で女子トイレを後にした明は、
廊下に出て戦慄した。
「お、まえは……」そこには、明とは別の一人の少年がいた。彼の脇には、ぐったりとしたタロウが抱えられている。果たしてその少年の姿は「マニア……ッッ!!」そのものであった。二年前。竹河明、竹河由布子、そして空見空也の三人が、力を合わせて打倒した魔法使い、マニア。
――いや、そんなわけはない。違う。あいつ(マニア)は死んだんだ。
ならば目の前の少年は幽霊か。花子さんよろしくのお化けか。それもあり得ぬ話であった。魔法使いの竹河明は幽霊の理屈について熟知している。幽霊とはすなわち魂の残り滓であり、魂ごと完全に消滅したマニアは幽霊にすらなれない。それでも目の前にいる少年は、一体何だと言うのか。
混乱の極みにありつつもタロウの身を案じる明は、迂闊に手を出せずに静止している。すると。それまでただ無言で明を見つめていた〝マニアによく似た少年〟は、唐突に踵を返して走り出した。
「なっ、待て!」
見失うわけにはいくまいと。明は全速力を持って彼に追い縋る。人に気付かれないようになるべく静かに、などという想念はかなぐり捨てて。
明は特別脚が速いというわけではなかったが、それでも高校時代の体育祭で徒競走の選手になった経験がある程度の脚力はあった。だがしかし。マニアに瓜二つな少年は、そんな明でも決して追いつけないだけのすばしっこさを持っていた。ただの一度も振り返ることなく走り続ける少年は、決して明に追いつかれることのない、しかし突き放すこともない速度を保っている。
――誘い込まれてる?
その懸念は、明の中で当然として浮かんでいた。というよりそう考えるのが当たり前であった。それでも。タロウという人質(人ではないが)を取られている以上、相手の策に乗るより他ない彼は、仕組まれた鬼ごっこをするしかなかった。
その果ては体育館であった。
階段を降り、一度校舎からも出て渡り廊下を伝い、明が辿り着いたのは体育館。扉を抜けたところで息も絶え絶えになり膝に手をつく明を尻目に、マニア似の少年はタロウを抱えたまま壇上に上がっていく。
その壇上に、一匹の鼠が鎮座していた。
少年は鼠の右隣に立ち、そこから乱暴にタロウを放り投げる。
「っ! う!」辛うじてタロウの身体を受け止めた明は、壇上の鼠を睨む。「お前」
「睨むなよ。同じ魔法使いじゃないか」鼠の言。「そいつを殺したわけでもあるまいに」
「……ここで何をやってるんだ」タロウの身体をゆっくりと床に置いてから、明は質問を続ける。「花子さんだのなんだの、都市伝説の魑魅魍魎が具現化してんのはお前の仕業か」
「そうだが、そうじゃない。あれは我の意思によるものではない。あれらの正体が魔法ではないことぐらい、分かっているだろう」
「ああ。あれは一体何なんだ?」
「粛清だ」
「粛清か」
やっぱりか。と、竹河明は舌打ちをした。
『粛清』――悪の因子を取り除いて世を清め正すという意味を持つこの言葉は、魔法使いが口にした際には、更に特別な意味を持つ。すなわち、世界からの『粛清』。
「そなたも存知している通り」鼠は言葉を紡ぐ。「世界に甚大なる影響を及ぼすと判断された魔法が行使された場合、その使い手たる魔法使いは世界からの『粛清』を受ける」
「お前がこの学校で行使した大規模魔法のせいで起きた粛清の一片が、都市伝説の具現化だってのか?」
「如何にも」
鼠は即答する。
魔法とは本来、世界の法則から大きくかけ離れた力である。どんな小さな魔法でも、世界に対して何らかの影響を与える。その影響がある基準を超えた時、魔法とは異なる超常現象が発生する。では何故その現象が『粛清』と表現されるのか。理由はひとつ。原因となった魔法を行使した魔法使いが、その超常現象によって致死する確率が八割と言われているからである。
「……現状確認出来ている現象は、都市伝説の化け物が具現化しているということであるが、その化け物たちの何れも、我を殺せるほどの力は持っていない。本格的な『粛清』はまだ始まっていないようだ」
「そうかよ。まあ、お前がまだ無事だってことはそういうことなんだろうな。それで。お前が行使した、世界から『粛清』されるほどの魔法ってのは何なんだよ」
「すべての魔法使いが目指す道だ。すなわち、異界への渡航」
「なっ」
竹河明は驚愕する。
『異界渡航』。それは確かに、この世界に住むすべての魔法使いが目指す道の一つである。ヒトだろうがネズミだろうが。魔法使いを名乗っている以上は、その道を目指していてもおかしくはない。目指していてもおかしくはないが、実際にそれを可能にしたとなると話はまるで変わってくる。
「まさか、開いたってのか!? 異界への扉を?」
「如何にも。もっとも、今その扉は非常に不安定な状態にある。どこの世界に繋がっているかも分からないし、生きたまま通り抜けられる確率は正しく万に一つと言ったところ」
「……」
絶句。明は、今度こそ口に出す言葉を失った。代わりに心の中で呟く。
――万に一つ、それだけで充分過ぎる確率だ。いや、こいつの言葉を信じるなら。生きて通り過ぎる云々を度外視すりゃあ、少なくともどこかの世界と確実につながった扉が、こいつによって作り出されたことになる。確かに凄まじい魔法行使だ。『粛清』を受けたっておかしくない。
「どうなってなんだよ、てめえは」明は、絶していた言葉を絞り出す。「そもそもただのネズミが使い魔になったってだけで魔法使いになれるのが既に常軌を逸してる」
「ふん。ヒトに相応しい傲慢だな」明の叫びをつまらなさそうに聞いた鼠は、嘲笑を伴った声色で告げる。「人間も魔法使いも、ヒトはどの世界でも変わらんな。狭い狭い視野が狭い。固い固い頭が固い。魔法を行使するには魔法を使うしかないと思っているのか?」
「何言ってんだ、お前」だって意味が分からない。魔法を行使するには魔法を使うしかないと〝思っている〟?「当然だろ」
顔色一つ変えずに言い切った明であったが、
「たとえば」鼠もまた、声色一つ変えずに返す。「一組の男女がいたとして、女が男から盗んだカードで宝石を買ったら、その宝石は女の物になるよなあ。しかしこの場合、その宝石を買ったのは女なのか? 女は宝石を手に入れるために自分の〝金〟を一切使っていないのに」
「回りくどい説明の仕方はやめろ」
「つまりだな。我の魔法は特殊なのだよ。そなたらのような普通の魔法使いが、自身の体内で魔力を練るのに対し、我は自らの魔力を消費せずに魔法を行使する」
「? どういうことだ? 他の魔法使いから魔力を盗んでるってのか?」
「今日が何の日かは知っているな?」
「はあ!?」
唐突な話題転換について行けず、思わず声を上げる明を無視して、鼠は続ける。
「七月七日、七夕。さぞ多くの人間が紙切れに自らの願いを託していることだろう。無論それらの人間のほぼ全員が魔法使いでないどころか魔法とそもそも縁遠い日本人なわけである。が。それでも、千や万と言った人間――特に、幼く純粋な子どもの〝願う力〟を集結させれば、相当な魔力に変換出来るとは思わないか?」鼠が理屈を言い終えると同時に、壇上に灯りが点いた。鼠の背後には、山のように積まれた笹が――。「これが答えだ」
「お前っ」明の拳がぶるぶると、肩がわなわなと震えている。心は怒りに埋め尽くされている。激昂。「子どもの願いを利用しやがったのか!!」
「そうとも。魔法使いではない人間でも、その〝願い〟の力にはごく微量ながら魔力が宿る。純粋な子どもなら尚更。五千人分も集めれば、大魔法使い数人分の魔力に相当する。我の『異界渡航』は、今日と言う日だからこそ実現できた魔法。故に待った。今日まで待った。無論、昨年の七月七日にも同様の方法で行使しようとしたが、その時は願いが足りなかった。だから待った。貯めて、待った。この日まで。二年分の願いを各地より収集し、今日この日、遂に『異界渡航』を行使したのだ。ガキどもの願いには、残念ながら犠牲となってもらうとしたよ。ここに書かれた願いの内、元来からして成就率が八〇%未満のものは、もう決して叶わない。今の魔法を解除しないまではな」
倫理より合理。
己の魔法のために他人の願いを踏みにじる悪辣。
――畜生がっ。こいつは確かに骨の髄まで魔法使い向きだな。性格だけは。
今すぐにでも鼠をぶちのめしたい衝動に駆られている明に、
「だがなあ」鼠は更に追い討ちをかける。「魔力の元となった力があまりにも純粋過ぎたせいで、我には到底扱い切れんかったみたいなのだ。〝扉〟が不安定な理由もそれが理由だろうて。そこで。出来得る限り純粋で素直な〝使い手〟が必要となったのだ。それだけでも〝扉〟の不安定さは大きく改善されるだろうからな。というわけで。彼女に協力願うことにした」
「彼女?」
「ああ。早速、ご登場願うとしよう」
鼠の呼びかけに応じて、壇上脇の帳の裏から現れたのは、首から下が完全に石化した童女。瞳に生気はなく、正体を失っている。さながらマネキン。
「あ」
明はその童女に見覚えがあった。彼女は、この日会ったばかりの女の子。勝原美海。
「貴様の犬が途中で邪魔したせいでさっきまでは不完全だったが、今し方完成した。我の魔法を行使するためだけの傀儡だ」
気付けば。明は鼠に向かって駆け出していた。怒りを超えた何かを込めた彼の拳は鼠に届くことなく、マニアを模した傀儡に阻まれた。
「そなたはそれと遊んでおれ。マニアの骨を元に再現した傀儡だ。無論、本人には遠く及ばんが……それでも、そなたの使い魔を一撃で降したのは他ならぬそいつだ。一筋縄ではいかんだろうな」
言って。鼠は動き出す。ごつごつと音を立てて歩く美海を引きつれて。
「待て! お前っ、どこ行く気だ!」
「〝扉〟の再調整を兼ねて、『粛清』を粛清してくるのさ」
汚らしい笑みを浮かべて、鼠は壇上から飛び降りた。