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空を見つめて  作者: 直弥
3/11

第二話『チュウ学生日記』(前)

 ――――2009.12.22 pm11:59

 鼠。昆虫よろしく六本の肢を持ちながら、世界中どこの誰が見かけても鼠と判ずるであろうこと必至の、要するに足の数だけが奇形という、灰色の鼠たちが、真夜中の高校にいた。哺乳類には不格好な六本の肢を器用に奇妙に使いこなし、床、壁、天井と、天地無用に駆け回っている。だが同時に、それらは皆一方向へ向かって走ってもいた。我先にと、『何か』から逃げるように。

 百を優に越える奇形鼠たちの大乱走。そこへ。足音、駆け足の音が近付いてくる。すなわち、『何か』が近付いて来ているのである。

「なあ、先輩一人にして、本当に良かったのか?」

「あ? 仕方ねえだろ。花ちゃんは一応、姉貴の使い魔だし。結局、俺らが追い込み役をやるしかないんだよ。今は余計なことを考えず、さっさとこいつらを姉貴のとこまで追い込めばいいんだ」

 空見空也と竹河明。同級生の二人は、名字が縫われた学校指定のジャージを着て、上履きを履き、鼠の大群を追い立てるために廊下を走っていた。長い廊下にもやがて突き当りが現れる。そこで待ち構えていたのは竹河由布子。

「明、空也君、そこでストーップ!」

 由布子が叫ぶと、明と空也は急ブレーキで見事に足を止めた。しかし。彼らに追われていた鼠たちは止まることなく走り続け――床から現れた無数の触手に絡めとられた。

「チウウウ、チウ! チュウ、チウ、チウウ」

 気味悪く蠢く触手どもは、捕まえた鼠たちを引き摺り込んで床の中へと消えていく。

「完全にホラーだ……」

 モンスターパニックの様相を目の当たりにして呆然とする空也をよそに、由布子と明はあまった触手と戯れていた。つまりこの瞬間、ジャージの三人は完全に緊張感をなくしていた。気が緩んでいた。鼠一匹、見逃してしまうほどに。


   1.


 空也が短冊に願い事を書いていた頃。彼の妹は、学校の教室で弁当を食べ終わり、コンパクトな四角い弁当箱を、キャラクター物のランチクロスで包んでいる真っ最中であった。その様子を、彼女の前の席に座っている少女が眺めていた。金髪碧眼のその少女の右手には、くしゃくしゃに丸めた菓子パンの空き袋が握られている。

「千夏の弁当って、あのお兄ちゃんが作っているんだよね? おいしいの?」

「んーっとねえ……おいしい時とすごくおいしい時がある。まずい時はないよ」

「へっえー、ワタシも作ってもらえるように頼んでみようかな。明日から」

 薄化粧の少女は戯れた笑いとともにそう言うが、

「それなら、私からお兄ちゃんに頼んでみるよ。夕七(ゆうな)ちゃん、嫌いなものとかある?」

 千夏は面白いように真に受けた言葉を返す。

「え!? い、いい、いいよ!」千夏に夕七と呼ばれた少女は両手を前に出して振りながら否定する。「アンタはホント素直だね。……食べ終わったんなら早く委員会行くよ。蒲谷(かまや)君を待たせているんだから。早く交代してあげないと」

「そうだね、うん」応えながら。まず立ち上がった夕七に従って、千夏も立ち上がる。立ち上がりつつ、夕七に告げる。「でも夕七ちゃん、蒲谷君じゃなくて浜谷君だよ」

「ああ、そうだったけ?」


 昼休み終了二十分前。放課後を除けば、一日の内で最も人の入りが激しくなる時間帯の図書室(エアコンこそ備え付けられていないが、風通しの良さから、本に興味がない者たちまで集まって来る)。受付の場所には、眼鏡を掛けた一人の男子生徒が座っていた。肩肘をついて乱歩の短編集を読んでいた彼に、

「や! 遅くなったね」

 夕七が元気よく声をかけた。眼鏡の男子生徒は読んでいた本を閉じ、彼女を見上げる。

「ああ、赤地さん。やっと来てくれたね。……空見は?」

 メガネ男子が訊ねると、夕七の後ろにすっぽりと隠れていた千夏がそっと顔を出した。

「ここにいるよ。ごめんね、浜谷君。私がお弁当食べるの遅かったから」

 殊勝に頭を下げる千夏を見たメガネ・ボーイ浜谷は、立ち上がって彼女を宥める。

「大丈夫、大丈夫。気にしなくっていいよ。僕も今来たところだからさ」

 ――アンタ、さっき〝やっと来た〟とか言ってなかったか? まったく……。

 じとっとした眼差しを浜谷に向けつつ、夕七は心の中で呟いた。そして。

「あのさ、千夏、浜谷君。ワタシ、どうしても外せない用事があるから、今日は二人で後の時間を回してくれないかな?」

「いいい!? あ、赤地さん!?」

 面白いように慌てふためく浜谷をよそに、

「夕七ちゃん。浜谷君、ご飯も食べてないのに可哀相だよ」千夏の反応はひどく冷静だった。「気にしないで。お昼ご飯、食べてきていいよ。私は一人でも大丈夫だから」

「でも……」

 はっきりとしない態度のまま、浜谷は室内を見渡した。

 篝火中学という名のこの私立中学には、第一、第二と二つの図書室があり、今彼らがいるのは、主に小説と新書が収められた『第一図書室』である。対する他方は、専門書籍が中心で自習室も兼ねている『第二図書室』。大学図書館ならばいざ知らず――如何に私立とは言え――ここは中学校である。昼休みに混むのは圧倒的に前者。今でも既に席の半分が埋まっている。浜谷がいなくなった後、更に人は増えるだろう。そして。昼食を終えた浜谷が戻って来るまでの間に、本の帯出をしようとする者たちが一斉に受付へ押し寄せることは必至(この学校図書室で本の帯出許可を求める者が最も多くなる瞬間は、昼休み終了の十分前から五分前にかけて――ちょうど予鈴がなる直前辺りである。暇潰し程度に読み進めていたはずの本が存外に面白くて、続きを家で読もうと思い始める辺りが、だいたいこの間に集中している)。一年生時から図書委員を務めている浜谷は当然としてそれを知っていたし、二年生になってから図書委員に転向した千夏であっても知らないはずがない。それでも千夏は「一人で大丈夫」と言っている。

 ――大丈夫、じゃないだろ。

 昼休みに図書室にいる連中全てが品行方正なわけもない。中にはガラの悪い者もいて、満員御礼に手間取る受付を口汚く罵る不良気取りすらいる。そんな時に「だったら先に帯出許可を得てから読め」と言い返せるほどに、千夏は強くない。浜谷はそのことも知っていた。しかもそちらは、経験として。

 それだけの理由があっても。しかし浜谷は、千夏にはっきりと自分の意向を伝えられずにまごつき、視線を泳がせていた。泳がせ過ぎて沖に出た彼の視線が、夕七に捕まった。冷やかにMK5(マジで切れる五秒前)な夕七の眼光、魔女の形相に、浜谷は――

「空見こそ気にするなよ僕は大丈夫だから赤地さんの分まで働くよ」

 捲し立てる早口で千夏へ言葉を返した。当の千夏は、一瞬、きょとんとした顔を浮かべた後、おずおずと口を開く。

「だけど、お腹減ってない? 今日はまだあと二時間も授業残ってるんだよ?」

「大丈夫だって! ほら! 僕、大好きだから! …………本が」

「ふうん」千夏は大きな目をぱちくりさせ、浜谷を覗き込む――十センチ以上の身長差から、必然、上目遣いになる。そして彼女は。「ありがとう。優しいね、浜谷君」

 と言って、満面の笑みを浮かべた。瞬間、ポッと顔を沸騰させた浜谷は、それを千夏に悟られまいとしてそっぽを向き、上擦った声で「大げさだって」とだけ言った。

 ――――夕七は消えていた。


    2.


 千夏らのいる図書室は、時が経つごとに少しずつ騒がしくなって来ていた。

「相変わらず。図書室なのに、ちっとも静かにならないよね、ここ」

「自習室が別にあるから、仕方ないよ。私語厳禁でもないし」

 第二図書室(=自習室)の存在から、ここ第一図書室では――飲食こそ禁止されているものの――私語厳禁といった決まりはなかった。度を超えた大声でもない限り、多少の雑談は許されている。そんな中、受付に二人きりとなった千夏と浜谷は、カウンターの前に並んで座っていた。小声で一方的に浜谷に話しかける千夏と、乱歩の短編集に目を落としながらそれに応える浜谷。そんな様であるから、二人の間にまともな会話はあまりなかったが、不意に、

「ね、浜谷君」と、千夏が話題を切り出した。「浜谷君は誰が好きなの?」

「っ!?」

 突然の質問に頓狂な声を上げてしまった浜谷は、同時に、持っていた本から手を放してしまう。ぱらぱらとページが逆戻りし、やや気味の悪い表紙が露わとなるが、浜谷の注意は全くもってそちらへ向かわない。ただ固まっている。そんな彼に千夏は、

「やっぱり、今読んでる江戸川乱歩? でも、この前は志賀直哉の本も読んでたし。その前は谷崎潤一郎だったよね」

 質問を重ねた。

「え。あ、あぁ、作家の話か」安堵と落胆の混在した声色で返答をしつつ、浜谷は気を取り直す。「そうだなあ。正直、好きな作家もジャンルもあんまりないんだよ。有名どころを一通り読んでるだけ。長編は苦手だから、あんまり読まないんだけど」

 嬉々として語る浜谷には何ら裏表が見られなければ、焦りの汗もない。なれば。

「浜谷君も長編苦手なんだ!」応える千夏もまた素直且つ嬉しげであった。「私もね、どうも長編って苦手で……。集中力がないのかな? あ! 浜谷君にも集中力がない、って言う気は、これっぽっちもないんだけど!」

 己が失言の弁解に焦燥する千夏に、浜谷は頬を緩ませて言った。

「いや。実際、僕って集中力ないんだよ。きっと。短編ですら流し読みにすることがあるくらいなんだから」

「そうなの? 浜谷君って真面目なイメージがあったんだけど」

「真面目と集中力の有無は全く別問題だと思うけど。それはさておいても。僕は別に真面目ってわけじゃないよ。成績だってそんなによくないしね」

 先週までの定期試験で、五教科総合点の学年順位が三十六位(全二百十五人中)だった浜谷がそう言うと、

「真面目さと成績だって別問題だと思うけどな」

 同じ試験で学年首位だった千夏はそう返した。

「うん……そうだな。空見は授業中あんなに寝てるのに、どうして成績いいんだ?」

「どうして、って言われても分からないよ。試験なんて、前の日に一時間勉強すれば満点採れるのばっかりなのに」

 瞬間。図書室に静寂が舞い降りる。千夏以外の誰もがぴたりと動きを止めた。千夏を知る者も知らない者も、彼女の言に絶句する。始めにその静止から解かれたのは浜谷。

「本気で言ってる?」

 信じられないことを聞いたといった風に――実際、聞いたのだが――浜谷は確認する。

「私、ウソなんか吐かないよ。吐いたことないでしょ?」

「そうだったな」

 ――それが問題なんだ。

 心の内で呟いて。浜谷は頭を抱えた。

 空見千夏。ほとんど超人的な記憶力と応用力を持つ彼女は、入学以来、抜き打ち以外の全試験全科目で満点という狂った結果を叩き出し続けている。それでいて己が如何に常人離れしているか自覚しておらず、自分と同じ勉強量で誰もが同じ成績を採れると思っているのだ。思っているだけならまだしも、それをそのまま口に出してしまうのだから始末に置けない。悪く悪くも素直が過ぎる。不器用な天才ほど世渡り下手になりやすいものである。実際、千夏の友達は決して多くない。一度でも話せば性悪でないことは分かるのだから、大っぴらに嫌われたりこそしていないものの、敬遠されがちであることは否めない。

「あのさ。空見自身がウソを吐いたことないのは分かったけど、誰かが空見にウソ吐いたことはあるだろ?」

「そりゃあるよ! お兄ちゃんも大ちゃんも、私のことしょっちゅうからかうんだもん。今朝だってひどいんだよ。いや、でもあれはからかったんじゃなくて寝坊した私を起こすためだったし……でもでも! 他にも起こし方はあったはずなのに、あれはひどいよ!」

「お、落ち着いてくれよ」ネズミの一件を思い出して憤慨する千夏をままと宥めつつ、浜谷は諭す。「やっぱりさ、空見がすぐ何でもかんでも信じちまうから面白がられちゃうんじゃないか? ちょっとは人を疑えるようにならないと」

「そんなこと言われても。どうすればいいの?」

「ううん。じゃあ、委員会以外でも、たまに僕と喋ってみる? 時折ウソを挟むから、それを空見が見抜けるかどうかテストしよう。最初の内は分かり易いウソにするから」

「それ、ゲームみたいで面白いかも。うん! やろう、やろう!」

 千夏は、小声という、自分に課した最低限度のマナーも忘れてはしゃぐ。彼女の了解を得られてこっそりとガッツポーズを決めた浜谷は、早速ゲームを開始する。

「よし。空見、実は俺のお母さん、魔女なんだ」

「浜谷君、今のはウソ? ホント?」

「空見、それ聞いちゃダメ」


 さて。千夏が浜谷に訊いちゃダメなことを訊いていた頃。カーテンの閉まった、暗がりの音楽室にて。無人の空間に、カチャカチャという音。壁に掛けられたタンバリンが震えている。果たしてその裏から現れたのは、

「チウ」

 一匹の鼠であった。六本の肢を持つ、半透明の奇形鼠。そろそろと壁伝いに床へ降りたそれは、自身の胴よりも長い尻尾を、ピンと張ったまま規則的に左右に振り始めた。その動きが「チッ、チッ、チッ」という鳴き声と見事にシンクロしている。さながらメトロノーム。どうにも不思議な空気の流れるこの音楽室の扉が――唐突に開いた。

「ほう。主が死んだというのに、まだそこまで原型を留めておるのかい」

 言葉とともに現れたのは、金髪碧眼の老婦。六十代半ばと見られる彼女はまったく音を立てずに扉を閉めた――閉められた途端、鍵が自動的にかかる。一方。先客の鼠は尻尾の動きをはたと止め、彼女を見上げた。見上げ、言った。人語で。日本語で。

「貴様ハ……レッドフィールドの…………ッッッ! 何故ダッ! 何故貴様ガ、コンナトコロニイル!?」井戸の奥底から聞こえてくるような低くくぐもった声(どういうわけかさっきまでの鳴き声とは似ても似つかない)には、明確な恐怖の感情が孕まれていた。同程度の怒りも。「イイヤ、何故モ何モアリハシナイカ。消シニキタノダナ、手前ヲ。娘ドモガ残シタ禍根ヲ絶ヤシニキタカ」

「アンタの主をやっつけたのはワタシの娘たちじゃなくて、娘の娘たち――孫たちだよ。それはともかく。勝手に一人で結論づけて納得するんじゃないよ」嘆息。「どうせ個体じゃ何も出来ない上に、放っておいてもあと数年で消えてしまう。そんなアンタをどうしてわざわざ消さなきゃならないんだい? まったく。折角助けに来たのに、何という言い草だ」

「助ケニ来タダト? 馬鹿ナ! アリ得ヌ!!」絶叫の後。「アリ得ヌ、アリ得ヌ……」

 (くう)を見つめ、うわ言のようにそう呟く。そんな鼠を見下ろす老婦は、やはり嘆息する。

「あり得ぬ、とはまた失礼だね。アンタはワタシをなんだと思っているのさ。鬼か?」

「フン。如何ナ悪鬼羅刹モ、貴様ラ魔法使イヨリハマダマシダ」

「そこまで言うか。アンタの主ってのは、よっぽどのろくでなしだったんだねえ。だけどまあ、ちょっと聞きなよ。魔法使い皆がアンタの知っているようなペテン師じゃない」

「ドウダカ。ソノ言葉コソガペデンダトイウ可能性モアルノダ」

「そんなこと言い始めたらキリがないじゃないか。素直過ぎるのも問題だが、疑い過ぎるというのはもっと性質が悪いな。話が通じないんだから。はあ、仕方ないな」言って。老婦はやれやれと肩を竦め、腰を屈める。そうやって視線の高さを鼠に合わせ、告げる。「あのねえ、実は手伝って欲しいことがあるんだよ。そのためにアンタを使い魔にしたいってわけさ。どうだい? こうやって理由を明確にすれば満足かい?」

「理由モ無ク、タダ助ケルト言ウヨリハナ……。シカシ、何ヲサセヨウト言ウノダ? 所詮、手前ハ、シガナイ鼠。人語ヲ解スル以外ニ能モ技モアリハセンゾ」

 疑いは緩和させつつも訝しみは残したまま。鼠は、皮肉めいた自虐をする。

「ふっふうん。使い魔を上手く扱えるかどうかは魔法使い次第だよ。ま、任せてみな」

「面白イ。ソコマデ言ウナラヤッテミロ。命捨テル気概デ、貴様ニコノ手前ノ全テヲ預ケヨウ。モトヨリ。同腹ヲ見捨テテマデ永ラエテイル命――ソコマデシテモ、ドウセコノママデハ直ニ消滅スル身体ダ」

「よっし。じゃ、さっそく契約更新だ。アンタを私の使い魔にする。アンタ、名前は?」

「名前カ。ソンナモノハ無イ。名前ニ意味ナドアリハシナイ」

「そうだった。普通の魔法使いは自分の名前も捨てる上に、使い魔にも名前を付けたりしないんだっけね。だがワタシは生憎と普通じゃない。だからアンタにも名前を付ける。そうだねえ、うん、決めた! アンタの名前は『アモール』だ」

「……………………エ?」

「あれ? 不服かい? 何かおかしかったかな?」

「(ソノ名前ハ似合ワナイダロウ、ドウ考エテモ)……イヤ。モウ何ダッテ構ワン。了解シタ。手前ハ今ヨリ『アモール』ダナ。シテ、貴様ノ名ハ何トイウノダ? 一応オ聞カセ願イタイ。姓ガ『レッドフィールド』デアルコトハ知ッテイルノダガ」

「ワタシの名前はユウナだよ。因みに。結婚してファミリーネームも変わったから、もうレッドフィールドじゃない。私の名前は赤地ユウナさ。よろしく」

「アア。宜シク頼ム、ユウナ殿」

 言って。頭を垂れたアモールの背を、ユウナは優しく撫でた。瞬間、半透明だったアモールの身体が俄かに色づき始めた。灰色にではなく、赤みの強い茶褐色に。先代主の情報は半分がリセットされて、今ここに、ユウナの使い魔としてのアモールが再誕した。

「Good! いいじゃないか! 悪くないよ。肢はどうしたもんかね。アンタがまだ普通のネズミだった頃のように、四本に戻すことも出来るけれど、どうする?」

「辞退する」ユウナの問いに答えるアモールの声は、先までのくぐもった声とは打って変わって、透き通っていた。「六本の肢にも、もうすっかり慣れてしまったからな。そんなことより。早速、貴様の頼みとやらを聞こうではないか。手前は何をすればよいのだ?」

「殊勝だねえ。そう焦らなくってもいいのに。大したことじゃあないんだよ。ひとつ、若い男と女の恋愛を取り持ってみようと思ってね」


   3.


 再び図書室。千夏と浜谷のゲームは目下のところ続いていた。

「そう言えば。昨日、母さんの誕生日だったんだけど、父さんがそれ忘れちゃってたせいで母さんが拗ねちゃってさ。いい大人が子どもみたいに。やめて欲しいよ、ホント」

「あはは、可愛くっていいじゃない。でも、浜谷君のお母さんって綺麗だし若いよね。何歳ぐらいなのかな?」

「昨日はちょうど四十五歳の誕生日だったよ」

「え」妙な声を発した千夏は、浜谷の母の姿を思い出す。未だに学生からナンパされることもあるという、二十代でも十分に通用する容姿。「あ、そうか! 今のが冗談なんだね」

 なんだなんだ、と。千夏は一人納得して安堵の吐息を漏らすが、

「いや、これはホント」

「で!?」

 浜谷の一刀両断に、「え」以上の驚きを込めた「で」で応えた。


 さて。初々しい二人の中学生を見守る――もとい盗み見る老魔女が一人に鼠が一匹。

「なるほど。貴様が節介を焼こうと言うのはあの二人のことか」

「うん。どう? なかなか似合いの二人だと思わないかい? 美少年と美少女の!」

「人間の美醜はよく分からん。手前、鼠なんでな。個体の区別ぐらいはつくのだが」

 一人と一匹が会話する、メルヘンな光景。恐らくはユウナの魔法であろうが、透明人間透明鼠と化した彼女らは、カウンターからや離れた場所で千夏らの様子を窺っていた。ややすると、鼠改めアモールの視点が一点に定められていることにユウナが気付いた。

「怖い顔して、どうかしたのかい?」

「……よく手前の表情が分かるな。いやな? あの娘に、妙な既視感を覚えるのだが」

「千夏ちゃんのことか? あの子は空也君の妹なんだよ。そのせいじゃないかい?」

「くうや? はて?」

「空也君っていうのは、ワタシの孫たちの友人だよ。ほら、アンタの前の主を倒したメンバーの中に、一人だけ魔法使いじゃない男の子がいただろ? あの子だよ」

「ああ」空也のことを想起したと見えて、アモールは目を見開いた。「主君の倒される瞬間は見ておらんのだが、確かにあの夜、あの学校には、魔法使いでもない少年が一人おったな。そうか、あれの妹か。言われてみると、なるほど、どこか似た雰囲気がある」

「雰囲気は似ていても性格がねえ。まるで正反対なんだよ。……素直なのに鈍いんだ」

 言って。ユウナは、浜谷を同情の目で見つめる。当の浜谷は、千夏と話せているというただそれだけで、だらしなく目尻を下げている。

「あのままでも十分幸せそうだがな。特に、少年の方は」

「そりゃあそうかもしれないけれど。歯痒くってこっちが見てられないんだよ」

「やれやれ。本当に余計な節介になりそうだな。今更止めはせんが。さあ、具体的にどういった策を練っているのか、聞かせてもらえるか?」

「うん、そうだね」


 さてさて。魔女と鼠の存在など知る由もない千夏たちは、相も変わらずわきあいあいとしていたが、そこへ一人の男子生徒が、一冊の本を持ってやって来た。

「すみません、これ、借りたいんですけど」

「あ、はい。じゃあえっと、図書カード出してもらえますか?」

 帯出許可を求める生徒に対応する浜谷。と、また別の、今度は女子生徒がやって来て、千夏に話しかける。

「空見先輩、私も借りたいんですけど」

「分かった。じゃ、カード出してね」

 こうなってくると連続して忙しくなる。予鈴一分前となって、最初の一人を皮切りとして。予鈴が鳴り出す頃には行列が出来上がった。受付の二人は大わらわ。本鈴のなる直前まで対応に追われ続けた。


 四分後。千夏と浜谷以外に、視える人間がいなくなった図書室。受付の椅子から立ち上がった千夏が、手で額の汗を拭いつつ、相方を労う。

「ふうっ。やっと終わったね。ご苦労様」

「うん。空見もご苦労様。じゃ、僕たちも教室に帰ろうか」

 そう言って、浜谷も立ち上がる。千夏と浜谷。並んで立つと、二人の背丈に成人男女ほどの差があると分かる。一六一センチの浜谷と、一四六センチの千夏。その差は実に十五センチであるが、平均的な浜谷に対し、一方的に千夏が小さいだけであったりする。

 先に千夏が外へ出ると、スイッチで灯りを落とした浜谷も続いて廊下へ出て、扉に鍵を掛ける。中学校だけあってか、鍵穴の位置は低めであり、鍵を掛ける際に浜谷が中腰になるのはごく自然なことであった。中腰ともなると視線が斜め下に向かうのが当然なことであり、そうなると、床にいる六本肢の鼠に気付くのが当たり前であった。

「あ、ネズミだ」「みにぃひゃあああ!」

 浜谷の『だ』から千夏の『み』まで、まったくもって間髪がなかった。悲鳴とともに浜谷の背中に抱きついた千夏は、腕を前に回し、ひしと抱きつき続ける。ぎゃあぎゃあという悲鳴も上げ続けたままで。

 

 さてさてさて。一仕事終えた六本肢の鼠ことアモールは、踏み潰される前に再び透明と化し、そそくさとユウナの元へと駆け戻っていた。足を伝って彼女の身体を昇って行き、肩に落ち着き、耳元で声を出す。

「古い手だな、しかし。こんなことで果たして上手く行くのか?」

「さあ。ワタシが昔コミックで見たSituationを真似してみただけだから。でも、何もしないよりはマシさ。ああいう二人には何か事件でもないと進展がないだろう?」

「そう言い切ってしまうのもどうかと思うが」

 色々と文句を付けながらも、結局は自分も二人の成り行きに興味があるのか。アモールはそれ以上のぼやきは止して、千夏たちへと視線を向けた。

「う、空見……苦し…………」渾身の力で千夏に抱きつかれている浜谷は、彼女をタップしようとして腕を伸ばすが。「!!」

 ふくよかな千夏の胸が背中に――というより腰のすぐ上辺りに――押しつけられている感触に気付くと同時に、彼女に抱きつかれているという事実を思い出し、その腕をだらんと下ろしてしまう。この役得、というよりも厄得を、一瞬でも長く味わいたいという如何にも中学生男子らしい欲求に理性が敗北した瞬間であった。

「あ、堕ちたね」

「完全に堕ちたな」

 それなりの場数を踏んでいる。かどうかはともかくとして。少なくとも浜谷よりは精神的に老成している一人と一匹には、少年の心情など分かり易いことこの上なかった。

 ますます夢中となって二人の様子を窺う彼らのことなど露も知らず、浜谷を締め付ける力をみるみる強めていく千夏。それでも尚声も出さずに耐える浜谷。しかしやがて。ぱきゃっという音が鳴って、浜谷が白目を剥いた。

「あ、落ちたね」

「完全に落ちたな。……落としてどうする」

「きゃ、きゃあ! 浜谷君! 浜谷君!!」

 パニックに陥った千夏は、浜谷の頬を叩いたり頭をゆすったりしてみるが、彼からの反応は一切ない。白い目を乗せた蒼い顔を、ただくてっと垂れているのみであった。

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