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空を見つめて  作者: 直弥
2/11

第一話『ハンカチ』

 ――――2009.12.22 pm11:53

 真っ暗い闇に覆われた空の下、何処かの学校にて。

 青いジャージを着た少年が二人、薄桃色のジャージを着た少女が一人、校門の前に立っていた。少年の内一人は黒髪、他方は茶髪で、二人とも床屋でカットだけ頼んだような髪型をしている――癖もほとんどない。少女は腰まで届く勢いの茶髪をポニーテイルにしており、服装も手伝って、如何にも活発そうな雰囲気を漂わせている。

 黒髪の少年が着ているジャージには『空見』の刺繍、茶髪の少年と少女のジャージには『竹河』の刺繍。精悍な顔つきで校舎を見つめる彼ら三人の足元には、大きな水たまりが出来ていた。

「もう時間だ。行こう、明、空也君。準備はいいよね?」

 先に一歩前へ踏み出した少女が、閉ざされた校門に右手で触れ、そのまま少年たちの方を振り返って訊ねる。少年は二人とも、無言で頷いた。それを確認した少女は再び門の方を向く。瞬間。鉄製の門全体が砂のようになって崩れ出し、それが彼女の手の中へと吸い込まれていった――渦を巻きながら。ほんの三秒後に、門は跡形もなく消えてしまった。

「さあ、行くよ。今日こそあの魔法使いを粛清してやろう、私たちの手で!」

 少女の宣誓の後、三人は校舎内に向かって猛然と駆け出した。


   1.


 主婦の朝は忙しい。よって、主夫の朝も忙しい。とどのつまり。細君なき家事担当者の朝もまた同様に忙しい。空見空也は空見家の長男にして、家事担当である。弟と妹を学校に送り出した後、彼は、夜の内に動かしておいた洗濯機から洗濯物を取り出し、籠に詰めて庭に出た。言わずもがな、干すためである。

 ――あー、暑い……。なんだ今日は。四十度以上あるんじゃねえか?

 激しく照りつける梅雨明けの陽射しを受け、空也は参っていた。参りながらも、籠の中から無地で黄緑色のバスタオルを拾い出し、しわを伸ばす。伸ばし切り、物干し竿に掛ける。続いて次のバスタオルを取り出そうと腰を屈めた彼の耳に、

「あら。空也君、おはよう」

 上品な女性の声が入って来た。

「おはようございます、浜谷さん。久しぶりの洗濯日和ですね」ハンドバッグを片手に空見家の前を通りすがった、短髪でグラマタスな若々しい容姿の女性からの挨拶に、空也はにこやかに応えた。ある遊園地のマスコット・キャラクター(耳の垂れたウサギを擬人化したもの)が印刷されたバスタオルのしわを伸ばしながら、彼は言葉を続ける。「こんなに早くから、お買い物ですか?」

「まさか。この時間は、まだタケカワも開いてないでしょ? 今から行くのは美容院よ」

「ああ、そうなんですか。じゃ、お気を付けて」

 キャラ物のバスタオルを無地のバスタオルの横に引っかけながら、空也は言う。

「ええ、ありがとう。じゃあね、空也君」

 歩き出しながら、彼に応える女性。こうして、空也に「浜谷」と呼ばれた女性は歩き去った。街行く男たちの視線を一身に集めそうな彼女の魅惑的な背を、空也は、

 ――あれでナッちゃんと同い年の息子がいるってんだから凄いな。

 と、感嘆しながら見送った。


 洗濯物を干し終えて居間に戻って来た空也は、朝食の残骸を片付けたちゃぶ台で、新聞の折り込み広告を眺めていた。近所のスーパー〈タケカワ〉の安売りを報せる、二色刷りのチラシ。国産豚バラ肉五十八円(百グラム当たり)、木綿豆腐一丁四十円、ゴーヤ一本八十八円。卵一パック(十個入り)百五円。そして本日の目玉は。

「キャベツ一玉、二十九円!? お買い得っ!」

 買うっきゃねえ! とばかりに。声にまで出して驚嘆した空也は、壁に掛けられた時計を見遣る。現在の時刻は午前九時二十九分。広告にも記載されたタケカワの開店時間は午前九時三十分。空也はおもむろに腰を上げた。


 開店時刻から六分遅れでタケカワに流れ込んだ空也は、緑色の買い物カゴを片手に、野菜コーナーへと一直線。『広告の品』のプレートが掲げられた一角に配置されたキャベツの山から一つを手に取り、カゴへ入れる。

 ――よっしゃ。あとはこのキャベツで何を作るかだな。何がいいかな。ナッちゃんはロールキャベツ好きだし。豚肉が安かったから、ホイコーローとかも。あ。

 夕食の献立を考えながら歩いていた空也の目に、ホウレン草が映る。一袋、十六円。

 ――特売の時より安くなってやがるな。けど。流石にこれ以上のホウレン草押しは可哀相か。ナッちゃんに至っては弁当にまでホウレン草入れちゃったし……。

 ――よし、今日の副菜はロールキャベツにしよう。

 五食連続でホウレン草と出会う羽目にしてしまった妹を思い、空也は決心する。その決心を抱えたまま、精肉コーナーへと向かおうとした彼の背に。

「空也?」

 聞き知った男の声が掛けられた。振り返った空也は、やはり見知った顔を見つけた。

「明か」

 明。空也の高校時代の同級生。

 二年生で初めて同じクラスとなり、それまでは殆ど話す機会もなかった二人は、しかしある事件を切っ掛けとして急速に親しくなった。という経緯がある。

「何だお前、自分の店で買い物か?」

「俺は名字が竹河なだけで、この店とは関係ねえよ。何度言ったら分かるんだ」

「いや、分かってるけど。何というか。この店でお前と会った時は、これがお決まりの台詞って感じがするんだよ。言わなきゃ気が済まない、っつうか」

「なんだよ、それ」憤慨するわけでもなく、ただ呆れて、竹河明は溜息を吐いた。『〈タケカワ〉=竹河明の両親が経営するスーパー』。空也のその勘違いこそ、二人が最初に言葉を交わした切っ掛けでもあったことを思い出しながら。空也が大学に進まなかったことを、改めて思い起こしながら。「……今お前、何やってんだっけ? 主夫?」

「嫁さんもいないのに主夫もないだろ。ただの家事担当だ」

「家事担当。今日は買い出しか?」

「そうだけど、お前はこんな所で何やってんだ? 平日の朝から。大学は?」

「今日は講義が午後からだからな。買い出しの手伝いやらされてんだ。ようは荷物持ち」

「荷物持ち?」

『荷物持ち』の部分に引っ掛かりを覚え、空也は怪訝な表情を浮かべる。荷物持ちだと言うからには、一人で来ていると言うことはないだろう。ならば。明は一体誰とこの店にやって来ているのか。心当たりのある人物を一人ずつ思い浮かべようとした空也の耳に、

「明、やっぱり卵は一人一パックだけだって――」彼が聞き知った女性の声が入り込んできた。「あれ? 空也君?」

「どうも」

 明の背方からやって来た女性に、空也は軽く会釈した。ゆるやかなパーマのかかったセミロングの茶髪、青い眼。顔立ちも含めて総合すると、四分の一ほど日本人らしさが欠けた風体の女性は、穏やかな笑顔を湛えて空也を見つめている。

「おい。俺を間に挟んで見つめ合うのはやめてくれ」

「おっと、わりわり」「あら、ごめん」

 明からの抗議を受け、二人はひょいひょいっと二歩横歩きし、改めて見つめ合う。

「……俺の真横で再開しようとするのもやめてくれねえか?」

「なんてこった。じゃあ俺たちはどこで再会の喜びを分かち合えって言うんだよ、明」

「そうよ。どこでやればいいって言うのよ、明」

「俺の目に入らないような場所でやれ、って言ってるんだよ! バカなのか!?」

「実のお姉ちゃんに向かって〝バカ〟とは何よ! そんな子に育てた覚えは」

「年子のお前に育てられた覚えはねえよ! 俺を育てたのはお前を育てたのと同じ二人組だ! 竹河宋二と竹河由布香だよ! はあっ……、はあっ…………」

 間隙なく叫び通した明は、肩で息をする。必死も必至といった具合。そんな彼に、

「ところで明、言い難いんだけど」

 由布子は小さな声で囁く。

「なんだよ」

(無理からぬことではあるが)疑心に満ちた目で姉を睨み付ける弟。どうせまた下らない戯言を言われるんだろうな、という諦観さえ思わせる表情を浮かべる彼に、由布子は、

「店中の人、皆、明のこと見てるよ。いきなり叫ぶもんだから」

 残酷な事実を包み隠さずに告げた。ハッとした明が辺りを見渡すと、買い物中の客ほぼ全員が明を見ていた。奇異なものを見る目で。あまりの残酷さに明は涙ぐむ。

「どうした。俺と先輩の再会シーンに感動して泣けてきたか?」

「もうそういうことでいいよ、って言いたいところだけどな」すっとぼけた空也に溜息を一つ贈ってから、明は言う。「お前ら、一昨日も会ってたじゃねえか」

 空見空也と竹河由布子。二人はとても仲良しだった。


「七夕か。小学校でやった以来だな。短冊なんて、言葉からして忘れかけてたぐらいだ」

「ホントにね。でも懐かしいなあ。イイと思うよ。お家で自主的に七夕するのって。空見家では代々やってることなの?」

「いや、大地が小学校に上がった頃からですよ。切っ掛けはよく覚えてませんけど、一回やり始めたら、そのまま恒例行事みたいになっちゃって」

「恒例行事、ということは。六年ぐらい前からはずっと続けてるわけだ。ふうん」

 店から逃げ出すようにして。手早く買い物を済ませた竹河姉弟と空也は、タケカワから少し離れた場所を歩きながら、雑談に興じていた。三人の手にはそれぞれ買い物袋(空也と明は両手に一つずつ、由布子は片手に一つだけ)。

「それで。短冊に書くこと、お前はもう決めてんのか? それとも、もう書いたとか?」

「まだなんにも。なかなか思いつかないもんなんだよなあ。毎年同じだと芸がないし、あんまり下手なこと書くと、大地やナッちゃんに見られた時、馬鹿にされそうだし。だからって、真剣に悩んでまで考えるようなことじゃない、ってのは分かってるんだけどな。参考までに聞きたいだけど、明なら何て書くよ?」

「俺? ううん……子どもの頃なら『お巡りさんになれますように』とか『野球が上手くなりたい』とか書いてた気がするけど」

「家ではパシリばっかりやらされてたもんね」

「うるさいな。大体、現状十分パシらせてるくせに。それはともかく願い事な。うん。今ならやっぱり『彼女が欲しい』かな」

「……年に一度しか会えない彼女が出来そうだな」

「!?」

「そんな青天の霹靂みたいな顔せんでも」目を見開き、ついでに大口も開けてそのまま固まってしまった明に、極めて冷静な突っ込みを入れてから、空也は由布子に視線と注意を移す。「先輩なら、どんなことをお願いしますか?」

「私? そうだなあ。叶えたいお願いごとはいっぱいあるけど……ああ、でもでも! 七夕の時に書くお願いごとって、正確には願掛けの一種らしいよ。つまり『自分の願いを自分自身の力で叶えるために努力します』ってことを、織姫様に誓うものなんだって。だから、こうして欲しいああして欲しいって気持ちで書くものじゃないんだよ、本来は」

「へええ。じゃあ、去年の俺が書いた『健康第一』も、あながちおかしい願い事じゃあなかったってことですね」

「「いや、それはおかしいと思うな」ぞ」

「あれ?」


 丁字路での別れ際。

「じゃあな。俺が夏休みに入ったら、どっか遊びに行こうぜ」

「おう。暇な時に、気が向いたらな。またメールでもしてくれ。時間があれば読むから」

「ばいばい、空也君。私も、たまには連絡していいかな?」

「いつでも電話して下さい。先輩に関することなら、最優先させますから。むしろ連絡なんかしなくったっていつでもウチに来て下さい。外出中なら帰宅します」

「これが差別か」

 姉と友人からの仕打ちに落胆し、明は肩を落とした。

様式美とも言えるやり取りを終え、二手に分かれた三人は各々の帰路を歩き出した。空也が一度だけ振り返った時、ちょうど同じように振り返った由布子がほほ笑んだ。


 帰宅した空也は掃除やら何やらと一通りの家事を終えて、しばらくをだらだらと過ごした後、自分で用意した昼食を一人で食べていた。食卓となっているちゃぶ台の上は、緑ほぼ一色。味噌汁とご飯が色彩的な意味合いで目立つという、近年稀に見る食卓。肉の類は一片もありはしない。余り物を消費するための、侘しく寂しい食事。

 空也はテレビを点けた。

『今日、七月七日は七夕。織姫様と彦星様が一年に一度だけ会えるロマンチックな日とあって、カップルで過ごすという人も多いようで』

若い男のアナウンサーに『す』までは言わせず、空也はテレビを消した。

「あー、もう! クリスマスといい七夕といい、何だって日本人はすぐカップルだアベックだとそういう方向に持って行きたがるんだよ! もっと家族を大切にしろ!」

「本当にそうだよね。だいたい。織姫様と彦星様が出会う日だからカップルの日、って発想がどうかしてるのよ。空のお星様なんかに自分達を重ねちゃってさ。メルヘン病じゃないの。何様だって言ってやりたいわ。あなた達はどうせ明日も明後日も会う気のくせに」

「ああ、まったくその通り。…………ん?」何かおかしい。気付いた空也は、九〇度近く首を横に回した。彼の傍に、竹河由布子が正座していた。「のわっ!? っとと!」突然の出来事に思わず落としかけた箸を、空也は寸ででキャッチした。「ふうっ……。危ない、危ない。先輩、なんでここにいるんですか! ああ、びっくりしたあ。びっくりした」

 皮肉や小ネタを挟む余裕もないほど、空也は慌てていた。それがおかしいのか、由布子は微かに笑いながらわけを話し始める。

「ごめんごめん。今なら確実に家にいると思ったから、来ちゃった。アポなしで来てもいいって言ってくれたのは空也くんでしょ? しかも、ついさっき」

「確かに言いましたけど、だからって限度ってもんがあるでしょ……。インターホンとかノックまで飛び越えられちゃあ、流石に心の準備が」

「じゃあ、迷惑だったかな? もう帰ろうか?」

「ごめんなさい、本当は今めちゃくちゃ嬉しいです。もうノックとかインターホンとかどうでもいいぐらい嬉しいです。やっほう!!」

 空也は、今にも踊り出しそうな勢いで立ち上がり、はしゃぎ始めた。

 事情を知らない第三者が見れば、警察を呼ぶか救急車を手配するか、もしくは完全無視で逃げるか。三択問題で迷うこと必至な光景が、そこにはあった。いや。事情を知っていても、救急車ぐらいは呼びたくなるかもしれない。肉体的な意味合いで病院送りにしたくなるかもしれないほどの場面。

「まあ、ともかく」言いつつ、空也は再び胡坐をかく。「先ずはこの昼飯をさっさと片づけちゃいますよ。先輩はもう食べて来たんですか?」

「んーん。今日は昼食パスかな。なんか食欲ないんだよ。早くも夏バテかなあ」

「今日暑いですもんね。でも、食べないとますます弱っちゃいますよ。素麺でもいいなら、今からでも湯がきましょうか? もう俺、食べ終わりましたし」

「相変わらず食べるのはやっ! って、いやいや、そこまで気を遣ってくれてなくっても大丈夫だよ。夜はしっかり食べるから。それに。残念だけど、今日はあんまり時間がないの。一緒に居られるのは、せいぜい、あと一時間ぐらいかな」

「どうして……って、ああ、学校か。じゃあ仕方ないですね。一時間か。ババ抜きでもやります? それとも七並べ? 大富豪? インディアンポーカー? ページワン?」

「……なに、その〝二人でも出来なくはないけど、二人だと壮絶に面白味のなさそうなゲーム〟のオンパレードは。そこまで言うなら、フリーセルとぐらい言えばいいのに」

「フリーセルは二人じゃ出来ませんよ」

「わかってるよ! あのね、今日はただ遊びに来たわけじゃないの。お誘いに来たの」

「お誘い?」

「そう、お誘い。もしよかったら、今から私と一緒に学校へ来てくれないかな?」

 由布子の口からその言葉が飛び出した途端、寸刻前まではただ愉しそうなだけであった空也の表情が強張った。

「何かあったんですか? もしかして、あいつが生きてたとか……?」

 恐々と訊ねる空也の声、表情は、真剣そのもの。が。

「んーん、違う違う」由布子はあっけらかんとして答える。「今日久しぶり(=二日ぶり)に空也君と会ったからかな? 今更になって思い出したんだけど、あいつと戦った夜、あそこに落し物しちゃってたみたいなの。でも、卒業した学校に一人で行くのは何となく心細くて。空也君が一緒だと心強いかなあって思ったんだけど、駄目かな?」

 手を合せて上目遣いで懇願する由布子に、空也の顔の強張りが弛む。わざとらしい溜息を一つ吐いてから、彼は言った。

「断る理由が見当たりませんが」


   2.


 ――――すべては、ある年の十二月に起きた出来事である。

 当時、高校二年生だった空見空也は、不幸にも一人の『魔法使い』に襲われ、幸運にも二人の『魔法使い』に助けられた。後者二人の『魔法使い』――それがすなわち竹河姉弟であった。漫画やゲームにおけるお決まりに則って、そのまま魔法使い同士の戦いに巻き込まれていった空也は、竹河姉弟とともに件の『魔法使い』を打倒した。その決戦の舞台となった場所こそ、空見空也と竹河姉弟の母校でもある高校。そんな、あまりにも思い入れの深い場所に、現在の空也と由布子がいた。

「ただでさえもう卒業した自分の学校に私服で来るのって、なんか変な感じですね」

「そだね。なんだか、すごく浮いちゃってる気がするよ」

 かつての学び舎で。由布子と空也は、居心地悪そうに視線を泳がせていた。

在学時代世話になった教員を介して学校の中へ入った彼らは今、二階にある職員室の前までやって来ている。時間はちょうど昼休みになったところ。制服を着た生徒たちは誰しも二人を見遣りながら通り過ぎて行く。懐かしい人物の来訪に驚きながら声を掛けてくる者たちもいた。由布子か空也、或いは両方に面識のある後輩たちである。

「……それにしても。あいつと戦った時の落とし物なんて、まだ残ってますかね? あれからもう二年近く経ってますけど」

「さあ、どうだろう? 誰かが拾って先生たちに届けてくれていたとしても、もう処分されていかも。ネコババされるようなものじゃないのは確かなんだけど」

「んー、ま、とにかく聞いてみましょう。折角ここまで来たんだから」

 意を決した空也がそう言いながら、職員室のドアノブに手を掛けようとした時、

「おっ! 竹河姉と空見じゃないか」

 二人の背に、やや低めだが確かに女性のものである声が掛けられた。驚いて振り返った空也たちの目に映ったのは、彼らにとって見覚えのあり過ぎる人物。女性にしてはやや高い背丈で、歳は二十代半ばから後半といったところ。髪は茶色のショートボブで、如何にもインテリな雰囲気を醸し立たせる、細長いレンズの眼鏡をかけている。

()(しば)先生、久しぶりっす」

「久しぶりです、波柴先生」

「うんうん。久しぶりだねえ、二人とも。だけど、どうしたんだ? わざわざ卒業した学校に来るだなんて。忘れ物でも取りに来たか?」

「はい、実はその通りで。いや、正確には忘れ物というか落とし物なんですけど。もしかしたら『落し物ボックス』にないかなあ……と思って」

 校内での拾得物を、持ち主が見つかるまで保管する『落とし物ボックス』。

「おいおい、まさかのまさかだよ。冗談のつもりで言ったのにさ。だけど、空見が卒業してから、もう三ヶ月経ってるんだぞう? 今更思い出して、わざわざ取りに来たのか?」

 波柴は呆れ返って嘆息するが、そこへ、

「いえ、その、落とし物をしたのは空也君じゃなくて私の方で」

 由布子が追い打ちをかけた。

「何だってえ? じゃあ更に一年前じゃないか。……まだ残ってるかなあ。ちょっと待ってな。探して来てやるよ。で、何を忘れたんだ?」

「ハンカチです。あの……『マーブル・フェアリー』の」

「マーブル・フェアリーって、ブランド物じゃないか。ハンカチでも、物によっちゃあ万とかするって聞いたことあるぞ? 生意気なモン使ってたんだね、アンタ」

「す、すみません」

「いや、謝ることではないけど。しっかし、そんなイイ物なら、もしかしてネコババされてるかもしれないよ? 生徒や同僚を疑いたくはないけどさ」

「あ、それは多分大丈夫です。あちこち伸び切っちゃってくたびれていますし、色落ちもしていて、はっきり言って相っ当汚くなっちゃってますから」

「そうなの? でも。それだと、仮に誰かに拾われてたとしても、もう捨てられてるんじゃないか? ま、期待せずに待ってな」

「お願いします」

 由布子はぺこりと頭を下げた。空也は、職員室へと入っていく波柴の背を見送ってから由布子に訊ねる。

「先輩、マーブル・フェアリーのハンカチなんて持ってたんですか。意外。ブランド好きのイメージあんまりなかったんですけど」

「ブランド物が好きってわけじゃないよ。ただ、あれはお祖母ちゃんからもらった物だから。お祖母ちゃんの話は、したことあったっけ?」

「軽く三十回ぐらいは。その世界では歴史に名を残すほど凄腕の魔法使いで、旦那さんと一緒に世界を救ったこともあるとかないとか」

 言いながら、そのあまりにもな荒唐無稽さに、空也は思わず笑ってしまう。世界を救った魔法使いとそのパートーナー。そこだけを聞けば、まるっきりファンタジーの出来事としか思えないのも無理はない。しかし。由布子は空也の態度に立腹する。

「三十回ぐらい言っても信じてくれてないんだね。魔法が実在することを知らない人ならともかく、空也君はその両方を自分の目で見て手で触れて知ってるのに」

「いや、信じてないって言うか……」拗ねてそっぽを向いてしまった由布子をなだめようとしてか、空也は慌てる。「ほら、信じられないほど凄いって言うことですよ! あれ?」

「言ってて自分で意味分からなくなってるじゃない。いいよ、もう。空也君が信じようと信じまいと、事実が変わるわけじゃないんだし」

「きっついこと言うなあ」

 と、力なくうなだれる空也をよそに。由布子は、彼に見えないようにこっそりと舌を出し、小悪魔的な微笑みを浮かべていた。そうこうしている内に職員室から戻って来た波柴が、ぼろ切れのようになったハンカチを広げながら、由布子に訊ねた。

「なんか、ずいぶんとあっさり見つかったけど、これか? これだよな?」

「ああ、はい! それです、それです!」

蝶を擬人化したような、四枚の翅を背中に生やした妖精たち――それぞれが色取り取りの大理石(マーブル)模様―――が不規則に配された薄手のハンカチーフを見て、由布子は飛び上がりそうな喜び様を見せる。

「まったく。そんなに大事な物なら、二年間も忘れっ放しにするんじゃないよ」

 呆れつつも。波柴はハンカチを由布子に手渡す。それを受け取ってすぐ、ほとんど反射的にポケットへ仕舞い込んだ由布子は、顔を赤くして頭を掻く。

「いやあ、あの頃は色々ありまして、つい。それに、小さい時から常に持ち歩いていた物ですから。傍にあるのが当たり前過ぎて、ないことに逆に気付けなかったと言いますか」

「あー、確かにあるね。そういうことは。長いこと付き合ってから別れると、しばらくは別れたことすら忘れちゃったりね。あたしもついこの前、別れたことも忘れて元彼の部屋にいきなり押し掛けちゃってさあ。もう少しで通報されるとこだったよ。あははは」

「それ先輩の話と全然違うし、生々し過ぎて笑えませんから」 

 空也の言に、由布子はうんうんと頷いた。


 母校を後にした空也と由布子は、空見家の縁側に並んで腰かけていた。靴を履いたままの足をぶらぶらさせながら。

「時間はいいんですか? そろそろ行かないと、講義の開始時間に間に合わないんじゃ」

「大丈夫、ダイジョーブ。さっき大学のポータルサイトからメールが来て、三講時目の私の講義は臨時休講になったらしいから。次の講義まではあと二時間ほどある」

「そうですか、なら大丈夫ですね」

 時間的余裕を得て、特に目的もなくなった二人は、ゆとりを持った心持ちで夏の午後を過ごしていた。

「先輩。よかったら、さっきのハンカチ見せてくれませんか?」

「いいよ。はい」

 言って。由布子は件のハンカチをポケットから取り出し、空也に渡す。受け取った空也は慎重な手つきでそれを広げた。二年近く落し物ボックスに埋もれていたのだから当然ではあるが、やはり相当にしわくちゃとなっている。更に注意深く観察すれば、洗濯してアイロンを当てても元通りにならないこと確実な、伸び切ってしまった箇所がそこここにある。色落ちの具合も酷いもので、右半分と左半分ではまるで色が違っている。最初っからそういうデザインなのかと疑いたくなるほどに。

「これ、どんな経緯でお祖母さんからもらったんですか? 誕生日プレゼントとか?」

「んー、誕生日プレゼントと言えば誕生日プレゼントになるのかな。私が生まれたその日に買ってくれたものだから」

「赤ん坊へのプレゼントがハンカチ? しかもブランド物の?」

 怪訝な顔をする空也に対し、由布子は、

「あれ、知らないの?」と、意外そうにして目を見張り、嬉々として語り始めた。「マーブル・フェアリーって、元々、金鉱で大儲けしたイギリスのある老夫婦が、それを元手にして、孫娘の為に立ち上げた会社なんだよ。その孫娘が成長する度に会社も成長していったんだって。そのエピソードにあやかって、娘や孫が生まれた時にはマーブル・フェアリーの製品を贈り物にすることがあるんだよ。健やかに成長しますように、って」

「へえ。で、皆がそうやってあやかろうとする結果、マーブル・フェアリーはますます成長するってわけですか。上手いこと出来たシステムですね」

「あのねえ……そうやってすぐ物事を穿って見たり余計なことを言ったりするのは、君の悪い癖だよ。もうちょっと素直にならなきゃ。天邪鬼じゃあるまいし」

「そんなこと言われても、俺のこの性格は生まれつきのものですから」

「駄目だよ、〝生まれつき〟なんて言葉で片付けちゃ。成り長けると書いて成長だよ。先天性をただ長けさせるだけじゃダメ。新しい自分に成ることが出来て、初めて人は成長したって言えるんじゃないかな」

「成長、ですか」

「そう、成長。明らかな短所や、自分すら納得していないような性癖までも自分らしさとして肯定しちゃうのはずるいよ。逃げ、とまでは言わないけれどね。と、まあ、これは全部お祖母ちゃんからの受け売りなんだけど」

「またお祖母さんですか。よっぽど好きなんですね、お祖母さんのこと」

「好きというか何というか。魔法使いとしては、私がこの世界で一番尊敬している人だからね。いつかは私も、お祖母ちゃんみたいになるのが夢なの」

自分の夢を語る由布子は、とても嬉しそうに(そら)を見つめていた。雲一つない、よく晴れた空を。梅雨明けの空は台風一過のように晴れ渡っていて。あんまりにも暑いので、

「金髪碧眼になりたいってことですか?」

 空也は遠慮なく水を差した。

「確かにお祖母ちゃんは綺麗な天然ブロンドで見事に碧い眼だけれど、そうじゃないでしょ! お祖母ちゃんみたいに立派な魔法使いになりたいってことだよ!」

「ふうん。じゃあ、それが先輩の七夕の願い事ってことですか」

「む? そうだね。そうだよ。そう言う空也君の願い事は? もう決めた?」

「まだですけど、夜まではまだまだだし。考える時間はあるでしょ」

「時間とお金とポテトチップスは、あるあると思っている内にすぐなくなっちゃうよ。ということで、私もそろそろ帰るね」

 そう言って腰を上げる由布子に、空也はやや焦った表情で詰めかかる。

「え、もう? 折角時間が出来たのに。もしかして……あんまり俺がふざけたことばっかり言ったから、怒らせちゃいました?」

「違う違う。本音を言えば、私だってもう少しぐらいゆっくりしていきたいんだけど。このままギリギリまで空也君と一緒にいたら、結局講義をサボっちゃいそうだから。今の内に、平日気分へ切り替えないと。明後日の土曜日は一日休みだから、その時にまた遊ぼうよ。時間は空いてる?」

「空いてますよ、もちろん! 先輩も空けといてくださいよ? そっちから言い出したんだから。約束ですよ」

「わかってるよ。じゃ、またメールなり電話なりしてね」

「了解」

 空也の〝了解〟を聞くと、由布子はさっと縁側から庭へと飛び降りた。そして一度だけ空也の方を振り返り、

「じゃあね」

 と言って、そのまま門扉の方へ歩き去っていた。彼女が道にまで出たことを確認してから、空也は靴をその場に脱ぎ散らかし、居間へと入っていった。


「さてと。短冊に書く願い事、考えてみるか。どうせ暇だし」

 思い立った空也はスーパーの袋の中から、束になった短冊を取り出した。その数はざっと百枚。色とりどりの短冊。空也はまず、特に何を考えるでもなく、机の上に置いてあったボールペンを手に取り、一枚の短冊に文字を書いていく。

『素直になりたい』

 ――なんだ、この乙女チックな願いごと。思考回路がショート寸前か? 俺は。

空也は溜息を吐き、書き損じた短冊をくしゃりと握りしめてゴミ箱に放り入れた。そして。今度は少しの間だけ考え込むように腕を組んでから、次の短冊に願いを書き込んだ。

『毎日、会心の味噌汁が作れるようになりたい』 

 ――いや、これはこれでどうよ?


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