アウトロダクション
――――2009.12.23 am01:36
とあるマンションの一室で、空見空也は一人の少女と対峙していた。二人の目の形は瓜二つだったが、少女の目元には大きなクマが出来ていた。まるで煤でも塗り付けたような灰色のクマが。更に顔色は幽霊のように青白く、彼女が単なる寝不足でないことは、誰の目にも瞭然であった。身体が疲れ切った者の顔ではない。著しく心を擦り減らせた者の顔であった。格好は、彼女自身とは正反対に清潔でピンと伸びたセーラー服。空也と同程度の短さの髪は明るすぎるほどの茶色で、むしろ橙に近いぐらいであった。そんな彼女は、ろくに首も動かさず、目線だけを空也に向けて、擦れた声で言った。
「何? こんな時間に彼女でもない女の部屋に来るなんて。あんた、そんな奴だったけ」
「そんな奴だったっけ、か。そりゃこっちの台詞だよ」
落ち着いた調子で空也は言い放った。少女の方はふんと鼻を鳴らし、空也を小馬鹿にした態度を取った。直後、ふと顔を上げて空也の頭を見た少女が訊ねた。
「……あんた、頭どうしたの」
「ちょっと切れただけだ」
「ふうん」
表面上、それ以上は興味がないという態度を取る少女。だが空也は気付いていた。自分の頭に巻かれた包帯に気付いた少女が、その理由を訊ねる直前、一瞬だけ動揺した様子を見せたことに。
この時点で彼は、ある種の勝利を確信していた。少女だけが、己の本意を悟られていることに気付いていなかった。
「で、結局何なの? 何しに来たの?」
あくまで刺々しい様子を崩さない少女が面倒臭そうに言い放つと、空也が答えた。
「迎えに来た。家に帰ろう」
と。
双子.
七夕から一夜が明けて七月八日の朝。閑静な住宅街。『空見』の表札が掛かった一軒家の前にスレンダーな女が立っていた。スレンダーではあるが女性らしい身体つき。肩よりもやや下の辺りまで伸びた、ダークブラウンのロングヘア。全身をスーツで固めてハイヒールを履き、ピンク地に白い水玉模様のキャリーバッグを牽いている。そんな彼女が、呼び鈴を鳴らした。
ピンポーンと、古めかしい呼び鈴が空見家の中に鳴り響く。
「はいはい」
と、インターホンの受話器を取ったのは、寝間着姿の空見家の長男。
「あ、空也? あたし、あたし。開けて」
「あいよ」
応えて受話器を元の位置に戻した空也は玄関へ向かい、鍵を開けて扉を開いた。
「ただいま」
爽やかに言う女に、空也は応えた。
「お帰り」と。更に言葉を紡ぐ。「本当に朝イチで帰って来たな。まだナッちゃんも大ちゃんも寝てるぞ」そう言う空也自身、今しがた目を覚ましたばかりであった。弟のそれとそっくりな寝癖頭は、起床後は必ず最初に済ませる洗顔もまだという証。「今日は一日休み?」
「うん。研修始まったのが日曜日だったからね。振替みたいなもんだよ」
「そっか。朝飯は?」
「食べてないよ。どうせなら皆で朝ご飯も食べたいと思ったからね」
「だろうな。じゃあ今から作るから姉貴も手伝ってくれよ」
「うん。何すればいい?」
「飯はもう炊けてるし」昨夜からのタイマー機能で。「味噌汁は俺の聖域だから、鯖焼いてくれ。塩鯖」
「スイッチ捻るだけじゃんよ」
文明の利器ことグリルに目を向ける、空見家の長女・百夏。空也と僅か数分の差ではあるが、一応は空見家の最年長者。張り切ったところ任された仕事がガキの使い同然とあっては、素直に「はい」と言えないのも仕方がない。
「っていうか、鯖って。あたしの分は流石にないよね」
「あるんだよな、これが。こういうのは無意識に四人分買っちまうんだ。未だに時々」
「へえ、そう」言葉面はそっけなくも、気恥ずかしいような嬉しいような気持ちは隠せない。顔は背けているものの、耳たぶがほんのりと赤く染まっているのが、空也にも分かった。自覚があるのか、百夏はそれを誤魔化すように続く言葉を捲し立てる。「で、幾らなんでもあたしのやることがこれだけってことは」
「あるんだよな、これが」
「ぐうっ。わかったわよ。でもその前に、あんたは顔を洗ってくれば? あたしはその間に着替えとくから」
「ああ、そうだな」
普段通りの格好になった空也が味噌汁を作っている隣で、ワンピース姿になった百夏はグリルの中をじっと覗き込んでいた。タイマーを利用せず焼き加減を見極めるという、せめてもの抵抗。弟の仕打ちに対しての。
「あ、そろそろ大丈夫だから。止めて」
「ちょっ! あたし本当に要らないじゃん!」言いつつ律儀にスイッチを捻った百夏は、そのままグリルの蓋を開けた。芳しい香りが彼女の鼻腔をくすぐる。「……ちっ」
「舌打ちはやめろや。ほら、さっさとそれ皿に盛って」
「はいはいはいはい」
用意していた四つの更にそれぞれ一切れずつ、抜群な焼き加減の鯖を置いて行き、それらをちゃぶ台へと運んでいく百夏。ごと、ごと、ごと、ごと。円いちゃぶ台の上に均等な幅を開けて、四つの鯖が並んだ時、扉の開く音がした。
「おはぁああよう」あくびをしつつ現れた大地が、百夏を目で捉えた。「あれ、百姉ちゃんもう帰って来てたの?」
「おはよう、ただいま大ちゃん。もう、頭ぼっさぼさじゃない。ちょっとこっち来て」
「ん」
素直に近付いてきた大地の髪を、百夏は手櫛で整えてやる。優しく、優しく。そうして一応の体裁を整えてから百夏は微笑む。
「ま、とりあえずこんなもんかな」
「ありがと、姉ちゃん」
空也であれば御免こうむること必至な光景。ともあれこれも空見家の姉弟の姿である。兄弟が四人がいれば、六通りの組み合わせがある。四人の兄弟。それを完成させるには一人まだこの場に居ない人物がいた。
「ナッちゃんはあたしが起こしてこようか?」
「おう、頼む。じゃ、大地はご飯よそってくれ」
「あいよ」
男共が朝食の用意を仕上げていく中、百夏は妹の部屋もとい自分と妹の部屋へ向かっていった。極力足音を立てぬように廊下を進み、ノックもなく目的の部屋へ足を踏み入れた彼女は、静かな寝息を立てて眠っている妹に忍び足で近付いて行く。気持ちよさそうに眠る妹の寝顔を見つめる姉の目は意地悪く笑ったりしていなかった。ただ穏やかで、間違っても寝起きドッキリを企んでいる者の目ではない。
「っと、早くしないとご飯が冷めちゃうか。ほら、千夏、朝だよ」
声を掛けながら、百夏はそっと千夏の肩を揺する。
「ふっ、うう」可愛らしい声を漏らしながら目蓋を開きかけた百夏は。「んー」また目蓋を閉じてから寝返りを打った。
「こらこらしゃきっとしなさい!」
「ふえ? あ、お姉ちゃん。おかえりなさい、おはよう」
「はい、ただいま、おはよう。もう朝ご飯出来てるから、ちゃんと起きて」
「うん」
目を擦りながらまず上体を起こした千夏は、二段ベッドの下段から出てくる。立ち上がり横に並ぶと、彼女の頭の先は百夏の肩辺りまでしかない。だが胸の隆起は。
――なんでかなあ。
将来性抜群な妹の矮躯を肩で支えながら、もうそろそ打ち止めの姉は溜息を吐いた。
姉妹が戻って来た時、既に朝食の準備はすべて整って兄弟は各々の定位置で胡坐をかいていた。
「おはよう、お兄ちゃん、大ちゃん」
「おう、おはようさん」
「おはよう」
午前七時八分。兄弟が勢揃い、ちゃぶ台を囲む。男同士、女同士が向かい合う格好。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」「いただきます」「いただきます」
長男の号令から始まる食事。家にそんな決まりがあるわけでもないのに、全員が真っ先に味噌汁を啜った。一口啜ったところで、全員の手がぴたと止まる。
「あれ? 兄ちゃん、この味噌汁って昨日の残り?」
「いや、今朝一から作った奴だぞ。具だって昨日とは違うだろ」
「でも、昨日のお味噌汁ぐらいおいしいよ!」
「なに、昨日もこんなにおいしい味噌汁だったの? それなら昨日の朝に帰って来ればよかったかも」
「研修放り出してまで帰って来る気かよ。味噌汁につられてどうこうって辺りは千夏と同じだな、姉貴も」
「へ?」
わけがわからず長女が困惑の表情を浮かべている中、残る兄弟たちは笑っていた。引き合いに出された千夏さえも。これ以上ないほどの平和を感じて、空也が感慨に耽っていると、
「ねえお姉ちゃん、明日ってお仕事はないの?」
箸と椀を持ったまま千夏が訊ねた。
「うん、休みだけど?」
「じゃあさ、明日は久しぶりに皆で出かけたいな。海、とか」
「海かあ」こちらも箸と椀を手に持った思案する様子を見せる百夏。それもほんの数秒で、優しげな笑みに変わる。「うん、行こうか」準即答だった。「本格的に泳ぐのにはまだ泳ぐにはちょっと早いかもしれないけど、バーベキューとかならいいかも。大ちゃんはどう?」
「僕も行きたい」
「空也は?」
「いやいや、お前ら学校は?」
空也の目が、千夏と大地へ順番に向けられる。向けられた二人はきょとんとして。
「土曜日だもん、休みだよ」
「第二土曜だから、私も休みだよ」
「ああ、そうだっけか。ゆとり教育とかいうやつだな」
「あたしたちの頃も同じだったでしょうが」嘆息。「で、行くの? 行かないの?」
「明日はなあ。由布子さんと約束が」
「約束って、どういう? どこ行ってとか何するとか、ちゃんと決まってるの?」
「いや、ただ会おうってぐらいのもんだけど」
「やっぱりね。アンタの天邪鬼と行き当たりばったりは不治の悪癖だもん。ま、この際海に先輩も誘えばいいじゃん。それで、どうせなら明君も一緒に誘って皆で行こう」
「先輩はともかく、明は都合がついたらだな。明日いきなりって言ったって普通は難しいだろうよ。土曜日に授業は取ってないはずだけど」
「じゃあ、とにかくアンタから電話して行けるかどうか訊いてみてよ。ナッちゃんと大ちゃんもそれでいい?」
「うん、ユウちゃんと明さんだったら」
「僕も……いいよ」
実にあっけらかんと即答した千夏とは対照的に、含みを持たせる間で答えた大地の頬は軽く蒸気していた。
――兄弟だからってそんな趣味は似なくていいんだけどな。
弟の顔を真正面から盗み見るという器用な真似をしながら、兄は苦笑した。
「じゃあ、お姉ちゃん、お兄ちゃん、行ってきます」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」
同時に家を出る年少組と、それを見送る年長組二人。大地が玄関の扉を閉めると、家には彼らだけが残された。玄関前、並んで立ったままの姉弟。姉がおもむろに口を開いた。
「アンタ、この後何か用事ある?」
「いや、昼から買い物行く他には別に何も。姉貴は? どっか出掛けるのか?」
「ううん。今日は一日家でゆっくりする」
「そっか」条件反射にも等しい返事。やや逡巡するような間を開けてから。「仕事は」
「待って」紡ぎかけた空也の言葉を制した百夏は、踵を返しながら彼に言った。「話しするんならちゃんと話そうよ。玄関で立ち話はおかしいでしょ。自分たちの家なのに」
「ああ、そりゃそうだな」
応えて。空也は踵を返して廊下を歩み始めた。双子の姉に半歩遅れて。
空見兄弟は四人兄弟である。下から大地、千夏、空也、そして百夏。この内、空也と百夏は双子の兄弟で、百夏が姉。今でこそちょっとないぐらいに仲の良い兄弟姉妹だが、かつてバラバラになったことがあった。
朝食を片し、テレビのリモコンと、麦茶を容れたタンブラーグラス二杯だけが載せられたちゃぶ台を囲み、空也と千夏は向かい合って腰を下ろしていた。空也は胡坐をかいて重心を背に向け、両手を床に着けている。千夏は所謂女座りで、両肘をちゃぶ台の上に乗せている。
「仕事はどうなんだよ。無理してないか?」
「覚えること多くて大変だけど、無理はしてないと思う」
「本当に?」
「本当だってば。っていうか、私が無理してるんなら同期の人たちも皆無理してるってことじゃんか」
「そうとも言えないと思うけど。姉貴、体力ないし。タバコも酒も、臭いだけで気分悪くなるぐらい苦手じゃんか。基本男所帯の職場って、結構キツイんじゃないか? やっぱりもうちょい時間かけてでも別の場所探した方がよかったんじゃ」
「待って待って、ちょい待って」放って置けばまだまだ喋りつづけそうな弟を強引に静止する姉。「一人で盛り上がり過ぎだってば。まず体力なんかほとんど使わないし、喫煙所は外にあるし。お酒はもう流石に臭いだけで酔うなんてことないよ。あ、無理やり勧められたりもしないしね」
「タバコはともかく。酒はいずれそれとなく飲まされるんじゃないのか? 今はまだ未成年だから見逃されてるだけで」
「そんなことないよ。ジュースばっかり飲んでる先輩も、なんにも言われてないもん。本当にアンタは過保護なんだから。千夏と大地相手ならともかく、あたしは一応アンタの姉ちゃんなのよ? 双子でも姉は姉。もうちょっと信用しな」
「信用云々の話じゃなくて」
「じゃあ何よ。あの時のことがまだ尾を引いてるわけ?」
「のっ」見事な図星に、空也は言葉を詰まらせた。咳払いし、背筋を伸ばす。グラス一杯の麦茶を飲み干してから「ふう」と息を吐く。そこから更に三秒と言う間を置いてから、ようやくまた口を開いた。「まだ二年も経ってないんだよな」
「そうね。もう、大昔のことみたいだけど」言いつつ、百夏もグラスに手を伸ばす。但し彼女はそれを口元へ持って行こうとはしない。ただ手持無沙汰だからという感じで、グラスの淵を掴んで静かに揺らしながら言葉を紡いでいく。「ナッちゃん、もう寝てる時に泣かなくなったんだね。多分、大ちゃんも」
「頻度はだいぶ減ったな。でも、まだ時々涙の痕残したままって時はある。ちゃんと見ないと分からないぐらいにだけどな」
「そうなの? やっぱり完全に乗り越えられたってわけじゃないんだね。当たり前か。あたしだって……まだ」
声を詰まらせて、百夏は慌てて空也から顔を背けようとした。だが気付いたようにすぐにまた振り向いて、涙目になった自分の顔を空也に見せた。空也はそれについて何も言及しようとしない。ただ彼女が完全に泣き止んで、手で涙を拭い取るまで黙っていた。同時に、僅かに濡れた己の目元を擦りながら。そうして二人ともが普段通りの顔を取り繕い終えるとまた顔を合わせて、照れ臭そうに笑った。
「こんなもんで、いいんだよな。きっと」
「うん。きっとね」
一家の年長者とはいえ、二人はまだ成人すらしていない。父と母の残像を想起するだけで涙腺が緩むこともある。無理はせずしかし意地を張る、そんなバランスを保つのは難しい。だから。
「とにかくさ。もう何がってもあんな無茶苦茶しないから。プレッシャーに潰される前に相談ぐらいする。泣き付きもする。そういう約束だもんね」
「おう、そうしてくれ。俺もそうする。そういう約束だからな」
約束。二人だけの時に意地は張らない。つまりは素直になる。そしてもう二度と兄弟を散り散りにしない。
「そういやあ、昨日は七夕だったけど姉貴は何か願い事した?」
「七夕って……アンタねえ、あたしは会社の研修行ってたのよ? そんなの今言われるまで気付かなかったわよ」
「じゃあ七夕云々はとりあえず抜きにして。姉貴は何か願い事ってある?」
「願い事かあ。なんだろう」ぼやきながら。百夏はふと縁側の方に視線を向けた。障子は開け放たれていて。
「とりあえずは、明日、晴れますようにかな」




