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空を見つめて  作者: 直弥
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イントロダクション

 空に虹がかかっている梅雨明けの空。七月七日、木曜日の朝。昨夜までの雨が露となって残る紫陽花が咲く庭を持つ、とある二階建ての一軒家。表札には『空見(うつみ)』。

「おぉっ、うめえ! 今日は会心の出来だな。にしても。ふうー……、あっちいなあ。今日みたいな日に朝から味噌汁は失敗だったかな。夏はやっぱりパン食にすっかあ」

 空見家の台所。寝間着の上にエプロン姿でガタイのいい、黒髪短髪の兄ちゃんが、何やらとぼやきながら朝食の準備に勤しんでいた。味噌汁と焼きジャケの匂いが部屋中に漂っている。

 そこへ。

「おはよう、兄ちゃん」

 寝間着姿の男の子が、目を擦りながらやって来た。寝癖であちこちがはねている髪の色はやはり黒く、長さは兄ちゃんと同程度。

「おう、おはよう、大地」器に味噌汁をよそいながら、顔だけを振り向かせた兄ちゃんが男の子に応える。更に、質問をする。「ナッちゃんは? まだ寝てんのか?」

「さあ? 起きてこないってことは、寝てるんじゃない?」

「仕方ないな。俺が起こしてくるから、その間、お前は飯よそっといてくれ。頼む」

「あいよ、頼まれた」

 食卓の用意を男の子に任せ、兄ちゃんはダイニングキッチンを出て行った。フローリングの床を、音も立てずに歩き、一つの部屋の前で立ち止まる。

「千夏、朝だぞ。まだ寝てんのかあ?」強めのノックと大きめの声。しかし、中からの反応は返って来ない。「入るぞ」外から起こすことを諦めた兄ちゃんは、一応の断りを入れてからノブを捻り、中へと入っていく。「あーあ、また散らかしっぱなしにして……」扉の前に散乱している小説本を一冊一冊拾い上げながら、兄ちゃんはベッドへ近付く。二段ベッドの下側で、長く綺麗な黒髪を持つ少女があどけない寝顔で眠っている。すうすうと寝息を立てている彼女の耳元で、兄ちゃんはそっと囁いた。「ネズミ」

「みきぃひゃああ!!」この世でもっとも苦手とする生き物の名を聞き、一瞬で夢から覚めた少女は、冗談のように高い声で悲鳴を上げながら、兄ちゃんに抱きついた。頭を打つこともなく、二段ベッドの下側から飛び出てくるという離れ業で。「どこどこどこ!? ネズミ、どこ!?」

 動転した少女は、首が捻挫してしまうのではないかと心配したくなるほどに頭をあちらこちらへと動かし、恐怖の対象を探す。

「おはよう、ナッちゃん」

「え? あ、うん、おはよう、お兄ちゃん。で、ネズミはどこ!?」

「ウソだよ。この状況で気付けよ、お前も」素直過ぎる少女の将来に一抹の不安を感じた兄ちゃんは苦い顔をする。「もう朝飯出来てるし、大ちゃんも待ってるんだから、早く行くぞ。というか、まずは俺から降りろ」

「う、うん。わかったよ」

 頷きはしたものの。少女は兄ちゃんに抱きついたまま、一向に動かない。

「? どうした? 早くしろよ。お味噌汁が冷めちまうじゃねえか。俺渾身の、ホウレン草のお味噌汁が。週に一度あるかないかの会心作なのに」

「う、うん、その……降りたいのはやまやまなんだけど……」紅潮させた顔で。もじもじとしながら、少女はぼそりと言葉を紡ぐ。「……腰抜けちゃった…………。お兄ちゃん、居間まで運んで……」

 

「なんでそんなことになってるわけ?」少女を抱きかかえたまま現れた兄ちゃんという光景に、男の子は呆れ返りながらも冷静に言った。「想像はつくけど」

「多分、お前の想像通りだな」

「え、えへへへぇ」

 恥ずかしさを誤魔化すように、少女は後頭部を掻きながら笑っている。そんな様子を見て、男の子は再び―――今度は嘆息つきで――呆れた。

「ちぃ姉ちゃんさ、中学生にもなって恥ずかしくないの?」

「お、お兄ちゃんが変な起こし方するからだもん!」

「お前がさっさと起きないからだろ。ったく。なんで寝る時間は一番早いのに、起きる時間は一番遅いんだよ、授業中も寝まくってるらしいし。一日の内、どんだけ寝る気だ。お前の前世はコアラか?」

「今のちぃ姉の格好はまさにコアラだけどね」

「じゃあ俺はユーカリの樹かよ」そこでどっと笑いが起こる。何だかんだで仲の良い三人であった。「俺は人間だ!」

「ひいっ」

「朝からよく声通るな、兄ちゃん」


 銀色の皮がところどころ焦げ、しかしそれがむしろ食欲をそそる色合いとなっている焼きジャケ。出汁の匂いだけで寝惚けた頭を覚まされそうな、ホウレン草の味噌汁。鼻腔に心地よい、甘い香り漂うご飯。昨夜の残り物である、ホウレン草のおひたし、ホウレン草の胡麻和え。朝食の準備が完全に済まされたちゃぶ台を、空也、千夏、大地の三人が取り囲んでいた――空也と大地の間、千夏の真正面に、一人分の隙間を空けて。

「今日のお味噌汁、おいしい! 毎日これが出るなら、私だって早起きするんだけどな」

「はいはい。努力精進する。でもな。味噌汁の出来にかこつけて寝坊してもいいってことにはならねえからな。お前も努力しろ」

「わ、わかってるよう」

 空也から目を逸らしながらそう言って、千夏は味噌汁を啜る。みえみえな誤魔化しに空也が苦笑していると、それまで黙って箸を進めていた大地が口を開いた。

「確かに味噌汁は美味いけど……兄ちゃんさあ。僕、ポパイじゃないんだから、朝っぱらからこんなにホウレン草ばっかり食べたくないよ。特売で買い過ぎちゃったから、余ってるのは知ってるけど」

「相変わらず好き嫌いの多い奴だな。ナッちゃんを見習えよ」

「この際、好き嫌いは関係ないよ。それに、ちぃ姉ちゃんはポパイだから」

「大ちゃん、それ、どういう意味?」

 空也と違い――少なくとも見た目は――筋肉質な体つきというわけでもないのに、何か思うところがあるのか。千夏は眉間にしわ寄せて、大地のことをじろりと睨みつける。

「あ、間違えた。ちぃ姉ちゃんはペチャパイだから」

「お兄ちゃん! 大ちゃんに何か言ってやってよ!」

「ナッちゃんは身長の割には大きい方だぞ」確かに最もであったが(中学二年生にして小学五、六年生程度の背丈しかない千夏のカップサイズはCである)、千夏が期待していた類の言葉とは明後日の方向なツッコミであった。「それはともかく。二人とも、今日はあんまり遅くなり過ぎるなよ。折角の七夕なんだから」

「七夕ぁ? まだ今年もやるの? 兄ちゃんも変なところで子どもっぽいな」 

「七夕に子どもっぽいもくそもあるか。夜までには、短冊に書く願い事、考えとけよ」

「短冊……あ、短冊の代わりにホウレン草に願い事書けばいいじゃん」

「さっすが大ちゃん! その手があったんだね」

「お前らを短冊切りにしてやろうか!!」

 若干だが、本気の怒気を孕んだ叱責を飛ばした空也。要するに『食べ物を粗末にするな』ということである。

 

「んじゃあ、行ってきます、兄ちゃん」

 私服に着替え、黄色い帽子を被り、黒いランドセルを背負った大地と、

「行ってきます、お兄ちゃん」

 制服に着替え、お下げの三つ編みを一本作り、薄茶色い手提げ鞄を持った千夏を、

「おう、車に気を付けてな」エプロンを外した空也が、玄関前まで見送る。「行ってらっしゃい、ナッちゃん、大地」

 ほとんど背丈の変わらない大地と千夏が、並んで歩いて行く。彼らが見えなくなるまでその背を見送ってから、空也は家の中へ入っていった。


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