記録に残せなかったこと――山崎烝
慶応元年、杪夏。
夕日が山の向こうに沈み始めた、黄昏時。
朱を帯びる影が長く伸びた屯所で、山崎烝は一人、筆を走らせていた。
障子の向こうからは、風が庭木を揺らし、葉が擦れる音や羽虫の鳴く声が聞こえてくる。日中の暑さは影を潜め、夕風が心地よい。視線の先――文机の上には、何枚かの生成り色の紙が重ねられていた。
諸士調役兼監察。それが、山崎の仕事だ。
山崎は、隊士たちの名前や出身地、年齢などを細やかに帳面に記してゆく。さらには、本日の見廻り、京で聞き込んだ話、隊内で気になった出来事――それらの必要なことだけを書き残す。
一度硯に水を注ぎ、墨を磨る。墨色に濁った水を筆に含ませ、隊士たちの情報を淡々と書き留めていく。
だが、ふと、その手が止まる。
――沖田総司。
山崎は、書いたばかりのその名を、暫く見つめていた。
一番隊組長。
速い剣術。
隊務にも忠実。
子供とよく遊んでいる。
書こうと思えば、いくらでも書ける。だが、〝沖田総司〟という人を表そうとすると、それだけではどうにも足りない。
山崎は再び筆先に墨を含ませると、紙にその名を書き記す。
沖田総司――
朝稽古にて。誰よりも早く起き……そこまで書いて、筆が止まる。
……違う。別に、いつも誰よりも早いわけではない。
ただ、起きている日は早い。
先日は寝坊をして、土方歳三に怒鳴られていた。そのくせ、稽古が始まれば誰よりも速く動く。
山崎は小さく息を吐き、書き直した。
――朝稽古に遅れることあり。ただし、稽古中の動きに乱れなし。
そこまで書いて、また筆が止まった。……何を書いているんだ、私は。
一度筆を置くと、紙を丸めて苦笑する。沖田総司という人間は、そんなふうには書けない。
山崎は静かに立ち上がる。もう随分そうしていたからか、立ち上がった足が少し痺れた。息抜きでもしようと、廊下を歩く。踏み出すごとにみしりと床が軋み、夕方の涼しい風が、静かに肌を撫でてゆく。
縁側を歩いていると、向こうの曲がり角から、山崎を悩ませている張本人がやってきた。きちんと髪を結い、浅葱色の羽織を肩に掛けた、沖田総司。手には団子の包みを持っている。
「あ、山崎さん」
沖田が此方に気が付くのも、ほぼ同時だった。沖田は目が合うなり、人懐っこい笑顔を向けてくる。
「これ、食べません?」
「……何ですか、それ」
「団子です」
「見れば分かります」
きっぱりと言う山崎の言葉に、沖田は笑った。
「一緒に食べましょう」
「私は仕事中です」
「えぇ……」
沖田は驚いたような、残念そうな顔をする。その顔からは、一番隊組長として戦場を駆ける姿が想像できない。
「お仕事なら、団子を食べながらでもできますよ」
「できません」
「……そうですか」
沖田は一瞬だけ視線を落とすと、「では」と言って、包みを抱えたまま通り過ぎていく。
山崎はしばらくその背中を見送っていたが、少し歩いたところで沖田が振り返る。
「山崎さん」
「何です?」
「一つだけなら?」
此方を向き、小さく尋ねるその姿が妙に幼くて、山崎の口元にふっと笑みがこぼれた。
「……ええ。じゃあいただきますよ」
「よかった」
沖田は笑いながら山崎の方へ歩いてくる。その手に持った団子を一つ、手渡された。同時に、ふと思う。
これを記録に残す必要はあるだろうか。――ない。
だがその日の夜、再び筆を執ると、山崎はなぜかそのことを思い出した。
沖田総司。団子を持って廊下を歩く――
山崎は首を振った。そんなものを書いてどうする。
小さくため息をつくと、別の日の記録をめくってみた。
三日前。稽古場で、沖田が一人の隊士に稽古をつけていた。
相手は何度打ち込んでも、沖田には届かない。沖田はその隊士に、根気強く、何度も、何度も指導する。
「もう一度」
「はい!」
「今度は、半歩速く踏み込んで」
だが――また打ち込むも、沖田には届かない。
沖田はあまりにも速い。……彼には、何が見えているのだろう。
「もう一度」
山崎は少し離れたところから、暫くその様子を見ていた。
――怖い。
指導になると、普段の穏やかな顔からは想像がつかないほどに、厳しくなる。一度できたからといって、決してそれで終わりではない。
再度、稽古場に木刀の音と、大きく床を踏みしめる音が響く。
「……もう一度」
沖田の剣は速い。あまりにも速い。
相手ができてもできなくても、沖田は「もう一度」と繰り返す。
半泣きになりそうになる屈強な隊士を見て、山崎は、沖田には指導されたくない、と、思った。
山崎は、その時の様子を記録に書き残していた。
――沖田総司。
隊士に稽古をつける時は、非常に厳しく、徹底的。
そこまで書かれた記録を見て、今日の笑顔を思い出す。どうにも、同一人物のようには見えない。
山崎は筆を硯につけ、墨をその先端に含ませる。
――人の失敗を笑わない。根気強く指導する人。
最後にその一文をつけたし、顔を上げる。日は疾うに落ち、宵闇には白練の月が浮かんでいた。
――「山崎さん」
ふと、今日団子を持って笑っていた沖田総司の声が過る。手渡された、団子。
あの団子は確かに、美味しかった。
◇
数日後――山崎が見かけた沖田は、いつものようにきちんと髪を結い、浅葱色の羽織を羽織っていた。だが時折懐紙を口許に当て、乾いた咳をする。
「風邪ですか」
「大したことないですよ」
沖田はそう言って笑うも、翌日も、同じように咳をしていた。
だが、常に咳をしているわけではない。次に見た時には元気に笑っていたし、その次に見かけた時には、縁側でひなたぼっこをしながら昼寝をしていた。ただ、気持ちよさそうに眠るその呼吸が、時折浅くなっているのが気になった。
「総司は、風邪なのか?」
近藤勇に問われるも、山崎にははっきりと答えられない。
沖田は、屯所で誰かといるときは、大体へらりと笑っているが、近くで見ると時折顔色が悪いことがある。山崎の脳裏に、懐紙を口許に当てた沖田の姿がよぎった。
「……わかりません。一度、松本先生に診ていただいた方が――」
そこまで言いかけたところで、後ろから足音と共に、聞き慣れた声がした。
「あ、近藤さんと山崎さん」
沖田総司――本人だ。なんでもないような顔をして、いつもの調子で歩いてくる。
「どうかしたんですか」
「沖田さん。その咳、一度松本先生に……」
「先日、診てもらったばかりです」
「え……」
「山崎さん。そんな顔をしなくても大丈夫ですよ」
穏やかな顔に、穏やかな声。なのに、何も言い返せない。やっと出た言葉は、自分でも驚くほど間抜けだった。
「……私はいつもこんな顔です」
「そうでしたっけ」
「そうです」
つい、語気が強くなる。気がつけば、いつも沖田に調子を乱されている。訝しげな顔をする近藤の横で、沖田は小さく笑った。
「じゃあ、安心しました」
山崎は思わずその顔を見る。
何をどう安心したというのか。山崎には、分からなかった。
「おい総司。無茶はすんじゃねぇぞ」
横から近藤の声が飛んでくる。だが、沖田はいつものように返事をするだけで、何も変わらないように見えた。
それでも――山崎は、笑う沖田の手に懐紙が握られたままだったことを、見逃さない。縁側を歩いていく沖田が、また小さく咳き込んだことも。
陽が沈み、仕事を一通り終えた後。山崎は、そっと自分の部屋を出た。
あまり音をたてぬよう、静かに暗い廊下を歩く。大部屋から隊士たちの鼾が聞こえてくる中、山崎は沖田のいる部屋を訪れた。
「夜分に失礼します……沖田さん」
「あれ、山崎さん。こんな時間に、どうしたんですか」
もうとっくに休んでいるかと思っていたが、寝間着姿の沖田は、丁寧に刀の手入れをしていた。月明かりに照らされる沖田の頬は、うっすらと赤い。
「これ……飲んでください」
沖田は白い薬包を受け取ると、山崎の顔をじっと見る。
「わかりました」
「本当に?」
あまりに素直な返事に、なぜか、聞いてしまった。他の隊士には絶対に聞かないのに、昼間よりも赤みの差した沖田の顔を前に、つい口をついて出てしまっていた。
「本当に」
眉を下げて笑う沖田は、どこか楽しそうだった。
「……なら、いいです」
へんなことを言ったような気がして、山崎は足早に部屋を立ち去ろうとする。すると、今度は沖田が山崎を呼び止めた。
「山崎さん」
「……何です?」
「お優しいですね」
山崎は足を止めて振り返る。沖田は手入れしていた刀を置き、山崎を見ていた。その顔は、穏やかに笑っている。
「気のせいです」
山崎の声は、自分が思っていたよりも、小さかった。
「ありがとうございます、山崎さん」
沖田はそれだけ言うと、また視線を落とし、刀の手入れをし始めた。
――顔が、赤いのに。
山崎はふっとため息をつくと、静かに声をかける。
「早く、休まれてくださいね」
少しだけ顔を上げた沖田は、微笑んだように見えた。その顔に小さく会釈して、山崎はそっと襖を閉める。
部屋を後にし、廊下に出た山崎は、静かに空を見る。雲居から月影がほんのりと覗いていた。廊下は少しだけ肌寒く、自分の部屋へと戻る足取りが、妙に重たい。
部屋に戻り、行灯をつけると、再び帳面を開く。
――沖田総司。
数日咳が止まらないため、薬を渡す。そして――
そこから先、何かを書こうとして、書けなかった。
山崎は机の前に座ったまま、目を閉じた。
稽古で見せた、厳しい顔。団子を持って笑った、子どもっぽい顔。
剣にはひたむき。だけど時々寝坊して、土方さんに叱られる。
数日咳が止まらず、顔色が悪い。それでも、なんでもないような顔をして笑っている。
――「ありがとうございます、山崎さん」
先ほど見せた、穏やかな笑顔。
薬をきちんと飲むところまで見届けてから戻ってこようと思っていたのに、そんなことすら、すっかり忘れていた。
山崎は、ふっ、と小さく息を吐き、外を見た。藍色の空。雲の隙間から星が瞬いている。夜の庭は、やけに静かだった。
その後も何度か筆を走らせては、止めて紙を丸める。だが、考えれば考えるほどに、筆の止まった時間ばかりが延びてゆく。結局何も進まないまま、その夜は随分と遅い時間まで、机に向かっていた。
――そして、翌朝。
障子の隙間から朝日が差し込んできて、山崎は目を覚ます。朝の光が、ひどく眩しい。
重たい瞼を持ち上げて、ぼんやりとした頭のまま廊下を歩いていると、そこにはまた沖田がいた。
「山崎さん、おはようございます」
「……今度は何です?」
「今日は随分と眠そうですね」
起き抜けの自分の声とは裏腹に、いつもの楽しそうな声が、眠たい頭に聞こえてくる。
「誰のせいだと思っているんです」
「僕ですか?」
「そうですよ」
「すみません」
沖田は笑った。なんとなくおかしくなって、山崎も少しだけ笑う。
ふと遠くに目をやると、他の隊士たちが朝稽古に向かうところだった。
「昨日は薬、ありがとうございました」
ふと、沖田が微笑んだ。……わざわざそれを言いに来たのか。
山崎は一度瞬きをすると、沖田を見た。
「きちんと飲みましたか」
「飲みましたよ。約束したじゃないですか」
そう言って笑って、また去っていく。
なんでもないことなのに、彼はなぜか、いつも楽しそうだ。
その背中を見送った後、山崎は顔を洗うと、再び部屋へと戻った。
見慣れた文机に置かれた、生成り色の紙束を見る。今まで綴ってきた、隊士達のこと。その手前には、広げたばかりの一枚の紙。
山崎は、一度目を閉じると、筆に墨を含ませる。
沖田総司という人は。
よく笑う。
人のことをよく見ている。
剣を握れば、恐ろしいほど強い。
それでいて、自分のことには無頓着。
そして――
山崎はその紙を見る。結局、そこには沖田総司の名前しか書かれていない。
自分の仕事は、見たもの、聞いたことを、そのまま書き記すことだ。人の心までは、帳面には収まらない。
けれど、ここ数日で、何度その名を思い出したことだろう。
空を見れば、白い雲だけが浮かんでいた。庭木は少しだけ、秋色に色づき始めている。それでも、いつもと変わらない朝だった。
山崎は小さく笑うと、もう一度その紙を見る。
――沖田総司。
たったそれだけ書かれたその紙を見て、山崎はそっと筆を置いた。
了




