マリアの愛撫
ノックをしてから、僕は精神科の診療室に入る。白を基調とした、清潔だけど落ち着く部屋。耳障りにならないくらいの音量で流れる音楽。「今日はよろしくお願いします」と頭を下げて、ビジネスバッグを荷物置きに下ろす。お昼前の日差しはブラインド越しに柔らかく部屋に広がる。デスクでカルテを見ていた先生は顔を上げると、僕を見てにっこりと笑う。診療室は暖かくて、春用のビジネススーツだけどちょっと汗ばむ。
先生がアバターではなく対面で会ってくれるようになってからしばらく経つ。僕はすっかり先生を信頼していて、同じ気持ちをたぶん先生も持ってくれていると思う。
「掛けてください」と言われて、歯科医にあるような治療用の椅子に腰掛ける。白い合成皮革の感触にももう慣れた。
先生は僕のバイタルを見て「ちょっと緊張していますね」と言う。「はい、いよいよ今日かと思うと、ちょっと」と素直に言う。先生は笑って、「大丈夫ですよ。今日のこの日のために、一緒に治療してきたんですから」と言う。僕といえば、「はい」と、どこまでも素直に答える。
「暑かったら脱いでください」と言われて、ジャケットを脱ぐ。ハンガーを手にした先生が受け取ってくれるから、恐縮して渡す。ついでにネクタイも外して、「これもいいですか」と渡す。シャツの襟元を緩めて、それから次第に湧き上がる不安をごまかすように先生に軽口を言ってみる。
「何だか『御飯にする? それともお風呂?』って聞かれそうな流れですね」
すると先生は眼鏡の奥の目を恥ずかしそうに瞬かせると、「『それとも私?』って言わせたいんですか?」と言う。
「言ってくれるんですか?」
「言いません」
「残念だなあ」
「・・・」
こんなやり取りをして、僕の不安はすこし紛れる。
冗談を言えるくらいだからもう大丈夫ですね、と僕の不安をしっかり理解している先生は、「じゃあ、そろそろ」と言う。その時には先生の顔はまじめな医師の顔に戻っていて、だけどまだ少し頬の辺りに上気した雰囲気が残っていて、それを確かめてから僕は椅子に横たわる。
「苦しくないですか」
「いや、大丈夫です」
椅子は低いモーター音とともに倒れてゆき、しまいに僕の頭部は抱えるくらいの大きさの白く丸いドームの中にすっぽりと収まる。視界はすべてドームの内天井で占められ、顔の下の方からの間接光で、ドームの内側の滑らかな曲線がぼんやりと見える。
「じゃあ始めます」
「ええ、お願いします」
ブン…、と空気が揺れて、磁場が発生したのが分かった。そして僕の頭部手術が始まった。
・・・
少し大げさに言ってしまったけれど、僕が今ここで受けている手術は外科的なものではなくて、麻酔も、外科的な開頭も、もちろん激しく回転するのこぎりも登場しない。
装置に頭を突っ込んで横たわる僕の頭のそばに、先生が移動してくる。そして僕の現在の脳神経活動を見ているような気配。
「リラックスして」
「してますよ」
腹の辺りで組んでいた手を、だらんと体の脇に下ろす。
「んん、もう少しほぐれて欲しいな」
気配が頭のまわりを動く。治療になると先生の話し方は少しくだけた感じになって、なのに自分ではそれを意識してないみたいだから面白い。
「ちょっと、ほぐれるやつをしてみようかな」と、声にいたずらな響きが混ざる。うわ、あれか、と僕が装置の中で顔を真っ赤にするのと同時に、「えい」と声がして、すると尾てい骨の真ん中に、びるっ、と痺れるような快感を覚える。あ、と声が出そうになるのを必死にこらえる。ふふっ、という含み笑いが聞こえる。
「先生、ちょっと、もう沢山です」
僕は体が変な風に反応してしまいそうな気がして、慌てて『ほぐれるやつ』の中断をお願いする。「あんな風にからかうから」と言いながら、僕の反応を見て先生は満足そうにする。
「もうからかいません」
「本当?」
「もちろん」
すると先生は、「じゃあこれで終わり」と言ってから、ぽろん、とギターの弦を弾くような声まねをする。指で弾いたみたいに脳幹を愛撫されて、僕はもう一度ぴるっと震える。
「やっとほぐれましたね。脳全体が桃色になった」
「・・・先生、先生は昔いじめっこだったでしょう」
「さあ、どうだろう」
「意地悪だなあ、もう」
「ふふっ」
・・・
家族が欲しい、温かさにつつまれて過ごしたい。年々僕はそう思うようになった。しかしその一方で、僕は激しい対人恐怖症に悩まされていた。
日常的な生活には何の支障もない。職場でも、上司や同僚との関係はいたって良好だ。彼女だっていたことがある。けれど、相手とより一層親密になりたい、そう思ったとたん、僕はいつも、自分の精神が体から抜けていくのを感じた。僕から離れた僕の精神は、親密になりたいと僕が願う相手から距離を取ろうともがき、必死にカーテンの後ろに隠れようとする。ここにいてはいけない、ここにいてはいけない。視野狭窄になった僕は、次には過呼吸に陥り、体は凍えるほど冷え、最後には失禁の恐怖と必死で戦った。
ちょっとした友愛の感情までなら平気だった。僕はいい雰囲気になった女の子と寝たりもした。けれどいったんそれが本当の愛情に変わり始めると、とたんに僕の体は熱を失った。年々それは顕著になって、僕は精神科に相談することにしたのだった。
・・・
僕は精神科ネットワークのアカウントを取得して、自分のアバターにハリネズミを登録した。それには深い意味はない。ただ、昔はまっていたオンラインゲームのアバターのデータをリンクさせただけだ。
VR空間で引き合わされた担当の医師は細身の鎧の騎士だった。どうされたんですかと騎士が言うと、ガチャリと鎧が鳴った。
「それ、アブロードですね」
僕は懐かしいオンラインゲームのキャラクター姿に嬉しくなって、すると医師は「そういう相性とかも加味してマッチングするみたいです」と言った。それから「よろしく、ちびで勇敢なハリネズミ、フォーリナー」と僕に右手を差し出した。そして面頬を上げると、金色のキツネはにっこりと笑った。
僕たちは焚き火を囲んで座った。森の夜は静かでどこまでも深く、ぱちぱちとはぜた火の粉は、暗い夜空に舞い上がって消えた。医師はしばらく僕の話を黙って聴いて、少し脳回路の偏りと滞留があるみたいですね、と言った。
「病気なんでしょうか、発育不良とか」
僕は背中の針をしょんぼりと寝かせて言った。
「ただ、家族を持ちたいって思ってるだけなんだけどなあ」
すると金色のキツネは思慮深い表情でこちらを向いて言った。
「病気じゃない、たぶん傷です」
「傷?」
「ええ、心の傷」
大丈夫、手術で直せますよ、と正義の騎士は笑って、そしてちょっと遠慮がちに聞いた。
「失礼ですがご両親は?」
「分からないんです。僕は施設で育ったので」
・・・
それから週に一度くらいのペースでVRカウンセリングを受けた。僕は丁寧で配慮のある騎士(医師の先生のことだ)とすっかり打ち解けて、これなら先生に脳手術をまかせてもいいぞ、と思った。
そしてそのまま治療に入るのだと思っていたから、騎士の方から「来週からオフラインのカウンセリングにしましょうか」と提案されてびっくりした。なぜって、医師は職業上の権利として自分のプライバシーを守る権利を持っているからなのだ。そりゃあ、患者との信頼関係を築くのは大切なことだ。けれど孤独で人の親愛に飢えている患者からの過度な依存は、医師自身の生活を脅かす可能性が高い。医師と患者、互いの立場をきっちり分けた方が後々のためにいいのだ。
そんな訳で、アバター診療で最後まで終えるのが一般的なのだけど。
「多分、対面のほうがいいと思います」
信頼する先生が言うのだからそうなんだろう。そこで僕らは翌週対面で会った。
僕らは少し緊張して、再び「はじめまして」をして、僕は先生が想像していたよりもだいぶ若いことに驚いて、先生は照れたように、金色のキツネのようなきれいな髪をふわりとさせた。
そんな風にして僕の治療は始まったのだ。
・・・
そうして、今まさに装置の中に頭を突っ込んでいる僕は、丸いドームの内のりを眺めている。いつも思うのだけど、目の上、高さ5センチくらいのところにあるそれをぼんやり見上げていると、はるか高みにあるような気がしてくる。
先生は目下僕の手術に取り組んでいる。手術。治療。いや、治療と言うのさえ少し大げさに思える。それは、すごく砕けた表現をすると、脳のマッサージなのだ。
僕の頭を覆っているドームは、一昔前の主流だったMRI(核磁気共鳴イメージング装置)のひ孫のようなもので、術者に脳構造およびその神経活動をサブマイクロメートル単位の空間分解能で、リアルタイムに伝える。しかもこの装置はそれだけではなくて、同じ空間精度で、磁力、音波、遠赤外線の刺激を、狙った脳領域にぽん、と送ることができる。ぽん、が好みでないのなら、ぷるる、でもいいし、ぽろん、と弾いても、ぐにゅぐにゅと揉んでもいい。もちろん弾くとか揉むというのは言葉の表現であって、それは患者の脳神経細胞に十分許容できる範囲で行われる、ちょっとした物理刺激といった程度のもので、術者の意図に合わせて装置が自動で変換してくれる。ともかく、この装置を使えば、術者が選んだ脳内の任意の場所に、好みの加減で刺激を送る(マッサージする)ことができるのだ。装置の名前はManipulation architecture for regional intact activity of brain (自然な脳局所活動操作アーキテクチャ)、通称MARIA。先生はこれを使って僕の脳を直接マッサージする。それが今まさに僕の頭で行われている手術であり、治療なのだ。
医学の黎明期からずいぶんと時を経た。けれど未だ、人にしてもらう心のこもったマッサージの効果を超える治療法はそうそうない。先生の手はMARIAを介して僕の脳内へ潜り、僕の頭の中の『心の傷』をゆっくりとほぐしてゆく。
いつか僕は目を閉じて、自分の頭蓋の中をゆったりと泳ぐ先生の二つの手を感じながら、温められた春の陽だまりの小川に、裸のままゆったりと浮かんでいるような気持ちになる。
「痒いところはございませんか」と先生が耳元でささやく。「ううん、ない」と思わず子どものような口調で返してしまって、
先生のさざなみのような笑い声が、僕をまた温かな中に漂わせる。
・・・
先生の治療は、Man-Brain interfaceであるVR空間で行われている。先生はVRを投影するバイザーをかけ、専用のハンドセット(さっき先生がしていた黒手袋)をつけている。そうして患者の脳神経活動世界を忠実かつリアルタイムに反映しているVR空間に入る。僕は医師ではないから実際を見たことはないのだけれど、術中イメージなら見せてもらったことがある。テクノロジーのたゆみない進歩は僕らに脳活動のリアルを示し、その結果VR空間に脳活動を再現するまでに至ったのだ。
神経の活動とは花火のようなものだ。ぽん、と電気信号が打ち上げられ、次の瞬間には、しゅっ、と消える。そしてつまるところ、それは神経細胞の生命活動なのであって、栄養の送達と老廃物の除去、酸素の運搬と二酸化炭素の排出、そして血流変化や伝達物質によって引き起こされる局所の構造変化、この三つに大きく影響を受ける。これら三つの調整要素は、いわば神経活動をコントロールするアクセルとブレーキなのだ。そして脳活動といえば、さながらサブマイクロ秒単位で内向きの連鎖爆発を繰り返している球体だ。それを猛スピードで疾走しているスポーツカーのエンジンの中の燃焼室、と例えてもいい。
難しい話をするつもりはない。僕の知識なんてたかがしれている。要するに、疾走するエンジンである脳は、自らの判断でアクセルとブレーキを踏み変えながら、自らを運転している。そしてMARIAシステムはこれらの要素に
やんわりと干渉する装置だと思っていれば間違いない。これが言いたかっただけだ。
今、先生は僕の脳であるその爆発球体のなかにとぷんと身を沈め、『心の傷』つまり異常な神経活動を見つけ出し、MARIAシステムで治療を施そうとしている。けれどもこのフル回転するエンジンのような連鎖爆発の中から、どうやって異常を見つけ出すのだろうか。
・・・
脳神経活動の異常と聞いてあなたは、古い教科書の一ページで見た、脳の断層写真をイメージするかもしれない。CTでもMRIでもPETでもいい。ともかくその脳の断層図の中には、いやにドットの粗い、いかにもな腫瘍が鎮座していたのではないだろうか。けれども、そんなセンチメートル単位の超巨大な異物を見るのとは違い、今先生が向かい合おうとしているのは、身体的ストレスによって生じた脳局所の損傷であり、それはたかだか神経細胞十数個の、マイクロメートル単位のシナプスの活動異常なのだ。それが患者である僕を不条理に苦しめている元凶なのだけど、その異常発火ダイナミクス(つまり活発と不活発の変化の大きさの幅)は、異常場所の周囲で行われている日常的な生命活動の維持に欠かせない神経活動のそれと、すこしも変わらないのだ。
じゃあ、MARIAシステムを駆使してこれの解消に努める医師は、異常神経をどうやって見分けているのだろうか。それは、『再現された神の国:エデン』と呼ばれるシグナルパスフィルターを通すことで、可視化されているのだ。
・・・
世界におよそ60億人いる僕らはそれぞれ、『個性』というわずかな神経回路の違いを頭の中に抱え込みながら、笑い、泣き、苦しみ、悩みを繰り返して生きている。そんな個性あふれる僕らの神経活動のうち、一体どれを異常と定義すればいいんだろう。
ちょっと話が飛ぶけれど、あなたはこんな話を聞いたことがあるだろうか。
かつて、世界のありとあらゆる人の顔の平均像を作った人がいた。顔は個性の最たるものだ。幸運にも美男美女と評される人たちもいれば、不幸にもそうでない人たちがいる。その一方で、イケメンでも美女でもないのに、とても魅力的な表情の人もいる。そんな人々の顔を全部合わせて平均化した顔は、どんな顔だったのだろうか?
答え。それはとても穏やかで、情に篤そうで、聡明な雰囲気を漂わせたハンサムガイとビューティーだった。そして、それを見たある人が考えた。曰く、
―――神は自らに似せて人を作った。ならば我らの顔の平均であり、われらの全てに似ているこの顔は、もっとも神に似ている顔なのではないか?
世界中の脳科学者たちも、これと同じようなことをした。つまり、何万人、何十万人、何百万人もの個性あふれる爆発球体の中で行われている神経活動記録を集め、平均化したのだ。そうして出来上がったものが、さっき言った『エデン』、つまり『全人的平均化脳神経活動記録』だ。
失われた楽園。心に平穏だけが満ちていた時。個性を持った瞬間に、その平穏には二度と到達できなくなった僕たちは、僕らの脳活動の総合の中に立ち現れた平均という理想像に、憧憬の意味をこめて楽園の名を冠したのだ。
おびただしい平均化処理。それによって、この記録から、心をかき乱すような異常なノイズは消されている。こんな平穏な神経活動を示す人なんて、それこそ神様ぐらいしかいないだろう。しかしこれが、あらゆる人の精神活動のベースライン(常態)であることは疑いがない。そして先生は、このエデンをフィルターにして、僕の脳神経活動を眺める。もうちょっと具体的に言うと、僕の脳神経活動状態から、エデン活動状態と共通する要素をソフトウェア上で取り除いてしまう。すると、そこに何が現れるだろうか。
どこまでも広がる暗い水面。目を凝らすと、その奥底に、ちらちら、はぜるように戯れる光が見える。それがエデンから追放された異常活動だ。先生はそこへ向かう。もちろんVR空間の中での話だ。そうして至近まで行き、脳内座標を確かめる。それから慎重に、そのごく近傍の周囲だけを、リアル活動状態の表示に戻して、仔細に観察する。
異常な神経活動は、ムカデ競争のグループの中に突如現れたひとりの反乱分子だ。つながった彼らだから、必ず周囲にいびつが生まれ、ムカデの足運びは滞る。かといって、いきなり反乱分子をどうかしてしまうと、ムカデの足は止まってしまう。だから先生はまず、反乱分子の周囲の、隣り合う神経細胞に働きかける。MARIAマッサージを施して元気を取り戻してもらい、来るべき核心手術、つまり反乱分子の鎮静の時に備える。そうやって外堀を埋めたあと、本丸である異常神経活動に向かいあう。狂った神経活動をエデン活動状態まで鎮めるのは容易ではない。実際、患者は急激な変化についてゆけず、術中に少なからず動揺する。それを抑えるのがMARIAシステムによる周囲神経の事前強化であり、術者との信頼関係なのだ。
・・・
そして今、「不安を感じたら言って」とVRディスプレイに向かう声が僕に告げる。
「この治療をして、異常活動をエデンレベルに落とすことはできる。けれどあなたがそれによって何を感じるかは私にも、誰にも分からないから」
丸いドームの下で僕は頷く。そして先生が了解したのを気配で知る。
周辺組織が十分活性化したのを確かめて、先生は告げる。
「じゃあ、やるよ」
僕の鼓動が跳ねる。
「お願いします」
先生は僕の脳内の傷に両手を差し込む。MARIAシステムが瞬時に先生の意図を掴み、磁場と超音波、遠赤外の指向波を座標で指定された異常箇所に正確に送り込む。圧迫された神経細胞が自らの再構築を始める。抑制されたミトコンドリアでのエネルギー産生低下がシナプスの刈り込みを促す。局所のわずかな温度上昇が血流を促進する。治療が始まった。
僕はいきなり体が内側に爆縮するような感じを覚え、短く小刻みに呼吸する。こめかみに汗を感じ、体がどんどん冷えてゆく。
・・・
そうして、北風の吹くベランダに一人寒さに震えている自分に気づく。僕はまだ子どもで、下着の上下しか着ていない。太陽は今しも沈みかかり、これからどんどん寒くなることは子供心にも分かった。ベランダの桟の隙間から向こう側を見る。ここはアパートの二階で、見下ろすアスファルトの地面は冷えて硬そうに見えた。
窓辺に寄って、部屋の中を覗き込んだ。内側にレースのカーテンを引かれたアルミサッシの窓。鍵がかけられているのが一目で分かった。
カーテンの隙間から覗く室内には笑顔があった。笑う母親。膝の上に小さな弟を抱いて、低いテーブルの前に横座りしている。その隣には義理の父。笑っている。皆で、ここからは見えないところに置かれたテレビを見ているのだ。義理の父が何か母に言って、母は笑って義理の父の肩を軽く打った。
なぜ僕はあそこにいないんだろう。裸みたいな格好で、ベランダで寒さに震えているんだろう。窓を叩こうとして思いとどまる。僕は何か叱られてたのかもしれない。上げた手はそのまま固まってしまう。
義理の父がふとこちらを見て、目が合う。とたんに義理の父は激昂して、母を怒鳴りつける。それら全ては音もなく進行して、僕はぼんやりそれを眺めている。すると、怒った母は腰に当てていたクッションを僕の目の前のガラスに投げつける。
ばしゃん!と窓全体が音を立てて震えて、
歯をむき出しにして僕に何かを叫ぶ母の顔、
不思議そうに僕を見上げる幼い弟、
あざけるように笑う義理の父、
僕は何も考えることができなくなって、
窓のそばを離れ、
ベランダの真ん中で膝を抱えて座る。
部屋からはもう何も聞こえなくて、
いや、僕の周りから音はすでに消えていて、
僕は瞬きをすることさえ忘れて、ただ座っている。
そしてどんどん夜が来る。
どんどん暗くなる。
深くなる。
冷えてゆく。
・・・
僕のバイタルが急激に悪くなって、先生はいったんVR空間を出る。そうして横たわってる僕のドームを少しずらして、その酷い顔色に驚く。僕は目をつぶったまま、がちがちと歯を震わせて、寒い、寒いと子どもの声でつぶやき続ける。
先生は両手で僕の手を取り、ぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫、あなたは強い、強いんだから」
僕の耳元で何度もささやきかける。
「あなたはもう強い、がんばって」
・・・
不意に。
胸の中に温かなものが流れ込んでくる。(あなたは強い)という声が聞こえる。狭いベランダには膝を抱えて座る僕しかいなくて、だのに誰かがそばにいてくれるような、そんな安心感を覚える。僕は立ち上がる。
ベランダから手の届くところに見える雨どい。僕はエアコンの室外機によじ登り、それに手を伸ばす。(がんばって、大丈夫)という声に励まされ、両手でぶら下がる。それから雨どいにつかまったまま、じり、じり、とゆっくりずり落ちるように降りていく。凍えた手には力が全然入らない。金具に擦れて、手のひらが切れるように痛い。けれど僕はあきらめず、無限に続くかのような時間の後、僕は自分が地面の上に立っていることに気づく。
しばらくぶりの、囲みのない、広い地面。
見上げると、さっきまで自分のいたベランダは、古ぼけて壊れた鳥かごのように見えた。
そして僕はゆっくりと歩き出す。家の前の道、信号のある交差点、それらを過ぎて少し歩いたところに派出所があり、僕はそこに入る。
・・・
低いモーター音とともに椅子が少し起こされ、僕の頭部はドームから出る。けれど僕はまだ起き上がれなくて、目を閉じたままでいる。
自分の頬にとめどなく流れるものを感じる。そして先生がまた、ぎゅっと僕の手を握ってくれる。その手は暖かくて、僕はいつまでもその体温を感じていたいと強く願う。
「仕方なかったんだ」と、今や全てを思い出した僕は泣き声で言う。
「ああしないと、僕は死んでいたと思う」
そして自分がDVを告発したことで、両親は罪に問われ、離婚し、家族は散り散りになったのだ。ああ、彼らが今どうしているのか、今の僕は全く知らないのだ。
先生の頷く気配。
「あなたは自分を守っただけ。何も悪くない」
そして僕も、無言でそれを肯定する。彼らの僕に対する行為に、微塵も肯定的な理由を見出せないことを、今ようやく納得することができた。それはきっと、僕の出自を調べ、すべてを理解した上で治療に臨んでくれたのであろう先生のおかげなのだ。
裸同然の姿で、北風の吹くベランダに放置。そんなひどい仕打ちを受けながらも、愛情に飢えていた僕は、彼らの行為を否定することがどうしてもできなかった。そしてその執着は、心の傷を忘却という硬い蓋で覆ってしまった後も残り続けた。だから僕は愛情に近づこうとするたびに、彼らが作った壁を自ら思い出してはそれに突き当たっていたのだ。
けれど封印されていた倒錯した記憶は、治療のおかげで取り戻せた穏やかな目で、ようやく落ち着いて眺めることができるようになった。狂っていた回路は正しく回り始め、ようやく自分の受けた仕打ちを公平に理解することができるようになった。そして僕の中の、今までそれが占めていた場所に、ただ願いだけが残った。
ぬくもり、愛情。ああどうか、この手を離すのは、もう少しだけ待って欲しい。
すがりつくように、自分の真ん中に抱き入れるように、その手を握る。
「本当にすいません」
涙はぽろぽろと流れる。
「患者だからって寄りかかって、ご迷惑だとは承知してます。だけど、どうかもうちょっとだけ」
「いいの」
声と一緒に、強く握り返される。
「私が会いたくて、あなたにこうしてあげたいと思って、私から側に来たんだから」
「先生」
それは心に優しく響いて、僕はどうしても泣き止むことができない。
「本当にすいません」
「お願い、私を特別扱いして遠ざけないで」
先生は横たわる僕に寄り添う。
「医師だって普通の人間なんだもん、気持ちの通じた人の側にいて、支えたいって思うんだよ」
・・・
治療時間をだいぶ過ぎてから、僕はようやく起き上がることができた。その間、先生はずっと側にいてくれた。
先生を見る。すぐ側で先生も僕を見る。よく見れば先生は、僕よりもだいぶ小柄で、笑顔が素敵なごく普通の、けれど魅力的な女性なのだった。
先生はまだ僕の側を離れない。そして僕はその思いやりを愛おしく思い始めている。
僕たちは互いに何かを期待しているのかもしれない。でも、じゃあ何から始めたらいいんだろう?
ともかく心に浮かんだことを聞いてみる。
「そういえば」
「はい」
「あの時、先生は本当に僕の側にいてくれたんじゃないですか」
幼い僕の冷たい背中を優しく押してくれた温かい応援。あれが治療記憶なのか、それとも実際そうだったのか、今の僕にはもう区別がつかない。
けれど、その声はまだ、僕の奥深いところに残っている。
先生は美しく笑う。
「こんなに医学が進歩しても、脳ってまだまだ謎なんです」
だからタイムマシン機能が付いてても、私は全然驚かないです。
そう言って、まだ繋がれたままの手を、優しく握ってくれる。
僕の心に今、友愛よりももっと力強く、熱いものが溢れる。
君の話を、もっと聞いていたい。
誰よりもすぐそばで、聞いていたいんだ。
そして僕は、もうだいぶ昔に忘れてしまっていた、くすぐったいような、焦るような、けれど絶対に譲れないような、そんな不思議なもどかしさにちょっと照れながら、
「ところで先生は、その、あの、」
しかし初めての距離感覚にとまどい、思わず口ごもる。
すると先生は、
「ほら、勇気を出して、チビで勇敢なハリネズミ君」
金色のキツネのような髪を優しく揺らして、もう少し僕に寄り添ってくれる。
(終)




