3、目の前の選択肢
最終話まで毎日17時に更新します。全18話。
「さぁ選びなさい」
俺の目の前に、淡く光る左右2本の手が見える。
「またここか……」
俺はこんなにがっかりしたことはなかった。
ようやく終わった。
すべてが”無”に帰して何も残らない。
それを期待していた。
選びなさい?
俺はいつでも選んできた。
その度、ハズレばかりを引いた。
しかも、ハズレとわかったあとも努力をして、何度もそれを覆そうとしてきた。
だけどその度、想像以上に高い壁を作ってきたのはあんたじゃないか……神様!
俺は、声には出さなかったが叫んでいた。
そしてその心の叫びが伝わったのか、静かな、それでいて暖かな声が、俺の頭に響いてきた。
「私は神様ではありません」
俺は、自分が涙を流していることに気づく。
何年も、記憶のすみに追いやられた泣くという行為。
泣き方なんて忘れたと思っていたのに、涙が目の奥からとめどなく流れてくる。
目の前の2本の手は続けて言った。
「さぁ選びなさい。この手の意味するところを、あなたはすでに知っているはずです」
確かに、俺はどちらの手を取るべきなのかはわかっている。
だが次のログイン、つまり別の人格として生まれ変わることも、管理者として生きることも、そのどちらも、今の俺には負担でしかなかった。
本当の望みは、このまま何もない”無”になることであって、どちらかの方向に新たに進みだすことではなかった。
だから俺は差し出された両手に背を向け、そのまま、あるようでない地面へ身を預けた。
うつ伏せに倒れた俺は、この広大な暗闇に飲まれることを期待したが、そもそもここには上下がないらしく、結局立ったままだということに気がつく。
それから俺は座ってみようともしたが、重力を感じないためそれも意味がなかった。
管理者にそっぽを向いた形になっているが、管理者は何も言わずただ手を差し伸べているようだ。
俺は目を閉じ、ふたたびこの空間に身を委ねた。
体中の力が抜けたような感覚になる。
しばらくそのままの体勢でいると、わずかに何かよくわからない感情が湧いてくる。
いつぶりだろう? こんなにリラックスしたのは。
いつも何かに追われ、不安だらけで生きてきた。
小さい頃からの記憶が頭の中で、時系列を追って走馬灯のように再生され始めた。
家族との思い出、ケンカした友だち。ふざけあった仲間。
親身になって話を聞いてくれた昔の恋人。
そして――過労死した親友。
そのとき、俺の中に激しい怒りが沸き起こった。
何に対して?
冷静なもう一人の俺が問いかける。
もちろん、怒りは答えない。
それから、この何もない空間で俺は暴れた。
目の前に拳を突き出し、あるかないかわからない地面へ足を踏みおろした。
今まで不安に占領されていた容量が、すべて怒りに置き換わる。
俺はさらに暴れ続けた。
何分か、何時間か、何年か、何百年か、どれほどの時間が経ったかわからない。
だが、ある瞬間その怒りは頂点に達し、急速に終わりを迎えた。
ふと振り向くと、そこには変わらず淡く光る2本の腕があった。
俺は迷わず片方の手をとる。
「ありがとう」
管理者の柔らかな声が聞こえ、次の瞬間、俺の体から柔らかで淡い光が放たれ始めた。
そして俺は静かに目を開ける。
夜空に輝く満天の星が、目に飛び込んできた。
背中に土の冷たさと重力を感じ、戻ってきたことを実感する。
首に手をやると、洗濯用ロープが巻き付いていた。
ロープをたぐり寄せると、切れるはずのないワイヤーが途中で断ち切れていて、俺はなぜか笑った。
「はぁー」
ひとしきり笑った俺は大きく息をつくと、おもむろに立ち上がる。
持ってきた大きめのバッグに、折りたたみのイスとロープをしまい、この大きな木に向かって、
「迷惑をかけたね」
とだけ声をかけた。
木からの返事は、聞かなくてもわかっている。
俺は乗ってきた自転車にまたがると、登ってきた長い坂道を下った。
ペダルをこぐ必要はない。
こんなに楽な坂道はなかった。
どんどんスピードは上がっていくが、ブレーキはかけない。
俺が人や物を避ける必要はなかった。
うまく歯車が回っている。
一言で言うとそんな感じだ。
避ける必要がないといっても、それは他者をどかせているわけではない。
針の穴を突くようなタイミングですら、管理者の俺には手のひらの上の出来事だった。
なので、鍵をかけずに出てきた自分の部屋が無事なこともわかる。
それから一切信号で止まることもなく、行きの半分ほどの時間で俺は家に帰り着いた。
俺は、ドアを開け自分の部屋に入る。
相変わらず明かりのない暗い部屋だったが、出てきた時とは別の意味で、どうでもよかった。
俺は目を閉じ、日本のシステムにアクセスする。
システムといっても、コンピュータのような電子的なものではない。
それは極めて抽象的でありながら、同時に具体的な機能をもった構造で言語化することは難しい。
数秒後、部屋に明かりが灯り、蛇口をひねるとお湯も出た。
部屋の中で茶色く干からびた植物たちは、まるで時間を巻き戻したかのように、青々とした姿を取り戻していく。
二度と開けたくないと思った冷蔵庫を、開けてみる。
見なくてもわかってはいたが、今は実感が欲しかった。
中で腐り果てていた食べ物は、元の新鮮な形に戻っていた。
そして窓を開けてもなかなか取れなかった悪臭も、きれいさっぱり消した。
今となっては、エアコンをつける必要すらないが、試しにスイッチを入れてみる。
少し前に壊れていた古いエアコンは、新品になり新鮮な風を送り出した。
管理者としての最初の一歩が、自分の生活のことというのは、少し情けない気がしないでもなかったが、過去の管理者の記憶まで引き継いでいるわけではないため、何が正解なのかはわからない。
「次は家賃の支払いだな」
俺は小さくつぶやくと、再び目を閉じ、家賃の振り込みを行った。
こうなってくると、お金の概念も、もはや過去のものだ。
とはいえ、突然口座残高が多額になると不自然なので、俺は常識の範囲内で、自分の口座の数字を少しだけ増やした。
……ああ、そうだった。
粉々になり、復旧が不可能になったスマホのことを思い出した。
手のひらを上に向ける。
もう特に意識を集中しなくても、次の瞬間、破損前の状態に戻ったスマホが手のひらに乗っていた。
着信履歴を見ると、近くに住む友人から何度も着信がある。
俺は友人に電話をし、事故で連絡が取れなかったことを説明すると、友人は泣いていた。
だが、自分が日本の管理者になったことは口が裂けても言えなかった。
友人は、仕事のことを心配してくれたが、事故の損害賠償でお金はなんとかなるとウソをついた。
他愛の無い話をしていたら、2時間が過ぎていた。
眠くなることもなく、眠る必要すらなくなったが、俺はもう寝ると言って電話を切る。
さて、明日から何をしようか。
管理者としての自覚はまだなかったが、俺の力量次第で日本が良くも悪くも転ぶことは理解していた。
だが今の俺は、張り切るわけでも、重圧に押しつぶされるわけでもなく、どこか無責任な感覚でとにかく何かをやってみよう――そんな気持ちだった。
目を閉じる。
時間が思い通りに進んだり戻ったりすればいいと思ったが、世界を巻き込むほどの大きな権限は与えられていない。
あくまでも、俺は「日本の管理者」だ。
そう自覚しながらも、思考が頭の中を回る。
他国の管理者と会うこともあるのだろうか?
そんな、管理者ルーキー丸出しな考えばかりが、生まれては消え、生まれては消えと、ただ延々と繰り返された。
気づけば、窓の外が白んできて、閉じたまぶた越しに太陽の光が目に届いた。
「さぁ! 管理者の朝は早いぞ」
誰もいない部屋で、独り言をつぶやくと、俺はまた鍵をかけずに部屋から出て、いつもの階段を下っていった。
管理者の空間は無重力のようなイメージです。




