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エゴでもいい、死なないで

作者: 月森優月
掲載日:2026/01/18

「死なないで」

 その声かけが、僕のエゴかもしれないことは分かっている。

 けれど、僕は姉に死んでほしくなかった。

「死なせてよ! 私が死んだ方が、皆だって楽じゃない!」

 そうヒステリックに叫び、首元にカッターの刃を当てようとしている姉を、僕は後ろから羽交い締めにした。カッターを奪い取り、床に落とし、つま先で蹴り飛ばした。

 目の前で立ち尽くす母は、涙をうっすらと浮かべながら、

「死んでいい命なんてないのよ!」

 と声を荒らげ、エプロンの裾をぎゅっと握っていた。

 死んでもいい命なんてない――綺麗事だ、と思う。

 そして姉も、カッターで自分の首を切ったとしても、死に切れる可能性が低いことは自分で分かっているだろう。

 それでも姉の行動が決して自殺の真似事なんかではないことを、僕は察していた。

 僕は見てしまっていた。姉の部屋の机の一番上の引き出し――誰にも見せるつもりがないであろう場所に、雑に畳まれた一通の手紙。

『遺書』

 と、律儀に書かれていた。

 いやな予感が、していたんだ。姉が何か危険なものを隠してないか、彼女が出かけているときに僕は家探しをした。

 姉の部屋に入ると、真っ先に机の上に目をやった。姉の机の上は綺麗に整理されていた。

 ――不自然なほどに。

 空になった机の上の本棚。文房具を集めるのが好きだったはずなのに、ペン立てには一本の万年筆しか立てられていなかった。

 もしかして、と最悪の想像をしてしまった。

 汗ばむ手で、引き出しを開けた。

 真っ白な便箋だけが、しまわれていた。それが目に入ったとき、胸がドクンと跳ねた。耳の奥でキーンという耳鳴りがした。

 その便箋を開くことに、躊躇いはなかった。

 遺書、と書かれた手紙には、尖った文字でこう書かれていた。

『私は死を選びます。ごめんなさい。楽しかったこともある。お父さん、お母さん、たける、今までありがとう。先立つ不孝をお許しください』

 ――今どき、本当に先立つ不孝をお許しくださいだなんて、本当に書くやつがいるんだ。

 僕の頭の中は不思議なほど冷静だった。考えることを、僕の脳が拒否しているのかもしれない。

 このことを両親に言わなきゃという焦りと、誰にも言ってはいけないという悟りが拮抗し、僕の心はぱんぱんに膨れ上がる。

 母がいるらキッチンへ歩を進めたあと――「駄目だ」と独り言を言いながら踵を返した。

 手紙は元通りに引き出しにしまった。勿論、見て見ぬふりをするわけにはいかない。

 まだ、間に合う。

 だってまだ姉は死んでいないのだから。

 僕は自分の部屋に戻り、椅子に座る。

 姉とお揃いの机の一番上の引き出しには、一枚の図書券が入っていた。

 それを久しぶりに目に焼き付け、静かに引き出しをしめた。

 ――この図書券は、まだ、使えない。

 

 帰宅した姉に「おかえりー」といつも通りの声で僕は言った。

 そしていつも通り家族で食卓を囲みながら、テレビを観ながら箸を運ぶ。

 けれど、僕が大好きなはずのハンバーグの味も、テレビで流れているニュースの内容も、車の外で流れていく風景のように通り過ぎていった。

 僕は姉に、なんと声をかけるのが最適解なのだろう。

『死にたいと思うのは今だけだよ。そのうち、そんなときもあったなーって笑えるときが来るよ』

『死んだって、地獄で苦しみ続けるだけかもしれないよ』

『死ぬことが解決にはならないよ』

 かける言葉をいくつか思いついては、そうじゃないと頭の中で搔き消した。そうしているうちに、僕の体重は一ヶ月で二キロ減った。

 でも姉の苦しみはこれくらいではないのだろう。

 姉が何に苦しんでいるのか、どうしてそこまでして死にたいのか、僕は何も知らなった。

 それを聞き出せないことは、僕の罪かもしれない。

 

「お願いします。死なせてください」

 ある日の姉は、母に懇願していた。年季の入ったフローリングに涙の雫が滲んだ。

「馬鹿なこと、言わないでよ。そんなのいいって言うわけないでしょ」

 母は目をしょぼしょぼさせながら、低い声で言った。

 白髪が最近一気に増えちゃって、と薄暗いダイニングで、母が父に漏らしているのを見てしまった。弱々しい笑みを浮かべる母に、父は「唯を病院に連れて行った方がいいかもな」と呟き、俯いていた。

 

 結局、僕が姉に本当にかけたい言葉はたった一つしかなかった。

 どんな言葉より回りくどくない、飾りのない言葉。

 僕は、姉の部屋をノックした。例のものが入った引き出しを急いで閉めた後ろ姿を、僕は見て見ぬふりした。

 何食わぬ顔をしてドアの前に立つ姉をまっすぐ見つめ、僕は声をかけた。

「お姉ちゃん。死なないで」

 エゴかもしれない。でもやっぱり、大切な身内が死のうとしているときにかけたい言葉は、それ以外になかった。

 他の言葉は、どれも飾り立てただけの、虚しい響きにしかならないだろう。

 姉は覇気のない目で僕を見て、その後視線を落とし、

「そんな言葉で思いとどまると思う?」

 と低い声で呟いた。

「分かってる。でも、それしか言えない。お姉ちゃんが死んだら、悲しいよ。絶対うつになる」

「あんたがうつになろうが、そこまで気にかけることなんて出来ない。私は苦しみながら生きろってわけ? そんなの、あんたのわがままじゃん」

 姉は、家族のことを思いやれる人だった。僕の高校入学祝いにくれた図書券は使わずじまいだった。

 今時図書券なんて、と文句を言ってしまった過去の自分を殴りに行きたい。

 今姉は、ぽっかりと空いた闇に呑み込まれそうになっている。その手を、掴んだままにしたい。姉を喰う闇を消してしまいたい。

 だけど僕はまだ十七で、姉を救い出す術を何一つ知らない。

 父の言うとおり、病院へ行くのが一番の方法かもしれない。でも無理やり連れていけるほど、姉も子どもではない。

「確かに、わがままだよ。エゴだよ。そんなの分かってるよ。ね、お姉ちゃん、病院行こうよ。お姉ちゃんが辛いの、少しはマシになるよ、きっと」

 自分がかけた言葉を頭の中で反芻しながら、なんて説得力のないことを言っているのだろうといやになった。

 しかし、姉は少し顔を上げ、僕の顔を一瞬見た。すぐに視線を逸らしたけど、その瞳が泳いでいることを、僕は見逃さなかった。

「お母さんだと余計なこと言うかもしれないから、僕がついていってもいいよ。僕の方がちょっとだけマシでしょ?」

 姉は一瞬真顔になったあと、少しだけ笑った。部屋のドアが、先ほどより少しだけ大きく開かれた。

「……あんた、どこでそういう悪知恵入手したのよ」

「お姉ちゃんがくれた図書券で本買って、少しだけ賢くなった」

「嘘つけ」

 鼻でで笑い飛ばしたお姉ちゃんの瞳は、もう揺らいでいなかった。

「死なないでってそれだけうるさく言うなら、責任取ってくれるんでしょうね」

 姉のすぐ傍で、早くおいでと待ち構えている闇が、少しだけ小さくなったような気がした。

「責任は一生かけて取るよ。だって、弟だもん。縁切ろうとしても無理だから」

「あんた、本当ずる賢くなったね。私があげた図書券、案外本当に役に立ったのかな」

 姉が伸ばしかけた手を、絶対離してはいけない。

「明日、どっか病院予約しよう」

 僕の言葉に姉は頷かず、代わりに、目の端から流れる一筋の雫。

「だから、今夜は死なないでね。――唯」

 姉の名を、久しぶりに呼んだ気がする。姉は黙って部屋の奥に向かうと、枕の下から何かを取り出し、僕に手渡した。

 錆びついた、一本のカッター。

「今夜だけは、生きていてあげる」

 僕はそのカッターを握りしめ、このカッターに新しい赤い汚れがつかないことをただ祈った。

 ドアが静かに閉められたあと、姉の泣き声が聞こえてきた。

 僕はドアの前で目をつむり、メンタルヘルスの本を買わなければと思った。使うのが怖くてずっとしまい込んで使えなかった、図書券で。

 姉の遺品にしては、絶対にならないから。

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