第2章 私の知らない彼①
新学期が始まってからひと月以上が経った。授業もすでに本格的な内容に移っており、ミュリエルは勉強についていく為、頻繁に図書館を出入りしている。
一通りの授業を終えて今日も図書館へ行こうと魔法調薬室の前を通ると、ギルベアトがアースティン教諭と笑いながら会話をしているのが見えた。
私には、あんな楽しそうに会話してくれたことなんてないのに。
チクリと胸が痛む。
ただその痛みも沈む気持ちも、すぐにすくい上げてくれる人がいる。
「ミューリエル!」
「あ、レイナード様」
「何見てるんだい?……って、ミュリエル大丈夫?」
窓から見える室内の光景を目にしたレイナードが察した。
「なんの事ですか?」
「なんの事って……」
ギルベアトとの縁を切ろうと決めたのだ。お互いの幸せのために、婚約を解消するのが一番いい。その為にレイナードの気を引こうとしているミュリエルが、何かを思う立場にない。
それにレイナードは自分を好いてくれている。未練がましく傷つくなんて馬鹿げている。
「シュヴァイニッツ先生はただ、アースティン先生と話しているだけでしょう?」
「ミュリエル……僕なら君をこんな風に傷付けたりしないのに」
「そのお言葉だけで十分ですわ」
「これから図書館に行くのかい?」
「ええ。レイナード様は?」
「僕も一緒に、と言いたい所なんだけど、先約が入っていて」
「大人気ですわね」
レイナードはこちらの国に留学している間、できる限り人脈を築いておきたいようだ。色んな集会やクラブに顔を出して精力的に活動している。
「勉強もいいけどさ、ミュリエルもたまには息抜きした方がいいよ」
「ええ、でも私は要領が悪いから。しっかり予習復習をしないと、すぐに遅れを取ってしまうのよ」
上位の成績をキープするためには、人一倍勉強しなければ。
胸元に持った教科書をギュッと握りしめると、レイナードがそちらに目を向けた。
「でもそれ、公共政策学の本だろう? 君があえて熱心に勉強するような学問でもないと思うけど」
「え……」
「ミュリエルにとっては実用性に乏しいじゃないか。会計学とかならまだしも、政治学は女性にはあまり必要ないんじゃない?」
「そう……かしら」
一般的にこの辺りの国の男性は、女性が表立って政治に口出しすることを疎ましく思うきらいがある。現に議会はほぼ男性で占められている。
レイナードは家の管理に必要な帳簿の付け方などを学んだ方が、ミュリエルとって有益だと言いたいのだろう。
政治学や経済学などの分野の成績で、女性が上位にくい込んでいるのはミュリエルくらい。あの才色兼備のイヴォンヌでさえ、ミュリエルより成績は下だ。本人はそんな分野でいい成績を取ったところで、意味が無いと思っているようだけど。
ミュリエルの表情が曇ったことをレイナードは見逃さなかった。すかさずフォローを入れてくる。
「もちろん何事も無駄なんて事は一つも無いからね。あらゆることに精通して見識を広めておいた方が良いに決まってるよ。ただ僕は、ミュリエルが根詰め過ぎないか心配なんだよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。美容のためにも夜はきちんと寝ているから」
「あはは!どうりでミュリエルの肌は触りたくなるようなツヤ肌な訳だ」
「ふふっ、お褒め頂きありがとうございます。それではまた明日。レイナード様もあまり飲み過ぎないように」
「うん、僕はザルだから心配ないよ」
軽口を叩ける仲というのは良いものだ、と改めて思う。レイナードとなら堅苦しくなく、良い夫婦になれるのではないかとさえ考えてしまう。
さっき胸に感じた支えなど、いちいち気にしていてはキリが無い。ミュリエルだって女の役目が何なのか心得ているつもりだ。
夫が不在の場合は妻が領地運営をすることもあるし、夫にアドバイスをすることだってあるが、あくまでそれは補助的な役割。主役ではないのだ。
女性が主役を求められるのは社交場であり、そちらで活躍することで影響力を持ってこそ夫を支えられる。
分かっていてなお、勉強を止めるつもりはない。やはり学びたいという思いが強いのだ。学生でいるうちはそれが許されるのだから、今のうちに学んでおきたい。
図書館に着いたミュリエルは、参考になりそうな本をいくつか選び席に座った。
教科書と参考書と、授業中に取ったノートとの間で視線を行ったり来たりさせてはメモを取っていく。
「うーん……これ、どう言うことかしら」
授業中、気になったところを調べるために、参考になりそうな本を手に取ってみたが難しすぎてよくわからない。読めば読むほど頭がこんがらがってきてしまう。
ノートに要点をまとめてみれば整理できるかもと書き出してみるが、結局ぐちゃぐちゃになるだけ。全部要点なような気もするし、全部的を得ていない気もするしで、なんにもならなかった。
「はぁ、私ってどこまでバカなのかしら」
頬杖をついて項垂れていると、ミュリエルの座っている席の前に一人の男性が座ってきた。それが誰なのか認めるとミュリエルは慌てて姿勢を正した。
「シュヴァイニッツ先生……」
「どこかわからない箇所があるのか?」
「ええと……いえ、先生の専門外ですから」
「これでも一応、この学院を首席で卒業したんだが」
「あ……し、失礼致しました。先生を侮辱する意図はありませんでした。非礼をどうかお許しください」
先ほど見た光景からの今なので、ギルベアトと話したくない一心でとんでもなく失礼な発言をしてしまった。いくらなんでも今の言い方はまずかったと自分でも思う。顔を真っ赤にして謝るミュリエルにギルベアトは「いいよ」と言って許してくれた。
そのままミュリエルが見ていた本やノートを手に取ると、顎に手をやりながら眺めている。
「教えようか?」
「いえ、結構です」
あまりにもミュリエルがキッパリと断るものだから、ギルベアトが目を見開いた。
「あのっ、違うんです。シュヴァイニッツ先生に教わるのが嫌とかそういうのではなくて。誰かに整理された答えを解説してもらうよりも、こうして自分で調べて答えを見つけ出したほうが頭に残るので、それで……」
今みたいに余計にわからなくなって無駄な時間を過ごしてしまうこともあるし、遠回りしてばかりだとは思うけど、誰かに聞いてすんなりと手に入れた知識よりもこうする方が圧倒的に身につく気がしている。
しどろもどろに理由を言うと、ギルベアトが「そうか」と言って席を立った。そのまま本棚の列の向こうへその姿が消えていく。
怒らせちゃった……のよね、きっと。
人が親切にも教えてくれると言っているのに、無下にしてしまった。
婚約破棄するつもりでいる相手なのだから、怒ろうと嫌われようと関係ない!と思いたいところだけど。でも少し、後味が悪い。
小さく息を吐いてから、もう一度本を読み直してしばらく。ミュリエルの前にスッと本が差し出されてきた。
「この本を参考にするといい」
「え……?」
「今手にしている本は詳しく書かれているが、説明が回りくどくて理解しづらい。こちらの本の著者の方が読みやすくておすすめだ」
「あ……ありがとうございます」
「それでも分からなかったら聞きにおいで」
「はい」
ミュリエルが本を受け取ると、ギルベアトは行ってしまった。
怒ったわけじゃなかったのね。
失礼な態度を取ったのにもかかわらず、わざわざ本を探してきてくれた。妙にジンッと胸にくる。
ギルベアトに渡された本を読んでみると、なるほど確かにわかりやすい。こちらの本を読んでから先程の本を読めば、著者が何を言いたかったのかがよく分かる。
「今度ギル様にお礼を言わなくてはね」
本の背表紙を撫でながら、ミュリエルはポツリと呟いた。




