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水の記憶

 夏の風が頬を撫でる。


 大村冴子は、久しぶりに実家のある町へ帰ってきた。

 二十五歳、独身。都市での暮らしに疲れ、数日だけの休暇をもらっての帰省だった。


 実家の引き出しには、お気に入りの香水がしまわれていた。

 柑橘系のフレッシュな甘さと、ほのかな白い花の香りが溶け合うオードパルファム。

 どこか懐かしさを帯びたその香りが、冴子の記憶をそっと刺激した。


「……昔も、似たような匂いがしてた」


 午後の陽射しのなか、冴子は散歩に出た。小さな商店街、朽ちた木の橋、学校の裏山。

 その途中で、彼女はひとりの男と出会う。


「……冴子? 久しぶりだな」


 佐野原亮太。小学校時代の幼馴染だった。


 二人は自然と会話を始め、懐かしい話題で盛り上がった。


「ねえ……そういえば、あの沼って今もあるのかな?」


「沼?」


「ほら、小学校の裏山の奥にあった。夏休みにさ、あそこで肝試し、したよね?」


 冴子が笑いながら言うと、亮太は不思議そうな顔をした。


「……冴子。沼なんて、ないって。裏山に沼なんて、最初からさ」


 冴子は目を見開いた。


(……そんなはず、ない)


 泥の匂い。赤い花。冷たい水面。

 子供たちの笑い声が、耳の奥でよみがえる。


「あのとき、あそこに行ったのって……誰だったっけ?」


 視界が揺れた。空気が粘つくようにまとわりつき、背後から誰かに見られている気がした。


 ——誰がいた?

 ——わたしは、行ってないはずだった。


 冴子は思い出す。風邪で寝込んでいた……という記憶が、ある。

 けれどそれは、まるで誰かに刷り込まれた“嘘”のような違和感を孕んでいた。


 ——あの夜。確かに、自分は、沼に行った。


 肝試し。夜の裏山。冴子、亮太、桧山大作、柄本浩二の四人は、懐中電灯の明かりを頼りに裏山の沼へと向かった。


 沼まで行った証拠に、冴子の家の倉庫から見つけてきた古い灯篭を沼の水面に流すのが目的だった。無事に沼にたどり着いた冴子たちは、灯篭に火を灯し、静かな水面に浮かぶ灯りを、皆で見つめていた。


 ——けれど、それは死者を送る行為ではなかった。時期も、手順も、そこに籠めるべき思いも、すべてが間違っていた。

 本来、死者を見送るはずの灯篭の灯りは、逆にこの世へと死者の魂を招き入れる呼び火になってしまったのだ。


「せーので、怪談やろうぜ!」


 灯篭を流し終わったあと、亮太が言い出した。懐中電灯をバトンに見立てて、受け取った者が順番に怪談を語り出す。


 最初は冴子。次に亮太、大作、浩二。

 彼らの語った内容は、今では思い出せない。


 ただ、笑いながらはしゃいで、感想を言い合っていたことは覚えている。


 そして——浩二がバトンを渡した《誰か》。


 懐中電灯が照らすその顔に、誰も違和感を持たなかった。


 ただ一人、冴子を除いて。


(おかしい……4人で来たはずなのに)


 冴子は金縛りのように動けなかった。喉が凍りついたように、声も出なかった。


 その《誰か》が語りはじめた怪談。


 ——昔、この山の麓に小さな村があったころ。

 夏の夜、肝試しに来た村の子供たちが沼の船着き場で遊んでいた。

 腐った木が崩れ、子供たちのうちの1人が夜の水面へと落ちていった。


 大人たちは必死に探したが、その子はとうとう見つからなかった。


 この沼には水神様が棲んでいて、その怒りを買った子供は、水神の眷属としてこの沼に囚われたのだと——。


「この沼は……帰れない場所なんだよ」


 ——灯篭の灯りが、導いてしまったんだ。


 その瞬間、沼の水面がざわめいた。


 白い手が水から伸び、冴子の足首を掴んだ。


(引きずられる……!)


 誰かの叫び声。灯篭の灯り。水の冷たさ。水面に浮かぶ赤い花。


 意識が薄れていく中で、冴子は誰かの声を聞いた。


「——キミは帰ってもいいよ。僕が帰れるのは、キミの灯篭のおかげだもの」


 ——そして冴子は、目を覚ました。


 あの日、冴子は戻ってきた。


 誰かを身代わりに。


 それが誰だったのか、もうわからない。


 けれど、胸元には、あの香りが微かに残っていた。


 あの香水の香り。それは冴子が無意識に選び続けていたもの。


 実はそれは、沼の周囲に咲いていた白い花々の香りと同じだったのだ。


 無意識が選び続けていた——あの夜を忘れないように。




「……それじゃあ、俺、そっちの角で」


 そう亮太が言った時だった。


「おーい、亮太! あれ、もしかして隣って冴子か?」


 二人に声がかかり、振り返ると、向こうから二人の男が歩いてきた。


 桧山大作。柄本浩二。


 二人は笑いながら、冴子たちに手を振った。


(——あの夜、残ったのは、誰?)


 その問いは、口に出されることはなかった。

 彼らのうち、ふたりは本物のまま。

 そしてひとりは——灯篭の灯りに導かれて、帰ってきた《5人目》なのかもしれない。

 

 冴子の鼻腔を、あの香りがかすかに満たす。


 水面に漂う、夏の香り。


 それは水の記憶だった。






お読みいただきありがとうございました。

香りと記憶、水と入れ替わりをテーマにした夏のホラー短編です。

最後まで読んでくださった方へ、ささやかな余韻が残りますように。

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