第8話「契約ではなく、願いとして」
旅立ちの日の朝は、不思議なほど穏やかだった。
エディスは控えめな灰のドレスに身を包み、荷物も少なかった。
侯爵家を出るのではない。ただ、王都から少し離れた研究塔へと移るだけ。
けれどそれは、社会的には“婚約解消に伴う移籍”と扱われる。
静かに門を出て、馬車へと向かう。
送りに出てきた母は、ただひとこと「誇りに思うわ」と微笑んだ。
そして。
門の外には、彼がいた。
フェリクス・アルディール。
いつもの黒い礼装ではなく、緩やかな外套に身を包み、肩には風の魔符が揺れていた。
「……どうして」
エディスの問いに、彼は短く答えた。
「最後に伝えたい言葉がある。いや──最初に、ようやく言える言葉だ」
その言葉とともに、彼は小さな包みを差し出した。
中には、淡い魔力が宿る青い宝石。
中心に、細く銀の文様でこう刻まれていた。
《結婚の証》
それは、魔術結婚の再契約の意志を示す印。
すでに婚約契約は終わっている。
これは、彼の“新たな願い”だった。
「……契約としてでなく、願いとして。君と生きたい」
エディスは息を呑んだ。
それは、彼の人生で初めて“縋る”ような声音だった。
「君を手放すべきだったかもしれない。でも、どうしても、もう一度──今度は、心から始めたくて」
風が、彼女の髪を揺らす。
空は高く澄み、街の音も遠く感じられた。
エディスは、包みを静かに手に取る。
その魔力の温かさが、彼の心から来ていると気づいた。
「もう一度、婚約者としてではなく──あなたの隣に立つ未来を、考えてもいいですか?」
その問いに、フェリクスはただ一度、深く頷いた。
ふたりの距離が、ようやく、ほんとうにひとつ分だけ縮まった。