第7話「最後の一日」
正午を少し過ぎたころ、侯爵邸に一通の封書が届けられた。
それは公爵フェリクス・アルディールからのもの。
華美な装飾はなく、封蝋も簡素な黒──けれど、その筆跡は見間違えようもなかった。
エディスは、わずかにためらいながら封を開く。
《今日一日、あなたの時間を私に預けてはもらえませんか。契約の終わりを、ただ終わらせるだけにはしたくない》
署名の代わりに、彼の魔力が込められていた。
紛れもなく本物だった。
エディスは静かに笑って、封書を閉じた。
──そう、それくらいは許してもいい。
これまでの十年を、たった一日で埋めることはできなくとも。
だから彼女は、庭に咲いていた薄青の花を髪に飾って、そっと扉を開けた。
◇
フェリクスが彼女を連れてきたのは、王都郊外の魔力庭園だった。
春と夏の間にだけ開放される、限られた魔導士しか立ち入れない場所。
魔力を帯びた花々が風に揺れ、光の粒が空に舞う幻想的な空間。
ふたりきりだった。
護衛も侍女もいない。ただ静かな時と空気がそこにあるだけだった。
「ここに来たのは、初めてです」
エディスの声が、風の中で優しく響いた。
「君に見せたかった。……ずっと前に、そう思っていた」
フェリクスはそう言って、隣を歩く。
距離は近い。けれど触れ合わない。
「なぜ、今まで連れてこなかったのですか?」
「自信がなかった。君が笑う自分を、思い描けなかった」
それは彼にしては、十分すぎるほどの本音だった。
エディスは小さく笑った。
「今の私は、笑っているように見えますか?」
「……ああ。眩しいほどに」
沈黙。
けれど苦ではなかった。
魔法の花が風に揺れ、二人の足音だけが静かに響いていた。
「今日だけは、過去も未来も忘れていいのなら」
エディスがそっと言った。
「私は、この場所で、あなたと初めて出会ったことにしてもいいと思います」
フェリクスは言葉を失った。
それが、どれほど彼にとって救いだったか。
けれど返す言葉が見つからず、ただ胸の奥が熱くなった。
彼女の優しさは、いつもそうだった。
静かで、柔らかくて、切ないほどに甘い。
──だからこそ、もう手放してしまったことが痛かった。
日が傾き、花々がゆっくりと閉じ始めた。
ふたりは最後まで、肩を並べて歩いた。
それが、たった一日の、けれど忘れられない記憶になると知っていたから。