第5話「君に必要とされたいと思った」
舞踏会の翌日、フェリクスは執務を放り出して侯爵邸を訪れた。
これまで一度として、彼から私邸を訪ねたことはなかった。
使用人たちは驚き、エディスの母親は顔をこわばらせた。
けれど彼は、遠慮も逡巡もなく言った。
「エディスと話がしたい。──二人きりで」
通されたのは、花の温室。
かつて二人で何度か会話を交わした、小さな庭園。
春の名残を留めた魔法の花々が、風もなく咲き誇っていた。
そこに立っていたエディスは、淡い薄青のドレスをまとい、少し驚いたように彼を見た。
「……公爵様?」
「婚約は、正式に破棄されたわけではない」
いきなりの言葉に、エディスは少し眉を寄せた。
「書類の手配は、今週中に整います。……遅くとも来週には」
「破棄を認めた覚えはない」
フェリクスは一歩、彼女に近づいた。
エディスは下がらない。だが、その瞳には決意があった。
「公爵様。私はもう、必要とされていないと思ったのです」
その言葉が、彼の胸に深く突き刺さる。
「それは──」
彼女は首を振った。
「優しさも、愛も、何も求めませんでした。けれど……必要だと、ただ一言だけでも、言っていただけたなら」
その声が、少しだけ震えていた。
十年間、耐え続けていた感情が、わずかにこぼれ落ちたように。
フェリクスは、手を伸ばしかけて、止めた。
「君を守っていたつもりだった。だが、それは君に伝わっていなかった」
そうして、静かに言葉を紡ぐ。
「だから、俺は──今からでも、伝えたい。君に必要とされたいと、初めて思った」
エディスは目を伏せた。
そして、ゆっくりと告げる。
「では、その気持ちは、契約が終わったあとにもう一度伺います」
微笑みとともに放たれたその言葉に、フェリクスは沈黙の中で頷くしかなかった。