第2話「婚約破棄の申し出」
フェリクス・アルディールの執務室は、常に静かだった。
重厚な漆黒の机、天井まで届く本棚、淡い魔光を灯す水晶のランプ──すべてが完璧に整えられており、余計なものは一切ない。
その部屋に、エディスは一人で訪れた。
控えの間も通さず、彼は扉越しに「入れ」とだけ告げた。エディスが訪ねることも、内容も、察していたのかもしれない。
「久しぶりですね、公爵様」
その言葉に、フェリクスは一瞥を送るだけだった。
相変わらず、冷たい灰色の瞳。美しく整った顔立ちはまるで彫刻のようで、何も感情を映さない。
「用件は?」
まるで事務手続きでも確認するように。エディスは唇を結び、小さくうなずく。
「婚約を、解消したいと考えております」
フェリクスの手が止まった。
ペン先が紙に染みをつくり、沈黙が部屋を支配する。
「……理由は?」
それだけの問いが、どうしようもなく冷たく響いた。
エディスは微笑んだ。穏やかに、けれど決して揺るがない声で。
「おそらく、公爵様にとっても、不要な契約かと思いまして」
フェリクスの視線が、初めてまっすぐ彼女を捉えた。
「……それは、君の意志か」
「はい。私の、意志です」
それは、十年間抱き続けた恋に自ら蓋をする言葉だった。
だが、後悔はなかった。
彼の隣に立つには、自分はきっと弱すぎた。
「……わかった」
フェリクスは短く答え、再び書類に視線を落とす。
それが、すべてだった。
愛している、と伝えることも、涙を見せることもなかった。
けれど彼女の中で、何かが静かに終わっていった。