セイントアカデミー
この春大学生となった神戸和彌は現在、都心にある巨大なビルの目の前に立っている。男子学生ならだれもが着るような一般的な服に身を包んだ神戸は、気を引き締めると、ビルの中に入っていった。自動ドアをくぐりエレベーターの前に立つと、掲示板を見て自分の行くべき階を確認する。11階。1階に到着したエレベーターに乗り込むと、11階のボタンを押し、行先へと向かった。ついた先は大学進学予備校「セイントアカデミー」だ。この日、神戸はアルバイトの面接を受けることになっている。塾講師は大学生の間でも人気のあるバイト先なので、ここをバイト先にしようと神戸が考えたのも自然なことだった。開いたエレベーターからは受付がすぐに見えた。受付の女性に要件を話すとすぐに塾長が出てきて面接が始まった。
「私が塾長の五反田楓恋だ。それで君は?」
「神戸和彌です」
「今日誕生日なのか」
「ええ」
「よし、採用」
こうして神戸のバイト先が決まった。
「おい一宮」
五反田塾長は講師室の中にいる人に声をかけると、外に出てこさせた。
「こいつにいろいろと教えてやれ」
「まったく、人使いが荒いですね」
講師は笑いながらもそれを承諾し、神戸の方に向き直った。
「どうも。僕、一宮正義ね。よろしく」
「よろしくお願いします」
「さっそくだけど神戸君、教室とか見て回ろうか」
一宮に連れられて神戸は校舎内を見て回ることになった。
「事務員になりたいの?それとも講師?」
「講師ですね」
「科目は?」
「数学が良いですね」
「そうか。じゃあ数学の授業から見ていこうか」
そうして扉を開けた先では、数学とは全く違う授業が行われていた。
「君には神が見えないのか?」
教壇には背の高い、着物姿の女性が立っていて、生徒たちに何かを布教していた。
「千代田さん、見学いいかな?」
一宮はそれを見ても動じずに、淡々と許可を取り付けた。
「いいですとも。そんなことよりそこの君。君は神を信じるか?」
青いリボンで結われた黒髪のポニーテールが揺れ、期待に満ちた眼光が神戸の方に向けられた。
(あ~、終わった)
神戸の心には絶望という名の感情が生まれ出たが、それを外には出さずに女に対応した。
「すみません、僕は無宗教でして」
「それはもったいない。私が神を見せてあげよう。ほら、私の眼を見つめて」
(顔はいいのに、頭がこれではもったいない)
神戸はそう思ったが、決して口には出さなかった。代わりに一宮の方を見て助けを求めたが、「まあ、いいからいいから」という表情を返されると、諦めて女の眼をにらみ返した。
「これに何か意味があるんですか?」
「ああ、あるとも。まさに、まさにここに神がいる!」
女は目をキラキラ輝かせながらそう言った。
「千代田さん、その話もいいけど、もっと他の話、例えば数学の話なんかをしてみたらどうかな?」
一宮の声を聴いて、先生は態度を改めた。
「むっ、そうだな。君、好きな数字はあるか?」
その質問が神戸の心をとらえるのにそう時間はかからなかった。
「もちろんありますとも。1は原初の数字。2,3,5,7は素数。4,9は平方数で8は立方数。6は完全数。無である0。どれも美しい数ばかりです」
その答えを聞いた千代田はいかにもといった風に頷いた。
「そう、0様だ。様を付けろよデコ助野郎。神に対するサタン。それが0様なのだ」
うんうんと頷きながら先生は自己流の理論を展開していった。
「申し遅れたな。私は千代田麻衣だ。よろしく」
そう言うと普通の授業に戻っていった。
「あの、神って……」
「まあまあ、いずれわかるから」
一宮は笑いながらそう言うと、神戸を隣の教室へと連れて行った。
数学、もとい宗教の授業をしていたすぐ隣では英語の授業が行われていた。静かに扉を開けて教室の隅で見学していると、一宮が小声で話しかけた。
「御手洗さんはね、ものすごく規則正しいんだよ」
教室の前方を見て、見た目通りだなと神戸は思った。黒のスーツに黒のパンツを着たその女性は、いかにもデキる教師といった感じだった。ハーフなのだろうか、腰まであるウェーブがかった髪はプラチナ色だった。
「何だっけ、あの規則正しいっていう哲学者……」
一宮が考え込んでいるのを見て神戸が助け舟を出した。
「カントですか?」
その瞬間、チョークという名の弾丸が空を切って神戸の頬をかすった。
「貴様、今cuntって言ったな!下ネタ言ってんじゃねーよ!」
「それから、耳がとても良くてとても悪いんだ」
恐怖で顔をひきつらせた神戸の横で一宮は笑っていた。
「次の教室に向かおうか」
「一宮さん、今のところ、まともな人がいませんね」
「うん、そうだけど?」
「次は大丈夫なんですか?」
「うーん、どうだろうなあ」
次に着いた教室では国語の授業が行われていた。だが神戸が恐れていた通り、まともな授業ではなかった。教壇に立っている教師は苦悶の表情を浮かべて教卓に汗の海を作っていた。
「は、腸が煮えくり返るような……。ぐはっ」
身体が震えるたびに耳につけた棒状のピアスが揺れ、オールバックにして露になっている額からは汗の粒が飛び散っていた。
「し、尻に火が付く……ああああ!」
「一宮さん、助けなくていいんですか!?」
「いいんだよ。舞鶴さんは、ああ、彼は舞鶴明臣さんは、慣用句を読むとその影響が身体に出てしまう人でね。体質上、仕方ないんだ」
「仕事を選んだ方が良いのでは!?」
生徒たちはみな、いつも通りだという風な顔で平然と授業を受けていたが、先生は一宮のことを見ると、手を伸ばして助けを乞うた。
「い、一宮、助け……」
「ダメじゃないですか舞鶴さん。生徒たちはみんな首を長くして先生の授業を待っているんですよ」
「うがっ!首が!メキメキ言って……」
「一宮さん今のわざとでしょ!先生の首がアサド大統領みたいに長くなってますよ!」
「神戸君、次行こうか」
「いやダメでしょ!」
騒ぐ神戸を連れて一宮が次に訪れた先は、化学実験室だった。
「ビルの中にこんな実験室作っていいんですか?」
「この予備校は実学重視だからね。社会に出てから本当に役に立てる生徒を育てるのを目標にしているからね」
「答えになっていないんですが……」
宗教女、ガバガバ地獄耳、特異体質と来て次はどんな講師が待っているのかと身構えている神戸の前にいるのは、白衣姿にSPが着けているようなサングラスを装着し、首にヘッドフォンを巻いている男だった。
「この人は紫波紫水。君と同じ大学に通っていた先輩だよ」
神戸の先輩にあたるこの講師は、少し興奮したような声で実験の概要を口にした。
「今から、炎色反応を見ていきます」
そう言った唇はプルプルと震えていて、神戸は何か危ない薬物でも口にしたのではないかと疑った。が、その疑惑に対する答えはすぐに明らかになった。
「神戸君、紫波さんの髪の毛は何色に見える?」
「青紫ですけど」
「うっ、んあっ、はああん」
突如先生は身体をびくびくと痙攣させていやらしい声を出した。
「実は、紫波さんは舞鶴さん以上の特異体質でね。色を指し示す言葉を聞くとその色が見えるんだ。それから、問題なのはこっちの方なんだけど、かなりの色フェチで、色が見えると興奮して射精してしまうんだよ」
「先に言うべきだろそれは!」
特異体質の次はまた別の特異体質だった。
先生は誰が見てもおかしいと見えるような腰の曲げ方をすると
「炎色反応を、続けます」
と言って実験を続行した。
「次こそはまともな人をお願いしますよ」
神戸の願いが叶ったのか、次の教室では何も事件は起こっていなかった。それどころか授業すら行われていなかった。
「遅いじゃないか、三田茉弥」
遠くの方で塾長の声と、すいませんと謝る声が聞こえた。
「さあ、今日は何を持っているのかな」
神戸の隣では一宮がそう言って楽しそうに揺れていた。
「遅れてごめんなさ~い」
そう言って琥珀色の髪をした女性は教室の中に飛び込んできた。
「見て見て。今日はこれを拾ったの」
そう言って広げた彼女の手の中には頭を潰されたヤモリがいた。
「ああ、言うのを忘れていたね。三田さんは生物の先生だよ。君とも大して年が違わないから」
「生物の先生って、ただのサイコ野郎じゃないですか!」
その声は先生の耳にも届いていたらしく、すぐに反論が返ってきた。
「なんで?だって毛が生えてないんだよ?」
「やっぱりサイコ野郎じゃないですか!」
「私、女だよ」
よく見ると、彼女の羽織っていた白衣にはところどころ赤いしみがついていた。
「神戸君、顔合わせは済んだんだしそろそろ次に行こうか。ここにいると見たくもないものを見ることになるだろうし……」
「何するんですか?解剖ですか?やっぱり解剖するんですか?」
「いいから。次次」
化学、生物。と来たら次は物理だろう。ということで二人は物理講師、朝霞京佳のいる教室までやってきた。ちょうど演習中だったようで、生徒たちは黙々と問題に取り組んでいる。一方で講師である朝霞は教室の扉付近に立って、なにやら外の様子をうかがっている。
「彼女は何をしているんですか?」
「まあ、見ていたらわかるよ」
刹那、「死ねい」という掛け声が教室内に響き、数刻の後にカコンという音とともに先生が崩れ落ちた。
「助けなくてもいいんですか?」
「いいんだよ。いつものことだから。じゃあ次行こうか」
理系の授業は見終わった。ということでここからは文系の授業である。と言っても歴史と地理以外の授業は開講されておらず、一宮の言うことに従ってひとまず歴史の授業を見に行くことになった。が、ここでもまともな授業は行われていなかった。嵐山薫は紅色のおかっぱで、よく女と間違えられるが、男である。彼は京都にある名門国立大学で歴史を専攻していた講師だが、しかしその専門は数学史であった。ゆえに、彼には大学受験の歴史科目で使えるような知識など一片たりともなかった。さらに、労働に対する意欲も持ち合わせておらず、この日何を教えるのかノートにまとめることも一切しなかった。そのため彼はパッと思いついたことを、すなわち「壁穴式住居」という言葉を黒板に書くと、今日は縄文時代の話をすると言い出した。
「それはバナー広告に出てくるエロ漫画だ」
神戸の指摘もむなしく、授業は進められた。
「ところでカルヴァン派という言葉があるが、俺はカルヴァン・クラインが大好きだ」
「それは近世ヨーロッパだ」
「神戸君、ここにいても無駄だし、もう行こうか」
「一宮さん、地理の授業はないんですか?」
「地理は……ね。そんなことより次は美術だよ」
教室に入るなり、いや入る前からその声は聞こえていた。
「クソがー!予はバンクシーの息子だぞ!」
教室の中では一人の男が暴れまわっていた。ベレー帽をかぶった金髪のその男の指にはゴツゴツの指輪がはめられており、それで教室の壁や床をゴンゴンと殴っている。
「見てみなよ、神戸君。まさに芸術家って感じがするだろ」
一宮は目を輝かせながら神戸にそう言った。
「予は、予は絵が描きたい……」
「彼は思い込みが激しくってね。自分のことをバンクシーの息子だと勘違いしているんだ」
「可哀そうな人……」
「しかも大金はたいて現代アートの紛い物を大量にコレクションにしているんだ」
「哀れだ……」
「クソ……、なんであいつに描けて予に描けないんだ」
「可哀そうだし、そっとしておこうか」
こうして二人は東金アルトの元を去った。
「と、言うわけで。ひとまず今いる人の授業は見てもらったわけだけど、どう?やっていけそう?」
「いや、無理ですね」
「そっか。じゃあ、これから頑張っていこうね」
「なんでそんなに笑顔でいられるんだよ……」
「じゃあ明日から。またね」
と、言う感じで初日は終わり、神戸は帰路に就いた。




