七 止むなよ、雨
囲炉裏の炭が燃える。
母と娘は伊勢参りの帰り、さっきの神社から一里離れたこの家に帰って来る途中だったと言う。
家に他に住む者がいるか否か、二人は何も言わない。ハバネロ郎も何も聞かない。
目の潤んだ娘が、手拭いでハバネロ郎の顔を拭く。口紅による顔の文字やキスマークについて、母と娘は何も聞かない。ハバネロ郎も説明しない。
お味噌借りてくる。そう言って娘が雨の中を隣の家へ。旅から帰ったばかりだ。もてなすための材料が何も無いのだろう。
火にあたったらどうだ、とハバネロ郎は勧めた。娘に悪いからと母は断る。
軒先を見る。天気予報などこの時代には無い。クリームソーダとか色々出たが、無い物は無い。
「もっと降れば良い」
母がギョッとしてハバネロ郎を見た。
「いや、冗談だ。それじゃ味噌を借りに行った娘さんが可哀想だしな」
スコヴィル藩取り潰しが決まってすぐ、妻から離縁された。
子供は皆、近くの寺の生臭坊主が実の父親だと言われた。
道場や家宝など、とっくの昔に金銭に換えられ持ち出されていた。
『これから四国でお遍路に行くの。逆打ちでパワースポットを何周もするのよ!オホホホホホホホ……』
見た事も無い笑顔でそう言われて、斬り殺してやろうと思ったが、居合わせた他の藩士たちに取り押さえられた。その藩士たちは数日後には他の藩に取り立てられた。
憔悴したハバネロ郎を拾ったのは、かつての上役だった。
赤穂事件を模倣すると言われ……意味がわからなかったが同道してしまった。
遊びを覚えたのは江戸に下ってからだ。虚しかったが、やめられなかった。
同胞(笑)とともにチェキラ藩の偉い人を襲撃したのは、なんとなくだ。聞かれてもそうとしか答えようが無い。偉い人を斬った時に高揚したのは事実だ。悪だと自覚はある。
なんだかんだ全部斬ったのはハバネロ郎だ。同胞(笑)はいざという時、腰が抜けて当てにならない。抵抗できない偉い人にさえ刀を振り下ろせない。
どうしてこうなったのだろう、とは思わない。
いつまで続くのだろう、とは思う。
そうだ腹を斬ろう。
そう閃いた時、ちょうど目の前に味噌汁があった。
まるで神か何かに生け贄を捧げるような表情で母娘が勧める。江戸の味噌は苦手だ。やたら濃い。料亭でも遊郭でも。公家のお墨付きなどと言う品物も出たが、絶対嘘だとハバネロ郎は思う。
何で一緒に来てしまったかなぁ。そう後悔しながら器を取る。
どうしてか、あの状況を見殺しにもしたく無かった。以前故郷の道場でイキり散らかしていた少年が成長し、素手で不条理に立ち向かっていた様に感動を覚え、見過ごせず手を出してしまった。
……味噌汁をすする。悪く無い。
具は無い。昆布もいりこも感じない。茸も出汁そのものも無い。なのに。
「染みるな」
母娘がはしゃいだ。何らかの工夫があったのか。
もう一度すする。
ああ、拙者は卑しくなったか。
ハバネロ郎の由来はハバネロである。彼の祖先はハバネロ農家であり、一族が初心に返るべしとの思いで、元服の折に付けられた名前だ。
幼名は……奇しくも中二太郎である。生まれてすぐに『俺の刀が真っ赤に光る。お前が辛いと激辛叫ぶ』などと周囲を痛がらせたのが由来だ。ハバネロ郎は家X家より歳上なので、パクったとしたら徳川家である。
ハバネロ郎は目を閉じる。
久し振りに真っ白な花畑を、ハバネロ畑を思い出せた。
手拭いが目元に触れた。
「悲しい事があったんですね」
娘がハバネロ郎の涙を拭いた。
『あった』では無い。『現在進行形だ』と言うのが正しい。
雨が降らねば、チェキラ藩江戸屋敷に討ち入りするはずだった。本家本元は積もる雪の中だと言うのに。
「元気が出るおまじないがあるんですよ」
同胞(笑)の軟弱さへの笑いを堪え、ハバネロ郎は母娘にやって見せてくれと言った。
床に正座する母娘は揃って肘を曲げ、肩に当てた手首を前に曲げる。
「「ニャンニャンニャンニャンニャンニャン……」」
そう言えば『抱いて』と言われてた。催促しているのだろうが、もうハバネロ郎はそんな気にはなれない。
涙が止まらない振りをして、そのまま泣き疲れて眠った振りをしようとしたハバネロ郎。しかし母娘が先にニャン疲れて眠ってしまった。
できるだけ静かに押し入れを漁って出した布団を、夢の中でニャンニャンしてるような表情の母娘にかけて、囲炉裏の火を消し最低限の戸締まりだけして、雨に打たれる事にした。
夜道を歩く。
東の空の雲がうっすら赤い。
逃げたいし、逃げられる。
逃げた後、何をすれば良いかわからない。四国まで元妻を追いかける気力も無い。もう顔を思い出せないからきっと見つけられない。
雨が小降りになる。
「止むな……」
南の空が青い。
「止むなよ」
水溜まりが乾いて行く。
「止むなよ……止むな」
今夜は晴れてしまう。そんな気がした。