1-4 「裏路地が異界(齟齬なし)」
「誤解を解く意味でもお前達は救出後即離脱。後始末は俺がする」
「え、藍沢先生出すの怒られそうで嫌なんですけど」
「怪異の襲撃が早すぎる。……精神面が不安定になっている可能性が高いからな、多少手荒な方法を行使してでも憂いを取り除け」
藍沢先生に押し切られて、俺と奏さんと藍沢先生の三人で樹と玲士の救出を試みることになった。会ったことの無い藍沢先生の方が樹の心情に詳しいってどうなんだと思わないわけじゃないけど、まあ奏さんだししょうがない。ここ数日で一気に奏さんの解像度が上がった気がする。
奏さんの案内で辿り着いたのは玲士の家から歩いて数分の距離にあるコンビニ。そこの裏手に回った、と思った瞬間たたらを踏んだ。一瞬足場が歪む感覚がして、顔を上げると何だか妙に違和感がある。
「……厄介な歪み方してんな」
藍沢先生は嫌そうに顔をしかめてるし、奏さんは周囲を見渡してる。一見すると何一つ変わってない、強いて言うなら周囲の音が消えて、人の気配が無くなったくらいで……ああそうか、平衡がおかしくなってる。地面が真っ直ぐじゃないような、騙し絵の中にいるような感覚は確かに厄介だ。試しに踏み出した足が距離感を間違えて思いっきり空振った。転ばなかっただけ褒めてほしい。
「何してるの恭也」
「いや……平衡感覚狂っちゃってて……」
「軽い認識阻害だ。さっさと済ませるぞ」
さっさと歩き出した二人にふらつく様子はなくて、何となく場数の違いを見せつけられるというか、なんというか。地面があることを確認しながら、そろそろとついていく。数歩目ですり足の方がまだ感覚としてはマシだと気付いて実践したら奏さんと藍沢先生には変な顔されたけど。
地面は地面。目を閉じればただの地面……でもないなコレ。たまに若干の傾斜があったり、多分元からであろうコンクリートの裂け目があったり。視界ありきだとそこに認識阻害が加わってただの亀裂が底なしの崖に見えたりするから余計に困惑するけど、目を閉じたら閉じたで普通にすっころんだわ。
細い路地を通り抜けること数分。いい加減この変な世界に慣れてきた頃、耳が水が滴るような重い粘度のある音を捉えた。俺だけじゃなく藍沢先生もちらりと足を止めて、それに気が付いた奏さんも立ち止まる。
「……水音、いや、もっと重いか」
「気付かれない内に通り抜けましょ」
「そうだな」
この中で一番気配を察知する能力に長けてるであろう奏さんが反応しなかったのは、単純に樹達と関係がないからだろうか。水音よりも重いっていうのがちょっと不穏だけど、本当に何の音なんだろ。びちゃびちゃっていうよりは……とぷとぷみたいな、ああそっか、水滴が跳ねるような音じゃないんだこれ。
不穏な水音は進めば進むほど四方八方から聞こえてくる。奏さんも藍沢先生も一切反応しないけど、割と気になって仕方がない。視界の限りじゃ、音源は見当たらないし。きょろきょろしてたらあの二人さっさと進んじゃうし、もう少し手加減してぇ……?
「この先だよ」
「明らかに罠があるといわんばかりの……」
袋小路の開けた場所。もう嫌な予感しかしない。出口は細い一本道の先で、隠れる場所もないだろう。それでも樹と玲士がいるなら進むしかない。
気負いなく進む奏さんの後を追って踏み入れた先、固く目を閉じて玲士を抱える樹。腕は震えてるし息は荒くて、まるで手負いの獣みたいだった。俺達が踏み入れたことにも気付かず、必死に何かを呟いている。
「樹」
奏さんが近寄って、そっと手に手を重ねる。静かな声に呟きが止まって、ゆっくりと瞼が開く。また綺麗な緑を湛えている瞳は、奏さんを映したことで一気に潤んだ。
「玲士!」
奏さんの片手に促され、樹から玲士を受けとる。怪我をしてる感じはないし、ただ意識を失ってるだけのような感じ。呼吸も落ち着いてるし、服とかが汚れてるわけでもないし。さっき樹がなんかつぶやいてたの、あれおまじないだったりするのかな。俺が玲士を受け取ったことにも気付かない樹は、奏さんの手が導くまま両腕を首に回して奏さんに抱きついてる。
「ごめんなさい奏さん……!迷惑だろうけど、俺のこと捨てないで……!」
「捨て……?樹、俺は樹の事見捨てたこと無いけど……?」
ほらやっぱりすれ違ってんじゃん!案の定距離を置かれた理由を嫌われたからだと思っていた樹は、多分精神的に弱ってる。奏さんは奏さんで距離を置いたのは樹のためだから意味が分かってないし。
「だって、最近……」
「最近……?」
言葉を復唱して首を傾げる奏さんは、本気で分かってない。本当は速やかに誤解を解くべきだけど、ここは怪異の領域だからという理由で藍沢先生が俺達を急かす。俺が玲士を抱えて、奏さんが樹を抱えれば準備完了だ。
「離脱後足止めは解除していい。さっさと行け」
「分かりました」
藍沢先生だけを残して路地を逆走。……藍沢先生、別に色彩とか聞いてないけどあの人戦えるのかな。流石に戦えなかったらここに来てないとは思うんだけど、一応あの人医者だよね?ちらりと振り返った視界の先で、風もないのに白衣だけが揺れていたのが見えた。